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卯月
埋葬
暑い。陽射しが強い八月らしい天気だ。最近は地球温暖化やら、フェーン現象やら、何かと気温が上がっているせいで憂鬱になってくる。俺達の仕事に地球が優しくない。
「八〇代のおじいちゃんだってよ」
「最近多いですよね。それくらいの人の現場」
「ほんとになぁ……明日は我が身だよ、まったく」
殆ど残っていない髪をサイドミラーで整えるように撫でつけた先輩は五十五だった気がする。三十路の俺に比べれば上だが、人生百年とか言われている現代なら、人生はやっと折り返しの年齢。まだまだ平気だろう。
「先輩が仕事来なかったら社長と見に行きますから」
「助かるよ。これで真夏に放置は避けられるな」
「うわ、そんな先輩見たくもないです」
「俺だって知り合いにそんな姿見せたくねぇよ。あ、そこ右にパーキングあるから」
「はい」
ハンドルを切ると、古くなって剥げた表面がずるりと手の中でずれた。俺が初めて運転したときは、まだ黒っぽい粉が手の平に付く程度だった気がする。
車を停め、後部座席に置いていた商売道具を外に出すと、その場でビニール製のカッパと防毒マスクを身に着けた。外気の熱が服の中を蒸して、着てすぐに汗が噴き出してくる。しかし、脱ぎたいとは思わない。
「さあて、今日も粛々とお仕事するか」
「はいはい。先輩、鍵」
「おお、悪い悪い」
荷物を担いで現場の前に立つと、無意識に深く息を吸っていた。ところどころ汚れた薄そうな板は、一見どこにでもある古いアパートの扉。これの向こうに何が封じられているのか、知る者はそうそういない。
管理会社から預かった鍵を、まるで実家に帰ったような気軽さで操る先輩は、俺が背後で手を握り締めていることなんか知らないんだろう。
もう五年以上この仕事をしているのに、いまだに部屋に入るこの瞬間だけはダメなのだ。
「失礼します」
「……失礼します」
返事がこなくとも礼儀は必要だ。ノブに手をかけて回す光景がスローモーションのように見え、同様にゆっくり開いていく扉の向こうから熱を持った空気が俺達を包み込む。
「……まだマシだな」
「そっすね……」
真夏の現場にしては、と心の中で付け足しつつ先輩に続いて部屋に足を踏み入れた。
◇
事件現場特殊清掃員。
俺達の仕事のお相手は、血液、廃液、毛髪、歯、排泄物、腐臭等々……何かよく分からないものもあるが、確実に人体を構成していたものと虫、そして持ち主を失った遺品。
この仕事に求められるのは、それらの痕跡を完璧に消すことだ。こんなところに住む人なんているのかって疑わしい部屋の惨状でも、そんなこと気にかけずただ綺麗にすればいい。だってこの後住むのは自分じゃないんだから。
◇
掃除道具を持って部屋に入る。足の踏み場も道具を置く場所もあるあたり、ここの住人は比較的元気で死因は急性なものだったのだろう。老人の孤独死は、体の衰えから身の回りの世話が自分で出来なくなっているパターンが多く、部屋に着替えや加工食品のゴミが散乱していることが当たり前である。
警察は現場保存などの理由で部屋は放置だし、遺族といえど、ひとが死んだ場所なんて触りたがらない。前者は仕事だが、後者は腐っても家族だろうに……薄情なことだ。まあ、そんな人間のおかげでご飯が食べられている俺の身分で、文句なんて言えないのだが。
「うわ、ここで死んだんだな」
先輩が黒く染まった布団を見て手を合わせた。それに倣って俺も合掌すると、暫くの沈黙ののち、どちらからともなく掃除に動き始める。この後、自然と無駄口はなくなる。学校じゃあるまいし、和気藹々と掃除する場所ではない。なにより、この時期は暑さで遺体が傷みやすく、こうした現場が発見されることが多い。ようは掻き入れ時。一つに時間を割いてはいられない。
しかし、そうしたこちらの事情なんて配慮されているはずがない。この部屋も比較的整頓されているといっても、人間が一人死んでいれば匂いも汚れも相当だし、遺品の量も馬鹿にならない。五畳ほどのリビングには衣服に食糧、家具といった衣食住を支えるものから、趣味のものまで所狭しと置かれていた。
ここの住人は、今となっては古めかしいビデオテープに凝っていたらしい。古めかしいといっても、俺も未だにデッキを所持しているのでひとのことをいえる立場でもない。勿論、DVDの方が便利なのは知っているが、あのテープを巻いている時の独特な音や待ち時間を知ってしまうと物足りなさがある。なんでも速ければいいってもんじゃないんだ。
