中性

卯月

中性

 こんなにも屋上は広かっただろうか。屋上を見渡すと、何故か以前より広く感じる。あの時と違うのは屋上にいるのが二人か一人の違いだけ。そう、たった一人減っただけなのに……おかしいな、一人の占める面積なんてたかが知れているのに。きっと音を立てて激しく降り注ぐ雨がカーテンになって、周囲の雑音が聞こえないせいだ。そう結論付けて、額に張り付いた前髪をかきあげる。全身ずぶ濡れ気持ち悪いが、今日はそういう気分だ。

 落下防止用の柵に滑らないよう気を付けながら腰かける。足をぶらぶら揺らしていると、数か月前に戻ったような気分になった。あの時と違うのは、地面を彩色しているのが桜か紫陽花かという点くらいか、いや……一番重要なことが違うじゃないか。誰かに呼ばれたような気がして振り返ったが、そこにあるのは弱酸性の水だけだ。溜息を吐いた僕の耳に今度こそ確実に届いたのは、未だ遠いサイレンの音。静寂は終わりか、と笑いながら空を見上げた。

 止めどなく降りしきる雨。空は、誰のために泣いているのだろう。




 ああ、雨だ。急に降りだしたそれに特になんの感慨もなく、僕は遥か足下を眺める。この時期だけ我が物顔で地面を彩る桜並木。桜の下に行けば、さぞ綺麗なのだろうが、残念ながら上から眺める分にはただのピンクの塊だ。桜の下を歩いているのは一年生だろう……話している内容も顔も見えないのに、浮かれた雰囲気がここまで伝わってくる。僕も二年前はああして桜の下を歩いていた筈なんだ。どこで間違えたのか、そんなもの僕には分からない。自分のことなのに、自分のことだから、何も分からない。

「本当に……嫌になる」

 深く息を一つ吐いて柵に座っていた体を地面に下そうとすると、唐突に声が聞こえた。雨粒に吸収されて微かな残りかすになりながらも、しっかり耳に届いた僕の名前に振り返った。

「牧原蒼生くん」

 再度、柔らかな声が僕の名前を紡ぐ。茶髪にすら見える色素の薄い髪の少年に見覚えはない。いや、単に僕が記憶していないだけの可能性もあるが……。

「そこ、危ないから……こっちにおいでよ」

 一人考え込んでいた僕にしびれを切らしたようで、少年が僕の手を引っ張った。包帯のまかれた細い手に任せて、濡れたコンクリートに着地する。薄くすり減った靴底が地面の冷たさを伝えてきた。

「あ、えっと……」

 誰なんだろうかこの子は。先程までの強引な様子が鳴りを潜め、おろおろと落ち着きなく視線を泳がせる。本当に目的も何も分からない。

「えっと、いい天気ですね!」

「雨ですけど」

「……風邪には気をつけて! それでは!」

 無意味に手足をバタつかせて走り去る少年の背中を呼び止める気にもならない。関わらない方が身のためだろう……嵐に見舞われた気分になって溜息が零れた。今更、肌に張り付いたシャツが鬱陶しくなってくる。心なしか雨足が強まってきたような気がして、それに押されるように座り込んだ。

「何やってんだろ」

 地面に向けて吐き出した言葉に答える者はいなかった。




 彩りよい弁当をただ胃に収めるだけの作業も三年やり続ければ罪悪感はほとんど感じなくなった。きっと栄養バランスを母さんが考え抜いてくれているのだろうけれど、今の僕にとっては、どれだけ早く食べ終わるかが最重要なのだ。味も、触感も、見た目も、全てどうでもいい。

「ご馳走様でした」

 この一言を言うだけで、なけなしの罪悪感も消し飛んでしまう。この小さな呟きを聞いている人間なんて誰一人としていないとしても、言ったという事実が大切なのだ。

 弁当を食べるという昼休みの必須イベントを終えてしまえば、こんな教室に用はない。教室の端々で出来上がっている複数の円や、そこから聞こえる無駄に大きな話し声、笑い声、全てが弁当という逃げ場を失った僕の神経を逆なでしてくる。発散する当てのない苛立ちを押し込めて、逃げるように教室を飛び出した。行先なんていつも同じ、ここで唯一息の吸える場所へ。

 喧騒とした教室とはまるで異世界のように静寂に包まれた屋上への階段を、一応教師の目を気にしながら駆け上がる。立ち入り禁止のロープのたわんだ所をハードルのように飛び越えて扉を開けると、普段通りの人っ子一人いない風景が広がっている。

「あ、こんにちは」

 誰もいない、筈だった。

「扉開けたまま惚けていないで、こっちにおいでよ。春風が気持ちいいよ?」

 僕の困惑なんて気付いてもいない様子で、昨日の少年は僕の前に現れた。いや、少年と呼ぶのはもう正しくないか。

「藤本諒君、であってるよね?」

 問う形をとりながらも、こちらは確信を持っているのだから不毛だ。向こうも今更だ、と言わんばかりに無言で笑うだけ。無言は肯定、とはよく言ったものだ。

「風邪をひかなくてよかった。放置してきちゃったから気になってたんだよね」

「生憎、風邪はここ最近無縁だよ」

「いくら丈夫でも、雨に当たりっぱなしはよくないよ。今日は春らしく暖かいけれど、春っていうのはなんでも不安定だからね。天気も、風も、周りの環境も……」

 まだ何か続けていたように唇が動く。しかし、唐突に僕たちの間を通り抜けた風に小さな声は攫われてしまった。昨日は雨の中でもしっかり届いたのに、不安定なのは声か、僕の聴覚か。

