ガラスの向こう

@tsukiyo_mugen

第1話

 ガラスの向こう、ショーウィンドウに飾られた人形のように彼女はそこにいた。


 部屋の出口はある。表面は木製に見えるが、裏面は複合素材で作られた完全に部屋を密閉するための扉だ。


 鍵はかかっておらず、出るのも入るのも自由だ。


 それでも彼女がその部屋から出ることはない。


 この部屋の中だけが彼女の世界であり、生きることが可能な場所だ。


 部屋には窓もあり外の景色がみえる、外気を入れない為に、開けることのできない窓。東側の窓からは海が、西側の窓からは森と山を見ることが出来る。


 二重構造のガラスのために外の音は何一つ聞こえることがない。室内に響き渡るのは空気を循環させるために動いている空調の低い振動の音だけ、そして、それは彼女の命を繋ぐ音でもある。


 彼女は生まれつき免疫力が極端に低かった。それは病気にかかりやすく、さらには重症化しやすいという事だ。風邪を引いただけでも死に至るかもしれない、転んで怪我をするだけでも破傷風で死に至るかもしれない。


 普通の環境では一週間も生きることができないだろう。


 その彼女が生きることができるように造られたのがこの無菌室だ。


 外気を遮断して空調で常に空気を浄化し、部屋に持ち込む物は常に殺菌されている。


 この部屋から出ることもなく、当然誰かが尋ねてくることもない。


 顔をあわせるのは自分の世話をする家政婦と定期健診に来る医者だけ、何の変化もなく常に同じ時が流れる場所。


 これを生きているといえるのだろうかと彼女は思う。


 何もせずただ時が過ぎ去るのを待つだけも毎日、ただ義務のように食事をしある程度の筋力を保つために室内で運動をする。


 自分はこの場所以外に行くことがないのだから、動けようと動けまいと関係がないと思いながら、それでも他にすることもなく医者の指示通りに運動をする。


 鍵がかかっていないのだから、いっそ外に出てしまおうかとも考える。外に出れば必ず何らかの病気になるだろう、それでもこの場所で無為に時間を過ごすよりも生きていると言えるだろう。


 だけど考えるだけで実行はしない。どんな状況であろうと、たとえ生きていると感じられたとしても死ぬのは怖かった。


 そうして、いつの間にか彼女が生まれて二十年が過ぎていた。


「いつか、必ず外に出してあげます」


 二十歳の誕生日、医者が連れてきた初めての来客はそう言った。彼は医者の甥で彼女と歳が同じなので話し相手になるだろうと医者が連れてきたのだ。


「そんなことは無理よ。だって、出たら死んでしまうもの」


 外に出たいとは思う、でも死ぬのは嫌だ。


 彼はそれを聞くと、眉を寄せる。


「だから、『いつか』って言ったんです。免疫力を戻す方法を探します」


 医者でもない彼は、医者が一度も言ったことがないことを言った。いつになるか、どうやればいいか見当もつきませんけどと彼は苦笑している。


 頭にきた、生まれてから今まで他人と接するという事がなかったから『感情』を表に出すことはなかった、だけどこの日、私は初めて人に怒りをぶつけた。


 頭の中がグチャグチャで、目の前が真っ赤になって何を言っているのか自分でもわからなかったし、後で思い出すこともできなかった。


 本当は彼を叩いてやりたかった、でも、ガラスの向こうにいる彼を叩くことはできない。だから代わりというように彼の映るガラスを叩いて叫んだ。


「そうですよね、無責任ですね。でも……ずっと、そこにいるのはつまらないでしょう?」


 彼の言葉に彼女はガラスを叩くの一瞬止める。


 だが、一瞬だけだ、すぐに一度だけ強く叩いてもう話したくないと言うように背を向ける。


 それを見て、彼は困ったような顔をすると別れの挨拶を告げて出て行く。




 その日から彼は毎週日曜日に彼女のところに行くようになった。


 ガラスを挟んで彼女と向き合い、その週に何があったのかを話し、外の色々なことを彼女に告げて帰っていく。


 彼女は彼が嫌いだったので、無視して部屋の隅で本を読む。それでも彼は飽きることなく、諦めることもなく次の週も、また次の週も彼女の元を訪れる。


 半年が過ぎ、季節は冬になった。


 週の半ばから降り始めた雪はやむことはなく、外には窓を覆いつくさんばかりに雪が積もっている。

 彼女はそれを見て、今日はこないだろうと思う。


 そう思うと自然と溜息が洩れた、それに首を傾げる。


 自分は今、彼が来ないことに落胆したのだろうか?


