お気に入りの水平線

クロノヒョウ

第1話



「今日はどこに行きたい?」

「海!」

「また海? 好きだね夏樹なつきも」

「うん」

 週末のドライブ。

 運転が好きな亮太りょうたに頼んで、海が見下ろせる丘に連れて行ってもらう。それが最近のデートコースになっていた。

「わあっ、綺麗」

「ああ、気持ちいいな」

 車を降り、二人で両手を上に上げながら体を伸ばす。五月の風は心地好いぬくもりに包まれていた。

 いつものベンチに座り、特に会話もせず、ただ目の前にある水平線を眺める。私はこの時間が大好きだった。

「実家の冷蔵庫ってさ、お母さんがいろいろな紙を貼るじゃない?」

「ん? ああ、あれな」

「その中にね、一つだけ変な紙がずっと貼ってあったの」

「変な紙?」

「うん」

 それに気付いたのは私が高校生の時だった。普段は気にもとめていなかった冷蔵庫のその紙。何かのチラシの裏に描かれた、たった一本の線が引かれた紙。

「私その時、反抗期でさ。ずっとイライラしてたんだよね」

「反抗期じゃなくてもわがままだけどな」

「えー、ちょっと亮太ぁ」

「ハハッ、冗談。それで?」

 何だろうと思ってその紙を見ていると、お母さんが後ろから言った。

 『それはあんたが小さい頃に書いた海よ』

 その瞬間、忘れていた記憶が頭の中に飛び込んできた。白い紙を見つけると、片っぱしから真ん中に一本の線を描いていた記憶が。

「私が生まれてからお母さん、免許が必要かなって思ったんだって」

「まあ、あると便利だよな」

「免許とりたてで、私を連れて初ドライブしたのが海で、それが本当に楽しかったのか、私は紙を見ると何にでも水平線を書いてまわってたって」

「ハハッ、可愛いな。でも確かに、紙に書くと、ただの一本の線だよな、海って」

「それをずっと大事に冷蔵庫に貼ってくれてた」

「夏樹のお母さんも嬉しかったんだろうな」

「うん、それに、お母さんも子どもの頃、同じことしてたんだって」

「へえ」

「だから、余計に嬉しかったって言ってた」

「そっか」

 そしてまた二人で海を眺める。

 この景色を紙に描けと言われたら、私は今も一本の線を引くのだろうか。

「……俺たちの子どもが生まれたらさ、こうやって海を見せて、そしたらその子も、紙に一本の線を引くかもな」

「あはっ、何それ、プロポーズみたい」

「そのつもりだけど?」

 海に太陽の光が反射して、パチパチとまばたきをしているようだった。

 私と亮太の子どもが描いた一本の線。

 その紙を、笑いながら冷蔵庫に貼る自分の姿がすぐに想像できた。

 そしてその子が反抗期になったら教えてあげるの。これはあなたが小さい頃に描いた海だよ。お母さんもお婆ちゃんも同じことしてたんだよ、って。

「きっとその子も、紙に一本の線を引くよ」

「楽しみだな」

「うん」

「冷蔵庫に貼らなきゃだな」

「うん」

 海の輝きが増した。

 涙ごしに見るキラキラした海と水平線。

 紙には描くことはできないけれど、私の頭の中のキャンパスに、今しっかりとこの景色を描き写した。



            完




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