月の雫うどん

「太郎って――うどん、好き?」


 放課後の商店街――帰り道を歩きながら、石輪さんが言った。

 あまりにも突然なその言葉に、ぼくは思わず首をかしげる。


「うどんって……あの、うどん?」


「そう。食べ物の」


「うん。まぁ、好きだけど」


「じゃあ、すっごくおいしいうどんを食べたくない?」


「すっごくおいしいうどんかぁ。うん、ちょっと食べてみたい」


「そっか! 良かった!」


「あの、石輪さん? それ、何の話?」


「あのね、今日はすっごくおいしいうどんが食べれる日なの」


「すっごくおいしいうどんが食べれる日……」


「そ。じゃ、今日の夜――9時頃に迎えに行くよ。夜ごはん、控え目にしといて」


「それは、その、どこかに行くってこと?」


「うん」


「わ、わかった」


「じゃ、またあとで!」


 そう言って、商店街のいつもの角を石輪さんが曲がっていく。

 彼女を見送りながら、ぼくはやっぱり首をかしげた。


 すっごくおいしいうどんが食べれる日……。

 そんな日が、あるんだろうか?

 ぼく、今まで聞いたことないけど……。


       〇

 

 時計の針が夜の9時を指す頃、ぼくはリビングのドアを開けた。

 そこではお父さんとお母さんが、テレビをつけたまま、ソファーで爆睡している。


 夜に活動する時、石輪さんは必ず金星人パワーで、ぼくの両親をこうして眠らせた。

 玄関の呼び鈴が鳴り、ドアを開けると、石輪さんがいつもの笑顔で立っている。


「こんばんは、太郎。今日も素敵な夜だね」


 暗闇の中、例の歯車ランドセルを背負った石輪さんが、わずかな月明かりに照らされていた。

 やっぱり……何度見ても、ぼくの彼女はかわいい……。


「こんばんは。で、あの、石輪さん。今日は、その、どこに行くの?」


「今日はね、こっちだよ」


 石輪さんが歩きはじめるので、ぼくは戸締りをして彼女のあとに続く。

 ひとけのない夜の道を進み、近所のタクシー乗り場に到着した。


「タクシーに乗るんだ」


「うん」


「行くのは、遠いトコ?」


「ここから、10分くらいかな?」


「10分。そっか」


「すぐ近くだよ」


 ぼくたちが後ろに乗り込むと、タクシーが走り出す。

 石輪さんは運転手さんに「うぐいすみさき埠頭の一番端っこまでお願いします」と言った。


 鶯岬埠頭の一番端っこ――。

 どう考えても、うどんと埠頭がぜんぜん結びつかない。


 町の中心部を過ぎ、国道を横切ると――タクシーは工業地帯に入っていった。


 周囲を行き交う、たくさんのトラック。

 点滅する、煙突の航空障害灯。

 道の両サイドには、大きな工場がいくつも並んでいる。

 きらびやかなライトに照らされながら、ぼくはその風景を見つめた。


「すごいなぁ、ここ。ぼく、初めて来たよ。まるでSF映画の中みたいだ」


「インダストリアルな輝きは私も好きだな。アーキテクチャは、20世紀における地球人最大の発明だよ」


「ア、アーキテキ……」


 石輪さんは、たまにむずかしいことを言う。

 金星人だからか、まだ小5なのに、彼女はすごく色んなことを知っていた。


「ほら、太郎。見て。今夜は素晴らしい満月だ」


 タクシーの窓から、石輪さんが夜空を見上げる。

 ぼくも月を見ようとしたが、残念なことに、ぼくの側からは見えなかった。


 しかし……ぼくたちは、一体どこに向かってるんだろう?

 こんな工業地帯に、すっごくおいしいうどんを食べさせてくれるお店なんか、あるんだろうか?


       〇


 鶯岬埠頭の一番端っこに到着すると、ぼくたちはタクシーを降りた。

 海の方に近づいていく。

 そこには2、3人の釣り人がいて、全員がおじさんだった。

 小学生、ましてや石輪さんのような女の子は、もちろんいない。


「あの、石輪さん」


「何?」


「こんなとこに、うどん屋さんがあるの?」


「あぁ、ごめん。忘れてた」


 石輪さんが、歯車ランドセルを下ろし、中からいつものゴーグルを取り出す。

 それを、ぼくに手渡した。


「太郎に、すっごくおいしいうどんを食べさせたくて、あれからずっと準備してたんだよ」


「へぇ。それは楽しみだなぁ」


 ゴーグルをかけ、ぼくは自分たちが向かっている先を見た。

 そして――めちゃくちゃ驚く。


 埠頭の一番端、そのさらに隅っこに、キラキラと光る何かが見えた。

 き、金属?

