元乳母の人生

 お茶会であった出来事を聞いたエミリアの乳母は、やっとここまで来たかと内心ガッツポーズをした。長いようで短かった15年、幸せそうな己のお嬢様を見て自分も幸せを感じていた。この愛おしいお嬢様の幸せを奪われてたまるもんですか。ここまで修正できたんだから、ヒロインの王太子ルートの攻略だけは阻止してやる。この世にいるヒロインには悪いが、これに人生かけてんだこっちは。彼女は毎日、自分の使命に心を燃やしてきた。

 15年前、生まれたばかりの赤ん坊であるエミリアを見て、突然前世を思い出した彼女は愕然とした。この世界は前世でやりこんだ乙女ゲームの中の世界であると気が付いてしまったから。そして、そのゲームに出てきた「悪女エミリア」の、寂しがりでわがままで、人の注目を浴びて喜ぶ性格がどうして形成されたのか察してしまったからだ。親の関心を極限まで得られず、与えられるはずの愛を知らない彼女の行く末に、どうして「ざまあ」などと思えようか。このまま彼女が転落人生を送るのをただただ見守るだなんてできるはずもなかった。彼女は決心した。悪事なんてしない、ざまあなんて思われない、立派な淑女に育てよう、と。

 己の主人たちは、どうしてこんなに可愛い娘を放置できるの? と思っていたのは驚くことにこの彼女だけだった。他使用人は、主人たちはそういう人だからと変にも思わなかったり、子が生まれても変わらなかったかと落胆したりするだけで、それが「おかしい」とか「ひどい」とか思っている素振りすらなかった。彼女以外にいた乳母数人もみんな、どちらかといえばドライな仕事人タイプだったようで、異常なく育ちさえすれば仕事は完了だろうと必要以上のことはせず、自分の家庭の方を大事にしていた。

 お嬢様の未来を守るということに関しては誰も信用できないと判断した乳母は、己だけでもと自分の娘と同様にエミリアを心から愛した。さすがに近づきすぎるわけにはいかないが、率先して声を掛け誰よりも親身になり、一緒にものを考え、いけないことをしたらその場で叱る。本当にこれでいいのかと思いめげそうになったこともあるが、エミリアの笑顔が大好きだったからこれだけでも守れればと必死に踏ん張り続けた。乳母としては仕事が終わり侍女として雇いなおしてもらっても、主人たちへの「どうして」という気持ちとエミリアを不幸にしないのだという決意は変わらなかった。

 そのうち自分以外の使用人も一定の距離間を保ちながらも教育に熱心になってきて、家庭教師を選ぶ際も必死に情報を集めたり主人にそれとなく進言したりして、エミリアの教育環境を整えていった。先生方もエミリアの可愛さと優秀さと勤勉さにあっという間に虜になり、一緒にエミリアの環境を整えるのに協力してくれた。中でもマナー講師のマダムはエミリアの両親に直接物申してくれるほどであったが、やはり暖簾に腕押しといった調子だったらしく「教育する以外にわたくしの仕事はないだなんてどういうことなのです!」とマナー講師にあるまじき怒りの叫びを披露され、それからは保護者チームの一員としてすてきな淑女の育成に一層力を注いでいた。

 すてきな少女に育ってきたとき、己のように前世のゲームの記憶を持った人間がいる可能性に考えが至った。すてきな淑女になったところで、それだけで、本当に幸せになれるのだろうか。今のところ自分たちとご本人の努力が報われ、素直ではあるが決して愚直な娘ではない、そして悲しいことに物わかりのいい女の子になっていた。いずれ貴族社会でもまれることや王妃になる可能性を考えると、無垢で素直なままではいられないことを考えてマダムと教育方針の相談を何度もしているがどうしたって汚いものから遠ざけたい気持ちが先行していた。

 そんなときに主人から、第一王子と年の近い少年少女を集めるガーデンパーティが近く開催されることと、それにエミリアが招待されていることを知らされたのだからてんてこ舞である。急いでドレスを準備して、マナーの復習をしてもらいながら、どうか今回だけでもお嬢様が傷つきませんようにとみんなで祈った。おそらく今までで初めて、使用人たちの気持ちが揃ったときであった。

