第43話「アップルパイの経済学」

「やあやあ、元気にしてるかい」


「おやぁ、シャコじゃないか。久しぶりだぁな。リンゴを持ってきてくれたのけ?」



 コボルトのシャコが荷物を抱えてこむぎ族の集落にやってきたのは、ぽかぽかと暖かな日差しの日のことでした。

 シャコはりんご族の集落で暮らしているコボルトです。彼が物々交換に持ってきてくれる金色のリンゴはたいそうおいしくて、大人から子供までとても人気がありました。



「シャコだってぇ?」


「やったあ、リンゴを食べられるべ」


「小麦はまだまだ余裕があるからよぉ、たくさん交換しておくれよぉ」



 シャコがやってきたことを知ったコボルトたちが、次々とテントから出てきます。

 コボルトたちはみんなリンゴが大好きなので、久々に大好物にありつけるとワクワクしているのですね。


 こむぎ族は狩りのほかに野生の小麦を拾って暮らしている集落ですが、コボルトはあまり小麦が好きではありません。彼らの調理法は粗く挽いた小麦を薄く焼いたガレットですが、リンゴに比べると全然おいしくないのです。だけど小麦はお腹が膨れやすいので、主食には向いています。だからこむぎ族は収穫した小麦を自分たちで食べるのではなく、他の部族と交換するのに使っています。


 ですがシャコは頭を横に振ると、リンゴを楽しみにしているこむぎ族たちに言いました。



「今日はリンゴは持ってきていないんだ」



 ええー、とこむぎ族のがっかりする声が集落の広場に響きます。

 楽しみにしてたのになあと誰かが残念そうに言いました。



「それじゃあシャコ、今日は何をしに来たんだら?」


「リンゴは持ってきていないけど、もっといいものを持ってきたんだよ」



 そう言ってシャコは荷物を置くと、中から不思議なものを取り出しました。

 それは円い形をしていて、金色の皮がいくつも重なり合っていて、なんとも食欲をそそるような香りがした、初めて見るけれどなんだかとても素敵な予感がする食べ物でした。



「な、なんだべそいつは?」



 こむぎ族のコボルトは、涎が口から溢れそうになるのを抑えて訊きました。



「これはね、アップルパイというんだ。私たちのところにやって来られた女神様が作ってくださったんだよ」


「アップルパイ。いや、だども女神様というのは……」


「黒の女神様だよ。ついに私たちのところにやってこられたんだ」


「なんと」



 コボルトたちは、かつてこの大地に自分たちを支配する神様がいたという神話を信じています。神様はみんなコボルトよりずっと背が高い巨人で、つるつるの肌と賢い頭を持っていたのだといいます。

 気が付いたらみんなどこかに行ってしまって、今はもうこの大地にはコボルトしかいないのですが、いつの日にか神様たちは帰って来てコボルトたちに天命を下すのだと言われていました。まさかそれが本当だったなんて。



「しかし黒の女神様はとても戦争が好きで、生贄も要求するおそろしい神様だって話だべ? そんな方に従って大丈夫なのかい」


「いや、伝承は間違っていた。黒の女神様はとても優しい神様だよ。敵には何の容赦もなく殺戮の限りを尽くすけども、コボルトは我が子のように可愛がってくださるんだ。もちろん生贄も要求されない。このアップルパイも、金のリンゴやこむぎ族の小麦を使って作ってくれたんだよ」


「ほへー。おらたちの小麦から、こんなものを!」



 こむぎ族たちは目を丸くして、アップルパイを眺めました。あの微妙な味のガレットしか作れない小麦から、こんな素敵なものを作れるなんて。

 シャコはにっこりと微笑むと、木のナイフを取り出してアップルパイをざくざくと切り分けます。切り口からこぼれ出るとろりとした蜜に、誰かがごくりと唾を飲み込みました。



「このアップルパイは、我らの女神様からの贈り物だよ。採取してくれた小麦で美味しいものを作れたから、ぜひこむぎ族にも食べてほしいという仰せだ」


「えっ! タダでもらってしまっていいんだべ?」


「ああ、タダで渡すように仰せつかっている。さあ遠慮なくどうぞ」



 こむぎ族たちは我先にとアップルパイを手に取ると、ぱくりと口に運びました。



「う、うまいべ~~~っ!!」


「こんなうめえものがこの世にあったんだなあ!」


「これは確かに女神様がお作りになったものに間違いねえべよ!」



 アップルパイは大盛況です。

 生まれて初めて食べるアップルパイは金のリンゴよりももっともっと美味しくて、こむぎ族はすっかりその味の虜になってしまいました。



「これはすごい食べ物だべ! シャコどん、もっと持ってきてねえべか!?」


「ああ、もちろん持ってきてるよ。ただ、ここからは……」


「もちろんタダとは言わねえべ、小麦ならあるから交換してけろ!」



 血走った目で迫るこむぎ族に、シャコは少し困ったような表情を浮かべます。



「それはありがたい。小麦がたくさんあれば、女神様にたくさんアップルパイを作ってもらえる。ただ、アップルパイはそこまでの数を持ってきていなくてね。小麦はいくらでもほしいんだけどな」


「ああ、それもそうか……。このおいしい食べ物と交換できるなら、いくらでも小麦を出すつもりはあるんだけどなあ」


「だから、提案があるんだ」



 そう言ってシャコが取り出したのは、ぴかぴかと金色に光る金属板でした。

 板の表面には何かの模様が描かれていますが、コボルトたちにはよくわかりません。



「なんだべ、それは?」


「これは女神様が用意してくれた交換券というものだよ。この板の模様は神様が使う文字で、こう書かれているんだ。『この交換券をお持ちになられたコボルトには、いつでもアップルパイ1ホールを交換することを女神の名においてお約束します』」


