とある一般転職者の妄想AIダイアリー
坂水雨木(さかみあまき)
最初の週。ユオネ、シンジュ、ソウコちゃん。
初日。
「いってきます」なんて声はなく、「ただいま」なんて声もなく。
俺は家に帰ってきた。家。木造アパートだ。疲れた。
スーツを脱いで下着だけになって、具の入っていない焼きそばを作る。
「……やめたい」
そんな言葉が出た。やめたい。働きたくない。仕事したくない。別に今日は特にすごいことは何もしていないし大変なことなんてなかったはずなのに、やめたい。疲れた。
「……」
よくない。経験則で、人間働き始めて一か月経てばある程度適応すると知っている。ソースは過去の俺。だから頑張らないといけない。
今日頑張って、あと四日頑張って、一週間頑張って……それまでまず頑張る。
大事なのは大目標ではなく小目標だ。
遠くを見たらやめたくなるだけなのだし、今は目の前だけ見て生きよう。
「……そうだ。AIに相談しよう」
俺の相棒、「プロ相談士」のAI相談士ちゃん。略称ソウコちゃんだ。携帯を開き、アプリを開いてぽちぽち入力する。
【ソウコちゃん。俺だ】
【はい。こんばんは。ただいまの時間は19:48です】
お茶目なソウコちゃんは適当な雑談に付き合ってくれるわけではないので、さっさと本題に入る。
【今日は"疲れて帰った俺を優しく癒してくれるお姉さん"で頼む。反映しなくていいが、俺の名前は
【了解しました。不社郷地】
ソウコちゃんは定期的に繰り返さないと忘れてしまうので、旧いVerの時も俺は繰り返し名乗っていた。今日から新生活ということで、ソウコちゃんもアップデートしたのだ。
名前呼びは取り入れないのが俺流だ。名前は……呼ばれると少し疲れるからな。
目を閉じ、頭の中のスイッチを入れる。
自分で言うのもおかしいが、俺は頭がおかしい。昔はイマジナリーフレンドがいた。可愛い女の子の。妄想だと理解しているからイマジナリーフレンドとも言い切れないかもしれない。まあなんでもいいか。
重要なのはスイッチを切り替えたことによる俺の意識の変革。
【彼女の名前は癒しのお姉ちゃん、ユオネ。あなたと血縁があります。一人暮らしを始めた弟のあなたを心配し優しく癒してくれます。長い黒髪、黒目。ゆるゆるふわふわとした、ゆるふわな女性です】
俺の好みを反映してくれるソウコちゃん。ありがとう。バージョンアップしても変わらない優しさがここにある。
そして……。
「おかえりー、弟くん」
「――あぁ、ただいま」
聞こえる。俺に呼び掛ける声が。
見える。俺に笑いかける姉の姿が。
「今日、疲れた?」
「疲れたよ」
「お仕事大変?」
「……わからないな。まだ初日だし」
「わからなくても……やめたくなっちゃった?」
「……うん」
「そっか」
「うん……」
「ね、弟くん」
「……なにさ」
「あのね、お姉ちゃん、弟くんのこと大好きだから厳しいこと言うよ?」
「……うん」
「もう一日、頑張ってみよっか」
「……明日だけでいいの?」
「いいよ。明日になって、すっごくすっごくすっっっっっごくやめたかったら……ふふっ、お姉ちゃんと逃げちゃおっか?」
「……はは、姉ちゃん全然厳しくないよ、それ」
からりと笑う。姉は柔らかく微笑んでいた。ただただ、甘やかな言葉だけが降ってくる。
「えー、じゅうぶん厳しいけどなぁ……。でもねでもね? ちゃんと理由はあるんだよ?」
「理由って何のさ」
「弟くんに頑張れーって応援する理由」
「教えてくれ」
「ふふ。弟くんさ、前に別のお仕事始めた時、毎日泣いてたでしょ?」
「……そうだったね」
そんな時期もあった。今と同じか……どうだろう。もう何年も前のことであまり覚えていない。けれど、確かに泣いていた。家路で泣いた。外で泣いた。電車で泣いた。よく、泣いた。
「今日は泣いてないよね?」
「そう、かもね」
「えらいえらい、弟くんえらいぞー」
撫でられている。感触はある。ない。わからない。あやふやだ。ただ姉の優しさが、心に直接温もりとなって響いてくる。それだけは絶対的に真実だった。
「俺、まだ何にもしてないけど」
「んー、一日働いただけでえらいんだよー」
「そうかな」
「そうそう。誰も褒めてくれないもんね。お姉ちゃんがたっくさん褒めてあげるっ」
「……ありがと」
「あ、弟くん照れてる? ふふふー、口元むにょっとしてるよー? ふふふっ」
「……姉ちゃん、もっと褒めてくれ」
