いつか思い出になる苦味
卯月
いつか思い出になる苦味
「ファーストキスは檸檬の味なんだそうだ」
私にファーストキスの味を教えたひとは涼やかな瞳でそう言った。あとになって調べたら「初恋」とは叶わない……苦い記憶と甘酸っぱい憧憬だから、という通説から来ている言葉らしい。それに対して私が発した言葉といえば「あっそ」という至極小さな呟きだったのだけど。
俗にゴールデンウィークと名付けられた大型連休も終わりが見えてきた。年々、温暖化の影響なのか知らないが気温は上がるばかり。まだ五月だというのにソファに寝転ぶ私は半袖ショートパンツという真夏ともいうべき服装だった。スマホの画面をスクロールして、クラスメイト達がアップしている旅行の景色や美味しそうな料理、彼氏とのツーショット、ソシャゲのガチャ画面に目を通していく。別に興味があるわけではない。ただやることがないから、休み明けの話題作りをしているのだ。自分に話すことがないなら他人に話しを振る……それは私のような人間には欠かせないスキルだ。
「暇そうだね」
「暇だよ」
ソファいっぱいに伸ばしていた私の足を畳み、空いた場所に腰を下ろす。手に持ったマグカップからは湯気が立っていた。多分ブラックコーヒー。この女はそれしか飲まないから。アスファルトが溶けそうな夏も、空気の凍る冬も、それだけしか飲み物と認めていない。
それを確認しただけで周囲の気温が上がった気がする。流石に今はエアコンをつけていないのだ。勘弁してほしい。
「暇だと言いながらも情報の塊を手放さないね。それを見ていて暇とは……贅沢なことをいう」
「暇だから情報の海で浮かぶ以外やることないのよ。他にやることがある人からすれば、それは贅沢な時間の使い方に見えるでしょうね」
「おや、徹夜の私に対する嫌味かい?」
そういって女は猫のように目を細めた。黒い瞳の中に映り込んだ自分を見つめながら微笑む。
「あんたがそう思うならそうなんじゃない?」
「では、そういうことにしておこうか」
そう言って女は喉奥で笑った。
隈の刻まれた目元はお世辞にも健康的ではない。瞳と同じくらい黒い液体を流し込まれる胃腸も、ブリーチのし過ぎで傷んだ髪も、きっとこの女は見えるところも見えないところもボロボロなんだろう。毎晩九時間眠り、朝には白湯を飲み、生来親に与えられた黒髪をたもっている私とは大違いだ。
そんな私の思考を読んだように女は私の髪に触れた。パーマを当てなくても真っすぐで羨ましいと言われるそれは、女のささくれた指先に巻かれてもすぐ形を戻してしまう。それが面白くて仕方ないとばかりに女は繰り返し髪を指で弄んだ。お返しでもするように私は女の頭に手を伸ばしてみる。少し前まで鮮やかな青だったのに、今は緑色だ。触るとゴワゴワとしていてまるで犬の毛みたい。
「あ、切れた」
「だろうね。ブラッシングしていてもそうなる」
「だからって排水溝詰まらせないでよ」
「洗面台の掃除はしてるつもりだが」
「じゃあこれからは、お風呂場の掃除も追加ね」
しれっと自分の分担された家事を押し付けてみる。女は「イエス」も「ノー」も言わなかった。ただ……一層唇を持ち上げた。愉しくて仕方ないというように。
反射的に髪を強く握る。ぷちぷちと手の中で音が鳴った。
「我儘なお姫様だね」
傷んだ体で美しく笑う女を見ていると、なんだか惨めになってくる。表面だけ綺麗に取り繕った自分の醜さを突き付けられるのだ。
それを分かっていてこの女は私の目を見て笑う。その視線に含まれているのが憐憫であれば心底楽だったろう。
「我儘を好まないなら別の女を探せば?」
「好まないと言った記憶はないが……君にはそう見えるかい?」
太陽の光に当たったことがなさそうな青白い肌にふさわしい、血色の悪い唇が笑みを結ぶ。その声音に乗っている感情も、私を痛いほど見つめる瞳に含んだ色も、ぜんぶぜんぶ甘ったるい。無糖のコーヒーから生成されているとは思えないほどに。
「……」
ああ、今日も私の負けだ。
苛立ち紛れに顔を背けてやれば、勝ちを確信した女は大きな声で笑った。そして露になっていた私の頬に口付けた。
「……何味?」
「ファンデーション」
「今日はつけてない」
「じゃあ化粧水かな。苦い」
「コーヒーより?」
「ケミカルな苦みだ。コーヒーとはまるで違うよ」
あまり得意な味ではなかったのだろう。珍しく眉間に皺が寄っている。それを見た私は女の首裏に手をまわして顔を近づけた。お互い目を閉じることもなく唇を合わせる。
一、二、三……多分五秒くらい。こっちまで切れそうなカサついた唇を最後に舐めてやると女は目を細めた。
「何味だった?」
「ファーストキスの味」
「檸檬なんか食べてないけどね」
そう言って体を離した女は愉快そうに、そしてわざとらしくマグカップの中身を嚥下した。
初恋は叶わない。苦い記憶と甘酸っぱい憧憬を胸に残して消えていくもの……らしい。
まぁ私には関係のない話だ。
苦くてどうしようもない味を甘美なほどの愛情でコーティングした恋は今も私の隣で生きているのだから。
いつか思い出になる苦味 卯月 @kyo_shimotsuki
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