第7話 前編

 ガタン、と何かがぶつかるような音がして目を開いた。音のした方へ目を向けると、水咲が忙しそうにリビングを歩き回っている。スーツを着た彼女が家にいるということは、まだ早い時間らしい。うっすらとテレビの音が耳に入った。



「あれ、しーちゃん起こしちゃった? ごめんね」



「いや……大丈夫」



 こちらを覗き込む水咲の顔は、輪郭がぼんやりしていてはっきり見えない。何度か目をこすると、徐々に視界がはっきりしてきた。



「今日帰ってくるの遅いかも、しーちゃんは家にいる?」



「いると思うけど……あつ」



「あっ、ごめん、エアコン切っちゃった」



 そう言うと、水咲はベッドにリモコンを置く。そのまま鞄を肩にかけると、パタパタと扉の方へと向かった。



「じゃあ行ってくるね、ちゃんとご飯食べてね」



 水咲の言葉に軽く手を上げ、彼女がリビングの扉を閉めたのを確認してエアコンのスイッチを入れる。ゴーッと派手な音を立てて、エアコンがのろのろと部屋を冷やし始めた。


 起こした体をまたベッドに横たえ、じっと目をつぶる。瞼の暗闇の奥に、ちらちらとカーテンから差し込んだ光が映った。耳に入るテレビの音は、7時15分を告げている。アナウンサーが淡々とニュースを読み上げている声が妙に眠気を誘って、俺は夢と現実の間をうろうろしていた。


 今日は学校に行かなくても良いし、急ぎで書くべき書類もない。就活はいつだってやらなければいけないことのリストに入っているけれど、こんな朝早くから動かなくてもいいだろう。就活、と一言でまとめておきながら、それに費やさなければいけない時間ややるべきことが多すぎるのは詐欺だろ、なんてどうでもいいことを考えながら、俺はまた眠りに落ちた。


 次に目を覚ましたのは、もう11時になる頃だった。ベッドから動きたくなくて、つけっぱなしだったテレビに目を向ける。画面に映っているのはなんらかの専門家と、最近人気らしいアイドルだ。どちらも名前は知らないし、目がかすんで彼らの前に置かれた名札が見えない。


 カメラが切り替わって、もう1人見えない場所にいた男が映し出された。この人は番組の司会なんかでよく見かける。やっぱり名前は覚えていないけれど。出演者はこの3人で全員らしかった。


 彼らは何やら難しい顔をして、ぼそぼそと話をしている。寝起きの頭ではよく聞き取れなかったけれど、「人魚」という単語だけが耳に入ってきた。


 こんな大人が真面目な顔をして人魚の話なんてしているのか、と疑問に思い、改めて画面をじっと見る。その右上には毒々しい赤色で、「再び話題になった人魚騒動」と書かれていた。


 どこかで聞いたことのある単語だった。昔何かで話題になったような、よく覚えていないけれど。



『そんな人魚騒動ですが、改めて詳しく内容を見ていきましょう』



 段々目が覚めてきて、司会の男性の言葉がはっきりと聞き取れるようになってきた。画面にパッと文字が映し出される。人魚騒動とやらの概要が書かれているようだった。



『先ほどもご説明しました通り、人魚騒動というのは、女性たち6人による集団自殺に関する一連の騒動です。海に入った彼女たちの中で生きて発見されたのは1人、残りの方は全員遺体で発見されました。


 その事件の中で見つかったブログが、当時ネットでは話題になりました。


 生存者の1人のものだと思われるブログが見つかったのです。そのブログはこの事件の1年前から開設されており、彼女たち6人はこのブログを通じて交流をしていたそうです』



 ブログ、と聞いて記憶がよみがえった。俺も当時そのブログを見た気がする。SNSで拡散されていて、気になって開いたのだった。



『そして騒動から5年ほどが経った今、再び彼女のブログが更新されました。そこには、どうして集団自殺をしたのか、どういう気持ちで海に入ったかなど、彼女の心情が綴られています』



 俺はテレビの画面から目をそらし、スマホを手に取る。それから何となく、興味本位で検索窓に「人魚騒動 ブログ」と打ち込んだ。パッと検索結果が表示され、いくつかのまとめサイトを飛ばしてスクロールすると、下の方に「みるダイアリー」と書かれたリンクを発見した。


 親指でタップし、ブログを開く。たった5年前のものとは思えないほど古臭いデザインのブログが表示された。開設自体は6年前らしいし、その頃はおしゃれだったのかもしれない。


 やたらと目に痛いピンクの背景の真ん中に「お久しぶりです」というタイトルのページがある。そこから下にはつらつらと、彼女自身の言葉が書かれていた。



『お久しぶりです。みるです。


 5年前の事件から、このブログにもたくさんの心配の声が届きました、ありがとうございます。久しぶりにコメント欄を見てびっくりしました。


 あの頃は、なんだかずっとぼうっとしていて、まるで水の中から世界を見ているような心地でしたが、あの事件から目が覚めて、ここのことも忘れていました。久しぶりに会った友人から当時のことを心配され、このブログの存在を思い出しました。それで、久しぶりに当時を振り返って日記を書いてみたいと思ったのです。


 6年前、私はなんだかひどく水に触れていたくて、よく海の底で眠る夢を見ていました。その話は過去のブログにも書いていると思います。死にたいというよりも、海に入りたかったのです。その中で住む魚のように、海の中で暮らしたかった。ずっと冷たい海水に触れていたかった。


 けれど哀れな人間は、水中で呼吸ができません。そんな願望を抱きながらもままならない生活に、私はどんどん現実での意識がぼんやりしていきました。水に触れるたびに海へと思いをはせてはぼんやりする暮らしを送っていました。一緒に暮らしていた彼にはひどく心配され、精神科への受診も勧められましたが、どこへ行っても異常は特に認められませんでした。何より私自身が、そのことがおかしいと思っていなかったのです』



 簡単な挨拶から始まったブログは、やけにメルヘンチックな文体で当時を語り始めた。ブログを見た記憶はあってもちゃんと読んだ記憶がないのは、こういう文章を読むのが嫌になって画面を閉じたからだということを思い出した。


 今だって、心の奥ではそう思っている。こんな文章をまともに読んだって、何も得られるものはない。せいぜい暇つぶしになる程度だ。けれど俺の頭の中には、風呂場で、キッチンで、ぼんやりと水に手をさらしていた彼女の姿が浮かんでいた。

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