陸軍野戦病院の奇跡
@me262
第1話
その青年兵士が後方の野戦病院に運ばれてきたのは戦争も末期の初秋の頃だった。数々の戦功でエー・カー勲章を受けたが、敵のマスタードガスで目をやられ、その治療のためだった。
単身で複数の敵を捕虜にしたこともあるというので、どれほど屈強で勇猛な男かと担当の軍医は興味を持って迎えたが、実際に見た青年の印象は中背でどちらかといえば細身の、繊細そうな表情をした優男だった。ヘラクレスのような勇者を想像していた軍医は期待はずれを顔には出さず、患者の全身の洗浄と目の食塩水での洗浄を部下の看護兵に命じた。
視界を失っている青年の不安を紛らわせるため、軍医はなるべく戦いとは無縁の世間話をした。すると青年は絵画と音楽を嗜む芸術家志望だったことがわかった。偶然にも同じ音楽家のファンだったことで、軍医と青年の仲は親しくなっていった。
「彼のことを悪く言う人もいるけど、あの情熱的で美しい旋律が僕は好きなんです。もしも僕が偉くなったら絶対彼のために大きな演奏会を開くんだけどなあ!」
ベッドに横たわり、両目を包帯で覆われながら熱い口調で音楽や絵画への夢を語り続ける患者に微笑みながら、予想より病状の重いこの青年はこのまま失明してしまうかもしれないと軍医は憐れに思った。
そして青年が入院してからわずか数週間後、大事件が起こった。戦争に負けたのだ。病院の医師や職員たちは一様に衝撃を受けたが、若い患者の兵士たちはさらに激しく動揺していた。あちこちの病室から悲鳴のような泣き声が聞こえ、中には食事用のナイフやフォークで自決を図る者たちもいた。それを取り押さえるために看護兵たちがケンカに近い取っ組み合いをしており、病院内は大混乱に陥っていた。
嫌な予感を覚えた軍医は例の青年の病室へと急いだ。扉を開けると案の定、彼はナイフを自分の喉に突き立てようとしていた。
軍医は慌てて駆け寄り揉み合いの末、やっとの思いで刃物を取り上げた。青年はヒステリックに泣き叫んだ。
「死なせてください!国が滅びてしまったんです!塹壕の中で泥水にまみれて死んでいった戦友たちの下に行かせてください!」
「駄目だ!医者として患者を自殺させるわけにはいかん」
「くそっ!あの敗北主義者たちのせいだ!前線で僕たちは決して負けていなかった!戦いもしないあいつらが後方で足を引っ張ったせいだ!何もかももうお終いだ!この目だって治らないんだ!」
「君の目は必ず治る!仲間たちは死んだが、君はまだ生きている。エー・カー勲章を持つ君が生きようとすれば、他の患者たちも生きようとするだろう。生きてさえいれば美しい絵や音楽をもう一度楽しむことができる。これは素晴らしいことだ。死んでいった君の仲間たちがもう出来ないことを代わりにきみがやってやれ。そして彼らのために国を立て直せ。偉大な祖国を救うんだ」
「祖国を救う……ぼくが?」
青年は考えもしなかったことを言われたらしく、虚を突かれて立ち尽くす。
「そうだ。それが真の愛国者だ」
憑き物が落ちたかのように青年は全身の力を抜き、ベッドに倒れこんだ。軍医は安堵の溜息を吐きながら彼の肩に自分の手を置いた。
「薬をあげるからもう眠りなさい。君の好きな音楽のレコードをかけてあげるから」
「……わかりました」
軍医は部下たちに、病室へ自分専用のレコードとプレーヤーを運ばせた。やがて微かな音量で二人の好きな音楽家の作った曲が流れ始めた。
「お休みなさい。いい夢を」
軍医の言葉にうなずくと、青年は安らかな寝息を立て始めた。秋の夜長、絶望に静まりかえる野戦病院に美しい旋律だけが流れていた。
次の朝、部下たちの呼ぶ大きな声に起こされた軍医は何事かと自室を出た。
「軍医殿!あの患者が!」
「彼がどうした?まさか……」
「とにかく病室へ!」
部下に促されて青年の病室に向かうと、朝日を浴びてまっすぐに立ち、深呼吸をしている青年がいた。その両目からは包帯が外され、正確に軍医へ向けられている。どうやら見えているようだ。
「先生、見えますよ。完全に治りました」
「そんな、たった一日で。まるで奇跡のようだ……」
その場に居た者たちは喜びと驚きに湧き上がった。それは敗戦の暗い雰囲気を一気に吹き飛ばすのに充分な慶事だった。
青年は感動のあまり涙を流す軍医に近寄り、固い握手を交わす。
「先生のお言葉のおかげです。あの時死なないでよかった。私はこれからも生きて、偉大な祖国を救うために尽力します。二度と負けない国を創り上げます」
昨日までの繊細さが消え、自信に満ちた口調でそう言った青年に、軍医は満面の笑顔で応えた。
「そうか!いいぞ、その意気だ。ドイツを救え!ゲルマン魂をみせてやれ、アドルフ!アドルフ・ヒトラー!」
第一次世界大戦に従軍したアドルフ・ヒトラーは連合軍のマスタードガスにより一時的に視力を失ったが、収容された陸軍野戦病院で回復した。この時彼が失明していれば歴史は大きく変わったかもしれない。
陸軍野戦病院の奇跡 @me262
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