第4話
「死んでないのよね?」
やっぱり、あんまりな言葉が口から出てしまう。でも、契約妻としてはこの言葉でいい気もする。
塊だった令嬢たちは連れて行かれて、気を失った夫とピンピンしているエルシャは医者の診察を受けた。エルシャはなんともなかったが、夫は足の捻挫と腕の骨折でしかも意識がない。
城に部屋を用意されたが、夫が死んでいないかだけは不安になる。
これまで関わってもこなかった夫がなぜかトチ狂って最後にエルシャを庇って死亡などしたら……え、怖い。呪われるんじゃないだろうか。眠れない。
そんな不安に苛まれながら、夫が意識を取り戻したのは夜会から三日後だった。
一旦公爵邸に戻っていたエルシャは義母と共にすぐに城に向かうことになった。
夫はベッドで半身を起こしていた。義母に気付くと彼はすぐに話しかける。
「あぁ、母上。ユーグから返事はありましたか? 領地の土砂崩れの件です。すぐに土砂の撤去の手配はできたと思うのですが進捗はどうですか」
夫はこんなに長く喋るのかとエルシャは瞠目した。
焦っているようなそんな様子だ。
「何を言っているの? ユーグ? 領地で勤めてくれていたユーグはとっくに引退したわよ? それに土砂崩れは二年前の話でしょう」
「母上こそ何を言っているのですか? ユーグとは一週間前にも手紙のやり取りをしましたよ。ああ、もう。この怪我さえなければ早くあの道を通れるようにするのに。しかし、なぜ私は階段から落ちたのですか。全く覚えていないんです。まさか滑ったのですか?」
私の知らない話なので嫁入り前の出来事だろうか。
夫の側に立っていた医者が首を振る。
「どうやら、頭を打ったせいで記憶が一部抜けてしまっているようでして。ここ二年ほどの記憶がすっぽりと」
ここ二年すっぽり? いや、階段から踊り場まで落ちたし、エルシャを庇ったから頭も打っただろう。
「それは治るのですか?」
「些細な出来事で記憶が蘇る場合もありますが、永続的に失われてしまう場合もあります」
義母はショックを受けたようだったので、イスに座らせる。
水をもらって義母に渡すと、鋭い視線を感じた。顔を上げると、夫がこちらを凝視している。
「母上、彼女は誰ですか? 侍女にしては見たことがありませんし、親戚にもそのような栗毛の令嬢はいなかったと思いますが」
エルシャはどうも存在を忘れられているようだ。
二年ほどすっぽり抜けているなら、エルシャと契約結婚することになったのもそのくらいだったから全部忘れているのかもしれない。
「彼女はリヒターの妻よ。現カニンガム公爵夫人。私の可愛い義理の娘です」
「冗談でしょう、母上。私は結婚など」
「しました。二年前に。エルシャ・バートリ伯爵令嬢と」
「バートリ伯爵家?」
自分の旧姓が会話に出てきたので少しエルシャは驚いた。
最近はずっとエルシャ・カニンガムだったから、旧姓を出されると昔の自分のはずなのに変な気分だ。
「そんな馬鹿な」
「いいえ、ちゃんとしました。ユーグも結婚式に出席してくれましたよ。ユーグは泣いてお酒に酔って泣き上戸になって大変でした」
エルシャは招待客を思い出そうとしたが、如何せん人数が多すぎて思い出せなかった。泣き上戸は十人くらいいたのだ。
「母上はとうとうボケたのですか? 早くありませんか」
「ボケてなどいません。どちらかと言えば今ボケているのはリヒター、あなたです」
夫は信じられないと言いたげな目でエルシャを見てくる。その目には「俺がお前と結婚するはずないだろう」と書かれているようだ。
エルシャも困ったが、医者がいるこの状況で契約結婚でしかも白い結婚継続中ですなどとは言えない。曖昧に笑っておいた。
「些細な出来事で記憶が戻ることはありますので、ひとまず安静になさってください。記憶がないのはこの約二年間のみで、幼少期の記憶などは問題なくおありのようです」
契約結婚の際の契約の控えは両家にあるはずだから、詐欺師だと疑われたらあれを出そう。援助だけはしてもらわないと。
いい嫁を諦めたら、夫が記憶喪失になった。エルシャの存在だけ夫の頭の中から綺麗に消し飛んでしまったようだ。それほどエルシャと夫の思い出なんてないけれど。
これが仲睦まじい夫婦だったら大変だっただろう。夫の中のエルシャの記憶が真っ白になるなんて、これぞ本当の白い結婚だなどとエルシャは本当にどうでもいいことを考えていた。
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