「何をしにこんなところに来たんだ? ここは立ち入り禁止だぞ」

「その言葉、そっくりそのまま返すよ」

「真面目に答えろ」

 へらへらと笑顔を絶やさない様子に眉を顰める。全くこちらを意に介していないように見えるのが、尚のこと腹立たしい。

「君がまた、ここに座ってるんじゃないかと思って」

「は?」

「危ないじゃない。一歩進めば取り返しがつかなくなる。君がそれを望むなら、僕にそれを止める権利は与えられていないのかもしれないけれど、たまたま目に入っちゃったから……目の前で飛び降りられたら夢見が悪そう。そんな感じの理由だよ」

「……別に飛び降りようなんて思ってなかった」

「でも危ないから。僕はあの時、声をかけてよかったと思うよ」

「余計なお世話だ」

 まともに相手の顔も見られず、俯いて地面に小さな声を吐き捨てた。

「うん、余計なお世話だってことは分かってた」

 顔も声も落ちていく僕には分からないけど、きっと目の前の相手は視線を逸らす前と変わらない笑顔でこちらを見ているのだろう。向こうの言っていることはエゴだけど、一般論だ。誰だって危ないと思えば、その行動を止めさせようとする。当たり前の行動。だから、こちらが悪いように感じる。

「鬱陶しい」

「……もうすぐ、昼休みが終わるね。先に教室に帰ってるから」

 昨日と同じように、まるでこの場から逃げるように走って行くのを黙って見送った。

「逃げ出したいのはこっちだ」

 始業十分前を告げるチャイムが無常にも聞こえてくる。せっかく逃げてきたのに、逃げた先からも逃げ出したい。その原因となった藤本諒とは金輪際関わらないようにしないと。一つ、決意を新たにして僕は屋上の扉を閉じた。




「君は僕のストーカーなのか?」

「え、そんな風に見えてるのかい?」

 心外だなあ、と言いたげな顔をしている男は、昼休みの決意をものの数時間で消し飛ばしてしまった。どうして放課後まで屋上に出没するんだよ!

「いやね、一度来たら案外居心地が良くてさ。無意識に足を運んでしまった、というわけだよ」

「邪魔」

「別に君の私有地じゃないだろう」

「それは……そうだけど」

 痛いところを突かれた。確かに僕に屋上の占有権はない。しかし、元々立ち入り禁止の場所なんだぞ。居付いちゃだめだろう。こればかりは僕が正しいのだが、先に居付いた僕がこれを言うわけにはいかない……どこに行っても僕が正しさを主張できない。

「ここが地獄か」

「え、どうして? 今日なんか、良い春の日和だから屋上は気持ちいいよ。天国だね」

「君、空気を読めないって言われたことないか?」

 僕の問いを誤魔化すように笑うということは、このやり取りは経験済みなのだろう。分かっているなら善処したらいいのに。

「はぁ……」

「溜息ばかり吐くと幸せが逃げるよ」

「誰のせいだと……まぁいいや。部活に行かなくていいの? どこの部も三年生は引退に向けて忙しい時期だろ」

「僕は帰宅部だよ」

 予想外の答えに藤本諒を見上げると、珍しく無表情で手に巻いた包帯を撫でていた。

「故障でもしたのか?」

「え?」

「だって、ずっとその手を触ってるから」

「ああ……いや、これはまた別だよ」

 歯切れの悪い言い方はさらに珍しい。別に珍しさを正確に計れるほど、僕は彼のことを知っているわけではないが。

「じゃあ、一年生の頃から?」

「……訊かないんだ」

 揶揄うような口調で言う様子を無視して、フェンスに体を預ける。訊いてほしいと思ってもないくせによく言う。言いたいことはあったが、親切に全部言ってやるのが癪で、鼻を鳴らすだけにとどめておいた。

「蒼生くんこそ、部活はいいのかい?」

「僕も帰宅部だ。あと、さらっと名前で呼ぶな」

「ええ、僕と君の仲じゃない。僕のことも気軽に名前で呼んでくれていいんだよ」

「君と僕の関係は『無関係』だ」

「冷たいなぁ……せめて『クラスメイト』まで昇格を希望するよ」

 クラスメイト……クラスメイト、か。四十名近くの人間がその枠に該当するけれど、ほとんど話したこともない、顔すらまともに覚えていない、というのは既に昨日の一件で明るみになったことだ。その程度の相手に馴れ馴れしく名前を呼ばれたくないのだが……こういう考え方はもう古いのだろうか。

