第十話 それでも抱きたい


 冬の足音が聞こえる、十一月。外には冷たい風が吹き、今月に入ってから何度か雪も降った。


 もっとも、家の中は暖房が効いていて、心地好い温かさに包まれているが。


 猫達は、ホットカーペットの上で気持ちよさそうに寝ている。


 時刻は、午後一時。


 昼食を食べ終えた秀人は、華と一緒に、リビングのソファーでのんびりと過ごしていた。


 華は今も、親子を題材にした動画を観続けている。体調の悪さで寝込むこともあるが、苦しさ以上に、楽しみで仕方がないみたいだ。赤ん坊が産まれることが楽しみ。母親になることが楽しみ。今も片手でタブレットを持ちながら、もう一方の手でお腹をさすっている。日に日に大きくなるお腹。


 胸を躍らせる華とは対照的に、秀人の悩みは尽きなかった。


 この国を潰して、海外に移住する。家族が殺された際の真相を知った日から、決めていたことだ。自分から大切なものを奪い、壊した者達を、決して許すことはできない。


 海外に移住したら、やはり、華は家だけで生活させるべきだろう。彼女が外国語を習得できるとは思えない。飼っている猫と同じように家の中だけで生活させ、安全と平穏を確保する。仮に外出するとしても、必ず秀人と一緒に行動する。


 華が妊娠してから、秀人は、常に彼女と一緒にいた。一度だけ、秀人一人で買い物に行ったことはあったが。華が外出するときは、いつも付き添っていた。


 なんだ、と思った。今と大して変わらないじゃないか。今と変わらない生活ができるなら、問題ないじゃないか。


 そう思いつつ、秀人は気付いていた。家族が増える。赤ん坊が生まれる。明らかに、今とは違う生活になる。当然、心持ちも変わるだろう。


 子育ては幸せなことばかりではない。寝不足で疲労が溜まるだろう。言葉を話せず泣くばかりの赤ん坊に、頭を抱えることもあるだろう。いくら華でも、苛つくことだってあるかも知れない。


 でも、そんな状況でも、気晴しに一人で外出することもできない。家に閉じこもって、秀人に飼われるだけの生活をすることになる。


 華は、そんな生活に耐えられるだろうか。そんな生活をして、華が幸せになれるのだろうか。


 不安が募る。たとえこの国を沈没させても、華だけは不幸にしたくない。


 しかし、だからといって、復讐をやめるつもりもない。大切なものを奪われ、貶められ、汚された恨みは、何年経っても消えることはない。


 どうにかして、華に外国語を習得させられないだろうか。数カ国語は無理でも、一つくらいは。流暢に話すのは無理でも、カタコトで話すくらいは。ゆっくり話してもらったら、聞き取れるくらいは。


 では、華に覚えさせるとしたら、どの言語がいいだろうか。移住先は、治安のいい国にしたい。状況によっては再度移住が必要になるかも知れないから、できるだけ多くの国で使われている言語がいい。


 多くの国で使われている言語と言えば、英語だろう。


 華に教える言語は、英語にしよう。


 では、どうやって教える? いかにして華に教えるかが、最大の問題だ。知能に難がある彼女に、どうやって英語を理解させるか。


 ゆっくりでも、今から教えるか?


 いや、駄目だ。妊娠中の華に、無駄なストレスは与えたくない。


 それなら、子供が産まれてから教えるしかない。ただ、そうすると、華は英語の習得に精一杯になる。赤ん坊の面倒を見る余裕などなくなる。


 つまり秀人は、家事育児を全て自分で行うことになる。


 そんな状況で、どうやってこの国を潰す? 赤ん坊なんて、少し目を離しただけで死ぬかも知れないのだ。常に側にいる必要がある。


 まさか、赤ん坊を背負いながら、手駒に銃を渡すわけにもいかない。赤ん坊を抱えながらマフィアと会合など、できるはずがない。赤ん坊をあやしながら他国の重鎮と会談をするなど、ありえない。


「あ! ね、秀人!」


 唐突に、華が大きな声を出した。秀人の思考は中断した。


「今、赤ちゃん動いてる! お腹の中でボコボコいっている!」


 華は、満面の笑みを秀人に向けていた。タブレットを置いて両手でお腹に触れ、赤ん坊の感触を確かめている。嬉しそうで、幸せそうだ。


「ね、秀人も触ってみて!」

「うん」


 華の嬉しそうな顔を見ると、秀人も自然に笑みがこぼれた。


 そっと、華のお腹に触れてみた。確かに動いている。新しい命が、間違いなく華の中に宿っている。


 華のお腹に新しい命があることなど、妊娠を告げられたときから分かっていた。それでも、こうして動く感触を確かめると、そこに命があるのだと改めて実感する。あと四ヶ月もすれば、この子がこの世に誕生する。秀人と華で育てることになるのだ。


 赤ん坊を守り、育てる。


 それがどれだけ大変なことか、知識としては知っていた。並行して国を潰すことなど、かなり困難だ。華に英語を教えながら育てるなど、不可能に近い。いくら秀人が、常人とはかけ離れた知能を持ち、強力なクロマチンを使えるといっても。そんな能力は、育児の役には立たない。


 今さらになって、秀人は後悔した。考えもなく華とセックスをしたことを。彼女の願いに負けて、子供をつくったことを。


 ――後悔?

 ――いや、違う。


 これは後悔じゃない。自分に対する失望だ。華の望みを断れなかった、弱い自分への。華に情を抱いてしまった、甘い自分への。


 秀人には、生きる上で明確な目的があった。何年も掛けて準備をし、目的に向かって確実に歩を進めていた。それなのに、目的の障害になるものを自ら背負ってしまった。こんなふうに悩む結果になることは、分かっていたはずなのに。


 自分に失望して。落胆して。

 今後の行動方針に、頭を抱えて。

 でも。それでも。

 赤ん坊の誕生を楽しみにしている自分が、確かにいる。

 赤ん坊が産声を上げる瞬間を、思い浮かべてしまう。

 華から産まれてくる、自分の子供。血の繋がった家族。


 秀人は自分の両手を見た。復讐のために、多くの人を殺めた手。


 これから父親になる男の手。


 ――この手で……。


 秀人は自覚していた。

 赤ん坊を抱きたい自分を。


 この手で、華の子を抱きかかえたい。

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