きっとこれなら

やまこし

きっとこれなら

小学校三年生の母の日のことだった。いつも仕事を頑張る母親にどうしても何かをプレゼントしたかった。「なにがほしい?」と聞くと、母は「シャクヤクという花がほしい」と言った。おこづかいは、毎月いくらか、でも本当に少しずつもらっていた。なにに使っていたのかはもう思い出せないが、たぶんお菓子を買うのに使っていた。少しずつ貯めていたおこづかいのぜんぶを握りしめて、僕は近所の花屋に走った。


母の日当日の店頭は混雑していて、まだ背の低かった僕はお店の人を見つけるのに一苦労した。「シャクヤクという花はありますか?」ようやく見つけ出したお兄さんに、勇気を出して聞いてみる。僕の質問を聞いたお兄さんの顔が一瞬パッと明るくなった。


「ありますよ。咲いているものと蕾のものがありますが、どちらにしますか?」

「つぼみって、閉じてるってことですか?」

「そう。閉じてるってことです」


花だったら、咲いている方がいいだろうな、と思いながら売り場に連れて行ってもらった。たしかに、そこにはつぼみのままのシャクヤクと、大きく花開いたものが並んでいた。その花が開いた姿は、さっきのお兄さんの顔のように明るく、晴れやかだった。


「シャクヤクはね、咲くところがいいんですよ。だから、つぼみで買われていく方も多いですよ」

幼い僕に対しても、お兄さんは敬語だったことを今でも覚えている。ぼくは、なんだか大人になった気分でとても嬉しかった。


「お花だったら、咲いている方がいいんじゃないですか?」

「咲いたものは、もう明後日くらいには元気がなくなってしまうかもしれないです。でも、つぼみのものだったら、咲いていくところも見ることができますよ」

「お母さんは、どっちが好きだと思いますか?」

お兄さんは、少しだけ不思議な顔をして、周りの小さなブーケに目を向けたけれど、またすぐ僕に向き直って言った。

「お母さんと一緒に頑張って咲かせてみてはいかがですか?」

「じゃあ、そうします」


お兄さんはとても丁寧な手つきで一つ一つのつぼみを触っていく。

「優しく触ってみて、すこしふかふかしているやつならきっと咲きますからね」

僕はそのお兄さんの手つきをずっと見ていたいと思った。

「これなら大丈夫だと思います。でも、花は僕らと同じで生き物ですから、気分が乗らなかったら咲かないかもしれません。僕も君も、たまに学校に行きたくない日があるみたいにね」


お店はとっても混雑していたというのに、とても丁寧にシャクヤクを包んでくれた。レジが乗っている台にかがんで何かを書いている。

「これに、お手入れの仕方を書いておきました。お母さんと一緒に読んでくださいね」

こうして僕は、全財産を使ってシャクヤクの花を買ったのだ。今だから思うけれど、人生ゲームもびっくりの大博打だった。大人になってからも、こんなに何かに大きく賭けたことはない。


家に帰って花を見せたら、母親は目を丸くして驚いた。

「どうやって見つけてきたの?」

「お店で聞いたんだ、シャクヤクはありますかって」

「なんでつぼみにしたの?」

僕は、二分の一の選択を間違えたのかと思って、口をつぐんでしまった。

「私ね、シャクヤクが咲いていくところが好きなの」

花屋のお兄さんはすごいと思った。


次の日も、また次の日も、お兄さんが書いてくれた紙の通りにお手入れをした。茎を少しだけ切って、水を変えた。花から蜜が出てきたら、濡らしたティッシュペーパーで優しく拭いた。毎日優しくなでて、早く咲くんだよ、と声をかけた。それに応えるように、シャクヤクの蕾は日に日にやわらかくなっていった。


ところがある日の朝、目を覚ますと食卓に置いてある花瓶の中のシャクヤクは茶色くくさってしまっていた。僕は本当に、本当に、この世が終わってもいいくらい悲しかった。早く学校に行かなければいけなかったのに、涙がポロポロ出てきた。その場から一歩も動けなかった。お兄さんの言葉が頭をよぎる。

