五
翌日、登校した俺は性懲りも無く第三職員室の扉をノックした。
「――講堂?」
「ああ。日向から聞いたんだが、今使っていないんだろ?」
「そうね」
相変わらずタバコをふかしながら絵理子が答える。
「中がどうなっているのか、お前知ってるか?」
「さあ? もうずいぶん使ってないみたいだし、わからないわね」
昨日、日向の力を行使して入室した俺にとっては意味の無い質問なのだが、注意しないと不法侵入の自供になってしまうので会話は気を遣う必要がある。
「できればあそこを使いたいんだが」
「あのね、私だって校内で干されてるの。頼めばなんとかなると思ってるなら大間違いよ」
そんな悲しい事実を堂々と言われると、こちらもなんだか申し訳無くなる。
「鍵はどこが管理しているんだ?」
「事務室じゃない?」
「わかった」
そのまま退室しようとすると「待ちなさい」と引き留められる。
「あなた、この間入院していたときに看護師さん達からどう思われてたか覚えてないの?」
「なんだよ、藪から棒に」
「事務室の職員もあなたのことをリアル不審者扱いしてるの。通報されたい訳?」
「どうすりゃいいんだよ!」
毎日丁寧に事務室で来校手続きをしているというのに、何が不満なんだ。
「もしも今後部活が続いていくなら、ちゃんと俺のことを説明しないとダメだろう。この際だ、それも含めて伝えに行くよ」
そこで俺は、一つ疑問が沸いた。
「あのさ。確認するまでもないけど、他の先生達には俺のことってちゃんと伝わっているんだよな?」
「ああ。まあおいおいね」
「おいてめえ」
「何よ」
悪びれもせず紫煙を吐く絵理子に、とうとう俺も堪忍袋の緒が切れる。
「入学式まで、もうあと四日だぞ!? ただでさえリアル不審者とか言われている男がいきなり体育館に現れたら、それはもう事件だろうが! 頼むからそこはしっかり周知しておいてくれよ」
というか、今さらだがリアル不審者ってなんだ。
「そんなことはわかってるけれど、いざ職員会議に出ると発言しづらいのよ! 干されてるんだって何回言わせれば気が済むの!?」
「こんな狭い部屋でタバコ吸いまくってたら、そりゃ干されるに決まってんだろ!」
「それは関係ないでしょ!」
「……いい大人が、そんなレベルの低い言い争いしないでよ」
いつから現れたのか、入口に立っている日向が口を挟んだ。
「さっき理事長室の横を通ったけど、中にいるみたいだったよ? 一番頼みやすいんじゃないの?」
呆れたような顔で提案する日向の言葉に、俺と絵理子は顔を見合わせた。
「そ、そうだな。さすが日向だな!」
俺が雑に褒めると、日向は心底蔑んだように俺を見ながら舌打ちした。
「……もしもし。はい、狭川です。突然申し訳ありませんが、秋村の件で。……はい、はい。今からよろしいですか? ありがとうございます。では本人を向かわせます。すいません。はい、失礼します」
内線通話を終えた絵理子が受話器を置く。
「これでいい?」
「なんでお前が偉そうなんだよ」
俺の文句が聞こえないふりをして、絵理子は無視を決め込んでいる。
「ああ、そういえば全国大会の音源って――」
「あなたに聞く資格があるとでも?」
「……そうだな」
最後まで険悪な雰囲気のまま、俺は職員室を後にした。やれやれといった感じの日向の視線が痛かった。
♭
「――講堂、ねえ」
理事長室は、汐田のいる校長室と比べると幾分か質素であった。私立である翡翠館高校において理事長の渋川は経営のトップだ。必要以上の金は使わない主義なのだろう。それだけ聞くと汐田への嫌味にも思えるが。
ブラウンのスーツに身を包んだ渋川は、次の職員会議で吹奏楽部と俺の件について他の職員に連絡すると約束してくれた。それは良かったのだが、講堂の話題になるとあまり反応が芳しくない。
