第3話 猫のおっさん その3


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 そんな感じで、自分が日本語しゃべられへんってわかってからは、まあ猫として生きとる。元々そのつもりやったしな。いや楽なもんやで、なんもせんでも飯が出てくるんは。少なすぎて命の危機を感じてるけどな。


 ああ、でも猫の世界にも大変なことはあるねん。それはな、散歩や。


 男の子は学校から帰ってくると、俺を散歩に連れて行ってくれるんや。優しくてええ子やな。ただまあ、俺自身は散歩なんか行きたくないねん。腹減っとるのに歩き回ったら余計に腹減るだけやんか。冬やのに、ブリーフ一丁でくっそ寒いし。


「ほら、行くよ」


「んにゃあ」


 俺は首輪についたリードを手で持って、引っ張り返したった。子供に腕力で負けるわけがあらへん。


「もうっ、ちゃんと散歩でカロリー消費しないと餌あげないよ」


 な、猫にも大変なことあるやろ?


 俺はカロリーを摂取するために、カロリーを消費せなあかんねん。あのキャットフードどんだけカロリーあるんかしらんけど、絶対に俺の基礎代謝は満たせてないはずや。


 わかる? 俺いま緩やかに死に近づいてんねん。健康のための散歩で殺されそうになっとんねん。


 まあ、行くしかないねんけど。


「にゃあ」


「はは、えらいえらい」


 男の子は金持ちの息子やのに、なるべく車に乗らんようにしとるみたいやった。俺を拾った日も、塾の帰りやったらしい。


 その徒歩にこだわる部分に、死んでもた猫に対する愛情と後悔があるんやろう。他人に散歩を強制するんやったら、自分も歩かなあかんって。ほんまにええ子やで。でもそれやったら、お前もキャットフード食うてくれ。


 散歩のコースは、屋敷から駅の方まで向かうルートや。この付近はでっかい家ばっかりやけど、駅に近づくほどちっさい家ばっかりになる。んで線路沿いまできたら、今度は賃貸ばっかりや。


 このまま歩けばもうすぐ駅やな。人、多いやろうな。


 男の子よ、大丈夫か。ここに来るまで、もう五人ほど悲鳴あげとったぞ。


 すれ違うおばはんどもが、俺見た瞬間に「ぎゃ」やら「ひい」やら言うねん。まあ自然な反応やな。


 でもおかしいんは、男の子が「これは猫です」って説明したら、納得するねんな。

中には「パンツはいてて偉いね」って言ってくるおばはんもおった。それで俺はふと思ったんや。


 もしかしてこの猫耳ヘアバンド、人間を猫に見せる不思議な力があるんちゃうかってな。


 だってそうやろ?


 もし俺が人間に見えてたら……。


 猫耳ヘアバンドにブリーフ一丁のおっさんを、子供が首輪つけて引っ張りまわしてることになんねんで。普通に考えたら通報されるやん。


 でも、俺がほんまに猫に見えてたとしてやな。その場合でも、ちょっとおかしいことがあるねん。男の子が猫の散歩しとるだけで、すれ違う人らが「ぎゃ」とか「ひい」って言うんはおかしい。


 これはいったい、なにが起きとるんや?


 そんなこと考えとったら、また悲鳴をあげとるおばはんがおった。


「ぎゃあ……、ってあらら坊ちゃん。こんにちは」


「こんにちは。これは僕の新しい猫です」


「へ、へえ、ごめんね。おばさん二本足で立ってる猫、初めてだからびっくりしちゃった」


 なるほど、そういうことか。


 確かに、俺も二本足で普通に歩いとる猫見たら、悲鳴の一つも出てまうわ。


 しっかしこの男の子は、どうやら有名人みたいやな。驚いた人みんな、坊ちゃんって言うてたからな。


 あんなでかい屋敷に住んどるから、地元の名士の息子ってとこか。あのブリーフ一丁のお父さん、そうとうな大物みたいやな。


 そのあとも何人かとしゃべったりして、ようやく駅についた。男の子は子供っぽく駅の壁に「はいタッチ」って言うて、ようやく屋敷に引き返すことにしたみたいや。

ほんまにはよ帰りたい。腹減っとんもやばいけど、この冬にブリーフ一丁はまじでやばい。体の震えが止まらへん。


 さあ、帰りの散歩の始まりや。若い女とすれ違うんが楽しみやで。


 まさか俺が二本足の猫やからって、みんなが驚いてたとはな。なんか生まれて初めて自分が特別な存在になった気分や。


 もし猫である俺から懐けば、若い女は喜ぶやろう。あいつら猫好きやからな。そしたらそんとき、動物やから許されることたくさんしたろ。


 あれ、なんかそんな想像しとったら、股間がウズウズしてきたやん。


 女にキャーキャー言われるんも初めてやし、自分でもなんでかわからんけど、股間が勝手にお手しとる。


 そうやって意気揚々と歩いとったら、前に濃紺の制服姿が二つ見えた。


 け、警察やんけ! おいまじか、俺猫やぞ?