「蒼生くん?」

「……何?」

「いや、昨日から思っていたけど君って考え事してること多いよね。僕の話聞いてる?」

「聞いてるよ……多分」

 確信がないため視線をそらしながら答えると、態々フェンスから身を乗り出して僕の顔を覗き込んでくる。おい、僕に危ないとか言ってたやつはどこの誰だ。

「ところで、帰宅部なら帰らなくていいのか?」

「あ、逃げた」

「……」

「ははは、蒼生くんって意外と分かりやすいよね」

 分かりやすいか……初めて言われたかもな。何考えてるか分からないって困惑されることは、これが僕だからと開き直るくらい経験していたけれど。

「まあ、いいか。質問にお答えすると、帰りたくないからここにいるんだよ」

「じゃあ部活でも入った方が、よっぽど口実になるのに」

「それはそうだけど……色々難しいね」

「君が難しく考えすぎなんじゃない」

「そうかな……うん、そうだったらいいな」

 ああ、余計な言葉だったな。何もない空に向かって薄く笑みを浮かべる横顔を見て、心の中で自身に悪態をついた。これだから、調子に乗って喋り過ぎちゃダメなんだ。

「黙らないでよ。気にしてないからさ」

「……」

「ああ、君は? 蒼生くんは帰らなくていいの?」

「……帰っても帰らなくても変わらない。それなら、ここにいた方が気楽だ」

 少しでも息が吸えるところに、少しでも生きやすいところに。

「そうか……じゃあ、やっぱり僕って邪魔?」

「最初から邪魔って言ってたと思うけど」

「そうだっけ?」

「……」

「また来てもいい?」

「……ここは僕の私有地じゃない」

 何を言っても無駄だろうという諦めが殆どを占める中に、隠し味程度の、案外居心地が悪くなかったという一種の喜び。そんな感情をのせて口にした言葉なのに、何故かこの二日間で一番の笑顔を返されてしまった。それこそ、良い春の日和にはぴったりな温和な表情。

「僕の顔見て硬直しないでよ。何かあった?」

「いいや、別に。じゃあ、僕はそろそろ帰るから……」

「え、もう?」

「塾があるから。またね、藤本君」

「だから、諒でいいってば!」

 必死さを感じる叫び声を背中で受け流して、扉を閉めた。途端に訪れたいつも通りの静寂と埃っぽい校舎が、何故かとても寂しかった。




 目の中に雨粒が入った痛みで、意識が現実に引き戻された。先程まで感じていた春の温もりが、急激に奪われて軽く身震いする。サイレンの音がずいぶん近くなった気がする。でも、もう少し感傷に浸る時間はありそうだ。どうせここに居られるのは最後なんだから、どうせならゆっくり過ごさせてくれ。

そんな願いを抱きながら、そっと目を伏せると、すっかり青々とした葉だけになった桜が見えた。




「桜の下には死体が埋まっている」

「急に何を言い出すんだ、人がお弁当食べてるっていうのに」

 普段から突拍子もないことを言い出すが、今日のはなかなかレベルの高いものだ。そもそも……

「もう桜って時期じゃないだろ」

「だからこそ思い出したんだよ」

「意味が分からない……」

 まともに話すようになってから、早ひと月が経とうとしていた。約束をするわけではなく、タイミングよく屋上で会えば、とりとめのない話をするだけの関係。世間一般の言葉で一言で表すには少々難儀な関係だが、存外僕はこの関係を気に入ってるということは自覚している。そうじゃなかったら、とっくに根城を屋上から移しているだろう。そして、お互いを名前で呼ぶことを暗黙の内に許しもしなかっただろう。

「それで、死体が埋まってるから何かあるのか? よく聞く話ではあるけど」

「元ネタは梶井基次郎の『櫻の樹の下には』だったかな。その一文目が『桜の樹の下には屍体が埋まっている』なんだよ」

「へえ……」

 生憎、現代文の授業でしかまともに古い時代の小説なんか読まないから、大した反応も出来ない。僕の反応が悪いことはいつも通りなので、向こうも大して気にせず話を続けているが、食事中なので死体だのという生臭い話は出来ればやめてほしい。

「目一杯簡単に言うと、桜があんなに美しいのは何か理由があるはずだって考えた男の結論が屍体が埋まっている、だったんだけど、結構この考えは好きなんだよね」

「何で? 花見で歩いてる下に死体とか気持ち悪いんだけど」

「生と死は表裏一体で、桜の樹の美しさには生も死も内包されている。いや、内包しているからこその美しさって考えたら神秘的で面白いじゃない」

「……桜の華やかな色が血を吸った結果とか、ちょっと怖いけどな」

 美しいものには一種の怖さを感じることがあるが、麗らかな春に相応しいあの桜にまで、恐怖要素は要らなかった。しかし、古来より人を惹きつけて離さないあの優美な見目は確かに魔的ではあるかもしれない。特に夜桜見物で見たときは、このまま異世界にでも迷い込んでしまうのではないかと思えるほどだったな。

「蒼生?」

「……何?」

「また物思いに耽って……ちょっとは僕の話を真剣に聞いてくれてもいいと思うんだけど」

「真剣に聞いてたから思考が飛ぶんだよ」

「そういうものかな……ところで、蒼生は何か桜に関して話はないの?」

 桜についての話……花見に行った感想を求められているわけではないだろう。何かあっただろうか。ぼんやりとお弁当に入っていた卵焼きをつまむと、しびれを切らしたのか諒が僕の唐揚げを奪い取った。

