第58話 伝書鳩到着

 フィーナ王国の王都シャンタ、その民家の一室でモレーナは目を覚ました。ベッドから起き上がる。寝癖の付いた栗色の髪がぴょんぴょこ揺れた。

 本当はもっと寝ていたい。とはいえ、彼女は一応ブラーウ家の諜報員の一人だ。仕事がある。

 今日もまず鳩小屋の掃除と餌の準備、その後王宮に出勤だ。モレーナは表向き下働きの少女という事になっているので、王宮に行けばごく普通に家事労働が待っている。


「そろそろ、この立場も卒業させて貰えないかなぁ。私ってば成果上げたし」


 大臣の部屋の絨毯に”汚水”を撒くという大変な仕事を、暫く前に完遂した。”汚水”というのは貝に当たった人間の吐瀉物を濾過した物だ。大臣をきっちり病気に追い込み、お褒めに預かった。その後、大臣派の司法官も同様に病欠に追い込んだ。

 まぁ、実際に撒いたのは王宮に住み込みで働いている仲間だが、”汚水”を王宮に持ち込み、指示を伝達したのだから半分はモレーナの功績の筈だ。


 そんなことをつらつらと考えながら、モレーナは部屋を出て階段を上がり、鳩小屋に向かう。

 掃除をしていると、ちょうど鳩が一匹戻ってきた。どうせ何もないだろうと思って鳩を見ると、足に手紙を入れた筒があった。筒の色は薄い水色だ。

 モレーナは驚きに目を見開く。一見目立たない薄水色はブラーウ家の連絡においては『最重要緊急』を意味する。


 慌てて筒から手紙を取り出す。伝書鳩は秘匿性と確実性に難のある連絡手段だ。その伝書鳩で重要連絡となれば、時間的余裕のない案件であることは間違いない。

 丸まった手紙を開いて、もう一度驚く。暗号化していない平文だ。文面に目を走らせ、納得する。暗号の解読時間すら惜しい訳だ。


「魔族軍上陸って……」


 冗談にしか思えないが、文末には真正なものであることを示す符牒が添えられている。


 一秒でも早くカッセル家かデベル家に情報を伝えなくてはならない。距離が近いのはカッセル邸だ。あそこなら走るのが一番早い。


 モレーナは大慌てで家を飛び出す。


 石畳の上を、息を切らして走る。

 何だか街ゆく人から怪訝そうな視線が向けられていた。朝から切羽詰った顔で全力疾走しているから奇妙なのだろう、そう思って走り続ける。だが、それにしても注目されていた。

 暫く走った所で、モレーナは自分がネグリジェ姿だった事に気付いた。殆ど半裸だ、乙女が街中を走って良い格好ではない。これは変な目で見られる。

 羞恥に顔が赤くなる。だが今から戻って着替えたら時間のロスになる。それに、戻るとしたら帰路も半裸ダッシュな訳で、ある意味手遅れだ。覚悟を決めてそのまま進む。

 すれ違う人の視線が辛い。朝早いので人通りが少ないのが救いだ。


 足がふらつき出した頃に、カッセル邸が見えてきた。飾り気のない砦のような印象の屋敷だ。屋敷の前には門番が二人いる。

 門の前まで行くと、門番が心配そうな声で話し掛けてくる。


「どうしましたか? ここはカッセル邸ですが」


 モレーナは何度か大きく息をして、最低限呼吸を整える。


「カッセル家へ、ブラーウ家より緊急連絡です。直ちに取次ぎを」


「ブラーウ家? そんな突然言われても。何か身分を示す物はごさいますか?」


 門番は困ったような顔で言う。

 門番の言うことはもっともだが、諜報員である証明証なんて当然ない。当主であるバレント・カッセルには自分の存在も共有されている筈だが、そこまでは取り次いで貰うしかない。


「本当に緊急なのです! 女の子がこんな格好で街を走るぐらいに!」


 モレーナは語気を強めて言った。こんな格好なのは自分のミスな気もするが、門番のうち片方は『確かに』といった顔で頷いてくれた。


「まずは何か羽織るものをお持ちしますね」


 有り難い言葉だが、まず中に入れて欲しい。


 その時、カッセル邸の三階の一つ窓が開き、何かが飛び出して、乾いた音を響かせ着地した。

 黒い髪の綺麗な女性がいた。カッセル邸の窓から飛び降りてきたのだ。


 顔をじっと見て相手が誰か理解する。モレーナは姿勢を正し頭を下げる。


「ブラーウ家に仕えるモレーナと申します。リリヤ・メルカ様とお見受けします。火急のご連絡があり参りました」


「ええ。リリヤです。ひとまず中へお入り下さい」



◇◇ ◆ ◇◇ 



 レブロ辺境伯家の陪臣魔術師リリヤ・メルカはカッセル邸の私室に居た。

 大臣一派への武力面での抑えとして王都に呼ばれ、以降はカッセル邸で暮らしている。共に王都に来た叔父ニコラはすぐに領地レブロに戻ったが、リリヤは『王都に居る』という仕事を賜りのんびり過ごしていた。


 リリヤは物音を聞きつけ窓の外を見た。門の前に女性がいて、焦った様子で門番と何やら話している。女性は薄手の寝間着姿、下着が透けてしまっている。

 何事か分からないが、とりあえず羽織るものでも渡してあげよう。そう思ってリリヤは上着を手に取って窓を開け、ジャンプした。


 風魔術で浮力を作り落下速度を軽減、更に足の下にも風魔術で圧縮空気のクッションを作り着地する。


 女性はまだ少女と言ってよい年齢だった。髪に寝癖がつき、息が切れている。寝起きに着替える間もなく走って来た、そんな感じだ。

 その少女はリリヤを見ると背筋を伸ばして頭を下げ、口を開く。


「ブラーウ家に仕えるモレーナと申します。リリヤ・メルカ様とお見受けします。火急のご連絡があり参りました」


 その言葉にリリヤは気を引き締める。ブラーウが、街中でこんな目立つ格好をしてまで急いでいる。名のりが本当なら、一刻を争う重要案件しかあり得ない。そして、ブラーウを騙ってカッセルに接触する偽者などまず考えられない。


