第5話

「これが偽の情報を書いたものだ。これを清書してバクスター公爵夫人に渡してほしい」


 夫から紙片を渡された。品目と価格が八つほど書かれている。

 

「これは?」

「事業で必要な材料とその適正な値段だ。それが買い占められると痛手になる」

「嘘なんですよね?」

「真っ赤な嘘だ。そんな事業は計画さえないが、計画段階だと言えばいい」

「良かったです」

「バクスター公爵夫人は休憩室かどこかで二人きりで会おうとするだろう。お茶会の時も使用人を遠ざけていたくらいだから、他人をあまり信用していないのだろうし。協力者をたくさん募るタイプではないようだ。だからこそ尻尾を掴みにくい」


 紙片をエルシャがマジマジと見ていると、夫はそう口にした。エルシャは紙片から夫の顔に視線を移すが、なぜか恥ずかしくなり、夫の顔を見ていられなくてすぐにまた紙片を眺めた。


「護衛に関しては公爵家からつけても遠ざけないといけなくなるだろう。二人きりになりそうな休憩室などでは王太子殿下が人員を割いてくれる」

「わかりました」

「バクスター公爵夫人は頻繁に手紙を実家に送っている。結婚当初からだったので怪しんでいなかったが、そこが怪しいだろうな」

「実家ですか」

「あぁ。これで、あなたを危険な目に遭わせるのは最後にする」

「私に危害を加えるつもりならお茶会でとっくに加えているはずです」


 毎週実家にお手紙とは仲が良いのだろうか。それともそこに暗号でも書いていて実家が内通に関与しているとか。王弟は夫人とグルなのだろうか。


「……あなたは今日体調が悪いのか?」

「え?」


 エルシャは紙片を見続けていたが、意外な夫の言葉に顔を上げた。


「いつもよりもぼんやりしているし、いつものように顔を見てハキハキと話をしないから」

「あ、いえ、大丈夫です」


 以前エルシャが高熱を出しても、夫は見舞いどころか一切態度を変えなかったのに。あの時はいくら夫のことを大切に思っていなくてもちょっと傷ついた。ほんのちょっとだけ。

 実家では体調が悪くても弟妹たちが小さい頃は全然休めなかった。心配した弟妹たちがベッドのそばまで来て「お姉ちゃん」「お姉ちゃん」と言うからだ。でも、それは心配されているから案外嬉しかったっけ。


「あ、いや、別に責めているわけではない。ただ、いつものあなたらしくないと思っただけだ。体調が悪いなら……」

「本当に大丈夫です。この情報を先に書き写してきます」


 エルシャは紙片を手に立ち上がった。夫はエルシャの動きを追って不思議そうな顔をしている。


「どうかしましたか?」

「なぜ立ち上がるのかと思って。ここで書き写せばいいだろう」


 ワインをラッパ飲みしてからは夫の執務室に入り浸っていたから、そう言われるのも仕方がない。エルシャはなぜか紙片を持って自分の部屋に戻ろうとしていたからだ。


 ちなみにエルシャと夫の関係を見て、義母は今のところニヤニヤと傍観している。お上品な義母なので、ニタニタ笑いなど見せないがたまに口の端が耳まで届くんじゃないかというほど笑っている時があり、足取りも軽い。王太子の誕生日パーティーのドレスは義母が事前にさっさと用意していた。


「そうですね」


 エルシャは立ち上がったものの、そのままポスンとまた座った。

 夫は「こっちの方が慌てて書き写したように見えるだろうか」なんて言いながら、紙をわざわざ破って差し出してくれる。


 その紙を受け取るエルシャの手はほんの少し震えた。

 体調を気遣うのも、この紙を差し出すような行為も。以前の夫はこんなことをしなかった。思いやりというか歩み寄りをこれまで夫から感じたことはなかったのに今更感じるなんて。エルシャはなんだか首筋がくすぐったく感じた。



 王太子の誕生日パーティーはこれまた参加者が多い。

 この人が雨の中、領地の屋敷まで来た人かとエルシャは夫と一緒に挨拶しながら金髪碧眼の王太子を改めて観察した。絵本に出てくる王子様のようだが、たまに見せる視線は鋭い。夫を脅すだけあって抜け目がなさそうな人だ。他の王子は幼い頃に亡くなったので、国王と王妃の子供は彼一人のみ。だから、王弟はまだ王位継承権を放棄できずに有している。


