青蛙

初手太郎

青蛙

 解らぬ事が有ったのなら、隣の南方さんの息子さんにお聞きなさい。幼き日に、そう母に云われたのが、今思えば始まりであった。私がまだ三つばかりの頃此方に越して来た南方という家族は、何とも変わり者であると、噂になっているようだった。だが別に、爪弾きにされていた訳では決して無かった。何とも博識な家族らしく、近隣に住まう婆様らが、南方家に色々と助言を貰っている様も窺えた。そして勿論、我が家が南方家の真隣であった故に、南方の息子と出逢うまでに、そう時間は掛からなかった。


 ——死の先に得られるもの。何であるか。

 私はその日、この事をずっと考えていた。否、思えば一週間はこの事で頭を染められている。南方が此れを問うてきたのは一週間も前のことであった。南方の祖母が逝き、墓の前でこれを問うた。その顔には涙は泣けれども、誠志郎という名をつけてくれたらしい祖母への悲しみは昏い顔から伺えた。

「おや、木戸君じゃないか」

 夢にでも浸かっていた様な感覚は、甘い様で鋭い声に遮られた。ふと声がしてみたので、其方を見る。下駄箱から靴を取ろうとする南方が立っていたのだ。半袖のシャツから覗く細く白い腕の先には、少し薄汚れた革靴が掴まれていた。一つ歳が上である彼は、私の下駄箱と正反対の位置に上靴を放り込んだ。

「南方さん」

 私と南方は毎日会う訳ではない。だからこそ、この男から聞く話は私にとって何時にだって新鮮なものであり、私の好奇心を揺さぶるものでもあった。今度は一週間振りである。

「どうだね、久しくぶりに、帰ろうか」

 南方は私の顔を窺った。その眼は何もかもを見透かしている気がしてならなく、何色とも云えぬビー玉の様なものであった。長く見ていると私が私ではなくなりそうで恐ろしくなり、眼を逸らし「ええ」と云った。

「ではゆこうか」

 南方は涼しげな笑顔を見せ、云った。



  *



 「たまには寄り道でもどうかな、」

 硬そうな靴底で軽快に地面を小突きながら、南方は云った。夏に差し掛かるというこの季節に汗一つかかず歩く南方は、羨ましいと同時に何処か恐ろしく、やはりこういう処が南方を奇っ怪に見せる所以でもあるのだなと思う。

「何処にです」

 虫籠を抱え横を抜けてゆくちびを眼で追いながら、私は云った。

「芒池だよ。この時期に成ると、蓮が綺麗に咲く」

 そんな私の眼の前に、南方は平手を寄越しひらひらと揺らせて見せた。ちびを追っていた私の視線はその手を伝い南方の顔へと戻る。

「まあ、良いですよ」

 断る理由なども特にはなく、南方の話を聞きたいという好奇心が、私にそう云わせる。

南方は静かに頷くと、根元に雑草の生える大きく縦に伸びた電柱を横に曲がり、少し細い路地へと入っていった。

「南方さん」

 私は、一週間前より私の頭を染め上げる問いを、此処で解こうと思った。すっかり陰になった道は、葉の匂いを空気に含み、鼻に通す。ギーオギーオと鳴く姫春蟬の音は、どうやら私達の会話を邪魔できぬ様である。

南方は私より一歩ほど前を歩いていた訳だが、振り返り私の方を見た。一歩の距離を崩し、私の横に並び、進む。ただ聞こうとするのみ、それだけに、体が強張り、次第に周囲から孤立してゆくのだった。