「ええ。リリヤです。ひとまず中へお入り下さい」


 リリヤの言葉を受け、門番が門を開ける。リリヤは「羽織って下さい」と言って少女、モレーナの肩に上着をかける。


 モレーナを伴い、正面の扉を開け屋敷の中に入る。入口のすぐ脇にある応接間に進む。応接間の扉を閉めると同時にモレーナが「こちらを」と言ってリリヤに小さな紙を差し出してきた。


「つい先程、伝書鳩で届いたものです」


 紙を広げ、目を通す。内容は驚くべきもの。


 座って話を聞くつもりで応接間に案内したが、そんな場合ではない。リリヤは今閉じたばかりの扉を開け放った。


「付いて来て下さい! バレント様のところに参ります」


 そう言って、モレーナの手を引いて応接室を出る。


「はい。あ、でもその前にできればデベル家にも」


「大丈夫。フランティス様も今ちょうどカッセル邸に来ています」


 デベル家当主フランティス・デベルはバレントと打ち合わせをするためカッセル邸を訪れていた。運が良い。


 屋敷の中を小走りで進む。階段を上がり廊下の先、レブロ辺境伯バレントの執務室に着くと、部屋の扉を叩いた。つい力が入り、乱雑な音になってしまう。

 中から「どうした?」との声、リリヤは「リリヤです。入ります」と言って扉を開ける。部屋の中にはバレント・カッセルとフランティス・デベルがテーブルに向かい合って座っていた。


 リリヤは机に座るバレントの前に進む。


「お話中に申し訳ございません。緊急です。魔族軍について、ドグラス様から警告が来ています。ブラーウ家経由です。こちらのモレーナが持って来てくれました」


 リリヤは手紙をバレントに渡す。バレントは手紙を一読すると、険しい顔をして、フランティスに渡した。フランティスが読み終わるのを待って、バレントが口を開く。


「モレーナ嬢については一連の対大臣工作に当たりブラーウ家の人間である旨、開示を受けている。信用できるだろう。魔族か……ドグラスの読みなら正しいだろうな」


 手紙はドグラス・カッセルからという形式で書かれている。流石に伝書鳩でエリーサ一行の事を書く訳には行かないので、彼女達のことは『同行者』とぼかされていた。しかし、事情を知っている人間には分かるように書いている。


 リリヤは頷く。

 

「はい。ドグラス様が来ると確信しているなら、魔族軍は来るでしょう。主攻がサルドマンド平原の可能性はありますが、その場合でもレブロの兵力を拘束できるだけの別働隊は来る筈です」


 レブロ辺境伯領の北には荒野が広がり、その先に『魔大陸』と呼ばれる半島がある。北の荒野を西に進めば、ヴェステル王国側の魔族領域との境界であるサルドマンド平原に着く。

 北の荒野は瘴気の影響で人の居住には適さないが、行軍程度なら問題はない。もし魔族がサルドマンドだけを攻撃して来るなら、レブロ軍は荒野を抜け魔族に背後から襲いかかることが出来る。


「同意見だ。レブロの守備は強化しなくては。王都は気掛かりだが、デベルの兵力も出そう」


 バレントは「ありがたい」と頭を下げ、言葉を続ける。


「そして、南も問題だ。この書き方だとホルカ街道で単独行動をしているのは……」


 バレントが苦い顔で言い淀む。


「エリーサ王女殿下だな。全く、トリスタは何をしているのか。ご無事だと良いが」


 フランティスが溜息をつく。


「恐らくは大丈夫です。エリーサ王女殿下の魔力と魔術センスが情報の通りで、短期間とはいえドグラス様の指導を受けたならば、殿下を殺害する事は極めて困難です」


 上陸した魔族部隊は強力と言っても後方撹乱要員に過ぎない。エリーサの魔力が大聖女フィーナ級ならば、全周防御を破れるとは思えない。寝込みを襲われでもしなければ大丈夫だ。


「ひとまず、ドグラスとトリスタ殿の判断を信じるしかないか。リリヤ、私の護衛は不要だ。屋敷の全魔術師を連れてレブロへ向ってくれ。指揮はニコラに任せる。到着次第、領民に総動員を。私は王都に残る」


 命令を受けリリヤは「承知しました」と端的に返す。バレントのことは心配ではあるが、やむを得ない。


「私は途中領地に寄ってレブロに向かう。バレント、済まないがホバート侯、ウジェーヌ侯への連絡とその後の調整を頼む。ちと頼りないがアルガスは置いていく。権限は委任しておくので使ってくれ」


 アルガス・デベルは11歳の少し気弱な男の子だ。とはいえ、フランティスの委任があれば枢密会議での一票は投票できる。


「承知した。エリーサ殿下は仕方ない、あそこはバララット伯の領地、伯爵本人は王都に居るが、長男が代理で領地にいる筈だ。トリスタ殿も合流に動くだろうしな」


 バララット伯爵はホバート派の重鎮だ。本件に関しては一応味方と考えていい。バララット伯の長男のセヴラン・バララットにも悪い評判はない。


 方針が決まり、レブロ邸は慌ただしく動き出した。

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