第45話「女神の果樹園、アップルフィールド」
「この板と交換で世界で一番おいしい食べ物がもらえるというのは本当でしょうか。息子の誕生日に食べさせたくて、旅をしてきたんです」
長旅の風雨にさらされてボロボロになったマントを羽織った親コボルトが、懐から金色の板を取り出した。そんな親のマントの裾を固く握り、幼い少年が見知らぬコボルトをおずおずと見上げていた。
チッキは彼らを安心させるように穏やかに微笑みを返す。
「はい、本当ですよ! あなた方はラッキーです、ちょうど女神様が今日の分のアップルパイを作られたところなんですよ。できたてホカホカのものと交換しますね」
もっとも彼女が崇める女神様は遠路はるばるアップルパイを食べにやってきた親子がいると聞いたら、彼らのためにアツアツのアップルパイを錬成することだろう。
金色の焼き目が美しいアップルパイをナイフで切り分けると、なんとも食欲をそそる金色の蜜が湯気と共にとろりと滴り落ちる。震える手でほかほかのアップルパイを口に運んだ親子は、目を丸くして歓喜に打ち震えた。
「こんなおいしいものがこの世に……。これは確かに神様の食べ物に違いない」
「すっごくおいしいね、おとーさん!」
屈託なく笑う子供に、親コボルトも笑顔を浮かべてその頭をぐしぐしと撫でた。
「残りはお前が全部お食べ。父さんは一切れでお腹いっぱいになってしまったよ」
「いいの? やったあ!」
アップルパイの乗った木皿を頭の上に掲げて、子供はうれしそうにくるくると回る。
親コボルトはそんな我が子の様子に目を細めると、視線をチッキに向けた。
「巫女様、我らの部族よりの贈り物を携えて参りました。どうぞお納めください」
「これはありがとうございます。ええと、部族はどちらの?」
「ここより日の出の方角に2日行ったところにある、だいこん族です」
「それは遠いところから……」
チッキは親コボルトが差し出した包みに首を傾げる。
だいこん族というからには野菜が包まれているのだろうと思っていたが、中身は白い粉だった。
「これは?」
「砂糖です。我々の部族は野生の大根を採集していまして、それを精製すると砂糖が取れるんですよ。りんご族の女神様はアップルパイを作るために小麦粉と砂糖を必要としていると聞きまして、ぜひ我が部族の砂糖も使っていただければと」
「まあ、ありがとうございます。白い砂糖は初めて見ました」
指先につけた白い粉をちろりと舐めたチッキは、その甘さに頬を緩めた。
りんご族の近くにいるとうきび族が生産する砂糖はもっぱら黒糖なので、風味がまったく異なる。もっともカズハの錬金術にかかれば、黒糖だろうが白糖だろうが同じアップルパイが出来上がるのだが。
「ところでこちらの貢ぎ物を我が女神に捧げられたということは……」
「はい、我が部族は黒の女神様と仲良くさせていただきたいと考えています」
「そちらの部族には守護を与えられている神様はいらっしゃらないのですか?」
「いいえ」
親コボルトは首をゆっくりと横に振る。
「我々の部族を守護してくださる神様はもういらっしゃいます。ただ、うちの神様はアップルパイを作ってくださらないので……。もちろん宗旨替えするわけではないですが、黒の女神様ともぜひ仲良くさせていただきたいのです」
「なるほど」
これは実のところ、もうそれほど驚くような話ではなくなりつつあった。
カズハがアップルパイと共に広めた交換券は、瞬く間に広まりを見せていた。それもカズハやエコ猫の想定をさらに上回る速度で。
エコ猫の想定では実際にアップルパイを口にした部族だけが交換券の価値を知って物々交換に利用するようになるだろうと考えていた。あくまでもアップルパイのおいしさを理解している者同士の間だけで取引が成り立つという前提だったのだ。人間というのは実際に経験したことを基準に物事を考えるものだから。
ところがコボルトはこの素晴らしい未知の食べ物を、少しでも多くの同族に教えてあげようと積極的に集落間を行き来した。
