掌編:ハヤテ

鉛筆のミヨシノ

ハヤテ

その日、ぼくは初めて、「目を疑う」という言い回しの意味を実感した。


とある日の夕方。小学校の午後の授業も終わって、みんなが放課後に遊ぶ約束を取り付けながら下校している時間。

帰る方向が同じ友達と話しながら下校していても、そのうちに各々の家の近くになると、みんな別れていく。もちろん、そのあと大抵は公園や誰かの家に集まって一緒に遊んだりするんだけれど、家から学校まで遠いぼくが、一度ランドセルを置いて携帯ゲーム機を持って出るためには、一人さびしくテクテクと長い道を歩く羽目になる。

しかもその日は運悪く、普段一緒に遊んでいる友達がみんな習い事や塾で遊べない日だった。両親が共働きでいわゆる”鍵っ子”なぼくは、帰ってから楽しいこともないしと、ちょっとだけヤケクソな気分で、そしてちょっとだけ冒険をするような気分で、普段は通らないさびれた商店街の方に寄り道をしてみた。

見渡す限りシャッターが閉まって、大人の姿も見えない商店街は、昼間なのにとても暗くて、低学年の子が近くの公園で遊んでいるはしゃぎ声がひどく遠くから聞こえるように感じる。すぐそこの曲がり角から、真っ黒で大きな化け物が出たって、不思議じゃない気がした。

まあ、そんな不思議な生き物より、ぼくのような子供を狙う不審者のほうがよっぽどリアルで怖いんだけど……とにかく、そんな不気味で不安な感じにぞわっとして、自分を勇気づけようとランドセルを背負い直し、大股で一歩踏み出そうとした、その時だった。

「ん?」

怖そうな気配を感じていたその曲がり角から、なにか小さい姿が飛び出してきた。それはぼくの道を横切ると、不意に道の渡りきった先で立ち止まる。

最初は、野良猫かなと思った。だって四足歩行していて、とてもすばしっこかったから。ただ、野良猫にしてはやけに姿勢が低いし、体も小さくて細長いし、その体と同じくらい尻尾が長い。

ぼくはその姿に見覚えがあった。たしかこの前、オカルト好きのひろし君に借りた本に出てきた妖怪のモチーフ……それに似ている。

「かまイタチ?」

ぼくのつぶやきに反応したように、イタチがぱっとぼくの方を見る。そしてぼくの目とイタチの目があった。

一瞬、時間が止まったみたいな感じがした。でもすぐに、イタチの目が”やべっ”という風にきょろりと動き、次の瞬間には、イタチは走り出していた。

「ま、待って!」

ぼくは叫び、気がつけばイタチを追いかけていた。どうして追いかけたのかはわからない。ただ、なにか予感のようなものがあった。追いかけないと、チャンスを逃してしまう、と。

イタチはとても素早い。商店街のタイルの上を、飛ぶように走り抜けていく。その体が小さいおかげで、一歩一歩は大した距離じゃないはずだけれど、どんどん間を離されていく。肉屋さんの看板を飛び越え、クリーニング屋さんの角を曲がり、喫茶店のソフトクリームの像を踏んづけて、イタチはどんどん走っていく。負けじと電柱を曲がり、魚屋さんの前のほったらかしの自転車を迂回して、ぼくもその後を追ったけれど、散髪屋さんの角を曲がったところで、ついに見失ってしまった。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

せっかく追いかけたのに、と残念がりながら、つけすぎた勢いを緩めて息を整える。見回しても通りにはもう、なにも見当たらない。

……いや、散髪屋さんの裏のところに、少し細い道がある。ちょうど建物と建物の間になっていて、日がまるで差さなくて見えづらいけど、そこにさっき見たイタチの尻尾が見えた、気がした。たった一軒挟んだだけなのに道?と少し不思議に思ったけれど、ぼくはその道に入ってみることにした。


「暗い……」

夕方といっても、空も赤くなっていない時間なのに、外から見たのと同じく中はとても暗い。目を凝らしても、伸ばした手の先がまるで見えない。それでも時間が経つとだんだん目が慣れてきて、ぼんやりと道の幅や物の形が見えるようになってきた。

だけど今度は、道がとんでもなく長いことに気づく。前に進んでいるはずなのに全然進んでいる気がしなくて、たまに振り返ると、入ってきた散髪屋さんがはるか遠くに見える。

前の方の道はまだまだ開ける感じはない……さすがに怖くなって、引き返そうと後ろに足を向けようとした、その時だった。

「戻るな」

ぼくよりも高い声。だけど、威厳というか、聞いただけで従わないといけないって感じる声が、ぼくの前から聞こえた。

「わ、わあ!?」

「この道に入ったからには、前に進むことしか許されない。戻ろうとしたなら、二度と家に帰れなくなるぞ」

びっくりして声のした方を見ると、ぼくより背が頭ひとつ分くらい低い子が、ぼくの前に立っていた。

「大丈夫だ、そんなに怯えるな。オレの言う事を聞いてりゃ、ちゃんと家に帰れるから。……それとも、手でも握ってやろうか?」

なんてな、と言いつつ、その子からぼくの方に手のような影が差し出される。その子は頭になんだか大きい笠みたいなのを被っていて、顔は見えない。服も、色はよく見えないけどマントのようなものを羽織っていて、隠れている。ただ、そのマントの中に切れ込みのようなものがあって、そこから長い尻尾が伸びている。