 いや、違う。

 あれはたぶん、ガラスだ。

 工業地帯のライトに照らされたそれが、めちゃくちゃ立体的に輝いている。


「キレイでしょ?」


 石輪さんに導かれるがまま、それに近づいていく。

 これは、たぶん……何かの装置だ。


 三脚台に乗せられたフラスコ。

 そこから伸びる、黒くて長いチューブ。

 チューブの先端は試験管につながれていて、試験管自体は氷が入ったビーカーにひたされていた。

 どれも、理科室にある物に比べて、数倍の大きさがある。


 な、何ですか、これは……。

 何と言うか、その、なんとも大掛かりな理科の実験みたいな……。


「どぉ? 工業地帯の明かりに照らされたら、めちゃくちゃ素敵でしょう?」


「す、素敵だけど……これ、何?」


「何って、太郎にすっごくおいしいうどんを食べてもらうための装置だよ」


「装置だよ、って……こんな装置を使わなきゃ、作れないの、それ?」


「作れないの」


 そうほほ笑み、石輪さんが装置を操作しはじめる。


「今日はね、これを使って、色々と蒸留するんだ」


「蒸留……」


「理科の実験とかでやったことない? それぞれの沸点を利用して、異なる物質を分けていくの」


「やったことあるような、ないような……」


「太郎たちが普段飲んでる水道水は、まぁ、フツーなんだ」


「うん」


「でもこの装置は、そのフツーの水道水ですら、本来のおいしさに戻してくれる」


「そ、そうなんだ……」


「やってみせるね」


 石輪さんが、歯車ランドセルの中から水筒を取り出す。

 その中の水を、三脚台から取った大きなフラスコに移した。

 フラスコを元の位置に戻し、その下のアルコールランプに点火する。


「このフラスコの水を、沸点までグラグラにする。そして色んなものを取り除くの」


「色んなものって?」


「わかりやすく説明すると――金銭欲、名誉欲、利便性、そういったものだね。それは人体に影響はないけれど、魂に作用するんだ」


「魂に……」


「この水道水を加熱し沸点に達すると――ほら、こんな感じで気体が発生するでしょ? この気体がフラスコから管をつたい、この試験管に導かれる。で、それを氷で冷やすと――ね? こんな風に再び液体に戻るの。これが蒸留水」