「あ、おい」

「人の話聞いてる?」

「聞いてるよ。えっと、桜の話だったよな……ああ、一つある。だから唐揚げを返せ」

「それは話が面白いかによるな」

 勝手に話を振っておいて何様だまったく。たった一ヶ月でこれに慣れてしまった自分の順応性の高さを褒めたいところだ。

「桜と言えば多くの人がソメイヨシノを思い浮かべがちだし、実際全国に植えられてる桜の八割はソメイヨシノなんだ」

「うん、それで?」

「でも、ソメイヨシノは元々最初の一本から挿し木や接ぎ木をして増やしていった、所謂クローン種なんだ。だから、全国のソメイヨシノは皆同じ木を母とする子供たちで、特徴として種が発芽しないから自然に増えることが出来ない。だから人の手がないと生存していけないらしい」

「へぇ……面白いね。はい、唐揚げはお返ししよう」

「満足してもらえたようで何より……」

「ソメイヨシノか……当たり前みたいに見てたけど、蓋を開けてみるとまるで人間みたいな植物だね」

「は?」

 思いがけない言葉に、うっかり返してもらった唐揚げを落としそうになった。そんな僕の様子は見えていないように、愁いを帯びた表情で諒は言葉を続ける。

「植物の多くは人が放置したって、土地に適応して必死に生き延びる道を探す。でもソメイヨシノはそれが出来ない。しなのではなく、出来ない。他人の手を借りないと生きていけないなんて、人間みたいじゃない」

「……別に一人でも生きていけると思うけど」

 世の中、無関係の人間なんて腐るほどいて、クラスメイトのように名称の与えられる関係性だってそう多くない。例え名称を与えられる関係でも、お互い干渉しないことが珍しくない。結局、絶対に必要な関係なんてないと思えてくる。必要だと思っていても、いざ居なくなればなんとかなってしまう……そんなものだ。

「それは違うよ」

 いつも口元に浮かべている笑みを引っ込めて、諒が真剣な眼差しを僕に向ける。何故かその様子から視線を逸らしたくてたまらなくて、でも縫い止められたように動けなかった。

「どんな人間も、誰かが居なければ生きていけない。人間は決して強い生き物ではないんだ」

「……でも」

 我ながら情けなくなるくらい掠れた声を絞り出すと、スピーカーからチャイムが鳴り響いてきた。

「残念、もう休み時間も終わりだね」

「……」

「あ、次の理科の実験って同じ班だったよね。ほら行こう。急がないと先生に怒られるよ」

「……ああ、そうだな」

 先程までの張り詰めた空気はどこにいったのか。あっけらかんと笑う諒に流されるままに口を閉じた。もしチャイムが鳴らなかったら、僕は何と言うつもりだったのだろうか。

「蒼生! 遅刻したくないんだから早く行くよ!」

「……ああ、分かってる」

 やっぱり自分のことは、誰よりも自分が分からない。




「えー、今回の実験の趣旨は水素イオンの移動です。電圧をかけたら、塩酸がリトマス紙にどんな影響を与えて変化するかを見てください」

 教師が実験について説明しているのが、全て右から左に流れてしまう。机を取り囲む他の班員はこそこそと話をする者、真剣に教科書を見る者、説明を真面目に聞く者、こうしてぼんやり周りを見ているだけの者まで多種多様だ。真面目に取り組もうとしている数人が頑張れば、それなりの結果は出るだろう。

「僕は電源装置とってくるね」

「おー、頼むわ」

「あ、諒! ついでにろ紙とかもとってきてよ」

「自分が行け」

 周りの人間と軽口をたたきながらも、自分の役割を見つけて去っていく諒の背中が遠くに感じて、思わず視線を背けた。

「ほら、牧原くんも机の整理を手伝ってよ」

「え、あ、うん」

 ああ、失敗した。団体行動の時は気を張ってなくちゃいけなかったのに、うっかり昼休みの意識から切り替えが出来ていなかった。軽く唇を噛みながら、机の上に広げられていた班員の教科書やプリントを適当に机の中に仕舞う。

「ボーっとしてたら危ないよ」

「……分かってる」

 両手に電源装置とコードを抱えた諒が、帰ってくるなり咎めるような声をかけてきた。背を向けていたのに、状況は把握していたらしい。背中に目でもついてるのか。

「えっと、まずは電気が通りやすいようにろ紙全体に硝酸カリウムをつけて……」

「スライドガラス用意」

 案の定数人が手早く準備しているのを眺めるだけになってしまった。しかし、何もしないというのも居心地が悪いんだよな……経過観察の書記でもやるか。両手塞がってて仕事してますアピールできるし、実際重要な役目だし。そうと決めたら、誰かに役割を取られないようにと筆記用具を取り出そうと、複数人の荷物を乱雑に仕舞ってしまった机の中を漁る。こういう時、本当に自分の雑さを恨みたくなる。