 帰ってきたエミリアは元気だった。落ち込んだりぼうっとしたりはしていなかったので一度はほっとしたが、部屋でくつろいでいたときに「わたくしは愛されていますわよね」とぼそりと呟いたのを聞いて奥歯が欠けてしまいそうになった。知らない少女に「おかあさまにあいされてないなんてかわいそうね」と直接言われたそうだ。近くに親らしき二人がいたのでちょうど聞いたばかりのことばを伝えたくなったのかもしれない。

 使用人一同ぶちぎれそうになったが、その原因を作りそれでよしとしているのはこの場にいる全員の主人である。そしてその主人は「貴族女性として立派に育て上げるだけの金は出しているはずだが」などと不思議そうに言うのだから救いようなどなかったし誤魔化しようもないのであった。

 元乳母の侍女はエミリアに許しを得たうえで視線を一度合わせたあと、ぎゅうと抱きしめ、残酷な現実を伝えることにした。


「エミリアお嬢様のご両親は、お仕事以外に関心を寄せることができないのでございます。」


 こんなことを伝えなければならないなんて、と心から屈辱を感じた。このようなことを言って傷つけるために侍女を続けたわけではなかった。ただ、エミリアは本当に賢く、ものわかりがよすぎるからいずれ知ってしまうに違いない。嘘をついたり、誤魔化したりすることで、不信感や思ってもみない誤解を生んでしまっても不幸だ。もちろん自己満足だとわかりながら、抱きしめ続けた。どのくらい経っただろうか、エミリアは抱きしめた侍女の肩を優しくたたいた。


「……わかっています。わたくしは、あなたたちに愛されていると言っています。」


 驚いて顔を覗き込むと、エミリアは少し泣きそうな顔で、笑っていた。


「わたくし、わたくしね、いいの。知らない女の子に何を言われてもいいの。この先、嫌な子だなって忘れないかもしれないけど、どうでもいいのよ。愛を知らないなんて、そんなことないわ、そうでしょう? だって、みんなが愛してくれているのは知っているもの。」


 思わず涙が流れてしまった。こんなことを言わせてしまったことへの反省と、でも己たちの愛がたしかに伝わっていたこと、そして、この件で泣いてはいけないと思っているエミリアのことを思うと涙が止まらなかった。後悔は募る。もし、あのとき無理にでも親子の時間を作らせていたら。もし、形だけでも愛しているように接してあげることを願っていたら。たらればの話などというものほど馬鹿なことはないのに止まらない。本当に私のお嬢様は幸せになれるのだろうか。

 そうして。ガーデンパーティのあとしばらくしてエミリアと第一王子の婚約がなり、何度も会う機会が作られ。時が経つごとにどんどん惹かれていく様子に思わず「大好きなんですねえ」と声を掛ければはにかんで笑うエミリアが、本当に美しくて。このまま何も起きなければいいのにと思っていたのに。

 あるときレーラという平民に治癒の能力が目覚め、その娘をとある伯爵家が養子にとったとの情報が入った。この国は今、戦争がない平和な時代を迎えているが、魔物が少なからず存在するゆえに治癒の力を持つ人間は重宝される。能力の高さによっては病気も治せてしまう。そして、原作の主人公は最上級の能力を持っていたはず。

 始まってしまった、そう思って、その日からエミリアのことを今までよりいっそうよく見るようにした。情報収集にも力をより入れて、何があっても即座に対応できるよう備えた。まもなくレーラは貴族学校に入れられることになる。学年は第一王子の二つ下、エミリアと同じ学年であり、原作通りであることに一層気を引き締めていかねばならぬと思わせられた。伯爵家は義娘を王妃にするという野望を隠す気がないようで、いままで一度も行ったことがなかった慈善事業にも手を出し、レーラの有用性やいずれ王妃になった場合の利点などを各所に刷り込んでいるようだった。レーラもまんざらではない様子で進んで活動したり、学園で第一王子との接触を図ったりしているようだ。第一王子の方は、どうとでも取れるような対応をしているためにレーラのことをどう思っているかが読めないのが悔しい。