「気分が乗らなかったら咲かないかもしれません。僕も君も、たまに学校に行きたくない日があるみたいにね」

涙を流す僕に気づいた母は、とても優しい声で「悲しいね」とひとことだけ言って、ココアを淹れてくれた。

「学校、いきたくない」

「いいよ。今日はお母さんとお散歩でも行こうか」

「お母さん、お仕事行かなくていいの?」

「お母さんも仕事行きたくなくなっちゃった」


僕はココアを飲みながら、大きな声で泣いた。今でもこの悲しい気持ちを手にとるように思い出せる。母親はもう一度買いに行こうと誘ってくれたが、腫れ上がった目でお兄さんに会うのが恥ずかしくて行きたくなかった。泣き疲れた僕は、テレビを見ながらソファの上で眠ってしまった。目が覚めたらテーブルの上には昼ごはんが置いてあった。母親は、仕事に行ったようだった。


次の年の春、母親が病気で倒れた。小学校4年生になっていた僕は、母親が死に近いことになんとなく気づいていた。悲しいというか、どうしたらいいかよくわからなかった。僕はふぬけのようになってしまい、学校も行き渋るようになってしまった。先生も同級生も腫れ物に触るような態度になって、ますます学校に行きづらくなる。誰も学校に行けと言わなかったし、誰も学校に来いと言わなかった。言ってほしかったのか、そっとしておいてほしかったのか、今でもわからない。母親は小康状態が長く続いたが、ずっと入院していた。そして今年も母の日がやってきた。僕は、あの花屋に花を買いに行った。


「お兄さん、こんにちは」

「ああ、去年の、シャクヤクの!」

お兄さんは、覚えていてくれた。

「あのシャクヤクは咲きましたか?」

「いいえ、咲きませんでした」

「そうか…ごめんなさい、今年は違うのにしますか?」

「いいえ、シャクヤクをください」

お兄さんは、去年と変わらない手つきで蕾に優しく触れる。その手を見ていたら、自然と言葉が口から溢れてしまった。

「お母さんが入院してしまったんです。だから、元気になってほしくて」

お兄さんの手が一瞬止まった。

「そうか、入院かあ…」

「はい」

「それは寂しいね、大丈夫?」

「はい」

ほとんど嘘だった。大丈夫ではない。そんな僕を見透かすように、お兄さんは話題を変える。

「シャクヤクはね、香りが強いから病院に持っていくのには向かないんだ」

そうなんだ。どうしようかな。

「でも…お母さんに見せたいよね、シャクヤク」

「…はい」

「君はこれからもずっと覚えていてね。鉢植えと、赤い花と、香りが強い花は病院に持っていかないほうがいいからね」


去年と変わらない手つきで、お兄さんは花を包んでくれた。

「お手入れの仕方は覚えている?」

「はい、毎日茎を斜めに切って、お水を換えます」

「たっぷりのお水でね」


入院先にシャクヤクを持っていくと、母親は去年と変わらない顔で驚いた。

「よく覚えていたね」

「茎は斜めに切って、たっぷりのお水を毎日換えるよ」

「そうね。このシャクヤクは咲きそうね」

「うん」

「とってもいい香り。だからあなたが家で大切にお手入れしてね。お母さん病院だとお水換えるの大変だから」

「…うん」

個室に入るお金なんてなかったから、シャクヤクなんて到底飾れそうもない空間だった。


僕は去年とおなじように、ていねいにお手入れをした。茎を少しずつ切って、たっぷりのお水を入れ換えた。優しくなでて、蜜が出てきたら拭き取った。僕の期待と同じように、つぼみも膨らんでいった。そしてある日の朝、食卓の上のシャクヤクは大きな花を咲かせていた。嬉しくて、少しだけ涙が出た。