「俺がいた当時、よく使っていたのは覚えていらっしゃいますか。もしも全く手つかずなら、是非利用させていただきたいのですが」
「ああ、もちろん覚えているよ。だがねえ……」
どうも歯切れが悪い。
「いや、君に言うのもなんだが……」
「なんです?」
「あそこは、かつて君が刺されたところだろう?」
「――あ」
俺は間抜けな声を出した。
「刺された張本人が良いなら構わないんだが……。今は肝試しくらいにしか使われてないよ。そんなところで何をするつもりか知らんが、得策ではないんじゃないか?」
部員達に過去を語っておきながら、何故忘れていたのだろう。その日も、吹奏楽部は講堂で練習を行った。例の事件は、練習後に戸締まりをした俺が音楽室へ戻ろうとする最中に起きたのだ。あの薄気味悪い道中が文字通りの事件現場なのだから学校の怪談になってもおかしくないし、いろんな意味で肝試しに最適である。渋川が言うように、被害者である俺に怨念は皆無なので心霊現象が起こることは無いと断言できるが、校内の人間の印象は最悪に近いのかもしれない。
「……それであんながらんどうに」
「ん?」
「いえ! あの、中を見せていただくのは可能でしょうか?」
「はあ。君も頑固な男だ。あの頃から変わってないな、全く」
渋川はため息を吐いて、自らのデスクの引き出しを開けた。
「ほれ。講堂の鍵だ」
まさかそんなところに保管されていたとは思わなかった俺は、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
「あの時、君は意地になって犯人探しを拒んだだろう。だからこそ最後まで誰がやったかわからず終いだったが……。校長としては、生徒を守れなかったことが悔しかった。それ以来、あの場所が苦手になってしまってね。卓球部が廃部となった五年前に、私自身があの場所を封印したんだ」
当時、俺は精神的に困憊していた。刺されても仕方の無い人間だと思っていたし、なんなら今もそう思っている。だから、俺みたいな人間のせいで人生を棒に振る生徒が出るくらいなら、俺が身を引こうと思っていたのだ。
「さすがに、君自身が忘れていたとは思わなかったけどね。はっはっは」
渋川の乾いた笑いが室内に反響する。
「わかった。どうせ誰も使っていないからな。好きにしなさい」
「ありがとうございます。中にある物も借りていいですか?」
「ん? あの部屋にそんな有用な物があったかな? まあ、いいだろう。何年も使っていない代物だろうしな」
若干、不審な目で見られたので冷や汗をかいたが、なんとか怪しまれずに承諾を得ることができた。
「感謝します。校長室での件も含めて、本当にありがとうございます」
「ははは。その時も言っただろう? 私は翡翠館高校吹奏楽部のファン一号だからね」
不覚にも少し目頭が熱くなった。
「……とはいえ、依怙贔屓にも限度がある。与えられた課題をクリアするのは、あくまで君達自信だよ」
しっかりと釘を刺してくるあたりは、さすが理事長だ。
「わかっています。きっとあの頃の演奏を取り戻してみせます」
「そうか。それは楽しみだ」
柔らかく笑った渋川に一礼した俺は、そのまま理事長室を去った。
♭
果たしていつまで太陽が拝めないのかと憂鬱になるくらい、今日も今日とて曇り空である。
「で、何に使うの、それ」
今度は合法的に講堂の中に入った俺達は、昨日入り口の辺りに寄せておいた布の塊を見下ろしていた。
「もちろん、練習に使うんだよ」
ここに来る途中で立ち寄った倉庫から台車を拝借した俺は、せっせと布を積んでいく。壁際のガラクタを覆い隠すための布を残し、一旦扉を閉めて音楽室へと向かう。
車輪のネジが緩いのか、台車があまりにもガタガタとうるさかったので、音楽室に近づくと何人かの部員が俺に気がついて寄ってきた。
「ちょうどいい。みんなでこれを床に敷いてくれ」
「何これ?」