 夫は王太子とそれほど接点がないと周囲に思わせたいようで、挨拶は短くさっさと終えた。

 そしてエルシャはいつものように一人になる。唯一、いつもと違うのは夫がほんの少しだけエルシャの手に去り際に触れてきたことだろうか。

 私、ワインをラッパ飲みしてからまさか相当心配されている? よほどおかしなことを言ったのかしら。あれから離婚の話は全然出ていないし……。


 バクスター公爵夫人はまだ会場で挨拶に回っている。今休憩室に向かうタイミングではないので、義母の知り合いに挨拶をしてから飲み物をそっと口に含んだ。


「カニンガム公爵夫人」


 呼び方はぎこちなかったが、後ろから懐かしい声がした。

 振り返ると、久しぶりに見る父がいた。契約結婚をしてからほとんど会っていなかったのだ。


「お父様」


 近付いて呼びかけると、父は表情をやわらげた。いくら娘といっても格上の公爵家に援助してもらうために嫁いだのだから、人目があるところでは先ほどのような呼び方になるのだ。


「元気でやっているのか?」

「はい。良くしていただいています」

「……エルシャ。もうすぐ目途がつく」

「え?」

「もうすぐ、公爵家の援助がなくてもなんとかやっていけるようになる」

「さすがはお父様ですね」


 嫁いで二年は過ぎた。夫は契約通りにきちんと援助してくれている。義母も夫が記憶喪失になった時に援助額を上乗せまでしてくれた。


「だから……いつでも帰って来てくれ」

「え?」

「すでにエルシャにはかなりの苦労を背負わせてしまった。それなのにこのような扱いがずっと続くようなら、帰ってきたらいい」


 エルシャは実家にいる時、情報にはとんでもなく疎かった。しかし、父はある程度社交はこなしているのだ。援助で余裕もできたから夜会にだって縁繋ぎのために顔を出しているだろう。母は来ていないようだが。


「子供がいないなら三年で離婚を言い渡される可能性もある。でも、エルシャ。私がふがいないばかりにおかしな結婚をさせてしまったが、目途がついたなら娘にこんな扱いをされて黙り続けている親はいない」


 援助もしてもらっている格上の公爵相手に貧乏伯爵である父は何も言えなかっただろう。そのくらいはエルシャでも分かる。だからエルシャだって実家に何も訴えなかった。それに、エルシャは自分で決めて嫁いだのだ。父に強制されたり、脅されたりしたわけではない。

 いい嫁をやめようと二年で思うくらいには夫の態度に心は折れたが、使用人や義母からいじめられたわけではない。


「お父様。私は嫁いでからやっと分かりました。お父様がどれだけ家族のことを考えてくださっているか。実家にいるままでは絶対に分かりませんでした」


 実家にいた時は、エルシャはどんなに頑張っても娘でしかなかった。だから、父の立場なんて分かったつもりで全然分かっていなかったのだ。なぜいつも険しい顔なのか。どうして「女は口を出すな」と言ったのか。これは夫と過ごさないと分からなかったことだ。あの、不器用な夫と。


「子供に私のような苦労をさせたくなかった。しかし、結果として長女のエルシャには一番の我慢を強いてしまった」


 父は夜会のために服を新調しているようだが、白髪もシワもこの二年強で増えている。しかもエルシャの言葉で目に涙の膜が張っている。

 老いと疲れを感じる父の向こうで、バクスター公爵夫人がそっと会場から出て行くのが見えた。これは行かなければいけない。


「お父様、ありがとうございます。いつでも帰ってきていいと言っていただけて心強いです」

「ルークが今では少し執務も手伝ってくれている。皆、エルシャのことを心配している」


 あの小さかったルークが。エルシャの中ではまだまだ弟は鼻たれ小僧だ。


「お父様、私まだ挨拶しなければいけない方がいるのです。このお話はまた」

「あぁ。うちに戻って来てもそんなドレスは当分着せてやれないだろうが……それでもいつでも帰って来てくれ」


 父の肩にそっと手を置いてから、エルシャはバクスター公爵夫人を追って廊下に出た。

 父は父なりにずっと後悔していたようだった。普通、娘が出戻りなんかしたら邪魔なのに。


 エルシャは自分のドレスに目をやる。伯爵家ではこんなドレスはとてもじゃないが着れないだろう。義母が用意してくれていたのはエルシャの目の色よりも鮮やかなグリーンだった。今日の夫の衣装にもこの色は使われている。義母がやったのだ。


 エルシャはなんとはなしにドレスを撫でながら、廊下を歩いた。

 少し先でバクスター公爵夫人がゆっくり歩いている。少しフラフラしているのでまたお酒を召し上がっているのだろう。


「夫人、大丈夫ですか?」


 エルシャは早足でバクスター公爵夫人の横に行くと、手を差し出した。

 バクスター公爵夫人はチラとエルシャに視線を向けた。


「あぁ、あなただったのね」


 なぜかその後に浮かんだ表情は悲し気だった。しかし、一瞬で消える。


「休憩室まで連れて行ってくださる?」

「えぇ、ご一緒します」


 夫人はエルシャの手を取った。


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