第6話

 湖のほとりで奥様は肩で息をしていた。旦那様は病み上がりで怪我も治ったばかりなのに涼しい顔だ。


「はぁっ、はぁっ。や、やりますね。旦那様」

「まだ十回だ」

「初めてで十回だなんて! 天才!」

「あなたは十五回だ」

「はい、だって長女ですから」

「それはどういう意味なんだ?」


 ついてきた使用人はそろそろかとランチを広げて並べながら、一体何を見せられているんだろうと自問自答した。


 目を瞑っていれば、ベッドでの生々しい会話に聞こえなくもない。奥様、息が上がっているし。目を開けたら奥様の顔は赤いし。

 しかし、現実は厳しい。だってお二人は石に回転をかけて湖の水面に投げ、跳ねた回数を競っているだけだ。小一時間この調子。

 最初は手取り足取り教えていた奥様は、旦那様が上達するたびにだんだんムキになって張り合っていて……おもしろ、いえ可愛いです。


「弟にも負けたことないのに!」

「まだ私は勝っていない」

「成長速度が怖いんですよ! すぐ抜かされそうです!」

「どうやったらあなたのように十五回も跳ねるんだ?」

「ふっ、教えませんよ~。これはですね、もう気合と練習と継続の賜物なんですよ」


 これ、臨時ボーナスにありつけるんだろうか。

 介護から弟扱いは昇格なんだろうか。神よ、いるなら教えてください。

 そして旦那様、そろそろ奥様のお名前を呼んでください。なんで「あなた」呼びなんだ!

 奥様が「あなた」って呼ぶなら分かるのに!


「鳥がやって来たから一旦中断しよう」

「あ、そうですね。当たったら可哀想です。次は負けませんよ」

「私はまだあなたに勝ってもいない」

「圧倒的に勝ちたいんです!」


 そこの気遣いはできるのに、なぜこう……いい雰囲気にならないのか。

 あ、旦那様がエスコートのために手を差し出した! やっと! やっとだよ! やっと、男女逆転が普通に戻ったよ! え、奥様待って。旦那様の手をスルーしないで! わざと? わざとではないですよね、奥様!


 あ、視線を送っていたら奥様が気付いた。

 奥様は笑って旦那様の手にご自身の手を乗せた。

 セーフ。私のクビが飛ぶところだった。


 あ、旦那様がよろけた! やはり体力がまだお戻りになっていないのか!

 え、お、奥様? 奥様!


 何が起こったかって? いや、私も自分の目がまだ信じられない。ちょっと一回こすって瞬きする。

旦那様がよろけたところで奥様は手をほどいて旦那様の前の草むらにダイブしたのだ。

 なんですか、奥様。その捨て身は。


 旦那様はよろけただけで転ばなかった。奥様はダイブした後、旦那様に視線を向けて笑っている。


「あぁ、良かった。旦那様が転んでしまうかと。大丈夫ですか?」

「それは私のセリフじゃないか?」


 奥様、まさか自分から下敷きになろうと? 旦那様がまた怪我しないように?

 確かに、奥様がよろけた旦那様の腕を引っ張ったりすればまた足を捻ったり、腕を痛めたりしたかもしれない。しかし、奥様が下敷きにならなくても……奥様はなんと健気な。いや、これは健気なのか? ちょっとおかしくない? いや、この場合の最適解は分からないんだけれども。


 だめだ、あのご夫婦を見ていると調子が狂う。もう一年分くらいツッコミを入れた気分だ。


 旦那様は膝をついて奥様を助け起こすと、奥様の髪や服についた草を見て笑っている。そう、奥様はダイブしたせいで体中草まみれになってしまっていた。


 え、旦那様が笑って? いつもクールな旦那様が?

 しかも旦那様は笑いながら奥様の髪や服についた草を取ってあげはじめた。えぇ、紳士としては当然でしょうとも。


 奥様は旦那様の笑顔を見てちょっと驚いていたが、自分の恰好を見下ろして一緒に笑って服をパンパン叩いている。

 え、もうこの絵面で良くないですか? 尊いのでこれでボーナスもらえませんか? とりあえず、これはパトリックさんに報告して大奥様にあげてもらおう。


 旦那様は主に奥様の顔や髪に付いた草を取っている。


「たくさんついてしまっている」

「すみません」


 奥様はくすぐったいのか目に入ったのか、目をきゅっと閉じた。


 いやもうそこ、キスしちゃってくださいよ。

 旦那様、早くいっちゃってください。チャンスですよ、チャンス。


 拳を握って期待して待っていたが、旦那様は奥様の顔と髪を散々触ったもののキスはしなかった。もう、いますぐ地面を割りたいほどツッコミを入れたい。そんなに壊れ物でも扱うように頬だの鼻だの触っているならもうキスくらいしちゃってください。

 なぜ、そんなに可愛い奥様を前にしてキスもしないのか……。旦那様はヘタレなのか。

 旦那様には男色のウワサだってあったけれど、女性嫌いと名高いけれど、奥様に対しては全然大丈夫そうなのに! 思わずナプキンを噛みそうになって耐える。


 お二人がこちらにやって来たので、タオルを差し出す以外になかった。

 疲れた。私のツッコミの力はもう残っていない。

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