バカと勉強バカの受験一年戦争

茜あゆむ

第1話

 鈴木祐樹は正直に言って、あまり頭が良くない。彼は、名前を書けば入れるような私立校に通っている高校三年生だ。今まで勉強というものをしたことがない。部活に行くために、いつも赤点だけはぎりぎりで回避してきた。

 最後のインターハイも終わった夏、祐樹は自分の部屋でスマホをいじりながら、学習机に向かっていた。その日はどういう訳か仲間が捕まらず、部活に顔を出そうにも学校は盆休みで完全に閉鎖されていた。

 スマホに飽きた祐樹は何の気なしに窓の外を見た。机のすぐそばにある窓からは家の横の路地裏が見下ろせる。普段は級友たちが下から声をかけ、寝坊しがちな祐樹を叩き起こすのだが、夏休みとあって、路地裏はただただ静かだった。じりじりとした夏の日差しがアスファルトを焼いている。三十五度を超える猛暑日だとニュースキャスターの言葉が脳裏によみがえった。見るからに暑そうな景色に、祐樹はうんざりするように溜め息をついて、再びスマホに目を移そうとした。

 そんな彼の視界に、一人の少女が通り過ぎていくのが見えた。Tシャツ、短パン、サンダル姿の松下初音が、炎天下の路地裏を幽霊のような足取りで歩いていた。彼女が長い髪をかき上げて、暑っつー、と呟くのが窓ガラス越しでもよく分かった。

 祐樹は彼女の無防備な姿に薄笑いを浮かべて、窓を開けた。

「おーい、勉強馬鹿。どこまで行くん?」

 二人は家が隣同士の幼なじみだった。初音は気怠そうに顔を上げて、祐樹を睨みつける。

「……散歩。馬鹿に馬鹿って、言われたくないわ!」

「散歩ぉ? 馬鹿か! 受験勉強のしすぎで脳みそ溶けてんのかぁ?」

 祐樹の言葉に、初音は怒ったようで、うっさい!と小さく呟くと、無視するようにそのまま歩き出した。

 祐樹は言い返してこない初音に、何か思うところがあったのか、歩いていく背中をじっと眺めて、

「熱中症、気ぃ付けろよ!」

 と叫んだ。

 初音は振り返らずに左手を持ち上げて、重そうにひらひらと手を振った。

 それから、散歩に出かける初音に声をかけるのが、祐樹の日課のようになった。


 松川初音は、祐樹たちの学年でずば抜けて、頭が良い。定期テストの順位で一位を譲ったことは一度もないほどだ。彼女が東京の大学を目指しているという話は、それこそ祐樹たちが中学の頃からの噂だった。

「初音ぇ、英語おしえて~」

 二学期の中間テストを目前に控えた日、散歩に出かける初音に、祐樹は冗談のつもりで言った。窓を開けると、秋の涼しい風が吹き込んでくる。路地裏にはどこから流れてきたのか、真っ赤な紅葉の落ち葉が端の方でかさかさと音を立てている。

「あんたに勉強教えたら、こっちが馬鹿んなるわ。英語で自己紹介してみ?」

 祐樹が返事するまでに間が空いた。初音は祐樹をじっと見つめて、まさかそこまで馬鹿なのか? という顔をした。

 祐樹はにやりと笑いを浮かべて、

「ディズイズ、ア、ペン」

 と言った。ぽかん、と口を開けた初音の顔を見て、祐樹は大笑いする。

「これ、ネイティブ発音な」

 窓際まで近付いていた初音は、それを聞いて、手に持っていたものを祐樹に投げつけた。

「うわ、危な!」

「馬鹿が感染る!」

 初音はそう吐き捨てると、肩を怒らせて、ずんずんと向こうの方へ歩いていってしまった。祐樹は申し訳なさそうに頬を掻いて、初音の後ろ姿を見送る。窓の下には、初音が投げつけたものが部屋の光を受けて、白く映えていた。

 拾いに行くと、それはばらばらになった英語の単語帳だった。よっぽど使い込んでいるのか、角がへろへろになっていて、初音の努力の跡が見えるようだった。祐樹は溜め息をついて、散らばったそれを拾い集めた。

 夕食後、祐樹はお隣へ行って、初音に単語帳を返した。

「お前、ながら歩きはやめとけ。休むときは休む。常識だろ?」

 玄関先に出てきた初音はまだ不機嫌そうだったが、祐樹の言葉を聞いて、不満そうにだが頷いた。

「わざわざ、ありがとう」

「車、轢かれんなよ」

 そう言って、祐樹が帰ろうとすると、初音が

「ちょっと待ってて」

 と家の中へ引き返していった。初音はすぐに戻ってきて、一冊のノートを祐樹に手渡した。

「私の一年の時のノート。単元まだ英1でしょ?」

「え? いや、いいよ。俺見たって、分からんし」

「だから馬鹿のままなの! 分かるまで繰り返しやる! ほら」

 初音はノートを押し付けると、逃げるように扉をしめた。残された祐樹はノートを開いて、玄関先の弱々しい光の中で、ぱらぱらとページをめくる。

「……きったねえ字。これ、一回じゃあ読めないわ」


 受験シーズンが近付いてきて、初音の散歩の頻度が減った。祐樹はというと親戚の会社に就職することが決まり、毎日仲間と遊び歩いていた。

 ただ、祐樹の学習机には初音のノートが置いてあり、遊びから帰ってきた祐樹はそれを開いて、ぱらぱらと中身を流し読みする。そして、寝るまで学習机に向かって、ぼんやりと時間を潰すのだった。