自分の食べる量を減らしてでも隣村の部族にお裾分けしたし、全部食べてしまった者もそのおいしさを微に入り細を穿つ勢いで別の部族に説明した。もちろん自慢しようという気持ちはない。こんなおいしいものがこの世にあるということを、ぜひ他の部族にも教えてあげなくちゃという親切心からだ。その証拠に金色の交換券を持っていき、これを持っていけば君たちもアップルパイを食べられるよと手渡してあげた。
さしものエコ猫もコボルトの善性を舐めていたと言うべきだろう。
こうして近くの村だけでなく、遠くの村からもコボルトが毎日のように交換券を手にやって来るようになった。
それも必ず何かしらの貢ぎ物を携えてだ。
カズハはただのアップルパイ職人ではない。女神様なのである。
女神様の御座所に詣でるからには、何らかの貢ぎ物を持参して当然。手ぶらで訪れるなどもってのほかだ。そして貢物とは、彼らの部族が生産する特産品を意味する。カズハの元にはみるみるうちに各地の特産品が富となって集まり始めた。
もちろんその供物はただの信仰心の表れというだけではない。まだ守護する神様を持たない部族にとっては自分たちも黒の女神様の傘下に加わりたい、あるいは既に守護する神様がいる部族にとっても仲良くさせてほしいという打算があってのものだ。
「ここに来る途中、とうきび族とこむぎ族の集落を通りましたが……昔に旅をしていたときよりも随分様変わりしていましたね。狩りの合間にさとうきびや小麦を拾っていたものが、今や弓を置いて大地を耕している」
親コボルト……というよりだいこん族の使者の言葉に、チッキは頷いた。
「ええ、どちらの部族も我々の女神様に帰依することを宣言し、守護を受け入れました。今はアップルパイの材料にするための小麦粉と砂糖をたくさん作るために、農業を始めたんですよ。何しろアップルパイの材料はいくらあっても足りなくて」
コボルトたちには素朴な狩猟採集文化を大切にしてほしい……というカズハの願いは、皮肉にもカズハ自身の手によって打ち砕かれた。
アップルパイと貨幣経済の味を知ってしまったコボルトたちは、もっともっとアップルパイをお腹いっぱい食べるために大量の食材を必要とした。そこでこむぎ族ととうきび族は先祖伝来の狩猟文化を捨て、村ぐるみで農業社会へ転向してしまったのだ。
さらに別の部族も彼らを真似て農業を始めるものが現れる。アップルパイの材料となる小麦粉や砂糖を作るものもあれば、別の農産物を作ってアップルパイ交換券と交換するものもあった。彼らは外貨を獲得すればアップルパイを食べられると学んだのだ。
そしてアップルパイの美味に舌鼓を打った彼らは、こんなにおいしいものを食べさせてくれる黒の女神様への信仰を深めた。
アップルパイ交換券という貨幣を受け入れるということは、アップルパイを与えてくれるカズハに帰依するということと同義なのだ。カズハの経済圏が広がれば広がるほど、宗教としてのカズハの影響力が増大するという謎の現象が起きていた。
ちなみに何もない原野を農地に開墾するのは、とてつもない重労働である。土地を深く掘り返し、植物の根っこを断ち切って取り除き、川から水路を引いて土地を潤す。これは数年がかりの大事業であり、しかもロクな農具もないのでは到底不可能だ。
だがコボルトには何の不都合もなかった。“土を操作する”能力に特化した彼らは、土地を掘り返すのも水路を引くのも簡単にできてしまう。
この原野を畑に変えてほしいとお願いされたコボルトたちが、地面に手をかざすだけでボコボコと柔らかい農地に変えていくのを見たときは、さすがのカズハもひっくり返りそうになった。
生きる究極農作業マシーン、それがコボルトである。
農業にかけて天賦の才能を持ちながら、それを自分で活かすだけの発想も欲望もないので、狩猟採集生活でその日食べるだけの分を食べて満足する生き物なのだ。
そんな彼らは今、アップルパイ食べたさにその秘められた才能をフルに発揮していた。
そしてそんな彼らのフルパワーを持ってしても、彼ら全員を満足させるだけのアップルパイと交換券が足りない。
