白い器
長眼 照
第1話
衝動的な行動でした。酷く誰かを傷つけたいとか、殺してしまいたいとか、そのような単純明快な加害性を持ってしてあの子に近づいた訳ではありません。何故ならば僕は彼を一目見た瞬間、刹那に同じ土俵に立っている、立たせてもらえる人間では無いと自覚してしまったのです。まるでそこは自分だけが取り残されている世界でした。
僕は音楽が好きでしたし、拙い仲間とバンド活動をして、笑ってしまうほど浅はかな夢を見たことだってあります。しかし大人になると人生そう上手くは行かず、バンドメンバーは各々実家の家業を継ぐだの、家庭ができただの真っ当な理由を付けて去っていき、残ったのはのは僕1人でした。1人ではバンド活動など到底できず、新しいメンバーを募集する気力すらも無くなった僕は大手配達企業に就職することにしました。
主な業務は集荷した荷物の運搬で、誰にだってできるものでした。代わり映えしない暗澹とした日々を過ごすうちに、僕は自分の人生そのものに懐疑の念を抱くようになりましたが、まだ内側に潜む悪徳に気づいてはいなかったのです。
偶然にもその日は仲の良い同僚が体調不良で休みとなり、僕は普段と違ったルートで配達をすることになりました。初めての場所は緊張しましたが、予定よりも早めに指定場所に到着し荷卸の為に待機をしていると何やら質の良さそうなスーツを身に纏った子供たちが次々とその建物に吸い込まれて行くのが目に入りました。
その子たちを目で追っているとどうやらピアノコンクールが開催されているようで、時間を持て余していた僕は一応時計を確認し30分程度であれば鑑賞が出来ると踏んでトラックのエンジンを止め、早足で受付へと向かいました。
中に入ると品の良さそうな初老の女性が怪訝そうに僕を一瞥し、名簿への記名を促してきたので言われるがまま本名と住所を書き、パンフレットを受け取り歩を進めようとした間際「どちらでこのコンクールをお知りになりましたか?」と僕を制止しました。
宅配便の制服を着た男が真昼間にピアノコンクールを見に来ることが余程怪しく思われたのか、一瞬体が強ばるのを感じましたが、女性の柔らかい口調は僕を咎めるものでは無く純粋な疑問を投げかけているだけだと理解し「仕事で偶然、此処へ」と素直に返答しました。この時、僕の心臓は破れてしまいそうな程に脈打っており、悪事など企んでもいないはずなのに何故か後ろめたい気持ちになっていたので今思うと既に自分の内側に気が付き始めていたのかもしれません。憶測でしかありませんけど。自分自身の事なのに憶測だなんておかしいと思うでしょうが、本当に今思い返すと、としか言い様がないのです。
会場は既に観客で埋まっていました、コンクールに出場する子供たちの両親とスカウトに来た音楽業界の人間と思われる大人が橙色のライトに照らされた小暗いホールで密語を囁いていました。ほとんど業界用語で理解ができませんでしたが、僕は最後列のその後ろで立ち聞きすることでその空気に混ざり合い溶け込んで居るような錯覚に陥りました。
僕たちを照らしている橙色のライトは肉体をじんわり暖め、小さく聞こえる密語は森の木々が触れ合うような優しい音に聞こえたのです。
5分ほど空間に溶けていると、一斉に拍手が響き渡り、1人の少年が凛とした姿勢でステージ袖からゆっくりと歩み出て来ました。歳は中学2.3年だと直ぐに分かりました。瑞々しい肌の下に透ける発達した筋肉と血管の鼓動が薄橙を通して視認出来るような気がして、僕は彼に釘付けになりました。
彼の無造作に整えられた黒髪はステージの光を反射して天使の輪を作り、長めの前髪から覗く翠瞳は子供とは思えないほどに鋭く、ステージから大人たちを睨みつけていました。
なんて耽美なんだろうと、美術に明るくない僕ではとても言葉に言い表せない程に彼が放つ“無言の美”に惹き付けられてしまいました。
彼は相変わらず鋭い視線を大衆から目の前のピアノに落とし、細く白い指を鍵盤にフワリと乗せ、一瞬空を仰ぎました。
途端に始まった演奏は静寂の空気をゆっくりと引き裂くように、優艶に振動させました。プーランクの即興曲 第15
彼の演奏が終わると僕は一筋の涙が頬を伝うのを感じていました、かなり室温が高かったので汗かと思いましたが、それは確実に両眼から流れ出る純粋な涙でした。音楽を聴いて感動を覚えたのはもう何年前なのか思い出すことすら出来なくなった僕の心を齢14.5の少年があっさりと引き揚げてくれたのです。
もう僕は彼の姿を直視することができませんでした。神仏を見るような、そんな感覚だったと思います。同じ世界で生きていて尚、僕はなんて凡庸な人間なんだと心臓を握りつぶされてしまうような苦しさを覚えました。どれだけ僕が真剣に音楽を愛し、もし音楽に愛されることがあっても決して彼のように音楽と同化することはできない。彼は、彼と僕は既に生きている世界が全く別であると認識しました。僕は彼が欲しくなってしまった、自分に無いものを全て持っている未成年を己の欲のままに壊してしまえれば幸せだろうと内側のシャボン玉の弾ける音と共に僕は会場から飛び出し、関係者入口へ早足で向かいました。
