スファレライトと雲の空
卯月ななし
第1部
間縞伊織の憂い
不変。俺が求めるのは安定した退屈な日常だ。
ある程度決まったルーティンをこなし、1日を終える。
朝早く起き、朝食を食べ、弁当を作り、学校へ行く。
授業を適当に受け、弁当を食べ、昼休みに本を読んで、帰路に着く。
寮に帰ってからはただだらりと過ごし、夕飯を食べ、風呂に入り、寝る。
「規則正しい」と言えばそうなのだが、変わり映えしない退屈な日々。
俺はそれが好きだったし、変えたいとも思わなかった。
……なのだけど。
「二択だよ。しましま君。」
俺の平凡な日々が奪われたのは、全部コイツ――
高校2年の春。俺のクラスに転入生が来た。クラス替えをして間もなくのことで、さして珍しくも無い。その上、転入生が来ると聞かされた同級生たちの反応は思った通りだった。俺は全くそういうのに興味がない。
(どうせなら『ただの人間には興味ありません』とか言っちゃう系の奴だったら面白いのに。)
俺は頬杖を付きながら、騒ぐ同級生たちを遠目に見ていた。そして気づいた。
(おいおいコイツら転入生だけで騒ぎすぎだろ。)
俺以外の全員が転入生の話題を口にしている。HR前の教室がここまで五月蝿かったことは今まで無い。俺は小さくため息をついた。
先にはっきり言っておくと、俺には友達がいない。まぁ言ってしまえば俺は「ぼっち」なのだが、俗にいう「オタク」な奴らとは仲良くできない。かといってクラスの中心人物たちと仲良くする気もさらさら無い。そんな面倒な奴なのだ。俺は。
陽キャでも陰キャでも無いという立ち位置が、俺を孤立させる要因だろう。正直、無理をしてまで合わない人たちと仲良くしたいとは思わず1人で居たために、ぼっちから抜け出せなくなっていた。
そんな事をぼんやり考えていたせいか、上京する前に俺のクソ姉貴に言われた言葉が脳裏をよぎる。
(大丈夫かぁ?捻くれ根暗野郎よぉ。)
俺はそれを思い出してまたため息をつく。俺のクソ姉貴は物凄く男勝りで口が悪い。まぁそんな姉貴だからこそ、この年になるまで仲が良いのだが。
不意に教室の扉が開いた。教室は一気に静けさを取り戻す。担任の禿げ頭がぬぅっと教室に現れた。気苦労の絶え無さそうなやつれた顔をした気弱な教師なのだが、生徒からの信頼はなぜか厚い。というか、この学校大して問題とか無いと思うんだけど何であんなにやつれてんのマジで。
「おはようございまぁす……。」
まるで幽霊が教壇に立っているようだ。大丈夫かこの人。
「えぇっと、皆さんに紹介しますねぇ……。天野さぁん、入ってきて……。」
天野、と言うのが転入生の名前か。また教室がざわめく。俺はもうそんな同級生たちに飽きてきていた。
カツ カツ
廊下からローファーの足音が規則的に聞こえてくる。その音が教室に入って来た時、また静かになった。だがこの静けさはさっきの自発的な静けさで無く、「言葉を失った」という様な静けさだった。
「――初めまして。天野凛子と申します。今日から宜しくお願いします。」
教壇に立った少女が、透き通る様な声でそれだけ言った。たったそれだけのことだったのに、どうしても目が離せなかった。
ゆったりとした所作、長いこげ茶のストレートヘア、校則通りにしゃんと着られた制服、ぱっちりとした目、少しだけ上がった口角。何だ。何処を取っても普通の少女だ。なのに何故。
「皆さんと早く仲良くなれるように、頑張りますね。」
どうして、俺は目を奪われているのだろう。そんなことを考えているうちにHRが終わっていた。
「隣の席、ですか。宜しくお願いします。天野です。」
「……ども。」
「あの、お名前お伺いしても?」
「え、あぁ。
……拙い、拙いぞこれ。なんでよりにもよって俺の隣の席なんだよ。気まずい。
「マジマってどう書くんですか?」
しかも転入生さんめちゃくちゃ話しかけてくるよ。やっべぇ……。
「間、に縞々の縞で間縞です。」
「へぇえ、カッコいいですね。」
カッコいい、ね。……おいこれ本格的にヤバいぞ。何の気なしにカッコいいとか言える女子でまともな奴は存在しないっていうデータが俺の中にある。拙い。この転入生さん今の所俺のデータに全部当てはまってる。
「……天野、さんも。名前綺麗ですよね。」
うわぁぁぁぁぁ分かんねぇぇぇぇぇ。距離の詰め方を完全に忘れたな俺。キモいな俺。初対面の会話でこれはキモい。
「――。」
あぁ……天野さんびっくりして固まっちゃってるよ。終わったなこれ。
「――初めて言われました。名前が綺麗だって。」
……おやぁ?これは、俺首繋がったか?てか待て、天野さん笑ってる。セーフか?