「やっと見つけ」

「痛っ」

「諒、大丈夫か?」

 筆箱を掴んだ瞬間、机の向こうから諒の声がして顔を向ける。一瞬眉間に皺を寄せたものの、声に反応して近付いてくる班員に笑って対応を始めた。

「大丈夫。リトマス紙でうっかり指を切っただけだから」

「うわ、地味に痛いやつだ」

「血が出てるぞ。誰か絆創膏持ってないかな」

「大袈裟だよ。舐めておけば治るって」

「お前、ホントにドジだよな。この間も階段で転んだとか言って頬に湿布貼ってたし」

「そんなこともあったね。あ、僕の血で汚れちゃったから代わりのリトマス紙もらってくるよ」

 心なしか普段より早口で言い残して教卓の方に向かう姿は逃げているようにしか見えなかった。

「そんなに急がなくていいのに」

「転ぶなよ!」

 苦笑いをしながら背中に叫ぶ数人を尻目に、黙々と作業を進めているところに近寄る。すると、机の端の方に先程の騒ぎの原因が置いてあるのが目についた。血の赤が付いた周りが僅かに青く変化した、どこか不自然さを感じる一片の紙。もう要らないだろう、と呟いてごみ箱に捨てた。




 正直、今日は屋上に行こうかどうか迷った。最近では放課後に行けば確実に諒と鉢合わせになる。昼間の一件が、魚の小骨のように心のどこかに刺さって抜けない。あまり本人に積極的に会いに行きたい気分ではないのだが、どうしても訊きたいことがあった。

 軽く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。少し前までは、牢獄のような学校で唯一気楽にいられる場所だったのに、まさかここに来るのに緊張することになるなんて。これで今日は諒がいません、なんてことになったらお笑い草だ。自嘲しながら、何故かこっそり音をたてないようにドアノブを回した。

「何でコソコソしてるのさ」

 扉を開けきる前に声をかけられた。どうやら笑い話にはならないらしい。

「いや、なんとなく?」

「へぇ……てっきり僕に会うのが気まずいのかと思ったよ」 

 はい、図星です。反射的に溜息を吐いた。諒は人が言いにくいことを平気で指摘してくるから、時々深く心が抉られる。自分が言いにくいことは必死に触れられないように逃げるくせに……。

「なあ」

「どうしたの? 妙にかしこまって、まるでお見合いみたいだね」

「お前の怪我って、本当は何なの?」

 茶化すような言葉を無視して切り込むと、しばらくの沈黙の後、思いのほか冷静な声が返ってきた。

「……それは分からなくて訊いているのかい? それとも君なりの仮説があったりする?」

「いや、それは……」

「今まで訊く機会は何度もあったのに、どうして今日だったのかな。昼休みの意趣返し? それとも授業で君が嫌いな『クラスメイト』と仲良くしていたから嫉妬でもした?」

「……」

「……ごめん。完璧に八つ当たりだよ」

 冷たい声とは裏腹な微笑をたたえた表情に気圧されて、言葉を失った。そんな僕の様子を気の毒にでも感じたのか、僅かに困ったような顔をして諒が謝罪を口にする。彼が謝ることなんてないだろうに、だって彼の言ったことは全部……。

「一度察したらもう触れないと思ったのか?」

「そうだね……君は他人に必要以上に踏み込んでこないタイプだと思ってた」

「先に人のテリトリーに踏み込んできたのはそっちだろ」

「……反論の余地がない」

 ぽつぽつと、まるで一ヶ月前のように静かに会話が続く。盛り上がる話じゃない。お互い不可侵として暗黙の内に終わるはずだった、とてもデリケートな部分に触れてしまったから……きっともう後戻りは出来ない。いや今なら出来るけれど、するつもりがない。

「きっと世界規模で探さなくても、日本国内で僕の他に見つけられるようなことだよ。ちょっと面倒な父親がいるだけ。母親は顔も知らない」

「……外の大人を頼ればいいのに」

「家庭の問題に踏み込むのを社会は嫌がるから。それに僕はそれを望んでない」

「どうして……」

「……人は一人では生きていけないから」

 まるで幼子に言い聞かせるように、ゆっくり噛みしめるように紡がれた。

「確かに人間同士の繋がりって、蒼生が思うように薄っぺらなものだってあるよ。僕の家のことを近所の人は腫れ物のように扱って、誰一人として触れてはくれない。巻き込まれたら困るから、自分の人生には直接関係ないから、所詮は他人だから……理由なんて知らないけど、行動は共通してる。僕もずっと自分は一人で生きていくんだと思ってた」

 でもね、と幾分か明るい声音で叫ぶと諒が僕の顔を覗き込んできた。普段通りの楽しくないときでも顔に張り付いている笑みで、凛とした瞳が僕を絡めとった。

「無理だったよ」

「何が?」

「一人で生きていくこと。僕にはそんな力が無かった。家を出て自力で生きていくことなんかできない。頼れる大人もいなくて、先を想像できないのに今の生活を手放すことなんて出来なかった。怪我すると痛いし、体操服に着替えるとき散々気を遣うし、服で隠れない位置に怪我したとき面倒だけど……黙って大人しくしてたら学校も行けるし、ちゃんとご飯は食べれるし、周りを誤魔化せる程度の生活は送れるんだよ」