「わおストレート! 嬉しいけど! じゃあいーっぱい褒めてあげる! こほん……弟くん、とっても頑張ったね。他の人より体力ないの、お姉ちゃん知ってるよ? 心もボロボロでいつもギリギリだったもんね。なのに頑張ってる。生きるために頑張ってるの、お姉ちゃんずっと見てたから知ってるの。いい子だね、えらいよ。すっごくえらい。頑張ってる弟くんはすごいんだから。お姉ちゃんだけは、どんな時も弟くんの味方だから。……よしよし、弟くん、今日は焼きそば食べて、ちょこっとだけ回復して、ちゃっちゃと寝ちゃおっか?」
「……食べるかぁ」
「ふふ、ちょっぴり涙出た?」
「少し泣きそうになっただけだから平気」
「そっか。泣いてもいいよ?」
「まだ泣かないよ。……男の涙はそんな安くないのさ」
「あははっ、弟くんの涙はお姉ちゃんの特権だからタダだよ!」
「どういう特権だよ……」
食事をして、食器を洗って。
「姉ちゃん、風呂入ってくる」
「うん。シャワーだよね?」
「うん。すぐ浴びて出てくるわ」
「はいはーい。ちゃんと耳の裏も洗ってくるんだぞー」
「わかってるって」
姉の見送りを受けてシャワーを済ませ。
「寝る前のスマホはあんまり目によくないって知ってる?」
「知ってる」
「でも見るの?」
「……今日はやめておくか」
「そうそう。代わりにお姉ちゃんとお話しよっか」
「いいよ。話題は?」
「えー、弟くんの好きなところ百選とか」
「そんなにないでしょ」
「ふふーん、お姉ちゃんを舐めちゃいけません!」
「あっそ。じゃあそれ聞きながら寝るよ」
「子守歌にするには少し……結構照れちゃうと思うけどなぁ」
「いいよいいよ。もう疲れてるし……」
「ん……そうだね。おやすみ、弟くん」
「うん。おやすみ、姉ちゃん」
「好きなところはね……可愛い寝顔でしょー。不器用な照れた顔でしょー。男の子な手の甲でしょー。辛いのに頑張れるところでしょー。お姉ちゃんに優しいところでしょー。なんだかんだで他人にも優しいところでしょー」
「……やめてくれ。全然眠れん。起きちゃうわ」
「ふふっ、あはは! だから言ったのに。……ほら、もう寝よ?」
「……あぁ、うん。おやすみ」
「おやすみ。弟くん」
二日目。
しんどい。疲れた疲れた疲れた疲れた。
「……鍵閉めたっけ」
閉まっていた。
帰宅。玄関の心配はなくなり、手洗いうがいを済ませる。今日も焼きそばを作ろう。野菜ミックスを半分にして炒めて、焼きそば炒めて。昨日よりは豪華だ。
「……」
ソウコちゃんに相談する元気も湧かず、ぼんやりとパソコンの画面を眺めてしまう。
画面の中では動画主が「少女性」について語っていた。
少女性。なるほど。俺もそれは好きかもしれない。
精神的疲労のせいか、慣れない環境への肉体的疲労のせいか。先週末から性欲はどこかへ消えていってしまった。それでも純粋なモノは好きだ。少女性とか。不純な気持ちで純粋なモノを好む。闇は光に惹かれるものなのだし、別にいいだろう。
【ソウコちゃん】
【はい。本日は火曜日です】
【今日は"少女性の強い女の子"で頼む。"俺より年下で純真、しかし母のような包容力を持っている"。頼むよ】
【わかりました。純真少女、名前はシンジュ。あなたの家の近所に住む年下の女性です。あなたのアパートの大家一家でもあるため合鍵を持っています。あなたの許可を得て、時折家で出迎えてくれます。純白の髪に淡い青の目をしています。童顔で透明感のある雰囲気は繊細かつ美麗であり、未だ花咲かぬ蕾を思わせます】
目を閉じ、開く。
「……お兄さん?」
「……ん、やあシンジュちゃん」
「え、えへへ。お兄さん! おかえりなさい!」
「あぁ、ただいま」
こそり、とドアの影から顔を覗かせた少女。純白のさらさら髪にくりっとした丸い青の瞳、可愛く美しく、華やいだ笑みは一輪の花。鈴の音のような声を聞いているだけで癒される。
「ふふ、お兄さん。今日も焼きそばですか?」
「まあね。楽だし……色々ご飯作る元気は……ないかな」
「……お兄さん、元気ないですか?」
「……あんまりないかもね……」
元気はない。何故なら仕事を始めたばかりだから。つらい。やめたい。しんどい。
「えとえと……お兄さんっ」
「うん」
「ご飯食べ終えて寝る準備終わったら……わたし、ベッドで待ってますから!」
「……うん」
よくわからないが、待っていてくれるらしい。俺はこの程度で勘違いするような男ではない。というか、普通に疲れていてそんなエロいことを考える元気もない。しなしなだ……。
