文医学部についての雑記

柑橘

結晶

 「文医」という職がある。人ではなく文章を診るから文医である。

 胡乱な本が世を騒がせるというのはいつの時代にもあった話ではあるが、近年は特に粗製乱造された偽書や悪書が広く出回っている。そういうわけで需要に応じて文医という職が出来た。医者と同じく文医の職に就く者には国家資格が要求され、各大学には文医学部が設けられた。

 文医学部の学生の生活は概ね医学部のそれと似ている。学生は1回生のときは自由に一般教養を受けられるが、2回生以降はほぼ毎日専門講義が振り分けられ、したがって時間割の都合上もう他の講義には参加できない。加えて医学部の学部棟は他学部の教室と離れている場合が多く、後添えで作られた文医学部学部棟も当然大学の中心からは離れていて、なんだか学部ごと大学から切り離されたような気持ちになる。

 そういうわけで学生は皆1回生のうちに好きな、あるいは受講したい講義を取りつくすように言われる。私も学部ガイダンスの際の先輩のアドバイスに従って面白そうな講義で時間割をぎっしり埋め尽くした。もちろん初回もしくは2回目でなんとなく合わないなと感じて受講を取り消したものも何コマかあるが、逆にそこまで期待していなかったのにとても面白かったものもある。特に印象に残っているのが文化学の講義だ。ここで単語の区切りは文化/学ではなく文/化学である。従って科目区分は理系。私は文化/学のつもりで履修登録していたので、初回授業で教室に入るとスクリーンに文構造式や文子ぶんしモデルが映し出されていて大層びっくりした記憶がある。

 化学になじみのない私ではあったが、時に実験もまじえながら行われる講義はどれも楽しく、実験の中で一番楽しかったのは文結晶の抽出である。文書や書物を溶媒に加えて溶かしこみ、熱をかけて完全に溶解させてから今度は溶液を冷やす。するとビーカーの底に結晶が析出する。結晶の構造はその文章に固有の文構造と一致し、微細な文構造が光を干渉させて放つ構造色は各々の結晶ごとに異なる。しかし結晶の色は必ずしも文書の種類には依らず、梅の枝を煮出しても必ずしも紅に色付くとは限らないのと同じく、堅苦しい行政文章を結晶にしたらうっとりとするような虹色の光を放ったという例もある。かといって同じ文書から同じ結晶が出来るということもなく、それは文構造が周囲の環境や年月、人との繋がりを経て刻々と変化するからだ。

 その日私が持ってきたのは薄い短編小説だった。もとはアンソロジーに載っている作品が分冊として出版されたもので、更に言うとその短編は同じ著者の短編集にも掲載されているのだが、話の雰囲気が本当に好きでわざわざ購入したのだった。雪の降りしきる中を主人公と友人が黙々と歩くだけの内容で、それだけなのが却ってよく、静かな語りが心地良い。

 本を溶媒に落とすと、まず紙が線維にほどけ、次に紙面の文章がほどけて文字となり、文字もとろけて混ざって均質な液体になる。インクの匂いと森の匂いが混ざったような、不思議な香りがした。

 それから1週間後、講義室に行くと一番前の席に参加者の結晶が並べられている。その中に鮮やかな赤を放っているものがあり、綺麗だなと見惚れて近づいてみると、なんと自分のものだった。雪の小説がここまで真赤になるのかとまじまじと見つめると、形も雪の結晶のような幾何学的なものというよりはむしろ柔らかい丸みが無軌道に重ね合わせられていて、そして結晶全体が一様にむらなく、鮮烈な赤に染まっている。

 先生の言うことにはここまで綺麗になるものは珍しく、研究室に飾らせてくれないかとのことだった。もったいないような気もしたが、狭苦しい下宿に飾られてはこの結晶も気の毒だろうと思い、譲って差し上げることにした。後日研究室を訪ねさせていただいたのだが、様々な美しい鉱物が仕舞われている宝物庫のような棚の中に私の結晶も赤々と鎮座しており、私自身がどうこうという訳ではないのに少し照れくさくなった覚えがある。

 回生が上がり専門科目の講義をキャンパスの辺縁にある文医学部棟で受けるようになるとめっきり本部のキャンパスに行く機会は減り、その先生の研究室にも長らく通えていない。しかしあの空間をくっきりと分かつような結晶の赤い煌めきは今でも容易に思い出すことができ、勉強に追われる私をひそやかに支えてくれているような気がする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る