「なんかこう……嬉しいです。」
俺はそれを聞いて内心ガッツポーズした。少なくとも嫌われては居ないはずだ。
「あのぅ、マジマくん……。」
「うわぁっ!……すんません、なんですか先生。」
いつの間にか俺の背後に立っていた担任に名前を呼ばれて肝を冷やす。この人の存在感マジで無さすぎるだろ。怖ぇ……。
「次の時間自習だから……、マジマくん、天野さんに学校案内してくれないかなぁ……?」
そういって、学校の地図を差し出してくる。何だよ、俺まだ何とも答えて無いぞ。
「……分かりました。」
どっちにしろ押しに弱い俺は引き受けるんだがな。自習サボれるんなら良いさ。
「じゃあ、よろしく頼むねぇ……。」
「うす。」
先生は教室から去っていった。意味は違えど、教室の喧騒に溶け込めない俺と天野さんはただ立っていた。
「――で、ここが図書室。」
「わぁ、広いですね。」
俺は難なく学校案内を終えて、最後に取っていた図書室へと天野さんを案内した。子供みたいな顔をしながら図書館を見渡す天野さん。俺は考えていた。
俺はさっきの自己紹介の時、この天野凛子という人に目を奪われた。それはある種彼女の力なのかと思っていた。だが俺は薄々気づいていた。
(――違和感。それも、かなり大きな。)
俺は彼女を見る目を細めた。完璧すぎるのだ。所作一つをとっても、笑い方一つをとっても。それが引っかかり、俺は天野さんから目が離せなかったのかもしれない。
「天野さん。」
天野さんの幼げのない瞳がこちらを向く。口元には薄い笑みを浮かべていて、この彼女の独特な雰囲気に俺は当てられていた。
「……っと、あーその、何つーか……。」
何といえばいいのだろう。第一、これ俺が言って良いようなことなんだろうか。そんな雑念に押されて言葉が薄れていく。そんな俺を見て、天野さんは笑った。
ただ、その笑顔はさっきまでの笑顔とはまるで違う、どこか黒々しい笑みだった。
「――っ!」
背筋に冷たいものが走る。俺の鈍い勘は見事に的中だったようだ。
「いやぁ、存外私の目も働くみたいだね。」
図書室の自習用の机に腰かけながら本を眺める、「さっきまで天野さんだった誰か」は俺にそう話しかけた。
「……あのー、天野さん。」
「なぁに?しましま君。」
「何スか、しましま君って。」
「君の苗字はマジマ、でしょ?縞模様の縞で。」
「縞々って、あぁ。なるほど。」
って納得してる場合か阿保。そんなことよりも、今俺の目の前に居るこの少女は、本当にさっきと同じ天野凛子なんだろうか。
「質問していいかな、しましま君。」
俺の顔を覗き込む天野さんの目には先ほどまでの艶めきは微塵も無く、ただ貪欲な鈍い色が広がっているだけだった。俺は思わず生唾を飲み込む。
「君は私が教室に入った時に何を思った?」
「……どういう意味ですかそれ。」
俺は天野さんの目に吸い込まれかけながらも、喉から声を絞り出した。天野さんはただ笑うだけで、ちゃんと答えようとはしない。
「どうもこうも無いさ。」
「――率直に言うと、綺麗な人だなと思いました。」
俺は何も考えずにそうとだけ答えた。天野さんの顔にほんの少し驚きが現れた。
「……よくもまぁ、恥ずかしげも無くそんなこと。」
「そうスかね。変な事言った気は全く無いんスけど。」
天野さんは首を振ってから笑った。こげ茶色の髪が左右に揺れる。
「いやいや、変じゃあ無いよ。――私は君を見た時に思ったんだ。」
俺は言葉の続きを待ったが、天野さんは暫く考えた後に人差し指を立てて言った。
「その前に聞きたいんだけど、君はトロッコ問題って知ってるかな。」
