若葉(仮)

水神鈴衣菜

本文

『あの人は、若葉だった。若葉のような人だった。

 快活に笑って、全力で喜んで、全力で楽しんで。私の前にいる時、いつもあの人は笑顔だった。その若々しい、元気な姿を、私にいつも見せてくれていた。


 あの人との出会いは、この無機質な場所だった。もしあの人と別の場所で出会っていたなら、あの人を若葉だとは思わなかっただろう。それほどあの時の私には、あの人のその輝きが眩しく、本当に綺麗に感じられた。

 あの人がどうしてここにいたのかは分からない。ただ、人生に絶望していた私を救ってくれたのは紛れもなくあの人で──あの人は若葉であって、私を引き上げる釣り糸であった。釣り糸。流石に酷い比喩だったかもしれない。絶望の雨に差した傘。うん、こっちの方がずっといい。


 あの人を形容するための言葉を、ずっとずっと探している。残りの命を全て、このために燃やしても良いと思うくらいに、そのことばかりを考えている。若葉。それが今までで一番、あの人の形容にふさわしいと思えた言葉だ。でもそれよりもずっと良い言葉が、まだどこかにあると、そう願ってしまって、探すことをやめられない。

 若葉。生命の息吹。若さ。緑。爽やかで。あの人は、そういう人だった。私の無機質な窓辺を鮮やかに彩ってくれた。空の青さを、思い出させてくれた。鳥の羽の色を、見つけさせてくれた。人の温かさに、触れさせてくれた。私はあの人が大好きだった。


 私がこの無機質な、白い場所に来たのは、いつの話だっただろう。もう最初のことなど覚えていない。──というのも、本当に覚えていないのだ。私の頭は辛いことを覚えていられないようで、ここに来てすぐの辛い、痛い、悲しい記憶は全て私の頭から抜け落ちてしまった。でも、それでいい。その代わりに、あの人の記憶が頭を埋めてくれたのだから。


 人間は、声から他人のことを忘れていくらしい。どこかで先生から聞かされた。実際、私も、あの人の声を思い出すことが段々とできなくなってきている。あの、明るくて、ころんと音符が跳ねるような、ウサギがステップを踏むような……違う。どれも違う。あの声を、あの声は、こんな薄っぺらい言葉では、到底表せない。私に、全ての言葉を操る力があったら。あの、私に冒険の話をしてくれた時の声も、あの、学校で嫌なことがあったと教えてくれた時の声も、あの声も、あの笑顔も、笑い声も、忘れたくない、忘れたくないのに。抜け落ちていく。この記憶は、辛いものではないのに。嫌だ。消えないで。消さないで。

 段々と消えていくあの人の残滓を集めるように、ここに文章として残しているはずなのに。もう、半分も残っていない。あの人のしてくれた話も、こうして書き留めておけばよかったかもしれない。もう全ては過去のことで、私の今には、到底再現できないことばかりだ。


 あの人と会えなくなってから、もう会えないとわかってから、どのくらい時間が経ったのだろう。もう長く経ったような気もするけれど、実のところはまだ数時間しか経っていないのかもしれない。この場所は、時間という概念を忘れてしまっているのだと思う。時間という概念がないから、この記憶が薄れていく速度もあまりに速いのだと、そう思わせて欲しい。



 あの人は、死んだ。もう二度と会えない。だからこそこうして、文字にして、残そうとしているのに。もういくつも記憶は抜け落ちて、このノートの上に落とすことが叶わなくなっている。今残るのは後悔だけだ。後悔だけがノートににじんでいく。私は、あの人を、遺したかっただけなのに。あの人を、忘れたくなかっただけなのに。忘れないで。あの人がそう囁くのだ。ごめんなさい。忘れてしまう。忘れたくないのに。字が震えて、涙があふれて、恐ろしくて、忘れたくなくて、ごめんなさい、もう、』



 そこまでで、手記は途切れていた。後半はずっと、頑張って読もうとしないと理解ができないほど震えて、涙に濡れていた。あの子がこうなるまで、私は気づくことができなかった。『あの人』は死んでいない。ただ退院しただけだ。あまりにも離れることがショックだったのだろう。あの子の頭は『あの人』が死んだという記憶に書き換えてしまった。

 今、あの子は疲れたのか寝ている。勝手に手記を覗くのも良くないとは思ったが、風がいたずらをして、あの子の涙のかけらを運んできたのだ。今はゆっくりと休んで、そうしてこれから、ゆっくりと、心の傷を癒してほしい。私が望むのは、それだけだ。

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若葉(仮) 水神鈴衣菜 @riina

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