 集めた情報上では第一王子は少なからずエミリアを思ってくれているようだから、簡単にレーラになびくとは思えない。エミリアは原作と大きく異なる性格をしているから、主人公補正のようなものが発生しない限り、嫌われるようなこともないだろう。ひたむきに努力のできる、純真さはさすがに失ってしまったが、曲がることなく身も心も美しい女性に育ってくれた彼女を邪見にはできまい。そうは言っても、これは国と家の契約であるがゆえに本人たちの感情だけでどうなるわけでもない。最終的には王のお気持ち次第であるのだ。

 自分とレーラの存在を比較して日々落ち込むエミリアを見て、使用人たちは思った。このままでは国と王子のことを慮った我らがお嬢様は、直接誰かに「婚約者の座を辞退する」と伝えに行ってしまうのではないだろうか。王子相手ならば一旦保留という形にしてもらえるかもしれないが、伝えた相手によってはその場にて契約の解消となってしまう可能性がある。そのためエミリアの行動に目を光らせ、様子のおかしい日の翌日に王子とのお茶会を設定したのを確認したとき。こんこんと諭したのである。

 あくまでも家同士の契約と言えど、お互いを生涯のパートナーとしてみなして生活してきた半生ちかく、すべてをなかったことにするつもりか、と。お嬢様から向ける気持ちがあるのなら、何も伝えずに身を引くのはこれからの人生悔いの残る苦しいものになるのだと。どうか婚約の解消を伝える前に、ご自分の恋心をお伝えしてくれと。

 使用人という立場から考えるととんでもない越権行為だ。ずっとそうだ、ずっと今までだって使用人としてあるまじき行動をとってきた。だが今回は、ご本人が隠し通そうとするものを隠すなと、いわば自己への介入と言ってもいい行動だ。厳罰を受けても仕方のないこと。そうだとしても、エミリアの気持ちと未来を守りたかった。ひとまずは納得して王城に向かったエミリアを見て、いるかも知らない神に祈った。

 帰ってきたエミリアはぽうっとしていて、少なくとも「残念なこと」にはなっていなさそうであったので安心した。ゆっくり体を休めている最中に聞けば、「優しい嘘かもしれないけれど、両思いだと言ってくださったの」だなんて少女のように顔を赤らめて嬉しそうに言うのだからいままでの人生が報われた気分であった。

 婚約の解消はするつもりがないことやレーラとの関係性を聞いて、安心したようにぽやぽやとしているのだから我らがお嬢様は本当に可愛くて仕方がない。ようやくここまで。エミリアの話では口先だけの可能性は否めないとのことだったが、きっと大丈夫。王子はそんな嘘をつくようなキャラクターではないはずだから。

 そりゃあエミリアの性格修正がうまくいった以上、攻略対象だって違う性格になる可能性はあるけど、原作では王子は欲塗れの人間を毛嫌いしていたのだ。そんな王子が出会うのは平民上がりですれておらず、能力に振り回されながらもひたむきに努力して、迂遠な表現が苦手ですべて素直に告げてしまう嘘の付けない娘。ありきたりな設定だったけど、貴族社会では絶滅せざるを得ないぽっと出の可愛い女の子がいろんな男の心のモヤを拭うことで愛を得ていくストーリー。それが原作だ。

 幸運なことに、レーラは伯爵に持ち上げられたことで膨らんでいく欲を隠せていない。大丈夫。主人公と同じ行動をしているようだが、まったく主人公らしく振舞えていない。あちらも記憶持ちかもしれないが、今となっては怖がることはない。エミリアは優しく可憐で控えめだ。王子の好みにあてはまり、そして今日お互いの気持ちを通わせているのだから。

 大丈夫。でも、大丈夫じゃなくても、元乳母の侍女は死んでも、エミリアだけは守ると、改めて意思を固めた。勝負はあのパーティの日。


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