淀んだ目をこちらに向けて、唐突にそんなことを言う天野さん。俺はただ答える。
「1人か100人かって奴スか。知ってますけど。」
脳裏に線路の切り替えレバーを握る俺と、遠くに見えるトロッコが浮かぶ。二股に分かれた線路の右には崖、左には可愛い女の子が立っている。そんなのはさて置き。
「――あの問題の片方の選択肢、線路に立つ1人の人間がもしも君の大切な人だったら。君はどっちを選ぶ?」
俺は顎に手を当てた。それから考えて、俺の頭の中で立つ左側の女の子が姉貴の顔に似始めたところで考えるのをやめた。
「さぁ。まぁでも、大切な人1人犠牲にしても、トロッコに乗った100人に助ける価値があるかどうかで決まると思いますね。俺は。」
天野さんは俺の答えを聞くと、そっと目を細めた。
「面白い事言うんだね、しましま君は。」
「そうスかね。」
天野さんは顔を上にあげて、図書室の天井を見つめた。そしてそのままの体勢で声を出す。
「もしも、その大切な人が自己犠牲型で、100人を助けろと言ったら?」
天野さんの可愛らしい良く通る声が響く。沈黙が長く続いたように感じた時、俺は口を開いた。
「――100人助けて悲劇の英雄になろうと、1人助けて後ろ指さされようと。」
俺はそこで言葉を切って、天野さんの方を見る。天野さんはゆっくりとこちらに顔を向けて首を傾げた。
「俺は、俺の今後の自分の人生が面白くなりそうな方を助けますかね。」
図書室の音が、全てにおいて消えた。それが何秒だったのかは俺には分からない。少し経ったとき、天野さんの肩が震えだした。
「……くっ……ふふ……くっははははは!」
大きな声でさも可笑しそうに笑う天野さん。目尻に涙が溜まっている。
「あーやっぱりね。私の思った通りだ。」
笑いすぎで零れ落ちた涙を指で拭いながらそんなことを言う。それから、息を整えてゆっくりと俺の方を向いた。
「君……狂ってるよ。凄く。」
天野さんは俺の方に長くて白い指をピンと指しながら短くそれだけ言った。お互いに何も言葉を吐かない時間が続く。時間の流れが物凄く遅く感じた。それを打ち壊すように天野さんの口角が吊り上がる。
「まるで私と同じ答えだもん。」
(――あぁ。もしかすると。)
その時俺は初めて、今自分の目の前にいる「天野凛子」という少女の事を潜在的に舐めていたことを痛感した。あまりにも遅すぎる発見だったなと思う。天野さんは指をゆっくりと下ろすと、さっきの自己紹介で振りまいたような笑顔を顔に張り付けた。つい先ほどまでの雰囲気と違い過ぎて俺は狼狽する。
「君は退屈が好きなんだね。」
唐突に天野さんが言う。俺はただ黙っていた。その通りだ。俺は退屈が好き。不変が好き。変わらないルーティンワークを愛している。なのに、なのに。
――俺は今、何故この状況に好奇心を抑えられないのだろう。
「しましま君。」
すっと天野さんの白い手が伸びて来る。いつの間にか机から降りて俺のそばで立っていたようだ。俺は天野さんの顔を見る。天野さんは肩を竦めて笑った。
「よろしくね。」
「……こちらこそ。」
反射的に手を握り返す。それを見た天野さんはにっこり笑って、手に力を込めた。
それから暫く互いの顔を見続けていたが、チャイムが鳴って現実へと引き戻される。だが、俺は分かっていた。先ほどまでの出来事が夢なんかでは無いという事を。
――天野さんの目の奥に蠢いていた黒い何かの影が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかったせいで。
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