たまたま近くにいた淑乃から声を掛けられる。
「たぶん、昔使ってた暗幕だろうな」
真っ黒の布は適度な厚みがあり、第二音楽室の床を一面に覆うだけの量もある。
「とりあえず管楽器達の座るところを埋めればいい」
不思議そうに布の塊を見つめる部員達へ指示を出した俺は、そのまま音楽準備室へ入った。机の上には、自宅から持参したアイテムが置いてある。こちらは布ではないが似たような物で、ロール状になったシートだ。
「それはなんなの?」
様子を窺っていた日向から問われた俺は「吸音材だ」と答えた。
「キュウオン?」
「字の通り、音を吸い取るんだよ。防音のために使うシートだ」
「……生徒会長に騒音って言われたから対策するってこと?」
「違うよ。防音扉があるんだから外のことはどうでもいい」
「じゃあなおさらわからないんだけど」
「このあとの合奏を聞けばわかるさ」
俺はシートを持って再び音楽室に戻った。布を敷く部員を横目に、窓へ吸音材を貼り付けていく。枚数が多くないので、たいして時間もかからず作業は終わった。
「秋村さん。いったいどういうつもりですか? 黒魔術でも試すんですか?」
真面目な顔の玲香が質問してくるので面食らうが、たしかに室内がほとんど黒一面になってしまったので彼女が言いたいこともわからないではない。
「日向を生き返らせるか」
「笑えません」
「……」
軽口を叩いたら睨まれた。
「――よし、十五分後に基礎合奏を始めるからみんなを集めてくれ」
誤魔化しながら部員の招集をかけ、俺はそそくさと準備室へ戻る。
「防音効果を出す素材には、遮音材ってのもあるみたいなんだ。でも遮音材は室内で音を反響させることで防音する素材らしい。逆に吸音材は、さっき言った通り音を吸収する物なんだ」
「ふうん?」
俺の意図がわからない日向は、訝しげに俺を見つめいている。
「試合では金属バットを使う野球部が、木製バットで練習するのと似たような原理だよ。敢えて反発力を下げることで体に負荷をかけるんだ」
「それが音楽となんの関係があるの?」
「今の音楽室で普通に楽器を鳴らしたら、響きが吸い取られて芯しか無い音になるのはわかるだろ? そうすると、どんなことが起きると思う?」
「……さあ?」
「まあ、聞いてみればわかるさ」
菜箸とメトロノームを持った俺は、音出しをしている部員達の横を通って指揮台へ上がった。音出しの時点で、俺の目論見通り響きが吸い取られている。
チューニングを終えたバンドを見渡し、俺はメトロノームのゼンマイを巻きながら口を開く。
「いきなり不思議な空間を作って戸惑っていると思うが、とりあえずロングトーンを一オクターブやってみてくれ。八拍伸ばして四拍休みで頼む。音量は、フォルテシモで」
指示を飛ばすと、皆は困惑した顔を浮かべながらも楽器を構える。
「一、二、三」
掛け声に続きロングトーンが始まった。
全部で八つの音を昇っていく訳だが、二つ目の音を吹き終えた段階で既に違和感を感じている部員がいるようだった。四拍ある休符の間、戸惑った顔をしている。
「はい、お疲れ」
ひとまず最後まで吹き終えた一同を労うが、全員肩で息をしていた。
「今まで基礎合奏を適当にしていたツケが出たな」
俺がふてぶてしく笑うと、訳がわからないといった視線の集中砲火を浴びる。
「フォルテシモってどういう意味だ?」
「非常に強く、です」
玲香が答える。さすがにそのくらいはわかるようだ。
「今のロングトーン。どこがフォルテシモなんだ? それから、しっかり八拍目の最後まで伸びていた音が一つも無かったどころか、どの音もどんどん減衰していたぞ。音程もけっこう怪しかったな」
つまり、良いところが皆無である。
「こんな響かない部屋で吹いたら、そりゃそうなるでしょ!」
皆を代表して淑乃が反発した。
「逆だ」
「……は?」