急いで着替えて病院に向かおうとした時、家の電話が鳴り響く。母親が入院してから家のことを手伝いに来ていた叔母が電話を取る。その顔がみるみるうちに青ざめていく。

「わかりました、すぐ行きます」

母親の容体が急変した。


僕の頭からシャクヤクのことなんてすっかり消えてしまっていた。


母親は帰らぬ人となった。病院に着いた時、母親の息は弱々しかった。叔母は母親の手を握って「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と叫び続けた。僕はその様子を少し遠くからぼんやりと眺めていた。お母さんなしで、これからどうやって生きていけばいいんだろう。


——


あれから6年経って、僕は高校生になった。あの年の母の日以来、花屋になんて行く用事がなかった。仏壇のようなスペースには、母親の遺影と母が好きだったスイーツを絶えず供えていて、花を飾るという考えはなかった。しかし、高校1年の春、叔母がうちを訪ねてきた。

「七回忌だもんね。早いなあ。おねえちゃん、天国でダラダラしてるかなあ」

そうか。今年は七回忌ってやつなのか。

「先週母の日だったからね、カーネーション買ってきたよ。お姉ちゃん、お花好きだったからね」


行ってみよう。あの花屋に。

「母さんは、シャクヤクって花が好きだったんだ。でっかいピンクの花」

「ああ、覚えてるよ。あんた、あの日シャクヤク咲いたの見て喜んでたもんね」

「覚えてる?」

「忘れるわけないよ」

僕だって、忘れるわけがなかった。


久しぶりに行った花屋はほとんど何も変わっていなかった。母の日以外に来たことがなかったから、こんなに空いているところは初めて見たけれど。


「いらっしゃいませ」

少し印象は違うけれど、たしかにあのお兄さんだった。向こうが僕のことをおぼえているわけがない。

「あの、シャクヤクってありますか?」

「ああ、ありますよ。咲きそうなのあるかなあ」

「母が好きで。もうすぐ母の命日なんです」

「もしかして、君」

「覚えていますか?」

「もちろん。母の日にシャクヤク買っていった子だよね?大きくなったね」

「嬉しいです。ありがとうございます」

「お母さん、亡くなったんですか」

「はい。最後に来た時、あのあとすぐに亡くなりました」

「それは…言葉がないな」

「思ってくださるだけで、じゅうぶんです」

「じゃあ、お母さんが喜びそうなシャクヤクを選ぼうね」


お兄さんはあの時と変わらない手つきで花を選んだ。あの時は気づかなかったのだけれど、お兄さんは当時アルバイトで、年は僕と十ほどしか違わなかった。大学を卒業した後、そのまま花屋に就職したそうだ。


「お手入れの仕方は、覚えていますか?」

「いや…でも、調べるんで」

「書いてあげるよ。懐かしいでしょう」

あの頃と変わらない姿勢でメモ帳にお手入れの仕方を書き込んでいく。そしてようやく気づいた。僕は、お兄さんの身長を超えていた。


「あの、もう一本もらえますか?」

「いいですよ、ご自分で選んでみませんか?もうわかるでしょう、咲きそうなやつ」

自信はなかったけれど、選んでみることにした。一つずつ優しく触って、柔らかいものを探してく。一つ、とてもふかふかした蕾が見つかった。これにしよう。

「これ、別で包んでください」

「誰かにあげるの?」

「はい」

当時は全財産とおなじだったシャクヤク1本は、バイト1時間で2本買えるようになっていた。


店を出る時、2本のうち一本をお兄さんに渡す。

「え?俺に?」

「そう、お兄さん、本当にありがとう、また買いにきます」

「そうやって花をもらうのは初めてだな」

お兄さんは、見たことない顔で照れた。

「母の日だったので」

「俺、お母さんじゃ」

「母の日だったので」

「…うん。ありがとう。またきてね」


そのシャクヤクは、また嘘みたいにきれいに咲いた。作り物みたいだった。でも、本物だから、咲いた時に嬉しいと思った。


(了)

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きっとこれなら やまこし @yamako_shi

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