「なんだって!? これを見せればいつでもアップルパイをもらえるんだべか!?」


「ああ、そうだよ。焼き立てのアップルパイはすごくおいしいぞ。こんな冷めたものじゃない、サクサクでホクホクで、中のリンゴがとろけるようなんだ。あれを食べたらほっぺたが落ちちゃうよ」



 シャコは女神様が食べさせてくれた焼き立てのアップルパイの味を思い出して、じゅるりと口の端からこぼれる涎を拭いました。その仕草に、こむぎ族のコボルトたちもこれよりもっとうまいアップルパイの味を想像してしまいます。



「提案というのは、この交換券と小麦を交換しないかということなんだ。この板をりんご族の集落に持ってきてくれれば、いつでも焼き立てのアップルパイと交換できる。それならこの場でアップルパイと交換するのと変わらないだろ? むしろ焼き立てを食べられる分お得まであるよ」


「確かにその通りだべ。女神様が約束してくれるっていうんなら、嘘を吐かれてだまし取られるってこともねえべな。わかったべ! 小麦はひとりじゃ運びきれねえだろうし、帰るときはうちの集落からも人を出して運ばせるべよ」


「ああ、ありがたい。これで私も女神様のおつかいを無事果たせて肩の荷が下りたよ」



 シャコが金属板を手渡すと、こむぎ族はぴかぴか光る板を不思議そうにおひさまにかざしました。



「不思議な板だなあ。硬くてぴかぴかしてるべ」


「それは女神様が金のリンゴの皮から作った板なんだよ」


「ほへー! さすが女神様だぁ。綺麗だけど固くて捨てるしかなかったあの皮から、こんなもんを作っちまうなんて」



 それはオレイカルコス合金、またの名を真鍮を板にしたものでした。

 真鍮は圧延性に優れていて、加工しやすい合金なのです。特にこうして板状の『貨幣』にするのにぴったりです。現在の日本では5円玉、江戸時代には黄金の小判の代わりに貨幣として採用されていたくらいなのですから。

 カズハ程度の加工スキルでも、板にして文字を焼き入れるくらいはできるのです。


 女神様がシャコに頼んだおつかいとは、この交換券と引き換えに小麦を手に入れてくること……。いえ、より正確に言えば『貨幣を流通させること』です。

 この交換券に小麦と交換する価値があると相手が信じた瞬間から、この交換券は『信用』を得て『貨幣』となったのです。


 ああ、そういえば女神様からもうひとつおつかいを頼まれてたんだったっけ……。シャコは忘れないうちに、こむぎ族に頼むことにしました。



「それから、この先にいるとうきび族にもアップルパイと交換券を持って行ってくれないかな。女神様はこの交換券をもっともっと多くのコボルトに広めてほしいらしいんだ」



 とうきび族は野生のさとうきびから砂糖を生産する部族です。さとうきびからジュースを絞り出し、それを乾燥させて砂糖を抽出しています。原始的な方法なので純度は低いのですが、砂糖は砂糖。アップルパイに使われたのも、この砂糖でした。

 砂糖はアップルパイの生産には必要不可欠。小麦と並んで確保しないといけない資源です。

 こむぎ族はお安い御用だと請け負いました。



「ありがたい。そうそう、その交換券なんだけど、こむぎ族ととうきび族の間の物々交換にも使うといいよって女神様がおっしゃってたんだ。そうしたら、重い小麦を持ち運ばなくても簡単に交換ができるよ、って」


「おお、確かに! さすがは女神様だべ、頭がいいんだなあ」


「できたら他の部族にもどんどん広めてね、だって。交換券はまた私が持ってくるよ」


「わかったべ。しかし、女神様は大変じゃねえべか? おひとりで何百人のコボルトが食べるアップルパイを作ることになるべ?」



 こむぎ族の疑問に、シャコは笑い声を上げました。

 何を笑っているんだろうと首を傾げるこむぎ族に、シャコは言います。



「いや、別に何百人ものコボルトが一気に食べにくるわけじゃないだろう。それに今、うちの巫女さんを中心に女衆がアップルパイの作り方を習ってるんだ。れんきんじゅつ? とかいう神様の技だけど、覚えたらコボルトでも作れるようになるんだってさ」


「ほへー。神様の技術を惜しみなく教えてくれるなんて、気前がええんだなあ」


「そうだよ、私たちの女神様は最高の神様なんだ。なんならこむぎ族も信仰したらどうだい?」


「ふむう、このアップルパイっていうのを本当にたらふく食わせてくれるんなら、考えなくもねえべなあ」



 そう言いながらおひさまにかざした金の板は、きらきらと輝いているのでした。




 アップルパイの女神様と金色の交換券の噂がコボルトたちの間に広まったのは、あっという間のこと。

 噂に聞くアップルパイを交換してもらおうと、別の部族のコボルトたちがファイアホイール村までやってくるようになったのです。

 当初はこむぎ族ととうきび族まで『貨幣』が広まれば十分と思っていたカズハとエコ猫ですが、想像以上に遠い集落から遠路はるばる旅をするコボルトまで現れたくらいです。そして彼らは本当にアップルパイと交換してくれたことに喜び、その味に夢中になるのでした。

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