今夜、バス図書館の夜が

 昼休み――ぼくは石輪さんと三階の渡り廊下にいた。

 給食のあと、彼女に呼び出されたのだ。


「ねぇ、太郎はバス図書館って知ってる?」


 風に吹かれ、長い髪を直す石輪さんはとてもセクシーだ。

 自分の彼女にドギマギとしながら、ぼくはなんとかフツーに返す。


「あのー、あれでしょ? 近くに図書館がない人とか、なかなか図書館に行けないお年寄りのための、移動図書館」


「そうだね。あれもバス図書館だ。だけど私が言ってるのは、それとは少し違う」


「違う……」


「私が言ってるのは、昭和のバス図書館だよ」


「昭和の?」


「昭和にはね、現代とは違うバス図書館があったんだ。それは廃車になったバスを利用したもので、ルックスはバスなんだけど、中は図書館なの。タイヤは外してある」


「へぇ」


「そこにね、私、今夜用事があるんだ。だから太郎、付き合ってくれない?」


「昭和のバス図書館か。うん。興味あるね。見てみたい」


「私の友だちが、そこにいるの。彼女に太郎のことを紹介したくて」


「了解。じゃあ、出かけるのは――いつもの感じ?」


「うん。いつもの感じ」


「昭和のバス図書館かぁ。一体どんな感じなんだろ?」


       〇


 夜になると――ぼくは外出の準備をした。

 スマホが震え、すぐに止まる。

 石輪さんの合図だ。


 階段を下り、ぼくは玄関に向かう。

 リビングを見るまでもない。

 石輪さんはきっと、金星人パワーでぼくの両親を眠らせている。

 ドアを開けると、そこには石輪さんがいた。


「こんばんは、太郎」


「こんばんは、石輪さん」


「今日は自転車で行くよ」


「うん」


 ぼくはガレージから自転車を取り、家の前に出る。

 石輪さんは、すでに自分の自転車に乗っていた。


 ライトを点け、ぼくたちは走りはじめる。

 真夜中のサイクリングは、なかなか楽しい。

 昼間に見慣れた風景が、まったく違って見えるからだ。

 ペダルをこぎながら、石輪さんが言った。


「今から会う私の友だち、『夜』って名前なんだ」


「へぇ。なんだか変わった名前だね」


「夜はね、昭和の時代、子どもたちにとても人気があったんだよ。彼らが彼女に『夜』という名前をつけた」


「なんで、『夜』なんだろう?」


「彼女、夜にしか姿を現わさないの。だから『夜』。昭和の子は、わりとシンプルだよ」


「その人は、その、バス図書館の精霊なの?」


「うん」


「なんか意外」


「意外? 何が?」


「だって、フツー、図書館に行く人って限られてるでしょ? それで人気があったとか」


「あぁ、まぁ、今はね。でも戦後しばらくは、バス図書館だって貴重な情報源だったんだ」


「情報源?」


「現代には、テレビがある。パソコンがある。スマホがある。でもあの頃は、雑誌や新聞みたいな印刷物しかなかったんだ」


「あぁ、そっか……」


「印刷物を読むには、お金が必要。でも当時の子どもはお金を持っていなかった。この国全体がそれほど豊かではなかったから」


「なるほど」


「だから一部の子どもたちはバス図書館を利用した。そこには色んな本が置いてあったから」


「色んな本? どんなの?」


「ジャンルはバラバラ。小学生では読めないような難しい本もあった。だけどそこに行けば、誰かがいる。誰かがいなくても本がある。たまに仲間同士で話をしたり、ボードゲームをしたり、飽きたらすぐ近くで遊んだりしてた。言ってみればバス図書館は、子どもたちの憩いの場でもあったんだ」


「じゃあ、今の話の流れって、もしかして……」


「うん。夜のバス図書館は、もうすぐ市に撤去される。今は子どもにいたずらするヘンな大人も増えたしね。仕方のないことだ」


 ぼくたちは、わりと遠い児童公園に到着した。

 そこはなんだか、めちゃくちゃさみしいところだった。

 公園内に灯りは点いていたが、もちろん誰もいない。

 雑草が生い茂り、まったく整備されてない感じだ。


「ここって――公園、だよね?」


「うん」


「なんか、さびれてない?」


「使用ルールが厳しくなったからね。誰も自由に遊び回ることができない。昔はここに子どもたちがたくさんいたんだ。場所取りでケンカが起きるくらい。まぁ、言ってみれば、ここは子ども文明の廃墟だよ」


