水と脂

たゆらう

序章

古びたアパートの一室。

そこは一年中と言っていいほど真っ暗だった。

空き家ではない。

暗い部屋からはいつも赤子の泣き声と、その泣き声が聞こえないとでも言うようにその子に背中を向けてインスタント袋麺の乾麺を齧り続ける幼子。


「あおちゃんは、いつもいつもないてばっかりでうるさい!ひーだってなきたいけどちゃんとしてるのに!どうしたらあおちゃんはなきやむんだよぉ、、、」

幼子の言葉尻は段々と涙声になる。


簡単なことだったりする。

赤子の頭を撫でて笑いかける。抱っこしてあやしてあげる。

そんな事で泣きっぱなしの赤子はすぐに笑顔になるのだが、幼子には分からない。

自身がされた経験が無いことを他者には出来ない。

だから子供は赤子には笑いかけない。あやさない。

だから赤子は泣き止まない。


「ママにいわれたとおりにオムツだってかえてるし、ミルクだってつくってる。なのになんであおちゃんはなくの?!」


そのオムツはズレて、漏れることもある。

頻繁に変えないのでかぶれて爛れてしまっている。

ミルクもいつも熱くて赤子が吐き出すこともある。

火が付いたように泣いている時は急いで熱湯の場合もあり、赤子の舌と気道は火傷の状態にある。

でもこの幼子は赤子の状態を知らない。

自身の体も痩せ細って骨と皮だけになり、下っ腹だけが飛び出してしまい命が危険な状態である事も分からない。


頭にくるような情けないような泣き出したいような、色んな複雑な気持ちで赤子に近寄り話しかける。

ただ、赤子を泣き止ませ無いと自分が親に怒られる。

それだけの思いで、赤子のそばに行き話しかける。

話す内容は決してあやす言葉では無く

「おなかすいたね。ママいつかえってくるんだろうね?あおちゃんもじぶんのことできるようになるんだよ?」

そんな疑問と不安と不満の言葉。

それでも赤子は子供の顔を泣きながらもじっと見つめ、そしていつしか眠りだす。

子供もその寝顔を見て、子供も眠りにつく。

毎日がただその繰り返し。

それは幸福では無いけれど、2人のいつもの日常。

だからそれ以上の幸福を味わった事の無い2人にとっては不幸でも無かった。


深い深い眠りの中、雷のような衝撃に駆られて目が覚める。

息ができなくて転げ回る。

瞳は涙で溢れかえり、ぼんやりと目の前が見えてくるとそこには母親の姿。

「マー」

ママ、おかえりなさい。そう言おうと思った途端に先ほどの衝撃。

「ぐぇ」

と自身の口からよく分からない言葉が漏れて、お腹が蹴られたんだと言うことに気付く。

さっきも蹴られて息が出来なかったんだと理解する。

涙だけが次から次へと止まらなかったが

「本当にこの子は、、、」

遠巻きに母の声が聞こえて安心して意識は無くなった。


目が覚めると母親は椅子に座りタバコをふかしていた。

「あんたこの子に何したの?全く泣き止まないんだけど。」

母親は赤子を膝に乗せ、イラつきを隠さずに背中を叩いている。

あやすと言う行為には程遠いのだが、子供は小さく

「いいなぁ、、、」

と呟き俯いた。

そんな言葉は決して届かない。

だから——

「人が聞いてんだから、目を逸らすな!答えろ!」

アルミの灰皿が頭目掛けて飛んでくる。

「ひっ!」

条件反射で体は小刻みに震え出し舌はもつれる。

「マ、ママあマに、、、言われたとおおっりに」

「またチック?めんどくさい。いい加減にして、、、」

大きなため息ひとつついた時、赤子は大声で泣き出す。

まるで子供を庇うかのように。


「うるさい!」

赤子をベッドに投げ捨てるように置き、母らしき人物は出口へと歩み始めた。

「マ、、、ママ、いかいかあないで、うぅううう、、、」


また瞳から涙は溢れ出すが、ちゃんと伝えないとこの人は行ってしまう。

「ひは、ひーはずずずっとママをまっってて、、、」


「あんたたち見てるとイライラすんのよ。静かにしてたら帰って来るわよ。」

そういって乱暴にドアは閉まる。

それは最後に見た母の姿だった。


それからどれくらいの日時が経過したのだろうか?

子供はまともに歩くことは出来ない。

ひどい眩暈。

それでも泣く赤子に今日もミルクを差し出す。


赤子もいつからミルクを吐き出してばっかりで、全く飲まなくなったのかも覚えていない。

それでも赤子が泣くたびにミルクを作り、オムツを変える。

今は掠れ声だけで泣いていると言うよりか細い悲鳴の様にも聞こえる。


なのに子供の耳の中には赤子の鳴き声はずっと木霊する。

「ひーは!ひーは!!ずっとずっとママのいうことちゃんとこきいてるのに!!」

「あおがなくからだ!あおがずーっっと泣くからだ!!」

延々と聞こえ続ける幻聴に限界が来たからか、それともこの2人の運命は鼻から決まっていたからか、それが当たり前のように思えてしまって、子供は赤子の首に痩せ細った手を伸ばす。


「ママにあおをちゃんとみれなくてごめんなさいっていわなきゃ。」

柔らかい肉塊を絞めて

「でも、あおちゃんがこれだけうるさかったんだから、、、」

「ひーがちゃんとしてたのわかってくれるよね。」


起こりもしない夢想に思いを馳せる。


それからしばらくして静寂—

2人は幸せでは無く、そして不幸でも無かったと言うお話。

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