「だから、このままでいい?」

「うん」

 きっと、こう考えるまでに諒の中で葛藤はあったんだろうと思う。僕になんか想像できない世界で、ひたすら自分にとっての幸いは何かと。想像できない。僕にはかける言葉なんて思い浮かばなかった。

「そんな顔しないでよ。僕がいじめたみたいじゃない」

「……ごめん」

「いや、更に僕が悪いように感じる。蒼生だって一人でずっと悩み続けてることくらいあるでしょう? 同じだよ」

「規模が大分違う」

「同じさ。他人にとってちっぽけでも、自分にとって大切な事なんてザラにある」

「お前、本当に同い年か?」

「実は5歳くらい年上だったりして」

「嘘つけ」

 お道化たように言う諒に、僕も重い空気を飛ばすように応えた。乾いた笑い声をあげていると、まるでそれを潤すように頬に水が伝った。

「あ、雨だ」

「もう梅雨だからね……傘ある?」

「ない」

「じゃあ貸してあげるよ」

「いいよ、濡れて帰るから」

 今の泣きそうな顔を誤魔化すには雨に当たるのが丁度いい。

「ダメだよ、風邪ひいちゃうから」

「……そうだな。じゃあ、諒の家まで相合傘でもしていくか」

「え、それは嫌だ」

「なんだよ。濡れて帰らないだけいいだろ。まあ、風邪とはここ最近無縁だけどな」

「どこかで聞いた台詞だなあ」

 次第に強くなる雨足の中で声を上げて笑う僕らは、傍目から見たら変な奴だろう。でも、そんな些末なことは気にならなかった。 

「ああ、笑った。数日分くらい笑った」

「びしょ濡れで気持ち悪い」

「もう傘なんて話じゃないね。まあいいや、少し疲れたから休んでから帰ろう」

「雨の中で?」

「今更じゃない」

 疲れたとフェンスに背を預けて座る隣で、校庭を見下ろした。桜の季節は終わり、次は自分たちの天下だと言わんばかりに紫陽花が涼やかな青色を咲かせている。

「何か見えるの? またぼんやりしてる」

「いや、ただ紫陽花が咲いてると思って」

「そんな季節だね。僕の家にも紫陽花が植えられてるよ。あの父親が植えるわけないから、多分母親が好きだったんだと思う。でも、家のは青とピンクが混じった色なんだよね……学校のとは品種が違うみたいだ」

「どうだろう、もしかしたら同じかもしれないよ」

「え?」

 立ち上がって紫陽花を見た後、僕の顔に視線を移して軽く首をかしげる。

「どうして? 僕の家の紫陽花は見たことないでしょう?」

「紫陽花は花言葉が『移り気』にされるくらい落ち着きのない花なんだよ。時間がたつと次第に老化していくみたいに色は変化する。あと、土の酸度によっても色が変わってくるんだ」

「土の酸度?」

「そう、紫陽花の花の色を決める色素と関係あるらしいよ。確か酸性が強いと青で、アルカリ性が強いと赤っぽい色だったかな」

「へぇ……ソメイヨシノといい、蒼生は植物について色々知ってるね」

 諒は感心したというように何度も頷く。しかし、僕は素直に喜べないような複雑な心境で紫陽花を見ることしかできなかった。

「何かあった?」

「うーん、昔から植物には好きだったんだ。でも、男がそんなものって兄弟に言われて、学校では好きな事だからって語り過ぎて引かれて……話すのが好きじゃなくなった」

「……」

「好きなものを好きと言えなくなったら、突然何を話していいか分からなくなる。そのうち、ただ自分の中で満足してコミュニケーションを億劫に思うようになっていった」

 諒に比べたら、本当にちっぽけな傷だ。ただ自分が臆病なだけ。弾かれるのが嫌で黙ったはずなのに、結局一人になっていた。捻くれて、背を向けて、逃げ続けているだけ。

「今、蒼生が思ってることを当ててあげようか」

「やめろ。一字一句違わず当てられたら凹む」

「さっきも言ったけど、悩みも痛みも他人と比べるものじゃないよ。傷つけられた側が痛いと思えば、傷つけた側の言い分なんか関係ない。痛いものは痛い」

「そういうものかな……」

「当たり前だろ。それに、別に男が花好きでも気持ち悪くないから。何事も知らないより知ってる方が良いに決まってる。実際僕は、蒼生の話を聞いて面白いと思ったしね」

 乾いた土に雨が染み込むように、諒の言葉が自分の頭に入ってくる。本当に……雨が降っていてよかった。むず痒くなった鼻を乱暴にこすっていると、隣から盛大なくしゃみが聞こえてきた。鼻をすすって身震いする諒のほうが風邪をひきそうだ。