 考えてさらに首を傾げる。そういえば前は日付を数えることをしていなかった気がする、日付を数え始めたのは彼の影響だろう。


 彼が来るのを迷惑に思いながらも、彼の話を毎日待ち遠しく感じていた気がする。スピーカー越しの声は本を読みながらでも、嫌でも耳に入ってきていた。


 本当に聞きたくないのなら、何故スピーカーの電源を切らなかったのだろう。


 彼の話は道端に咲いていた花が綺麗だとか、犬に追いかけられたとか、そういった他愛もない話だった。


「ああ、そうなんだ」


 納得して声を漏らす。


 私は彼の話す外のこと、自分の知らない世界の話を聞きたかったのだ。


 だから彼は自分が本を読んでいても聞いているのを知っていたから、いつも笑顔で帰って行っていたんだと気付いた。


「すいません。遅くなりました」


 窓の外を見ていた彼女は、スピーカーから流れた声に視線をガラスのほうに向ける。


 そこには寒さで鼻と耳を真っ赤にした彼が立っていた。


「なんで……」


 彼女は呟きを漏らす。


 彼は室内のマイクが拾った、聞き取れるかどうかの小さな呟きを聞き取るとかじかんで赤くなった手で頬を掻くと何ででしょうねと考えるような顔をする。


 そのまま数秒考え、


「あなたの顔が見たかったから、ではいけませんか?」


 照れたような顔で答える。


 彼女はその言葉を聞くと、部屋に一つだけある椅子を動かして彼の前に座る。


「本はいいんですか? 読みながらでもいいんですよ」


 いつもとは違う彼女の行動に彼が聞く。


 彼女は首を振り、聞くだけではなく話がしたいのだと正直に言った。


 それを聞いて彼は子供のように無邪気に笑った。


 多くのことを話し、多くの事を聞いた。ずっとこの部屋にいて必要以上のことを話したことのない彼女は、上手く言葉にできず考え込んだりした。それでも彼は彼女が言葉を探すのを根気よく待ってくれた。