「今は農地を次から次に広げて、増産を繰り返しているところですよ。女神様はコボルトみんなのお腹を満たしたいと思っておられるので。女衆もアップルパイの作り方を学んでいるところです」
「ありがたいことです。ここに至るまでに通ったすべての部族が、みんなりんご族に注目していましたよ。早く次のアップルパイが食べたい、次の使者には自分を選んでほしいと熱心に議論している有様で」
だいこん族の使者の言葉に、チッキはゆっくりと首を横に振った。
「りんご族ではありません。私たちは<ファイアホイール>です」
「<ファイアホイール>……?」
「ええ。既にこむぎ族やとうきび族は女神様の守護を受け入れました。もはや部族という考え方は狭くなったのです。黒の女神様に守護される民の新しい呼び方、それが<ファイアホイール>です。りんご族、こむぎ族、とうきび族、その元々の部族にかかわらず、黒の女神様を信仰するのなら誰もが<ファイアホイール>なのです」
「なるほど」
それは国という概念の始まりだった。それまで部族単位の集まりで暮らしていたコボルトは、彼らを統治する新たなシステムを構築し始めたのだ。
「しかし……気になるのは小麦粉と砂糖だけが増えたとしても、本当にコボルトみんなのお腹をいっぱいにできるのかということですが」
だいこん族の使者は眉根を寄せながら疑問を口にした。
「アップルパイにはリンゴが必要なのでしょう? 小麦粉と砂糖が大量に手に入ったとしても、リンゴがなければ増産が間に合わないのでは……?」
彼の言葉はもっともだった。
金のリンゴの木はりんご族の御神木であり、1本しかない貴重なものだ。当然そこから手に入るトキワアップルも数も有限となる。
いくら小麦粉と砂糖を手に入れてもトキワアップルの数が増えない限りはアップルパイも交換券も増やせない。ここがアップルパイ本位制経済におけるボトルネックであった。
しかし、チッキは使者の言葉に軽く首を振る。
「ああ、それは大丈夫です。何とかなりました」
「はあ……?」
「すべては黒の女神様の思し召しのままに、ですよ」
そう言って、チッキはにっこりと微笑むのだった。
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数日前。
「本当にどうなされるおつもりなのですか、女神様!?」
シャコは困り切った顔でカズハに詰め寄っていた。
村の中で一番弁が立つ男で、これまで部族間の物々交換を受け持っていた人材だ。アップルパイと交換券を広めるお使いに出したところ立派に任務をやり遂げたので、今後は対プレイヤー相手の外交官として重用しようと考えている。
カズハと話していいコボルトがチッキだけだと不便だったので、神祇官という役職も公式に与えていた。巫女と神祇官は直接神様とお話していいってことにしてある。
そんな彼は、無軌道にも思えるカズハのアップルパイ増産計画に悲鳴を上げていた。
「発行されている交換券の量に比べて、アップルパイの生産が追いつきませんよ! これまで配った交換券を一度に交換して欲しいって持ってこられたら、どうにもなりません」
「大丈夫だよ、そんなことにはならないもの」
シャコの困惑顔とは逆に、カズハはのんきそのものだ。
「だって交換券は物々交換を楽にするためのツールや、財産をおうちに貯めておくって役割もあるもの。確かにアップルパイといつでも交換できるし、食べたいって子も毎日来てるけど、全部が全部交換されるわけじゃないんだよ」
まあカズハにそう教えてくれたのはエコ猫なのだが。
「それに小麦粉や砂糖もたくさん集まって来てるし、錬金術だってみんなに教えてボク以外にもアップルパイ作れるようになってきてるでしょ?」
「それはそうですが……しかし、金のリンゴは有限なんですよ。これまでは他の部族との交換に出す分が余るくらいでしたし、レッドキャップがいなくなった今は収穫も安全にはなりましたが……。それでも金のリンゴがなければ女神様のアップルパイは作れないじゃないですか」