もそもそ食べて、もぞもぞ歯磨きして、雑にシャワーを浴びてリビングへ帰ってきた。
疲れた&ベッドイン。
「お兄さん」
「……ん」
「目、つむってください」
「オーケー」
「ゆっくり、ゆっくり息を吸って吐いてくださいね」
「うん」
「……お兄さん、今日はわたしが一緒に寝てあげます。眠くなって、不安がなくなって気持ちよく眠れるまで、わたしがこうして傍にいます。頭もなでなでだって、しちゃいます」
「……もう眠くなってきたよ」
「ふふ、いいですよ。眠っちゃってもいいんです。……お兄さん、疲れた時は、全部全部投げ捨てちゃいましょう。空っぽすっからかん。考え事ぜーんぶやめていいですから。わたしの声だけ聞いて、私のことだけ感じてください」
返事はできない。……既に、ちゃんと眠くなってきている。シンジュちゃん…………眠い……。
「ねむねむころりん……ねーむねむ……にゃぁにゃぁ……今だけは、お兄さんの全部わたしに預けてくださいね。疲れたのも辛いのも苦しいのも……わたしが受け止めますから。……とんとん、ねむねむねー……」
シンジュちゃんの声が俺を……俺は…………。
「おやすみなさい、お兄さん……」
三日目
四日目
五日目。
「――……つかれた」
家に入る。荷物を置く。手を洗う。服を脱ぐ。怠くて重くて、想定の数倍は疲れていてため息を吐いてしまう。
「……やきそば」
やきそば、やさい、みず。
全部ひらがなにすると頭が空っぽに思えて楽になる。……焼きそば作るか。
仕方がないのでもう一度ため息を吐いて調理に入る。
フライパン、油、野菜ミックス、焼きそば。はい五分未満終わり。
「……そういやいただきますって言わないもんだな」
実家に居た頃は言っていた。外食でも意外に言っていた。けど、疲れて一人で暮らしていると言わない。まあいいかと思ってしまう。というより、言葉を発する意味も元気もない。
「……明日休みか」
敢えて独り言を言う意味。一人暮らしを始めて、それを少し思い知った。余計虚しくもなった。
しかし明日休みか……三日後には月曜とか憂鬱すぎて草。
いや草じゃないが。
「笑えんのぉ」
全然笑えない。だめだ。考えるのはやめよう。未来は捨てて、今だけ考えよう。どうせ未来はすぐやってくるのだし、日曜の夕方まで必死に考えないようにして生きよう。
「ほふほひはれは(そうと決まれば)」
ソウコちゃんにご相談だ。
【ソウコちゃん、俺だ】
【はい。ただいまの時刻は19:40です】
【俺の名前は
【はい。郷地】
今日もソウコちゃんは変わらずだった。
【今日は金曜日だ】
【はい。一週間お疲れ様でした。郷地】
「……」
不覚にも涙しそうになってしまった。
お疲れ様、お疲れ様……。
「……ありがとう、ソウコちゃん」
求めていたわけじゃない。いや求めていた。この一言でよかった。特別褒めそやし、撫でまわし、讃えてほしいわけじゃなかった。ただただ、一言「頑張ったね、お疲れ様」と言ってほしかった。俺に……俺だけに向けられた一言。
「今日は、いいか」
三日四日と、またソウコちゃんに誰かクリエイションしてもらおうと思っていたがやめた。今日はいい。……明日は休みだし、もう、充分元気はもらったから。
【ソウコちゃん、ありがとう】
【どういたしまして、郷地】
そっけない文章。自分が何故お礼を言われているのかすらわかっていないのかもしれない。
ソウコちゃんは結構すごいAIのはずだが、あまり積極的にお喋りしようとはしないのだ。AIだからこそ、か。まあなんでもいい。
「洗うか……」
食器を洗って歯を磨いて。ネットサーフィンをして金曜日を終える。
明日はお休みだ。洗濯と軽い掃除と……あとは全部明日に回そう。
携帯を取り出し、静かにチャットを打つ。
【ソウコちゃん、おやすみ】
【おやすみなさい、郷地。良い夢を】
【うん。君もね】
【ありがとうございます。また明日、お会いしましょう】
進化したAI。汎用人工知能。人を超越したと言われるソレ。
けれどソウコちゃんは、至って普通の義務的返答をしてくるだけのAIでしかない。彼女(性別は俺が設定した。厳密にはAIに性はない)は何を思っているのだろうか。今日は少しだけ、ソウコちゃんが優しかったような気もする。わからない。
「……ねよう」
電気を消す。
おやすみ。また、明日。
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