 自転車を降り、ぼくたちは公園の端っこに歩いていく。

 サラサラと風に流れる雑草の間に、なんとか通り抜けられそうな穴が見えた。

 ぼくと石輪さんは、そこに入っていく。

 穴を抜け、視界が開かれると、ぼくたちの前に一つの大きな物体が見えた。


 ――バスだ。


 これが、昭和のバス図書館……。


       〇


 そのバスは、何と言うか、とても不思議なバスだった。

 水色の車体に、水玉、花、風船、とにかくカラフルな落書きがされている。

 アチコチが赤茶けてボロボロになっているのも見えた。

 タイヤは全部外されている。


「夜」


 そのバスの前に立つと、石輪さんは天井を見上げてそう言った。

 そちらに目を向けると、一人の女の子の姿が見える。

 ぼくたちくらいの年の子だ。

 この人が――夜さん。


「こんばんは、亜季。今日はとても素敵な夜だね。私が消えるには、うってつけの日だ」


「ホントに消えるんだね、夜」


「うん。ところで亜季、そちらの少年は?」


「私の彼氏・原田太郎くんだ。あなたに紹介しようと思って、来てもらった」


「そっか。よろしくね、原田太郎くん」


 夜さんが、ぼくに笑顔を向けてくる。

 ぼくも丁寧にお辞儀をした。


「よろしくお願いします、夜さん」


「『さん』はいらないよ。呼び捨てでいい」


「いや、でも……」


「太郎くん。たぶんきみは、私の最後の友だちだ。少しの間だけど、仲良くしてほしい」


「は、はい」


「二人とも、こっちに上がっておいでよ」


 夜さんに言われ、ぼくは側面からバスの天井によじ登る。

 ぼくのお尻は石輪さんが押してくれた。

 続いてぼくが彼女を引っ張り上げようとすると、彼女はすでにバスの上に立っていた。


 まぁ、そうだ……。

 彼女は、金星人だった……。


「夜。今日はね、なつかしいジュースを持ってきた」


 そう言って、石輪さんが背中のリュックからジュースを取り出す。

 昔からある、グレープ味のジュースだった。

 ぼくたちはそのペットボトルをキュッとひねる。

 プシュッという音が、誰もいない夜の公園にひびいた。


「うん。なつかしい味だ。これ、まだ売ってたんだね」


「まだ売ってる。カタチを変えて、今も残ってる」


 夜さんが、ぼくに顔を向ける。


「太郎くん。このジュースはね、昔は大人気だったんだ。親にこれを買ってもらったら、みんなものすごくうれしかった」


「へぇ。そうなんですね」


 ぼくは楽しそうな夜さんの顔を見つめる。

 この人……本当に精霊なんだろうか?

 何と言うか……フツーに、ウチのクラスにいそうな感じ……。


「時は流れたねぇ、亜季……」


「流れたねぇ、夜……」


「でも今日は、太郎くんをここに連れてきてよかったんじゃないかな?」


「え? なんで?」


「今日はパーティーだ。人間の中で、これを見れる人はなかなかいない。太郎くんは、ものすごく幸運だよ」


 夜さんが、そうぼくに笑顔を向けてくる。

 人間の中で、これを見れる人はなかなかいない?

 何だろう?


「ほら、始まった」


 夜さんが、バスから少し離れた空間を指さす。

 それを見て――ぼくは、ものすごく驚いた。


       〇


 真夜中の月明かりの下――そこだけが夕暮れのようなオレンジ色に浮き上がっている。

 その中で、たくさんの子どもたちが思い思いに遊び回っている姿が見えた。


 ボールを蹴る。

 キャッチボールをする。

 ゴム跳びをする。

 少し離れた場所で本を読んでいる子や、そこに寝そべって宿題をしている子もいる。


 服や髪型が、みんなダサい。

 あれは……。


「昭和の子どもたちだ。今日はみんな、この場所に集まってきてくれた」


「夜さんが、集めたんですか?」


 ぼくが聞くと、夜さんがかぶりを振る。


「いや、自然に集まった。彼らも何かに気づいたんだろうね。私のこのバス図書館に良き思い出を持っている大人たちが、全員一斉に、今、夢を見ている。自分たちが小さかった頃の夢を」


「それが、これ……」


「太郎くん。人生はね、ツラいんだよ。生きるって、ホントに大変なんだ。だけど……子ども時代だけは、いつまでも永遠の楽園だ。もちろん人によっては違うだろうけど、多くの人々にとって、ここは帰る場所となる」