枕元にはテープが大小様々十数個積み上げられていた。更に窓を半分潰して置かれたスチール棚も大量のビデオテープで埋まっている。
「ゴミ袋足りそうにないな。ちょっと車まで取って来るわ」
「お願いします」
恐らくついでに外の新鮮な空気を吸って来るつもりなのだろう。近隣から苦情が来るため、掃除中は窓もドアも締め切っている。自称犬並みに鼻の利く先輩にとっては、ずっとその場にいるのは苦痛なのだと、最初の研修の時に三回程言われたのをよく覚えている。それが途中で部屋を絶対一度は出ていく前振りだったと気付いたのは、組み始めて五回目の仕事場だった。
そしてそれが俺の悪癖の始まりの日だった。
先輩の背中を見送って、そっと枕元に置かれたビデオに手を伸ばす。一本一本背ラベルが張られ、ペンでタイトルが書かれている。日付だけ書かれた謎のものから、俺でも知っているテレビ番組名まで多種多様な内容だ。さらっと確認しながらゴミ袋に入れていくと、ひとつのタイトルが目に留まった。
アーティスト名と曲名が二行にわたって書かれた小さなテープ。かなり古い時代のアーティストだが、父から教わって俺も好きなバンドだ。俺は背後を一度振り返って、そのカセットをポケットに仕舞いこんだ。
その後、帰ってきた先輩とゴミの片付けを済ませ、板の張替と消毒、消臭を念入りに行ってから部屋を出る。
「もう一個行けるか」
「行きましょう。明日に回したら今日より苦労しますよ」
「違いねぇ」
大きく肩を回しながら車へ戻ろうとする先輩の背中を見て、先程出てきた扉を振り返った。来た時と同じように古びた姿を曝しているのに、数時間前のようなプレッシャーは感じない。
「おい、何してんだ?」
「今行きます」
こうして死んだ人間は消えていくんだ。
◇
家に帰り玄関を開けた途端、一日閉じ込められた熱気が中から飛び出してきた。本日三度目ながら無臭なだけマシというものだ。
「ただいま」と返事なんか来ない習慣化した挨拶を済ませてリビングに入ると、スチール棚とテーブル、ベッドだけ置かれた殺風景な光景が目に入る。先程まで掃除していた煩雑とした部屋とは真逆な様子に足が少し止まった。二件目がなかなか酷い現場だったので、少し疲れているらしい。
「……はあ、食欲ねぇ」
この時期はいつもこうだ。何もやる気が起きなくなる。
ノロノロとベッドに倒れこみ、無意味に「ああ……」と声を出してみる。重い声を聞いていたら疲れを実感して更に身体から力が抜けていく。しかし独り暮らしとは世知辛いもので、自分で何かをしない限りは何も起こらないのだ。
ひとしきりベッドで唸ると、思い出したように床に落ちている鞄へ手を伸ばした。思いのほか遠く、目一杯指の先まで力を籠めてやっと爪先が布を掠る。少し身を乗り出すと指の肉がザラリとした触感を感じた。もう少し、と半ば意地になって全力で手を前に突き出すと、手の甲に筋が浮き上がる。そして……次の瞬間、俺の視界はカーペットの染みと挨拶していた。
「いってぇ……」
顔面の痛みより無様に顔から落下したショックの方が大きい。横着せずにベッドから降りればよかったものを、と過去の自分に悪態をついた。苛立ちのままに鞄に手を突っ込み、目的のものを掴もうとすると、くしゃりと紙の潰れた感触がした。一旦手を抜いて鞄を大きく広げると、乱雑にものが放りこまれている中で封筒の白が目立っている。手に取り、しばらく睨みつけた後で封筒を乱暴に鞄の中に戻した。
代わりに取り出したのは目的のカセットテープと小さな健康祈願のお守り。我ながらお守りの盗難とは罰当たりだ。自嘲を口許に浮かべながら、お守りをベッドサイドの棚に放り投げると、代わりにプレイヤーを取り出した。
セットしたテープが巻き戻って行くのを眺めていると「何やってんだろう」と虚しさが込み上げてきた。別に好きで仕方ない曲ではない。こんな真似しなくても中古ショップに行ったらCDに焼き直されたものが税抜きワンコインで買えるだろう……探したことないから憶測でしかないが。
最初まで戻ったのを確認して再生ボタンを押すと、天井を向いてベッドに倒れこんだ。ウイーンだかジジッだか古臭い起動音が聞こえ始める。そうして少しの間ぼんやりとシミのついたクリーム色の天井を見ていたが、一向にイントロのギターが聞こえてこない。視線だけプレイヤーに向けると、液晶はしっかり数字を刻んでいた。
テープがイカれているのだろうか、と蓋に手を伸ばした瞬間、ノイズが流れ始めた。
『あ、あ、これ入ってるのか……?』
突然聞こえ始めた男の声に数ミリ体が飛び上がった。なんだこれ、呪いのテープとか? 理不尽に呪われる日本のホラーあるあるに巻き込まれたか?
