さよならはココア味

あんかけパスタ

さよならはココア味

 澤田成実は使い慣れた校舎の廊下を歩いていた。

 ヒタヒタと足音を立てないよう歩いては靴下越しに伝わる廊下の冷たさに僅かに身震いする。本当なら今すぐにでも上履きを履きに戻りたいところだが、残念ながらそういうわけにもいかない。人がいない校内に忍び込んだ上、しかも私服。見つかったら確実に生徒指導室まっしぐらな、そんな状況で見つかる危険を冒すほど成実は馬鹿ではなかった。


 慎重に、しかし足早に。成実は人気のない廊下を歩き……暫くして一つのドアの前で足を止めた。他の特別教室からは離れた小さな部屋。『相談室』と掛かれたプレートがドアの上から下がっている。すっかり見慣れたこのドアを開けるのも恐らくこれが最後だろう。

 成実は周囲に誰も居ないことを確認すると、はやる気持ちを抑えるようにドアの前で深呼吸を一回。そしていつものように二度、ノックをした。一拍置いて中から「はい、どうぞ」と聞き慣れた声が聞こえ、すぐにドアが開く。


 ドアの向こうから出てきたのは眼鏡を掛けた痩せ形の男性だった。彼はドアからひょこりと顔を出すと、彼女を見つめ少し驚いたような目を丸くした。まさか来るとは思ってなかったとでも言いたげな彼の顔をまじまじと見上げ、成実は「よ、」と短く言って手袋を付けた手を挙げる。


「センセー、こんちわ」

「やぁ澤田さん。いらっしゃい」


 そう言って彼が半歩身を引き部屋に入るよう促すと、成実はいつものように「お邪魔します」と頭を下げて中に入る。彼はそれを見届けてからドアを閉め、成実に適当に座るよう言いつつ尋ねた。


「珍しく私服だけど今日は授業はないのかな?」

「今日終業式だから」


 そう短く返し成実は近くのソファーに座り帽子と手袋を外して鞄に仕舞い込んだ。彼は「そうだったね」と確認するように頷くと向かいの椅子に腰掛けた。


「それで、どうしてここに?」

「2時に友達と買い物行く約束してて、それまで暇だから遊びに来た」


 彼の問いに成実はそれだけ言うと、冷えた指先を暖めるように手を合わせて息を吐く。

 ……実のところ、半分くらいは嘘だ。友達と買い物に行く約束は本当。私服なのはその為だし、時間に十分余裕があるのも確かだ。ただ、彼女は暇だからここに来たわけではない。ここに来るためにーー彼に会うために態と約束よりずっと早い時間に家を出たのだ。

 この学校の養護教諭であった彼は今日、この学校から出て行く。そして教職を辞め遠くに行ってしまう。そうと成実が知ったのは今日、終業式の折だった。

 まさか待ちに待った冬休みに突入したその日にどん底に突き落とされる気分を味わうことになろうとは。その時の彼女は見たことのないほど悲壮な顔をしていたと友人は後に語る。出来ることなら式の後直ぐにでも押し掛けたかった成実だが、一斉下校で閉め出され彼の顔を見ることも出来なかった。どうにか会えないかと無い知恵を必死で絞り出し、結果人目につかぬよう忍び込むという我ながら頭の悪い作戦を敢行したのだ。

 少し前まで成実の胸中には何故教えてくれなかったのかと責め立てたい気持ちもあったのだが、彼の顔を見た途端それはどうでも良くなってしまっていた。会って改めて彼と居られるのは今だけだと自覚してしまったからだ。

 今しかない。この想いを、彼に好きだと伝える機会はもう今しかない。けれど。

 そんな気持ちが表れてかどこか難しい顔をしている彼女を見てどう思ったのか、彼は苦笑しながら窘めた。


「待ち合わせは良いけど、今度から私服で校舎に入るのは止めような? 他の先生に見つかったら間違いなく怒られるよ」

「多分今回きりだから大丈夫だよ」


 センセーに会えなきゃ来る意味ないし、なんて。そんな気持ちは隠したままで。成実は彼の言葉に応えるとぐるりと部屋を見回した。

 部屋の中はガランとしていた。雑多に置かれていた本や小物の類は全てなくなり、代わりに幾つかの段ボール箱とキャリーバックが床に置かれている。……この部屋はこんなに広かっただろうか。数日前までの相談室を思い出しながら成実は呟くようにポツリと言った。