 落ち着け、落ち着くんや。俺はいまなんも悪いことしてない……よな? だって猫やもんな。そうや、俺は猫やから焦る必要はないんや。よし、ここは落ち着いて、とりあえず四つん這い……四足歩行になろ。股間がお手しとるん、見られへんほうがええやろ。


「あ、正木さんとこの坊ちゃんかあ……」


 警察は困った顔でそう言うた。


 俺は寸前までとは違う意味で、心臓がドキドキしだしてん。


 だって警察がこの男の子のこと、マサキって言うてんもん。もちろん苗字ってわかっとるけどな。神さんの存在、感じずにはおれんやんか。


「どうも、こんにちは」


「こんにちは。えっと正木……」


 警察が言いよどんだんは、男の子の下の名前を忘れたからやろう。そうや、この男の子の下の名前は、いったいなんなんやろ。


「あれ、僕の名前、すっごく覚えやすいのに忘れちゃったんですか」


「いやあ、ははは、すいませんね。最近忙しくて」


「まさきですよ」


 男の子がなぜか苗字を言うて、俺と警察はポカンてしてた。でも警察はすぐに、「ああっ」って言うて、なにか思い出したようやった。


「そうだそうだ。同じでしたよね」


 どういうことや。なに勝手に納得しとんねん。


「はい、僕の名前は正木正樹です。ちゃんと覚えておいてくださいね」


 ええ、ほんまに正樹やったん? 嬉しさよりも怖さが先に来るねんけど。お前のお父さん絶対に頭おかしいで。いや、そんなん初めて見たときにわかっとったけど。


「それで、警察の方がいったいどうしたんですか?」


「あ、いえ……、今回は条約とかは大丈夫なやつですか」


 今回はっていう警察の言い方……。まあでも条約に関しては安心してくれ。俺は飼育が禁止されとる猛獣じゃなくて、ただの人間や。法的にはアウトやけどな。


 おい、正樹。お前が前に飼っとった猫って、ほんまに猫なんやろなあ?


「すこし大きいですけど、普通の猫ですよ。ライオンにでも見えましたか?」


 正樹はにっこりと笑いながら言うた。


 それやのに警察は、ツバを何回も飲み込んどる。


「本当に猫ですか……?」


 警察はそう言うて、俺をじろじろ見とる。


「はい、本当に猫ですよ。芸でもさせてみましょうか」


「あ、それはいいですねえ」


 えっ、どういう展開なん。芸を見せな、猫って信じてもらわれへんの? いや逆に言えば、芸さえすれば、俺は猫として低めで安定した生活続けられるってことか。


 でもどうしよ。芸とか俺、マツケンサンバくらいしかできへんけど……。


 焦っとる俺に、正樹はさらに催促してきよった。


「お父さんが言ってたんだけど、君はちんちんができるんだよね。さあ、やってよ」


「んにゃんにゃあ」


 ちゃうやん、それ俺が元から二足歩行なだけやんか。それやったら人間みんな、ちんちんしとることになるやんか。


 頼む、このまま四つん這いで、四足歩行でおらしてくれ!


「やってごらん、ほら、ちんちん!」


 あかんて、俺いま股間がお手しとるねんて。いまそれ見られたら、猥褻物ちん陳列罪になってまうって!


「へえ、この猫ちんちんするんですねぇ」


 あかん、警官も興味津々や。これで芸せんかったら俺は、もう何罪かもわからん罪で裁かれることになってまう。


 しゃあない、やるか……。


 俺はすっくと、立ち上がったんや。直立のこの姿勢は、人間として普通のことやろう。でもいまは逆に、俺から人間性が失われていっとる。


 不思議な気分や。元ホームレスの俺が、こうして警察と正面から堂々と対峙することになるとはな。いや、それ以上に街中で勃起して堂々としとるほうが不思議か。


 警察は俺の股間をまじまじと見とった。それから宙ぶらりんやった手を、びしっと額の横に持っていったんや。


 これもしかして敬礼しとんか? いやちゃうわ。よう考えたらこれ、答礼やんけ。


『警察礼式 第八条』

 敬礼を受けたときは、何人に対しても、必ず答礼を行わなければならない―――


 このボケども信じられへん。俺の股間のお手を、敬礼と勘違いしよった。


 警察なんかに誰が払うか、敬意なんぞ! お前ら警察はなあ。俺らみたいなホームレス締め上げるくせに、政治家が悪いことしてもなんもせえへんやないか。この国の犬が! お前らは猫の俺以下なんじゃい!


「ね? 猫でしょ」


 正樹がそう言うたら、警察も笑顔でうんうん頷いとった。


「いやあ、賢い猫ですねえ」


 どういう理屈かしらんけど、俺を猫やと認めたようや。


「そうなんですよ。前の猫がいなくなって落ち込んでたんですけど、いまはもう本当に毎日が幸せで」


「ははあ、そういうもんですか。坊ちゃんは猫が一番好きなんです?」


「うーん、猫というよりネコ科の動物が一番好きですね。ライオンとかトラとか」


 正樹は自信満々に答えとった。これもうほぼ自白やね。そうやんな、俺の部屋どう考えても広すぎるもん。


「ありゃりゃ、じゃあ犬は二番ですか。私は犬派でしてね」


「いえ、イヌ科の動物は三番目です」


 お、珍しいな。じゃあ二番目はなんなんやろ。


 警察も同じこと気になっとるみたいや。


「二番目に好きな動物はなんなんです?」


「いやあ、ははは……」


 正樹は恥ずかしそうに下向いた。おいおい、やっと年相応の反応見せてくれたやん。半裸のおっさんに首輪つけるヤバイやつやけど、こいつもまあ子供やからなあ。


「いいじゃないですか、教えてくださいよ」


 警察にそう言われて、正樹は覚悟を決めたみたいやった。


「仕方ないなあ」


 ネズミとかウサギとかかなあ、って俺は予想しとった。でも正樹が口にしたんは、全然別の動物やったんや。


「ヒト科のメスです」


 俺もうこいつ怖い。

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