『えっと、晴れて今日で無職になりました。五十年も勤めたのに、終わり方は案外あっさりしてて……なんというか、明日もきっと朝同じ時間に起きるんだろうなって気がする』
「……」
持ち主……だろうか。あそこで死んでいた。予想外の中身ながら、どうしてか思考はあまり混乱していない。テープを止めようとした手を降ろして、そのまま、またシーツに身を沈めた。
『明日からどうやって毎日過ごせばいいんだろう』
男の落ち着いた声は冷静な響きで現状を嘆き続けた。親に勧められるままに入社した会社に人生を捧げたこと。別段出世するわけでもなく、大きな問題を起こすこともなく、毎日同じルーティンワークを繰り返し続けたこと。親兄弟はいつの間にか疎遠になって、誰の居場所も安否も分からないこと。
男の温度のない声は、ただ事実だけを淡々と重ねていることを物語っているようだった。別段楽しい内容でもなく、でも無音にするよりはマシというくらいの位置づけ。興味のないラジオを聞いているのと変わらない。
『故郷に帰ったら、なにか見つかるのかな』
男の声音が少しだけ変わった気がした。零度が三度になったくらいの本当に微々たる変化だが、五分程同じ声を聞いていれば、初めて聞く声でもそれくらいの判別は出来るらしい。
『俺の故郷は太平洋沖の……四国に近い小さな島で、山と町が一つあるだけのような寂れた場所だった。学生時代は何もないあそこから出たくて仕方なかったけど、今は少しあの海が恋しいな』
自嘲するような力ない吐息の後、マイクがたまたま拾ったような小さな声が聞こえてきた。
『結局、あそこを出たって今の俺には何も無いんだ』
「……」
『ああ、そういえば家の裏にあった美術館は楽しかったな。管理してたじぃちゃん、もう流石に生きてないだろうけど。もう閉まってるのかな。あそこの管理人として第二の人生なんて、案外楽しそ』
突然音は切れた。自動でテープが巻き戻って行く音だけが部屋でいやに目立って聞える。俺は暫くじっと天井を見つめると、緩慢な動きでベッドサイドの棚からパソコンを引っ張り出した。
◇
――まもなく目的地の緑島、緑島です。到着に際し、船が揺れることがございます。皆さま足元には十分お気を付けください。繰り返します。まもなく――
椅子に座り、ひたすら空を見上げていた俺はアナウンスを聞いて視線を船の進行方向へ向けた。乾いた熱い風に目を細めると、陽炎の中で緑色の小さな島が揺れる。無性に喉が渇いた。
船着き場につくと俺を含めた四人ほどが降りていく。この島の人間なのか、彼等には迎えが来ていた。そうして親し気に話している光景を見ると、なんだかいたたまれなくなって帽子のつばを下げる。初めて来た場所に知り合いなんかいなくて当たり前なのに、妙に落ち着かない。
逃げるように港を離れた俺は道端に立ち止まり、来る前にプリントアウトしておいた地図を広げた。ネットで調べても大した情報のないこんな島で、見るべきところなんて少ない。実際、島のほとんどは山だ。人が住んでいるのも船着き場のあるここを中心として周囲にちょっとした町が出来ているくらいの規模だ。昔は漁業で栄えていた時期もあったらしいが、テープの男の口ぶりからしてかなり昔の話なのだろう。港にも漁船らしき船は二、三隻あるだけだ。どうしてこんなところに住んでいる人間がいるんだろう。物好きな。
「えっと、ここが現在地で美術館は……」
地図上の港に指をおき、丸を付けたあたりまでをなぞる。一度顔を上げて目の前の景色を確認すると、自然と溜息がこぼれてきた。
俺がこの島にあたりをつけたのは、とあるブログがきっかけだった。「四国に近い太平洋」「小さい島」「美術館」という数少ない情報でネットの海を数日間泳ぎ回った結果ヒットした旅行記。たまたま、近くの観光が有名な島に行った際に立ち寄ったというこの緑島で、道に迷った果てに辿りついた美術館が楽しかったという、ただそれだけの二文程度だった。その中にあった「個人が運営している趣味のような隠れ家的場所だった」という言葉に惹かれた。
しかしブログの管理人も迷子のうちに辿り着いた場所であり〝なんとなく〟の場所しかわからないと書かれていた。管理人プロフィールからメールアドレスを拾ってきて場所を訊ねるまでしたときは、自分がどうしてここまで必死になっているのか自問自答してしまった。
答えは出なかったが。