「……随分片付いたね」

「うん。後は業者に送って貰うだけだ」

「イギリス……だっけ。遠いね」


 「ああ、」と彼が生返事で頷く。成実は机に出されたままの箱庭と人形を見、人形の一つを手に取った。この人形も箱庭も、彼が赴任したときに持ってきた物だ。


「全部は持って行かないんだ」

「まぁね。新しい先生が使ってくれるだろうから」


 彼はいつものように穏やかに笑う。明日にはいなくなってしまうなど嘘のような、いつもと変わらない笑顔だった。成実は「そう、」と呟きそれきり口を閉ざした。「欲しければ幾つか持って帰ってもいいよ」と彼は気さくに言うが、成実は返事が出来なかった。普通なら思い出にでも貰っていくのかもしれないが、彼女の場合、彼を過去にしたくないという気持ちの方が勝っていた。

 行かないで欲しい。そんな我が儘な気持ちばかりが成実の心に溢れてきて、口を開けば零れてしまいそうなそれを必死で押し止める。すっかり黙ってしまった成実に彼は困ったように肩を竦めた。


「…ココアでも淹れようか」


 沈黙に耐えかねたのか、そう言って彼は立ち上がると部屋の端に置かれたカップを手に取った。その背に「ねぇ、」と成実が尋ねる。声は少しだけ震えていた。


「どうしても、行かなきゃいけないの?」

「やらないといけないことがあるからね」


 彼は成実に背を向けたままココアをカップに運ぶ。スプーンがカップを小突いたのかカチンと小さな音を立てた。


「……センセーが前言ってた、『大切な人』のこと?」


 ポツリ、と。呟いた成実の言葉に彼は一瞬手を止めた。二つの目は彼の背をじっと見つめている。その視線を分かっていて、彼は振り向かなかった。


「そうだよ」


 彼はそう短く言って、カップにお湯を注く。成実は「そっか」と溜め息混じりに一言呟きそっと目を伏せた。

 彼の『大切な人』のことを、成実は少しだけ彼自身から聞いていた。

 彼の先生に当たる人の娘なのだという女性はいわゆる『普通の人』ではない。その女性は父親を介さなければ誰かと話すことも、何かに触れることすらも出来ない状態なのだという。独りで何かをすることは出来ず、父親以外に接触することも出来ない。それがどんな病気なのか成実には分からない。ただ、大変な病気なのは十分理解できた。

 そしてそんな女性を彼は愛していると言った。

 一緒に手を繋いで、出掛けて、笑い合って、話がしたいのだと。……普通なら当たり前の、人並みな恋愛をさせてあげたいのだと。そう語った彼の目に嘘は感じられなかった。

 成実は悩んでいる。

 果たして自分のこの想いは彼のそれに敵うものなのだろうかと。

 彼を引き留めようとするに足るものなのだろうかと。

 ……この気持ちを打ち明けるべきなのだろうかと。

 今を逃せばきっとチャンスはない。ずっと片思いのまま、伝える機会など二度と巡って来ないだろう。分かっている。だからここに来たのだ。

 しかし、それでも。


「お待たせ、はい」


 不意に聞こえた彼の声が堂々巡りになりかけていた思考を遮る。成実が少し驚いて顔を上げれば直ぐ傍にカップを二つ持ったまま彼が立っていた。彼は成実にカップを手渡すと対面の椅子に腰掛ける。


「甘党な澤田さんのためにとびきり甘くしといた。僕特性の澤田さん専用ブレンドってところかな」


 そう言って彼はどうだと言わんばかりにウインクしてみせる。そんな姿がおかしくて成実は思わず噴き出した。

 ……ああ、いつも通りの彼だ。今までの悩みが馬鹿馬鹿しくなるくらい変わらない、成実が好きな彼だ。きっとこれからもこの人は変わらないのだろう。そう思うとなぜか妙に清々しい気分になった。

 急に噴き出した彼女を不思議そうに彼が見る。その顔すら愛おしくて、成実はとびきりの笑顔で彼に笑い掛けた。

 『ずっと好きでした』。

 そんな想いを言葉に込めて。


「ありがと、センセー」


 彼の淹れたココアの味は、とても甘かった。



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