「ほら、そろそろ帰ろう」

「そうだね……実はかなり寒い」

「もっと早く言えよ、馬鹿」




 力強い一種の騒音ともいえる音が耳に突き刺さった。駐車場のほうを見ると、雨でにじむ視界で赤いパトランプが異彩を放つ。どうやら、もう時間はないみたいだ。僕がここに入り浸っていたことを知っている人間は、諒以外にいないと思うけど……誰も見ていないことはなかっただろうし、監視カメラでも動かしたら見つかるかもしれない。そっと遠くに見える深紅の光に手を翳す。残念ながら光が弱すぎて、ただボロボロになった指先が見えるだけだった。割れたり、端に土が入り込んでボロボロになっていたり、すっかり汚れた手だ。

でも、後悔はしていない。




 あの日、本格的に梅雨入りしたとニュースでは流れたが、そうは感じられず、久々の雨だった。そしてあの日以来、全く顔を見なくなった者が一人。

「藤本は熱が下がらないらしくて、今日も休みだ」

 風邪をひいたと担任の口から聞いた時は、ただお大事にとだけ思っていた。僕自身も少し喉が痛かったため、やっぱり雨に当たり過ぎるのは体に毒だと実感していた。しかしそれも、三日四日と続けば流石に心配になってくる。ついに今日は五日目だ。ここまで続くとただの風邪じゃないか、あるいは別の理由があるとしか思えない。もし前者なら話し込んでいた僕にも責任があるし、後者なら何か助けられないかと思う。

「まずは、諒の現状把握からだな」

 恐らく身近で一番知っていそうなのは、毎日電話対応しているであろう担任教師だろう。そう決めると、朝の連絡を終えて教室を出ようとした先生を捕まえる。

「どうかした?」

「あの、りょ……藤本君がずっと休んでるから……その、そんなに酷い風邪なのかなと思いまして……」

 しどろもどろになりながら質問してたら不審者みたいだな。でも反省は後回しにしよう。先生は質問に対して、驚いたような顔をしつつ口を開いた。

「まさか真っ先に尋ねてくるのが君とはな……あー、藤本の容体だっけ。私も詳しくは知らないんだよ。毎度電話をかけてくるのは親御さんだから、本人の声はきいてない」

「え……」

「気になるなら、溜まったプリント届けるついでに顔見てきなよ。確か近所でしょう。藤本君も助かると思う」

「……」

 先生は諒の家のことを分かっているのだろうか。何か先生が話を続けているようだが、頭には入ってこなかった。心ここにあらずな僕のことを気付いていないのか、面倒だから無視されたのか、特に触れられることなくプリントの束を押し付けられた。

「……まあ、いい口実が出来たか」

 担任まで事情を正確に把握していないならば、実際に家を訪ねるしかないだろう。虎穴に入らざれば虎子を得ず……とって食われることはないと信じるしかない。

 放課後、傘を差しても横から吹き付ける雨で体や鞄が濡れる中で自然と重くなる足取り。先生の話を信じるなら、まだ諒はただの風邪だと信じてる奴等ばかりなのだ。勿論、僕の心配なんか杞憂であることが何よりだけど、心配し過ぎることはないだろう。

「……もし家で父親に鉢合わせたらどうしよう」

 雨が酷く、交通網に支障をきたしていると学校で流れた放送を思い出した。僕は社会人じゃないので分からないが、もしかしたら会社なんかも早く終わっているかもしれない。そんな展開は願い下げだ。

「はぁ……気が重い」

 ぎゅっとファイルにまとめた届け物を片手で抱きしめる。最早、これを届けるという使命感のほうが強くなってきた。しかし、どんなにゆっくり歩いてもゴールというものは訪れてしまう。電気がついていない様子の一軒家がひっそりと佇む様子は、さながらホラー映画の一幕のようにすら感じる。二階から突然四つん這いの女性が出てきませんように。

「すみませーん……」

 インターホンを鳴らして声をかけてみるが、全く応答がない。風邪をひいているなら諒が寝ているはずなのに……それとも入院しなくてはいけないほど悪化したのだろうか。

「誰かいませんか……」

 少し強めに扉を叩いてみるものの、やはり静まり返ったままだ。どうしたものか、父親が帰ってくるのを待つべきだろうか……会いたくないけど、そうしないとなにも解決しないんだよな。深く息を吐いて、軒先に体を滑り込ませた。雫の垂れる髪や濡れた肌を適当にハンカチで吹きながら辺りを見渡すと、玄関の脇に鮮やかに咲く夾竹桃が見えた。花や葉、茎や根に至るまで強い毒性を持つ植物で、周りの土壌にも影響するため結構扱いに注意しなければいけないはずだ。母親は確かに花が好きだったのだろう。綺麗な花を見たおかげか、少し緊張が解れた。そういえば、紫陽花も咲いているんだったか。少しだけなら、チラッと見るだけなら許されるだろう。

 軒先から出て庭を覗くと、玄関とは違ってずいぶん荒れた庭が広がっている。まるで何か暴れたみたいに土が踏み荒らされて、スコップは放り捨てられているし、鉢植えは幾つか倒れている。その中で、奥の方に一株だけだが、見事に咲き乱れる紫陽花があった。