この時既にあの事件を起こそうとしていたか?…ですか?さぁ、どうなんでしょうか。僕はただお話がしたかっただけのように思います。まだ、先程弾けた物が何だったのか理解は出来ていなかったように思いますし…1つ、言えるとすれば僕は短絡的な考えで“彼に触れてみたい”と思っていたのかもしれません。
シャボン玉が弾けてからの僕の行動は直ぐでした。
演奏を終えた彼は1寸も乱れていないその美しさのまま音を立てずに椅子を引いて立ち、大人たちから一斉に向けられる羨望の矢を気にも止めて居ないと思慮されるほど真っ直ぐに天井の橙色を仰ぎみるとそのまま最敬礼をして袖に消えていった。
壇上に登り、演奏をして去るまで。彼が一瞬たりとも美しくなかった瞬間はありませんでした。
会場を出て、トラックを止めてあった場所に戻るとその通用口はどうやら演奏者たちの通り道でもあったらしく、先程の少年が僕の方を訝しげに見ていました。
「どうしましたか?」
できるだけ警戒させないよう柔和な笑顔も口調を心がけ、彼が警戒を解くまで笑顔を続けていた。
「凄く、素敵な演奏でした。ああ、申し訳ありません。僕がもっと音楽に明るければ深い話ができたのに…生憎少し齧っている程度でして、でも、貴方の演奏は僕を変えてしまうほどに衝撃的でした、ありがとう」
僕が早口に捲し立てると彼は両手を胸前で恥ずかしそうに弄っていました。あの演奏をした少年とは思えないほどに彼は臆病なのかもしれないと、僕の加護欲は確実に良くない方へ傾いていました。
刹那の沈黙、体格の良い大人にいきなり話しかけられたら多数の人間は同じ反応をするだろうと僕は申し訳なくなって、彼に用意していたキャンディを手渡しました。何の変哲もない色が変わるキャンディです。それを彼の前に差し出すと少し警戒したような様子で彼はマジマジと手のひらの上の飴を凝視していました。
「つまらない物ですが、僕からのプレゼントということで…今日、素晴らしい出会いができました。貴方のおかげです」
「ありがとう…ございま、す。あの…」
少年はモジモジと小声で僕に擦り寄り、僕の左腿にまだ未熟な柔らかさの残る手をそっと置きました。僕は混乱しまま言葉を紡ぎ、伝えました。
「僕は、猿賀です。たまたま仕事の都合で観賞することが出来まして。またどこかで演奏を聴けたらいいな、なんて、思っています」
彼はその美麗な肉体と数奇な巡り合わせを人間の形をしたうぶ毛を朝日に光らせた白桃色の肌の内に納めているだけなので、まるで内臓は御神体、肌はそれらを保護する結界なのです。彼の中心にあるのは命と、音楽。それ以外はただの物質でしか認識していない。と僕は彼の一言で推測しました。きっと逃げ出す口実がずっと欲しかったのだろう。閉鎖的な音楽業界で将来性も確保されており、大人になったら出世街道まっしぐらの彼。しかし彼はそれを望んではいないのだ。周りの大人たちは全員権力と金のことしか彼に求めないのだ、両親ですら昔のように愛してくれた記憶も無くなるほどに現在は…
僕は白綿のように軽い彼を持ち上げトラックの助手席に座らせました、彼は素っ頓狂な顔をしていましたが、突然の上下移動に驚いたのみで状況が理解出来ていないようではなかったので僕は即座に荷卸の業務を済ませ、彼の頭を布で隠してここを出るまではなるべく頭を下げているよう指示しました。
会場から出るとそこはもう高速道路で、彼が居なくなったことが気づかれれば真っ先に疑われるのは僕な訳なので逃げることにしました。行く宛ても目標も無かったが、どうにかこの少年を匿える場所を早急に整える必要があった。僕は昔のツレに数年ぶりに連絡をした。彼はいわゆる半グレで今も良くないことを生業にしているのでこういう時に役に立つんですよ、まあ…余り交友関係が濃い訳ではないのでコイツのことは見過ごしてくださいね、約束です。
で、彼に用意してもらった1部屋に彼を匿う事にしました。都内のボロアパートです。ここから僕と彼の幸せな日々は始まりました。本当に、ここから…なんですよ。
あ、もう時間ですか?
次の面談は何時になりますかね?
来週…あー、大丈夫だと思いますよ。僕の方は、
彼は元気にしていますか?彼ですよ、珠生。
ああ、退院の保護監督者に僕をと?彼が?
不思議ですね、恨まれているはずなのに…
まあでも話してみないことには分かりませんから。人の心は直ぐに移り変わるものです。後日時間を頂けると嬉しいです。
それでは、本日のカウンセリングは終わりですね。
白い器 長眼 照 @ozz3325
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