この子はきっと、さっき見たイタチだ。……そんな勘が、突然ぼくの頭にひらめいた。差し出された手をそっと握ると、年下の子と手を繋いだときの小さくて暖かい感じと、動物園でふれあい体験をしたときみたいな動物っぽいふわふわの毛の手触りがした。

言い出しっぺの当の本人……本人?は、そんなぼくの様子に、少し呆れたようだ。

「おいおい、マジで握るのかよ……ったく、こんな乳臭いガキひとり撒けないなんて、オレも焼っきが回ったもんだぜ」

「ぼくはもう4年生だよ」

「変わんねーよ……」

だいぶ違うと思うんだけど……。

でも、イタチさんの手を握ると、すごくほっとした。背丈としてはぼくの方が高いはずなのに、まるでお母さんに手を引かれているみたいな感じで、心細かったのが一気に吹き飛んでいった。ぼくが子供だって言うのも、仕方ないかもしれない。


手を引かれるまま進んでいると、気がついたらぼくは入ってきたのと同じ、散髪屋さんの曲がり角に出た。暗い通りにいる間に時間がいっぱい経っていたのか、空はもう真っ赤になっていて、夕焼けがとてもまぶしい。

「ほれ、もう自由に動いていいぜ」

言いながら、イタチさんは手をぱっと離した。明るい下で見ると、イタチさんはまるで時代劇に出てくる旅のお侍様みたいな服装をしていた。青い下地に白でぐるぐる模様がいっぱいついたマントから、茶色くて長いふわふわの尻尾が伸びている。

「どうやらお前は、”此方側”に近かったみてーだな。オレの不本意な先導があったとはいえ、”境目”を越えかけちまうとは」

「さかいめ?」

「お前たちの世界とオレたちの世界の境目。要するにお前は、お前たちの言葉で言うなら、”霊感が強い”ってこった」

くいっと、イタチさんが頭の傘を上げる。マスコットキャラクターみたいなかわいい顔をしていたけれど、そのくりっとした瞳はすごく落ち着いていて、とても賢そうに見えた。

「その様子じゃ、"境目"を越えかけたのはこれが初めてみてーだな。だが、その割にはずいぶん落ち着いてるじゃねーの……ま、さっきはめちゃくちゃビビってたけどな」

「な、び、ビビって……」

にしし、とイタチさんがからかうように笑うので、ぼくはつい友達に返すように荒っぽく答えようとした。でも、実際さっきはすごく怖かったし、もしイタチさんが言っていたことが本当なら、ぼくはイタチさんに助けられたんだ。そんな命の恩人に対してウソをつくのは、きっと良いことじゃないよね?

「うん、怖かったけど、イタチさんがいたから怖くなくなった。その……ありがとう」

「うぐ、お、おう。素直に礼を言えるたぁ……良いことだな?

 ったく、調子狂うぜ」

そっぽを向いて、イタチさんが頭をがしがしとかきむしる。その様子がなんだかおかしくて、ぼくは少し笑ってしまった。

ピンポンパンポーン、と時報のチャイムが鳴る。

『五時、五時です。児童の皆さん、暗くなる前に、気を付けて帰りましょう』

「おっとぉ、ほら、ガキはもう帰る時間だぜ」

イタチさんは笠を被り直して、背中を押すようにぼくのランドセルをつつく。そして自分は、さっき出てきたあの暗い通りにまた入っていこうとしていた。

その後ろ姿を見て、どうしても一言だけ言いたくなって、ぼくは。

「……イタチさん!ぼくたち、また会えるかな?」

「言ったろ。オレたちは棲む世界が違うんだって」

「でも、そこに通りがあるでしょ?」

「やめとけ。また迷い込んだとしても助けてやれる保証はねぇぞ」

ハァー、とイタチさんはため息を一度ついて、ぼくの方に振り返る。

「イタチさんじゃなくて、”ハヤテ”ーーそれがオレの名だ。この通りの前で呼べば、気が向いたら来てやるさ」

そうしてにやっと笑うと、イタチさん、もといハヤテは通りの暗がりに入っていき、ぼくがまばたきした次の瞬間には、その姿は消えていた。

まるで夢でも見ていたみたいだ。だけど、あの暗闇で握り返してくれた手の感じは、今も残っている。ぼくの不思議な友達は、また明日この場所で名前を呼べばきっと来てくれる。そんな根拠のない自信を胸に、ぼくは今度こそ家にまっすぐ帰るのだった。

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