 彼の事、自分の事、どんなことが好きで普段何をしているのか、時間の許す限り飽きることなく話し続けた。


 そしてその日から、彼女は彼と向き合って話すようになった。


 彼もそのことが嬉しかったのか、その日から彼女に見せるために花を持ってきたりするようになった。


 彼女のいる室内に入れることは出来ないが、ガラスの前に花瓶を置いてもらっていつでも見れるようにしてもらった。




 向き合って話すようになって一年と少しが過ぎ、彼と出会ってから二度目の春がきたある日、それまでずっと来ていた彼が来なかった。


 彼女は朝早く起きて、彼がいつ来てもいいように準備をして待っていた。


 新しく運び込んでもらった全身が写る姿見の前で、おかしい所がないか何度もチェックした。


 何か用事で遅くなっているのかもしれないと思いながら、彼が早く来ないかとそわそわしながら待った。


 だが夕日が沈んでも彼は来なかった。


 水平線に顔を見せた三日月を見ながら彼女は彼に何があったのだろうかと考える。


 最初に浮かんだのは用事があって来れなかったのだろうという考えだった。


 でも考えはそこで止まらない、病だろうか、事故だろうかと、どんどんと悪い想像をしてしまう。


 最後に一番不安な、そして何よりも醜い自分本位な考えに思い至ってしまう。


『彼が自分と話すのに飽きてしまったのではないか』


 と、そう考えた。そしてどうしようもなく自分を嫌悪した。


 一日が過ぎ、二日が過ぎ、次の日曜を待つ。


 その間も不安は膨れ上がっていく。


 彼が病に臥せっているかもしれないのに、そのことよりも飽きられたのではないかという不安が大きくなっていくのが辛かった。


 長かった一週間が過ぎて、待ち望んでいた日曜になった。


 準備をして彼を待つ。


 彼女は翳りのある顔で、いつも彼が入ってくる扉を見て待ち続けた。


 だが、この日も彼は来なかった。


 次の週も、その次の週も彼女は彼を待っていたが彼は来なかった。


 すぐにでも部屋から飛び出して彼に会いに行きたかった。それでも彼女はこの部屋から出ることはできない。


 月に一度の定期健診の日、彼女は彼の伯父である医者に聞いてみることにした。


「あいつ言ってなかったのか、すいませんお嬢様。あいつは当分来れないと思います、その、徴兵されてしまったんで」


 医者は彼女が知らなかったことを知ると、言いにくそうにしながらも彼が来なくなった理由を告げる。


 彼女は予想もしなかった答えに表情を強張らせる。


 いつも室内にいた彼女は戦争が起こったことも知らずにいて、彼も不安にさせまいと思ったのかそんなことは一言も言わなかった。


 医者が診察をしながら話してくれた内容から、戦争がいつ終わるか分からないという事と自分達の陣営が劣勢だということがわかり、彼女は強張っていた顔を青くする。


 彼女は祈った。跪き胸の前で手を合わせ、一心に祈り続ける。


 彼が無事に戻ってくるのなら、自分の病気は治らなくてもいい。


 神なのか悪魔なのか、それとも別の何かに対してなのか、何に祈っているのかは彼女自身もわかっていない。


 それでも、ただ祈り続ける。




 季節は巡る。


 春夏秋冬一年が過ぎ、また春がきた。


 戦争はいまだ終わらず、彼はまだ戻ってこない。


 医者の話では彼が戦死したという連絡もないので、無事だと信じて彼女は祈り続ける。




 さらに一年が過ぎ春の終わり彼に初めて会った初夏の日、彼女の誕生日。


 開戦から二年が過ぎて、彼女の国が組する陣営が降伏して終戦を迎えた。


 終戦から三ヶ月、それでも彼はまだ帰ってこない。


 出会ってから五年が過ぎた、すでに終戦から一年が過ぎている。


 彼の伯父の医者は彼女に告げる。


 もう帰ってこないだろうと。


 すでに戦争は終わっていて、それなのに何の消息もつかめない。


 それはすでに死んでいるのと同じだと、彼が帰ってくることを信じて祈り続ける彼女に告げる。


 彼女はそれを聞いても祈ることをやめなかった。


 季節が巡り、冬。


 いつかのような深い雪の日、いつものように祈っている彼女に声がかかる。


「すいません、遅くなりました」


 振り向いた彼女に彼はいつかのように謝る。


「え……?」


 信じられないものを見たような顔をして彼女は彼の姿を凝視して固まる。


 三年前、最後に見た姿と変わっているが彼の笑顔の雰囲気は同じものだった。


「幽霊じゃないですよ?」


 彼は驚いている彼女を見ると、そう言って彼女から見えるように脚をあげて見せる。


 よかった、と思った途端、張り詰めていたものが切れた。


 崩れ落ちるようにその場に膝をつくと彼女は両手で顔を覆う。指の隙間からは透明な雫が流れ出す。


「泣くのは、ちょっと早いですよ。遅くなったお詫びに……いえ、出会った時の約束を果たすために帰ってきたんですから」


 彼はそう言うと鞄から液体の入ったビンを取り出してみせる。


 インターホンで家政婦を呼び出すと、彼はビンと一枚の紙、薬の使用方法を記したものを渡す。


 家政婦から薬を受け取って、涙で滲む目で紙を読む彼女を見て彼は言う。


「春には治るはずですから、伯父の許可が出たら一緒に外に出ましょう。沢山の花が咲いてるはずですから、きっと綺麗ですよ?」


 彼の言葉にまた涙を溢れさせながら何度も、何度も頷く。




 初夏、彼女の誕生日。


 出会ってからちょうど六年目のこの日、彼女は生まれて初めて部屋から出た。


 医者の許可がなかなか出なかったせいで、春は過ぎてしまっていた。


 色とりどりの花はない、だがそれでも、直に触れる広い世界はまぶしく、美しかった。


 彼女を連れ出した彼は、彼女の初めて見せる何の気負いも遠慮もない笑顔を見て満足そうに目を細める。



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