「今までが、響きに頼り過ぎなんだよ。初めて合奏したときに思ったんだが、この部屋は第一音楽室よりも異常に響く。お前らは自然と、楽をしながら演奏していたって訳だ」
「そんなつもりは無いんだけど」
ホルンを抱えながら、芽衣が口を挟む。
「無意識でもそうなるのが自然なんだよ。演奏する『箱』に合わせてしまうんだ。普段のお前らなら一オクターブのロングトーンくらい朝飯前だろうに、フォルテシモっていう指示を出しただけでこの有様だろ?」
「でもこんな環境で演奏する機会なんて無いですよね?」
今度は優一が質問してくる。
「それも考え方が反対だ。こんな負荷のかかる環境でもまともに演奏できるバンドが、音響のしっかりした場所に行ったらどうなると思う? 例えば、
ようやく、皆が俺の意図に気がついたように目を見開いた。
「響きっていうのは、もちろん必要不可欠だよ。でも、頼り過ぎると楽器そのものが鳴らなくなる。ブレスが管の先まで通らない、口先の演奏になるんだ。この場所で普通に練習するだけでも、そんな演奏になってしまうんだよ」
楽器が鳴らないから、強弱の幅が減る。少ない幅で表現をしようとしても、聞いている側は変化がわからない。普段通りにここで練習を続けていては、体育館という箱に負けるだけだ。
「現地ではリハーサルもできないだろうしな。だから、荒療治だができる限り響かない箱を作ったって訳だ」
体育館はむしろ響き過ぎるくらいだろう。
「もし昨日みたいな演奏を体育館でやったら、輪郭のぼやけたよくわからない楽曲がこぢんまり鳴っているって感じになるだろうな」
昨日から昔の演奏を聞き漁っている彼らのことだ。自分が聴衆だとして、俺の喩えた演奏がどのようなものか容易にイメージできるのだろう。さすがの淑乃も、若干引き攣った顔をしている。
「とにかく楽器を鳴らす。吹き終わりまで息を使う。今まで以上に耳も使って音程を合わせる。それを意識してもう一度」
再びメトロノームを動かすと、部員達はぱらぱらと返事をした。
「一、二、三――」
その日は、これまでの負債を返済するが如く、基礎練習漬けになったのだった。
「……あんたの考えることはわかったけどさ。曲の練習をしなくて大丈夫なの?」
合奏後、日向に尋ねられた俺は、指揮棒をしまいながら軽く息を吐いた。
「一通り譜面は読めているみたいだから、残り三日でできる限りのことはするよ。もともとのポテンシャルが高いから、明日には今の第二音楽室にも慣れるだろ。もし実力の乏しいバンドなら、敢えてこんな負荷をかけた練習はしないさ」
耳を使え、と指示するのは簡単だが、ある程度の音程感が無い者には指示の意図すらわからないだろう。ピアノの音程が完璧なのは調律師が仕事をしているからだが、管楽器の場合は奏者自身が調律師だ。歌唱と同じで、音痴な奏者が混ざっていれば曲にならない。
その点、彼らはひとりひとりがまともな音程で演奏できるので、周囲の音を聞くゆとりがある。響きの無い音だと少しの音程のズレでも耳障りになることを理解した上で、集中力を持って練習できていたのだ。
また、これまでの練習量がやたらと多いおかげで、高校生らしからぬスタミナもある。単調な基礎練習が嫌いな者は一定数いてもおかしくないのに、誰一人最後まで手を抜いていなかったことも驚愕である。
「あいつら、本当にたいしたもんだよ。俺が偉そうに言えた立場じゃないけど」
「音楽しかないからね」
褒めちぎった俺を傍目に、日向は寂しそうに呟く。
すると、音楽準備室と第二音楽室を繋ぐ扉が突然開いた。
「あの」
「……ノックをしなさい」
俺の前に現れたのは、部長の玲香だ。
「当日なんですけど、お願いがあるんです」
「ん?」
玲香は相変わらず無表情のまま、唐突にそう告げたのだった。
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