「あれ、確か中性に近いんじゃなかったか」

 目の前で存在を主張する色は、どの角度から見てもピンクだ。全体的に青色はあまり見られない。

「……」

 ゆっくり足を紫陽花に向けて踏み出した。まるで何かに誘われるように、地に足がついていないような覚束ない足取りで。目の前に立つと、根本の土だけ色が違うことがはっきり分かった。その周りの足跡だらけの地面も赤黒いなにかがこびり付いているようだ。せっかく咲いているのに、迷惑だっただろうな。そんなどうでもいいことを考えながら、しゃがみこんで土に手を埋める。濡れた土が爪の間や指の皺にぬるりと入り込む。傘を捨てたため、シャツが水を吸ってズンと重くなる。水が目に入って上手く開かなくなっていくなかで、ただ夢中で手を動かした。

 何もなければいい。根の堅い感触が触るだけでいい。全て僕が心配性すぎただけ、あと数日経てば元通りにすべて日常に帰化していく。そうであってほしい。

 土に混じっていた石で指が切れた。すっかり茶色になった手では、今更赤が入っても大して変わらない。ただ少し痛いと思っただけ、無心で動く手はそんなこと気にしない。やっぱり僕の思い過ごしだ、と僅かに安堵した瞬間だった……石や根の堅さではないものに触れたのは。

「は、は、は」

 自然と鼓動が早くなる。血を流した手より、負荷のかかった心臓のほうがはるかに痛い。震える唇を噛みしめて、そっともう一度土の中に手を突っ込むと、触ったものの表面を撫でる。冷たくて、石ほど固くはないけれど、弾力のないまるで生の鶏肉のような……。

「おい!」

 背後から響いてきた怒鳴り声すら、その時の僕には気にならなかった。ただ、早くこの冷たい牢獄から出してあげないと、と必死になっていた。突然、シャツの後ろ襟を掴まれて引き倒されると息が詰まる。咳き込んでいる僕の体に馬乗りになった男は、笑っていないこと以外、諒にそっくりな顔だった。

「誰だ、お前。あのガキの知り合いか?」

「……」

 ガキ、ガキか……その程度のものだったのか。

「やっぱり風邪で通すには限界か。面倒くさいな、簡単に壊れやがって」

「……諒は」

「あ? 人が忙しいのに風邪なんか引いて、自分の役割も果たせない癖にへらへら笑う奴なんか鬱陶しいだろ」

 ああ、風邪をひいたのは本当だったのか。

「お前もどうしたもんかな……まあ、今更地面の肥やしが増えたところで何も変わらねぇか」

 一人では生きていけないからと向き合い続けた結果がこれか。

「自分の運の悪さを恨めよ」

 首にかけられた手が一気に酸素の流れを絶つ。つい数分前の気力はどこに行ったのか、手が上手く動かない。薄れていく意識の中で、目の前で薄ら笑いを浮かべる男の顔。顔立ちはそっくりなのに、諒の笑顔とは全く違う。


 ああ、気持ち悪い。


 急に体の主導権が戻ってきたようだった。火事場の馬鹿力、というやつだろうか。適当に手元にあった何かを掴むと、勢いよく相手の側頭部にぶつけた。小さな悲鳴を上げて首から手が離れると、一気に空気が喉を通って噎せた。苦しいのを押し込めて、もう一度手の中のものを頭めがけて振り下ろす。

「傷つける側の人間は痛みが分からない」

 呻いてぴくぴくと痙攣している。まだ生きてる、と無意識に腕を上げた。

「本当にそうなんだな。僕にはお前の痛みなんて分からないよ」

 一切動かなくなった屍体。役目を終えたと悟ったのだろうか、手の中のものが地面に零れ落ちた。きっと遺棄したときに使ったであろう手持ちスコップだった。今まで、植物を生かすときにしか使用してこなかったそれはあっという間に凶器に様変わりだ。

「お前に諒の痛みなんか分からないんだろうな」

 僕にだって分からない。偉そうなこと言えない、救われたのは結局僕だけだった。最初からずっと……。初夏になったのに、春のように不安定な思考。しばらく目を閉じて気持ちを落ち着けると、紫陽花の方に向き直る。力なく土の中から覗いている青白い手をそっと握った。

「もう少し我慢して……頑張るから。一緒にいこう。もう、こんなところに居られないよ」

 どこがいいかな、なんて悩みようもないな。やっぱり、僕らといえばあそこしかない。




 諒の遺体は学校の桜並木の下に埋めた。きっと来年の桜は例年より爛漫に咲き誇ることだろう。それが見られないことだけが心残りだ。雨で霞んだ少し遠い大樹をみて唇が緩んだ。そろそろ僕はタイムリミットだろう。誰にも邪魔されないうちに終わらせないと。

 降り止まない雨は始まりの日と同じ、僕がここに来た理由も……あの時と同じ。

「僕が嘘をついてたのなんて、諒には分かってたんだろうな」

まるであの一言で時間が止まっていたように感じる。でも、もう僕の名前を呼んでくれる人はいない。止まっていた時計の針は再び動き出した。

「ありがとう。もし次があったらまた……」

座っていた体を前に投げだして、思いっきり手を突き出す。諒のいる方へ、今度は僕が手を伸ばした。


 


 

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中性 卯月 @kyo_shimotsuki

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