「大体の位置しかわからない以上、歩くしかない。歩くしかないんだよな」
分かっていても炎天下を喜んで歩く奴なんかそういないだろう。目の前の広大な森と、それを背景にぽつぽつと建つ民家にげんなりしながら、重い一歩を踏み出した。
◇
正直な話、夏の南国を舐めていた。
「……あっつい」
港を出てまだ十分程度だが、もう既に帰りたい。汗を吸って重くなったシャツを脱ぎ棄ててしまいたい。シャワーを浴びてエアコンの効いた部屋でアイスでも食べていたい。
人間が夏に抱く欲望を全部乗せたような妄想をしながら足をなんとか前に押し出す。今見えているのは地面を歩く蟻だけだ。こんなところで倒れたら、きっと誰にも見つけてもらえない。
「ああ、くっそ……大して大きな島でもないのに」
暑いということがどれだけ苦しいのか身に染みた。帰ったら仕事前の黙祷をもっと真剣にやろうと決意して、ペットボトルの中身を一気に流し込む。
行程的にはやっと半分……いっていて欲しい。そもそも目的地の場所がわからないので半分も何もないのだが、そろそろ生きた人間に会いたいものだと思いながら墓苑への案内表示を通り過ぎた。
それからさらに十分ほど歩くと、畑で水を撒いているセーラー服姿の女の子を見つけた。その恰好は畑仕事をするのに適しているのかという疑問を殺しながら声をかけると、何故か目を見開いて硬直し始める。
「あ、あの……」
「ああ、ごめんなさい。この島の人じゃない人を見るのは久しぶりで」
「ああ、そういう……」
それにしても見る目が珍獣と変わらないのは流石に傷つくというか……。余程俺が不満そうな顔をしているように見えたのか、少女は慌てて笑顔を作った。
「どうかなさいましたか? 生憎、見るものなんて海と山しかありませんが」
「ああ、えっと、この辺りに美術館があると聞いてきたんですが」
「美術館、ですか?」
少女は大きなじょうろを片手で持ったまま腕を組んだ。余計なお世話かもしれないが靴に水が盛大にかかっているので、角度を改めたほうがいいだろう。
「美術部ですけど、そんなもの聞いたことありませんね。部で観賞会をした時も近くの大きい島まで船に乗っていきましたし」
「そう、ですか」
おいおい、ここまで来て閉館してるとかないよな。ブログの日付は去年のだったから大丈夫だと思ったのに。
一気に体の疲れが押し寄せてきて、その場にしゃがみこんだ。俺を心配する声が聞こえるが、返事をする元気もない。空から降り注ぐ光に押しつぶされているようだ。
「あらら、あなた、熱中症ならこんなところでしゃがみなさんな」
突然ぐっと腕を引かれて無理やり立たされた。声にこたえたいが、生憎視線が下を向いたまま動かせない。しかし声の主はそんな俺を気にしていない様子で、そのまま畑の横に生えていた木の下まで引きずっていった。
少しは暑さが和らいでホッと息を吐くと、目の前にスポーツ飲料のロゴが入ったペットボトルが差し出される。
「ほら、とりあえず飲んで」
「どうも……」
まだ鞄の中にはお茶が残っていたが、貰えるのはありがたい。大人しく目の前の白濁した液体を飲むと、程よい甘さと塩気が体に染みわたるようだった。
「ああ……生きてる」
「それは良かった」
「ありがとうございます、先生」
「いえいえ、水やり当番ご苦労様」
ペットボトルの半分ほどを空け、ようやく余裕のできた俺が顔をあげると、視界で同い年くらいの男と先程の少女が談笑していた。「先生」と「生徒」なんて最近見ていなかった関係性がいやに眩しい。
「あ、大丈夫ですか、おじさん」
「……大分マシになりました。ありがとうございます」
おじさんと呼ばれたことに胸の痛みを覚えたが、十代からしたら三十路なんておじさんなんだろう。そこの教師より老けてるし、見た目も雰囲気も。
「コラコラ、僕と同い年くらいの人におじさんは無いでしょう」
「え、先生もおじさんじゃないですか」
「……はい」
いっそ清々しいほどにバッサリ切り捨てられた先生は真顔で頷いたが、すぐに切り替えた様子で俺に笑顔を見せた。
「ここら辺の方じゃないですね。どうしたんですか?」
「ああ、えっと、美術館を探してまして」
もしかしたら、生徒に話しかけている不審者だと思われているのかもしれない。俺が慌てて目的を告げると、先生は目を丸くする。
「美術館?」
「この島にそんなものないですよね?」
「いや、あるよ」