 石輪さんの説明を聞きながら、ぼくは彼女の作業を見つめる。

 流れを目で追っていくと、たしかに水がさっきより透き通ってきたような気がした。

 水が入ったフラスコが空になると、そこには何か、黒い粉のようなものが残る。


「これが魂に良くない物質だ。初めて見たでしょ?」


「うん。初めて見た」


「同じようにして、これを何度か繰り返す――」


 石輪さんが、キレイになった水の方を、別の新しいフラスコに移す。

 再び、それを加熱しはじめた。


 フラスコの中の水が気体になり、チューブを通過して、試験管で液体に戻る。

 今度は、緑色の粉が残った。

 何度かその作業を繰り返すと、水がさっきまでとは違う、何か特別な輝きを放ちはじめた。


「できた。うん。素晴らしい水だ」


 満足そうに頷き、石輪さんが歯車ランドセルを開ける。

 彼女がランドセルから取り出した物を見て、ぼくは「え……」と言葉を失った。


 石輪さんが手にしているのは――フツーの、カップ麺だった。

 つまり、うどんの……。


「あ、あの、石輪さん?」


「ん? 何?」


「石輪さんが言ってた、その、すっごくおいしいうどんって……ひょっとして、カップ麺?」


「そうだけど?」


「えぇ……」


 ぼくはフツーに、めちゃくちゃがっかりした。

 石輪さんがすっごくおいしいうどんって言うから、実はものすごく期待していたのだ。

 なのに……カップ麺って……。


「もしかして太郎、ちょっとがっかりしてる?」


「そりゃ、してるよ。だってカップ麺なんて、いつでもどこでも食べれる物じゃないか。もっと、こぉ、ちゃんとしたうどんだと思ってた……」


「わかってないなぁ、太郎は」


 そうほほ笑みながら、石輪さんがカップ麺の外装フィルムを破りはじめる。

 うどんの準備をしながら、彼女は続けた。


「地球人はね、何か勘違いしてるんだ」


「勘違い?」


「そう。太郎が言う『ちゃんとしたうどん』って、たとえばどんなの?」


「たとえば、その……手打ちうどん、的な?」


「なんでそれがちゃんとしてるの? 自分で小麦粉から作るから?」


「う、うん。まぁ、そう……」


「じゃあ手打ちうどんで使う、その小麦粉の産地はどこなの? その産地は、きちんと管理されてる?」


「されてると……思う」


「あのね、太郎。金星人として、ちょっと絶望的なことを言うようだけど――」


「は、はい」


「この地球上には、もはや健康な大地なんて存在しないんだ。だから『ちゃんとしたもの』なんて、実はどこにも無いんだよ」


「え……」


「おまけにそれは、今に始まったことじゃない。太郎が生まれる、ずっと前からそうなんだ。地球人は便利な生活と引き換えに、健康な大地をすべて手放してしまった」


 カップ麺の準備を終えた石輪さんが、ビーカーの氷の中の試験管を取る。

 蒸留されたキレイな水を、カップの容器に注ぎはじめた。


「だけどね、それを浄化することもまた可能なんだ。月は、そんな力を持っている」


「月が?」


 ぼくは、石輪さんの手の中にあるカップ麺を見つめた。

 容器の中で、透き通った美しい水が揺れている。

 底に沈んだ、乾いたインスタント麺。

 それを包み込む液体の表面に、今夜の満月や星たちが映っている。


 石輪さんが、カップ麺に右手をかざした。

 まるで魔女が、うどんに魔法をかけるかのように。

 すると、ぼくの目の前で――容器の中の水が、なんだか不思議に波打ちはじめる。

 そこに映った満月や星たちが一斉に点滅をはじめた。


 え? え? え?


 ぼくが戸惑っていると、石輪さんがカップを地面に置く。

 夜空を見上げ、何かを引き寄せるように、満月に手を伸ばした。

 そしてそれは……一瞬の出来事だった。


 ぼくは、見たのだ。

 空に浮かぶ、美しい満月から――なにかしずくのようなものがれてくるのを。

 それは黄金色に輝く、とてもツルツルとした一滴だった。


 その雫が、まっすぐに、ぼくたちに向かって落ちてくる。

 まるでスローモーションのように。

 はちみつみたいにキラキラとした、光の粒。

 意外と、サラッとした感じ?


 その雫がカップ麺の中に落ちると、水面に波紋が広がった。

 直後、ぼくは目を見開く。

 さっきまで水だったカップ麺のつゆが、いつの間にかホカホカと湯気を立てていた。


「これがすっごくおいしい、月の雫うどんだよ。今、めちゃくちゃ食べ頃だ」


 石輪さんから容器を受け取り、ぼくはそれをジッと見つめる。

 これが……すっごくおいしいうどん……。

 月の雫うどん……。


 でも、なんか……めちゃくちゃ良い匂いがする……。

 まるでカップ麺じゃないみたいな……。


       〇


「お、おいしい……」


 夜の埠頭に座り、ぼくたちは月の雫うどんを食べていた。

 冬の風が吹き、足もとで海がチャポチャポと音をたてていたが、不思議と寒くない。


 ぼくは信じられないほどおいしい、手の中のカップ麺を見つめる。

 な、何なんだ、これは……。

 なんでこんなのが、こんなにおいしいんだ……。


 つゆが、おいしい……。

 うどんも、おいしい……。

 揚げも、おいしい……。


「どぉ、太郎? すっごくおいしいうどんでしょ?」


「う、うん……すっごくおいしい……」


「良かった」


「でも石輪さん、どうしてこんな、フツーの、どこにでもあるカップ麺が……」


「月の雫を受けたからだよ」


 石輪さんが、夜空を見上げながら言う。

 同じように、ぼくも上を見た。

 月は、やっぱりいつものように、ただそこで輝いていた。


「月の雫が落ちてくるには、いくつかの条件が必要なんだ。今日はその条件が、バッチリ揃う日だった」


「そ、そうなんだ……」


「私が作ったキレイな水に、月の雫を一滴だけ垂らす。これだけで宇宙最強の味になるんだよ」


「宇宙最強の味……まぁ、たしかに……」


「あのね、太郎」


 うどんのつゆをすすり、ホッとひと息ついたあと、石輪さんが海を見た。

 彼女の長い足は、埠頭の端でブラブラと揺れている。


「これから、地球では色んなことが起こると思うんだ。でも一番大切なのは――このうどんがおいしいってことなんだよ」


「……うん」


「ツラくなったら月を見て。月はいつだって、地球人を見守ってくれてるから」


「そうだね」


 ぼくはそれに頷き、月の雫うどんの続きを食べる。

 夜空に浮かぶ月が、いつものように、そんなぼくたち二人を照らしていた。

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