「今の分だけじゃリンゴは足りない?」
「足りません。それに皮がなければ交換券もこれ以上作れませんよ」
「そっかあ。じゃあ解決しにいくよー」
軽い調子でそう言ったカズハは、りんご族たちを率いて御神木の丘へと向かった。
金の果実をつける神木は、今日も変わらずにそこにそびえていた。
神木は1日に決まった量のトキワアップルをその枝に実らせる。しかし過剰な採取によって、今は枝についた金のリンゴはひとつもない。
シャコをはじめとするコボルトは、女神様は一体どうするつもりなのだろうかと首を傾げる。金のリンゴをより多く実らせるための豊穣の祭儀でもするのだろうか? よもや人柱が必要なのだろうか。コボルトの生贄を否定したのは女神様なのだから、それをひっくり返すことはしてほしくないけれど……。
コボルトたちが不安そうに見守る中で、カズハはどこからともなく掌の上にアイテムを取り出した。それはもう、虚空から突然現れたと言ってもいいほどに。
アイテムボックスの存在を知らないコボルトたちは、奇跡としか言いようのない現象にどよめきの声を上げる。
しかし次の瞬間に彼らが目にした光景は、その比ではなかった。
「“デュプリケイター”、複製開始。対象はそこの“金のリンゴの木”だ」
誰もが顎の先が地面につくほどに大口を開けて、唖然とした。
アイテムボックスから取り出された機械卵は、カズハの指示に応えてトキワアップルの大木をそっくりそのまま空中に複製したのだ。
この世に一本しかないはずの彼らの貴重な部族のシンボルが、いとも簡単に2つに増えた! もはや冒涜だか奇跡だかわからないよこれ!
「あ、そこ危ないよー。みんな離れて離れて」
カズハの言葉に我に返ったコボルトたちは、悲鳴を上げながら慌ててその場から逃げ出した。
根っこがなければ、どんな大木でも直立してはいられない。ずずん……と音を立てて、トキワアップルの大木が地面に倒れ掛かる。
ド級の質量によってもうもうと土煙が上がる中で、カズハは指を顎に添えた。
「うんうん、問題なく増やせたね」
信仰的な意味で問題大アリだと思うんですがそれは。
デュプリケイターはエコ猫がオークションに出した1つだけではない。ゴールデンエッグ+10の世界で普通に床落ちしているものだ。
エコ猫が複数世に出したらまずいと判断したから二度とオークションをしていないだけで、カズハは何個か拾い集めて細かい仕様を割り出す実験に使っていた。
この実験の課題に、自分が所有していないアイテムは増やせるのか、アイテムだけでなくオブジェクトも増やすことはできるのかというものがあった。そこでクランハウスの庭の木を増やせないかと試したところ、普通に増やせることが判明した。
もっとも土に植わっている状態でなく、根っこごと空中に複製されてしまって、危うく倒れてきた木の下敷きになるところだったが。そっくりそのまま同じ木が2本になってしまったので、隠滅のために即座にウッドチップへと加工したのも思い出深い。
「コボルトの穴掘り能力なら、この樹を地面に植えることもできるよね?」
「え、ええ、まあ……。地面の栄養の奪い合いになるので離れたところに植える必要がありますし、運ぶのが割と大変でしょうけど」
なんとか言葉を絞り出すシャコに、カズハはぽんと手を打った。
「あ、そっか! じゃあ今度は先に地面を掘ってもらって、そこに複製すれば倒れる危険もないし植え直すのも楽だよね! うんうん、そうしよう!」
「……今度は、とおっしゃいました?」
カズハは両手の上に機械卵を10個転がしながら、にこりと微笑んだ。
「とりあえず、あと10本くらい増やせば足りるかなあ?」
こうしてかつてりんご族が弓を持ち獲物を追った見渡す限りの平原は、12本の黄金のリンゴの神樹が立ち並ぶ広大な果樹園へと姿を変えた。
その川には黄金の蜜が流れると言われた神の園、アップルフィールドの興りである。
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