先生の口から出た言葉に少女は「え!」と言いながら驚愕の表情を見せる。俺も似た顔をして勢い良く立ち上がったが、視界がブラックアウトしてすぐにまた木の根元に腰を落とした。
「ああ、おじさん大丈夫ですか」
「急に立ち上がっちゃだめですよ」
「すみません……い、いやそれより美術館があるって」
心配してしゃがんでくれた先生に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ると、先生は引き攣った笑顔で何度か頷いた。
「美術館ってほどの規模じゃなくて、ギャラリーですけど」
「そんな感じでいいんです! 場所を教えてください!」
「い、いいですけど、その、近いです」
その言葉で先生の苦笑いが思ったより間近なことに気づいた。いそいそと離れると、先生は少女のほうを向いて鞄から出したパットボトルを投げる。
「はい、来た本当の目的」
「ありがとうございます」
「僕はこの人を送り届けるから、水やりが終わったらまっすぐ帰りなさいね」
「はーい」
「い、いや、送ってもらうなんてとんでもない」
本人を蚊帳の外にして進んでいく会話に割り込むと、二人が同時に「甘い!」と叫んだ。
「熱中症になってた人が何言ってるんですか!」
「このまま放っておいたら絶対に辿り着く前に死にますからね!」
「……」
実際、助けられた人間なのでぐうの音も出ない。無言で降参だと両手を上げると、先生は満足そうな顔でポケットから車のキーを取り出した。
「ほら、行きましょう」
本当に至れり尽くせりだ。
近くに停められていた青い軽自動車に乗ると、外気より低い温度が体を包み込んで「あああ」と声が出た。生き返った。それ以外の言葉がない。
「すぐそこなので寝ないでくださいね?」
「はい……」
「言ってるそばから目を閉じる……うちのクラスにも似たような子がいます」
「高校生ですか?」
「いえ中学生」
暗に中学生レベルと言われているが、苦言を呈する気力はない。大人しく文明の利器に白旗をあげたまま、適当な相槌をうっておくとクスクスと先生が笑った。
「そういえば、お仕事は何を?」
「ああ……清掃業、かな」
「かなって、なんですか。アルバイトとか?」
「いや、正社員」
「……クビにでもなりました?」
「休暇を取ってきただけです」
この忙しいご時世に、めったにクビになんてならないだろう。この業界は就職したがる人間がそもそも少ない。それでも死体は毎日積み重なっていき、それに伴って現場は増えていく。いつか事故物件なんて珍しくもなくなっていくことだろう。
「ま、そんな時期に休暇をとるのも迷惑なんだけど」
「なにか?」
「いや、別に」
「……それにしても、あのギャラリーってそんなに有名なんですね」
「いえ、たまたまといいますか……」
他人様の遺品を盗んだとも言えず、曖昧な返事をする。それを先生は特に気に留めることはなく、ゆっくり車を停止させた。
「はい、到着」
「え?」
車窓から見える建物は、二階建てのクリーム色の外壁と緑色の屋根をした……どうみても民家だ。しかし先生は気にすることもなく車を降り、その家の鍵を開けた。車に乗ったまま呆然とする俺を振り返ると、妙に芝居がかったお辞儀をする。
「ようこそ。ここの管理人です」
「え……」
顔を上げた先生は、口も目も開いた情けない顔をさらしているであろう俺に柔らかく微笑んだ。
「まさか、先生が管理人だったなんて」
あのテープを残した男の頃の管理人は死んでいるだろうと思っていた。しかし、後を継いだ人に道端でばったり会うとは思わなかった。
「はは、僕も驚きましたよ。島の人でもあまり知られてないんですよ」
「ああ、ネットでたまたま見つけたんですよ」
「若い女性でしょう? 少し前に迷い込んできて、ここのことを書いていいかと帰り際に聞かれましたから」
ネットの力って凄いですね、と目を輝かせる先生に案内されるままゆっくりと飾られている絵画を眺めた。
なんでも、かなり昔にここを隠居地に選んだ画家が残したものを、その画家の友人だった男が無料公開し始めたものらしい。きちんと美術館に飾られているような名の知れた人物の名前が出て驚いたが、先生はそんな俺にそっと人差し指を立てた。
「秘密ですよ。この島の平穏を壊すわけにいきませんから」
「じゃあ、言わなきゃいいんじゃないですか?」
「言う人は選びます」