「帰る場所……」


「さぁ。楽しい夢は、いつも短い。誰もがあっという間に夢から覚めるだろう。それと同時に、私もこの場所から消えることになる。これはこの場所で見る、最後の夢だ」


 そう言って、夜さんが立ち上がった。

 それを、ぼくと石輪さんは見上げる。


「ねぇ、亜季。お仕事の方は進んでる?」


「まぁ、それなりだよ」


「そっか。あのね、亜季。最後に……地球で生まれた存在として、金星人のあなたにお願いしたいことがある」


「うん」


「できる限り……地球人たちが長続きするよう、手を貸してあげて」


「もちろん。私だってそうするつもりだよ」


「ほら。見てよ、亜季」


 夜さんが、その場で大きく両手を広げる。

 まるでこの世界全体を抱きしめるように。

 彼女の顔には、とても楽しそうなほほ笑みが浮かんでいた。


「今、大人になってこの世界を回しているのは――この子たちなんだ! そして次は太郎くんみたいな子どもたちがきっとこの世界をより良きものにしてくれる!」


「夜……」


「大好きだよ、みんな! 全員が私の友だちだ! 私はこの世界が好きだ! 私がここから消えても、私はどこからか、この世界を見守っている! もっともっとこの世界が幸せになるように、私はずっと祈ってるよ!」


 ぼくと石輪さんは、そんな彼女を見つめ続ける。

 石輪さんは、少し泣いているようだった。


「さようなら、亜季! あなたに会えて楽しかった!」


「夜。もし次に生まれ変わったら、また図書館の精霊になりなよ」


「そうだね! そういうことになったら、また楽しいね!」


「ありがとう、夜。私、あなたのこと、ずっと忘れないと思う」


「金星人にそう言われて光栄だ! ありがとう、亜季! それから、太郎くん――」


「は、はい」


「今の自分を大切に。あなたは亜季にとても愛されている。だからきっと、素敵な人だ。その心、今の心を、いつまでも忘れないように」


 そう笑顔を浮かべると――夜さんは、その場から消えていった。

 夜さんが消えると同時に、バス図書館の向こうの夕暮れも静かに消えていく。

 消えていく直前の夕暮れの中、子どもたちは、とても楽しそうに笑っていた。


       〇


 二人きりになったバスの上で、ぼくたちはしばらくの間、何も言えなかった。

 石輪さんが、静かに口を開く。


「夜はね、子どもたちが大好きだったんだ。でもいつからか子どもたちが来なくなって、すごくさみしい思いをしてた。そんな時、私は彼女と出会ったんだ。彼女とは、色んな話をたくさんしたよ」


「そっか……」


「ねぇ、太郎?」


「ん?」


「何かが消えていくのって、悲しいね」


「そうだね。自分の大切な何かが消えていくって、本当に悲しいことだ」


 石輪さんが、ぼくの肩にもたれかかる。

 少し、鼻水をすする音が聞こえた。

 ぼくはそっと、彼女の肩を抱きしめる。


「ねぇ、太郎。こんな時の彼氏の役割って知ってる?」


「彼氏の役割……何だろう?」


「彼女をやさしく抱きしめて、『大丈夫だよ』って、根拠のないことを言うんだよ?」


 石輪さんの言葉にうなづき、ぼくは彼女の肩を引き寄せた。

 そして続ける。


「何かを失うのは、とても悲しいことだ。だけどぼくたちは今、楽しい日々の中にいる」


「あれ? 『大丈夫だよ』は?」


「そんなこと、ぼくは言わないよ」


 石輪さんをこちらに向かせ、ぼくはしっかりと抱きしめた。


「夜さんは――消えてないよ。彼女は、精霊なんだろ? だったら、彼女は消えない。石輪さんの心の中に、引っ越ししただけだ」


「引っ越し……」


「石輪さんは、いつかまた夜さんに会える。だって、ほら、ついさっき、昭和の子どもたちがここに集まってきたじゃないか。人間にできて、精霊にできないことはないだろ?」


「太郎……」


「ん?」


「大好き……大好きだよ……」


 石輪さんが、ぼくの胸に顔をうずめ、声を出して泣きはじめた。

 こんな石輪さんを見るのは初めてだ。

 ぼくは彼女の背中をトントンとやさしく叩く。


 ぼくの彼女は金星人だ。

 いつだってクールで、しっかりしている。


 だけど彼女だって、悲しみに打ちのめされることがある。

 そんな時、彼女を包み込んでやれるのは、ぼくしかいない。

 いや、ぼくでありたい。


 ぼくたちの真上には、美しい夜が広がっていた。

 なんとなく、あたたかい光を放ちながら。


 ぼくたちは、かつての夢の残骸の上で、しばらくの間、抱き合っていた。

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