 その日は雪だった。冷たい雨は日付が変わるころに雪へ変わり、珍しく道路に雪が積もった。寒さで目が覚めた祐樹は窓を開けて、あっ、と声を漏らした。

 下に初音がいたからだった。

 祐樹には白く染まった路地裏に、初音だけが色づいているように見えた。頬を赤くして、真っ白な息を吐く初音は祐樹が出てくるとは思っていなかったのか、大きく口を開けて、間の抜けた顔をしている。

「お、おう、初音!」

「……おはよう」

 前回顔を合わせてから、半月ほどが経っていた。てっきり体調を崩したものと思っていた祐樹は、初音が元気そうな様子を見て、表情を明るくした。

「これから散歩?」

 付いてってもいいか、と祐樹は聞くつもりだった。けれど、初音は静かに首を振って、もう帰るよ、と言った。けれど、雪の足跡は片道分しかない。祐樹は少し考えてから、

「なあ、受験いつ?」

 と言った。机の引き出しからお守りを取り出して、初音に見せる。

「これ、渡そうと思って。今、そっち行くわ」

 窓から身体を引っ込めようとした祐樹に、初音が

「投げて」

 と言った。祐樹は、はぁ? と訝しむ。初音の態度が以前よりずっとよそよそしかった。

「いや、そんなん悪いし……」

「投げてくれていいから。キャッチできたら、一発で受かる気がするから」

 キャッチできなかったら……? という疑問を祐樹は飲み込んだ。

 それを言うには、あまりに初音の表情が真剣すぎた。

「んじゃ、いくぞ」

「ば、ばっちこーい!」

 腑抜けた初音の掛け声に合わせて、祐樹はお守りを放った。


 冬の寒さも和らぎ、街角の桜の木にも蕾がちらほらと見え始めていた。初音の家の前には引っ越し業者のトラックが停まっている。

「おーい、馬鹿居る?」

 数メートル離れた路地裏で、初音は窓に向かって呼びかける。角を一つ曲がっただけなのに、荷運びの喧騒は嘘みたいに凪いでいた。

「馬鹿はいません。というか、玄関から来いや」

「あんた呼んでない。馬鹿出してよ」

「馬鹿いないって、勉強馬鹿」

「馬鹿って言った方が馬鹿」

「んなら、お前が馬鹿やろ!」

 叫ぶ祐樹を見て、初音は満足そうに顔を綻ばせた。

「私、その勉強馬鹿ばっかの大学に行くことんなった。ただの勉強馬鹿じゃなくて、いっちばん馬鹿な勉強馬鹿になれたよ、祐樹のおかげだよ」

 初音はポケットからお守りを取り出して、にっこりと笑った。太陽に向かって、花が開くみたいな顔だった。祐樹は口を開いたが、何も言えなかった。

「祐樹は春休みから、会社行くんでしょ?」

「先週から、働かされてるよ」

 ふふふ、と初音は笑う。祐樹がむっとして、何だよ、と言うと、

「少し、羨ましくって」

 と目を伏せた。祐樹は胸が締め付けられるような気がした。何とも言えない感情が湧き上がって、

「大学行くんだろ……?」

 と思わず問いかけていた。

 初音の家の前では積み込みが終わったようで、彼女の両親が初音を探している声が聞こえた。初音は祐樹の質問には答えようとせず、

「そんだけ! ありがとう」

 と言って、去ろうとする。

「待った初音!」

 走り去ろうとする初音に、祐樹が窓から身体を乗り出して呼び止める。勢いあまって、窓から落ちそうになった。

「そっち行って、いいか?」

 祐樹は初音から借りていたノートを掲げて、真剣な表情で初音を見つめた。

 初音は眉を寄せて、険しい顔をしている。

「それ……いいよ、あげる」

「いや、俺だっていらんし。……じゃなくて、初音にノート借りて、はじめてやってもいいかもと思った、勉強」

 自分でも何を言っているのか分からないまま、祐樹は吐き出すように言葉を紡いだ。一年間、初音を見続けて、考え続けてきたことを。

「だから、もっと教えてほしい」

「…………んなら、勉強馬鹿が勉強教えたげようか?」

 祐樹ははにかんで、

「いや、勉強じゃなくて」

「なら、何よ?」

「初音んこと」

 やっぱり馬鹿、と初音は笑う。

「幼なじみでしょ、私たち」

「……ダメか?」

「ううん、馬鹿でも分かるよう、教えたげる」

 一年みっちりね、と言う初音の目は怪しい光を宿していた。

 祐樹は、ばっちこいと叫んで、初音に会いに行くために部屋を飛び出した。

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バカと勉強バカの受験一年戦争 茜あゆむ @madderred

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