言外に信頼していると言われた気がして、胸の奥がむず痒くなった。別に言うつもりはないのだが、確かに勿体ないとは思った。大々的に宣伝したら富を生むだろうに。
しかし先生はそんな俺の下賤な考えを見抜いたように「いいんですよ」と呟く。
「いいんですよ。この島はこのままで」
大きなトマトを持って笑っている少年の絵にそっと触れながら先生は小さな声でそう言った。きっと、この人は学校でもこうした声で、こうした表情で生徒と接しているのだろう。確証なんて微塵もないがそう思った。
「……この絵は……」
二階の一番奥の部屋に飾られた、見開きの新聞ほどのサイズの絵の前で足が止まった。夜の砂浜で月明かりに照らされた、着物を着た少年が瓶の中に砂を詰めているだけの光景だ。でもどうしてだか少年の表情は苦しげで、何かに縋るようだった。
絵に見入っている俺の右耳だけが先生の声を拾っていく。
「この絵は、この島に伝わるちょっとしたおまじないを題材にしてるんですよ」
「おまじない?」
「ええ、土地に伝わる言い伝えとも言いますかね。むかしむかし、当時の医学では治せない大病を患った少年がいました。その少年は村で一番長生きのおばあさんに知恵を求め、そのおばあさんの言う通り瓶の中に砂と自分の髪、そして願い事を込めて封をせずに海へ流しました。すると病気はたちまち治りました。おしまい」
「……お伽話ですか?」
「はは、そうですね。この土地は海と共に生きていくことを義務づけられています。海を神と崇めるために作られたお伽話です」
「……」
自分から言っておいてなんだが、あっさり作り話だと認められると夢のないことだと醒めてしまった。そんな俺の様子に気付いたのか、先生は付け加えるように口を開く。
「でも、この島の人間たちは今でもこの話を大切に語り継いでいます。こういった話において重要なのは信憑性ではありませんから。願い事を託す……あるいは悪いものを捨てているのかもしれない。心の拠り所が欲しいだけのかもしれない。でも、どんなに不確かでも無いよりずっとマシです」
「……夢のある話ですね」
こんな話を信じていると言えば、俺の家族は「現実を見ろ」と鼻で笑うだろう。先輩は「俺の薄毛も治るかな」なんて乗ってくれるかもしれない。
あの人は……あのテープの老人だったら、何を願ったのだろうか。
あるいは、何を捨てたんだろうか。
◇
全ての絵を見終わったころには空はオレンジの中に藍色を落とし始めていた。東京では普段見られない、遮蔽物の全くない空に見惚れていると、ギャラリーに鍵をかけた先生が車の扉を開けた。
「今晩、泊まる場所が決まってないならうちに来ませんか?」
「そんな、ご迷惑では?」
「まさか。家内も喜びますよ。滅多によその人なんか来ませんから、むしろ話をしたがってうるさいかもしれません。それでよければ」
「勿論です。泊まる場所を調べても出てこなかったので、むしろ助かります」
俺が頭を掻きながらそう言うと「旅館はありますけど……出るって噂なのでやめた方がいいですよ」と言いながら先生はそっと両手をぶらりとして見せた。その動作がまるで子供のようで思わず噴き出す。
「ははは。まさか」
「本当ですって。結構そっちでは有名なんですよ」
「先生、そういうのに詳しいんですか?」
「いえ。生徒情報です」
「なるほど」
学校の教師というものは、そういう話でも覚えてくれているものなのか。自分が中学生の時の担任の顔を思い出そうとしながら、そんなことを考えてみたが、靄がかかったような頭の中にはヒトの顔なんて浮かんでこなかった。
「さぁどうぞ。島で採れた魚くらいしかなくて本当にすみません。知ってたらごちそうでも用意したのに、本当にこの人は気が利かなくて」
「いえいえ、命を救ってもらった挙句にそんな贅沢……」
先生の奥さんは健康的な小麦色の肌の似合う、非常に快活な人だった。連絡もせずに押し掛けた俺を玄関で見たときは非常に驚いていたけれど、直ぐに笑顔で迎え入れてくれた。そのあとキッチンの方へ先生が引きずられていったが、そこで何があったかは夫婦の秘密というものだろう。
太平洋の海には俺の見たことない魚がいるらしい。軽く塩味のついた魚は脂がのっていて非常に美味しかった。名前のよく分からないピリ辛な炒め物や、唯一分かったホウレン草のお浸しなど、栄養バランスの良い食事を夢中で口に運ぶ。
