つきみれば

あんかけパスタ

つきみれば


「あの舟に乗りたいんだ」


 いつのことだったか。彼は隣に座る僕にそう言って月を指差した。塾帰りの寄り道の最中だったと思う。当時僕らが住んでいたのは田舎だったから街灯も疎らで、河原に二人並んで座ってぼんやり見上げる夜空は沢山の星に彩られてとても綺麗だった。

 僕は彼の指差す先を見て、ああまた始まったなと思った。彼が不思議なことを言い出すのは今に始まったことじゃなかったからだ。


「月は舟ではないと思うけど」

「いいや、あれは舟だよ」


 僕の答えに彼は特に機嫌を損ねることもなく首を横に振って笑った。そんな彼に、そういえば彼の怒った顔を見たことがないなと思い至る。彼はいつだってマイペースでおおらかで、雲のように掴みどころがなかった。

 「そして」のんびりと言いながら彼は軽く地面を叩いて見せて、「これも船さ」そう僕に言った。


「船?」

「そう、太陽の周りをぐるぐると回る巡回船。こんなものよりボクは、あれに乗りたい」


 彼が僕の問い掛けに答えながら再び空を見上げて、つられて僕も空を仰いだ。夜空に浮かんだ真ん丸な月は淡く白く輝きながら僕らを静かに見下ろしている。舟というより風船のようだ、と僕は思った。


「月は巡回船じゃないの?」


 僕が彼の調子に合わせてそう尋ねると、彼は月を見上げたまま頷いた。


「月も回っているけれど、ああ見えて少しずつ、地球から離れて行っているんだ。そしていつか引力を逃れて、どこか遠くに旅に出る」

「帰っては来ないの?」

「きっとね」


 彼がそう答えて、そこで自然と会話が途切れた。僕ら二人しか居ない河原はひどく静かで、虫の鳴き声と遠くを走る車の走行音しか聴こえなかった。

 僕は少し身じろいで座り直し、それから彼の顔を見た。

 彼は僕が見ていることに気付いていないのか、それとも単に無視しているだけなのか。相変わらず月を見詰めたままこちらに視線をやることもしない。その姿に僕は少しだけ不安になる。今目の前にいる彼がなんだかとても遠い人のように思えて仕方がなかった。

 僕は彼の顔から目を離して同じように月を眺めた。そうすることで彼の小難しい頭の中が分かるのではないかと少し期待していた。

 星の海に一つぷかりと浮かんだ白い月は、どれだけ頑張っても僕には舟に見えなかった。

 「きっと、」暫く経って、ポツリと彼が言った。


「きっと引力から離れた勢いのまま、どこまでも、気の遠くなる程長い時間を掛けてボク達じゃ想像のできない程遠くへ行ってしまうんだろうね」


 それがただの独り言なのかそれとも僕に向けられた言葉だったのか分からなかった。

 ただ、そう言った彼の表情を盗み見て、僕は彼にとって月という存在が僕にとってのそれとは比べ物にならない程大きなものなのだと理解した。

 そして同時に怖くなった。

 このまま、今すぐにでも。彼は風船のようにふわりと浮き上がってどこか手の届かない場所に飛んで行ってしまうんじゃないだろうか。そうして慌てて手を伸ばす僕のことなんか気にもしないで、あの白い月の舟に乗って遠い旅に出てしまうんじゃないか。僕の小さな頭の中はそんな不安が膨れ上がっていっぱいになってしまっていた。

 僕は少し躊躇った後、「そうかな」と控え目に返事をした。

 彼は動揺したことが丸わかりの僕の声に苦笑しながら、「そうだよ」と言って月に向かって手を伸ばした。

 そして宙を掴むように伸ばした手を握って口を尖らせる。


「もう少しで届きそうなのに」


 不満げにそう呟いた彼に、どうか届いてくれるなと僕は心の中で呟いた。



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