「何かな」

「この前、貴方が仰っていた事なのですが、」

「僕が?」

「はい、死の先で得られるものは何だろうかと」

「そんな事、云ったかな」

「ええ、貴方の御婆様が亡くなられた時に」

 南方は眉を顰めると「確かに、云ったかもしれない」と云った。

「それがどうしたのかね」

「一週間考えていましたので、」

「僕の答えを聞きたいと?」

「ええ」

「成程」

 先程までとは打って変わって、鼓動のみが妙に大きく感じるのだった。暑さとはまた異なった汗が、私の頬を滑る。

「では、先ずは、」

 南方はゆっくりと口を開く。

「君はどう考えたのかね」

 蛙が蛇に睨まれ竦む様に、南方の只の視線に取り憑かれた私は蛙同様であった。

「私は…、人としての完成、ではないかと思いました」

「へえ、何故」

「…人は青年へと成る時、大人としての良識を学び完成するものだと思っておりましたが、人はその一生をかけ、良識だけでなく、全ての感情を用いて感じ、学び、死する時に、人として完成する…と、思ったからです」

 南方は「ふーむ」と云いながら前方を向き直した。僅か数秒の間は姫春蟬が鳴き、世界から音が戻り、匂いが戻り、色すらも戻った。

「君がそう思うのなら、それもまた正解だ」

 喉の奥が渇いていることを押し殺し、私は「そうですか」とだけ云った。

「勿論正解は一つでは無い。幾万人いれば幾万人分の答えがある。明確な答えは無いからね」

 私は南方の横顔を見た。その眼はやはりビー玉の様で、何故か美しくも感じた。本当に一つ歳が上なだけかとも、思うのだった。

二つの足音が揃って進んでいる。

「後悔だよ。僕が思う答えは」

 南方の首筋は、細く伸びている。

「過ぎなければ、後悔というのは出来ないのだよ。そうして人は、後悔して人は、明日を見るのだ。そして死とは、人生の最期であり、人生そのものを後悔出来る場なのだ。後悔し、その中で、初めて人生が美しかったと感じられる」

 南方はちらりと私を見、ふふと笑うのだった。

「後悔から美を見出すこと、出来るのですか」

 首を傾げる。

「どうだろうなあ。僕はまだ、あまり後悔した事が無いから」

 狭い道の先に、開けた通りが見える。作られていた陰は消え、再び陽に当てられるのだった。

「それにしても、君がずっと考えているとはね」

「貴方の毒気が移ったのです」

 私がそう云うと、南方は私の眼を見た。

「そうか、そうか、毒気か」

 そして虚空を見上げると、そう云うのだった。


 そのまま通りを行き、再び路地を抜けると、木々に囲まれた池が見えてきた。確かに美しい蓮が咲いている。池の周りをひたひたと歩く。木々の隙間からちらちらと照らす日が、鬱陶しくも感じた。

「あ、青蛙」

 脚を止め南方が差したのは、手の平程の蛙であった。蛙などそこらにでも居るだろうが、この池の周りを普段通らぬ私からすればそれは中々珍しいもので、手を伸ばしそれを掬い上げようとした。

 指と指との間のその根を蛙の蹼が当たり、こそばゆくも思う。中々体ごと乗ろうとしないので、尻を突いてやると、ひょいと手の平の中に収まった。南方はそんな私を見ると「蓮が青蛙に取られたねえ」と云うのだった。

 真緑の体色の、其れに付いている奇妙なまでの黄色の眼を見た時、私は疑問に思った。

「ならば、貴方は此の青蛙でさえも、死して得るものが有ると考えますか」

 蛙を愛でる私を眺めていた南方は、一瞬真顔になった。

「どうしたのです」

 南方は白い歯を覗かせ笑うと云う。

「いや、いや、すまない。僕もね、勝手な男であるからね、ああ、分からないよ」

 大袈裟に見せるためだか、敢えて手の平で目を覆う素振りに、少なからず苛立ちを覚えると、

「その程度なのですか」

 と発していた。言ってからこそ、後悔をするものの、南方は気にも止めぬ様子、で或って欲しいが、

「そうだね、そうだ。僕もきっと、半端者なのだ。傲慢で、特別だと思っていたんだ」

 と、引き攣った笑いを見せ、云うのだった。

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青蛙 初手太郎 @Hajimekara

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