働き出して一人暮らしを始めてからというもの、一汁三菜など夢のまた夢という食生活だった。久しぶりのマトモなご飯は疲れ切った体によく沁みる。
「そんなに美味しそうに食べていただいて、作り甲斐があるわ」
「僕も毎日たくさん食べてるじゃないか」
「もう貴方の顔なんて見飽きたわよ」
「ひどいな」
一見棘があるようで、その実二人の顔を見ていればこのやり取りが仲良しなりの冗談なのだとすぐに分かった。茄子の味噌汁に口をつけながら、交互に二人の顔を見てなんとなく浮かんだ疑問を口にする。
「そういえば、お子さんとかは?」
「いませんよ。僕と家内だけです」
「あ、そうなんですか」
「数年前まで祖父と同居していたんですけど、亡くなってしまって」
その言葉で、用意されていた三つ目の椅子の理由が分かったので俺は小さく頷く。少し意外な気もしたが、家族それぞれ事情があるだろう。俺の詮索することじゃない。
夕飯が終わると、先生が一升瓶を持ち上げながら俺を誘ってきた。
「あまり酒は強くなくて……」
「舐めるだけでいいですよ。付き合ってください」
「気を付けてくださいね。そのひと強引なので」
「はは、いいですよ。じゃあ少し」
リビングの大きな窓を開き、縁側に腰を下ろす。住宅が集まっている場所のため、昼間予想していたよりは家々の明かりが多く見えるが、空の満点の星空には一切敵わなかった。素晴らしい景色に見とれていると、グラスに二口分ほど注がれた透明な酒が差し出される。
「どうも」
「空、綺麗でしょう」
「ええ。先生のご出身はここですか?」
「はい。家内もです。もう三十二年になりますか……この島から出たのなんて大学生活だけですよ」
ああ、一個下か。予想通り近かったことが嬉しいやら、結婚まで済ませているのが妬ましいやらで少し複雑な心境を、腹の奥に酒と一緒に流し込んだ。
カッと喉と腹が熱くなって咳を繰り返すと、先生は笑いながら俺の背中を撫でる。
「きついでしょ。この島の名物なんですよ」
「はー……辛い」
「ははは、嫌だったらそれでやめてくださいね。あとで連れて行きたい場所があるので」
「え?」
「海ですよ。あの美術館をお探しで、全然見ていなさそうだったので是非夜の海をお見せしたくて。散歩がてら、この裏がもう海なので」
「そうなんですか……」
正直、全身が疲れているので行きたいとは思わない。しかし、海のすばらしさについて語る先生の表情が、生徒や奥さんに見せていた明るいものとは違う気がして、俺には反対意見なんて言えなかった。
「そういえば、どうしてあの美術館を引き継がれたんですか?」
一方的に話をさせるのも居たたまれなくてそう言うと、先生は「僕の恩師が前の管理人だったんですよ」と答えた。
「恩師ですか」
「はい。中学の先生で……教職に就いたあともお世話になっていました。そんな人から『好きにしろ』と言って突然鍵を渡されましてね。僕にも仕事がありますし、どうしようかと悩んだんですが……あれらに埃を被せるのがしのびなくて」
「そうですね。その、素晴らしい絵ばかりでした」
俺の頭には既にお伽噺の絵しか残っていなかったのだが、なんとかそんな言葉を絞り出す。先生もなんとなくそれは察したらしく、曖昧に笑いながら同意を返してくれた。
「あの絵、良かったでしょう」
「え?」
「言い伝えの少年の絵です。あれが僕も一等好きなんですよ」
「……先生は何かお願いしたいことはありますか」
「ええ、一度だけ」
先生は愁いを帯びた表情でそう言いながら酒を呷った。そして、星空に映える優し気な表情を浮かべると「そろそろ海にいきますか」と言った。俺は静かに頷いた。
すっかり暗くなった道を二人、スマホの明かりを頼りにゆっくり歩いた。来た時よりも随分落ち着いた気温の中で、生温い風が前髪を揺らす。酒のせいか胃のあたりがじわじわと温かい。縁側で呑んでいた時とはうってかわって無言だった先生は、月明かりが暗い夜道に差し込んできて空を見上げた。
「ああ、丁度いいタイミングだ」
思わずといったように笑みを深める先生につられて、俺も顔をあげる。満月は心なしかいつも見ているものより大きく感じた。
砂浜へ降りていくと、白い砂や割れた貝殻が月の光をいっぱいに浴びて輝いている。まるで映画のワンシーンのような光景に「わぁ」と歓声を漏らした。
空では星が、海では波打つ水が、地面では砂と貝が光を帯びて存在を主張する。しかし自分と先生以外の生き物の気配は一切なく静けさに包まれていた。俺はそっと新鮮な空気を吸って酒気を吐く。自然を汚す人間的な行為だと苦笑いが零れた。
ああ、俺、何しに来たんだっけ。
わざわざ休暇を取って、知らないやつにメールまでして、熱中症で倒れかけて……得たものは綺麗な景色と美味しいご飯ときた。ああ、先生からスポーツ飲料ももらったな。いい人だ。歳変わんないのに、帰る家で待ってくれる人がいて、生徒には信頼されて、俺はどこで道を間違えたかね……いや、間違えるほど選択してきた記憶もないけど……。
元々、酒には強くない。思考がまとまらなくなってきたのを感じて軽く頬を叩いた。そして先生を探して視線を海から砂浜に戻す。すると先生は手元に砂だらけの何かを持って俺の元に駆け寄ってきた。
「それは……カップ酒?」
「の瓶です。ポイ捨てはけしからんですが、まあ今は役に立つので大目に見ましょう」
そう言うなり先生は瓶の周囲についた砂を払い落して俺に差し出した。
「どうぞ」
「……」
突然ゴミを差し出されたのに、困惑はなかった。適当に前髪を引っ張って抜けた二、三本を砂で濁っている瓶の中落とすと、それを覆い隠すように砂で埋めていく。両手で掬い上げると、細かい砂が音もたてずに指の間から滑り落ち、風に乗って消えていった。俺の掌に収まってしまうようなサイズの瓶はあっという間に一杯になる。
「情緒がなくてすみませんね。空の瓶をくれと言うと家内に知られるので」
「いえ……」
白が詰まった瓶は空に掲げても、もう光を通すことはない。商品名などが印字されたシールや、購入済みの証であるコンビニのテープが安っぽくて仕方ない。海の神様に罰当たりだと怒られないといいが……。
そんな心配はどんなにしても仕方ないので思考を切る。緩慢な動きで立ち上がった俺は、先生を残してそのまま海へ足を踏み出した。足先が触れたときは温いと思った海水も、足首まで浸かる頃にはひやりと冷たい。波が寄せ、膝が濡れたところで足を止めた。手に持った瓶は酒が入っていた時より重たい。それを口元までもっていくと、強い酒の香りと仄かな潮の香りが嗅覚を刺激した。
「……俺の願いは」
普通に声を出したつもりだったのに、実際喉から発せられたのは小さく掠れた情けないものだった。そんな声に乗った俺のちっぽけな願いは瓶に収まるどころか、波の音に攫われていく。それでも一息に紡いだ言葉が消えてしまわないうちにと、俺は勢いよく瓶を投げ捨てた。放物線を描いて輝きが黒々とした海の上を飛んでいく。投げた勢いで尻もちをついた俺は、それの行く先までは見ることができなかった。ただ、ひときわ大きくうねった暗い海が静かに俺を飲み込んだ。
「ハハハ、大丈夫ですか」
波に攫われかけた俺の手を掴んだ先生は、最初に会った時と同じように強い力で俺を岸まで引っ張っていってくれた。海水が入ったのか、沁みるように痛い目を無理やり開いてみた海にはもう瓶の影も見えなかった。
「……先生」
「何ですか」
「先生が願ったことは叶いましたか?」
「いえ」
「そうですか……」
「……あなたの願い、叶うといいですね」
「はい」
◇
「さてと……これで全部だな」
よく晴れた夏空の下、昨日まで滞在していたあの島よりずいぶん汚れた空気の中で俺は一度大きく伸びをした。休暇も今日で終わり。昨日までの疲れをとるために、一日家に籠っていたいところだがそうもいかない。
自分で掘った穴の中を覗き込むと、変な人形のついたストラップからアニメキャラの描かれた缶バッチ、はてはお守りまで多種多様な遺品が底のほうに積み重なっている。それに静かに手を合わせること数十秒。俺は「よし」と気合を入れなおして脇に置いてあった着火剤を二つ放り込み、マッチ箱を取り出そうと鞄を探る。その拍子に地面に皺のよった封筒が落ちた。「退職届」と書かれた、お世辞にもきれいではない字をしばらく見つめた後、再度マッチに手を伸ばす。赤い頭にともった火を封筒に移すと、静かに生き物のように紙が丸まり黒に染まる。半分ほど灰になったところで、マッチと一緒に穴に放り込んだ。
一筋伸びた煙は焦げ臭い匂いと共に空の青へ吸い込まれていく。それに蓋をするようにそっと土をかけていった。持ち主と同じところに行けるように。
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