第119話 ナナミ・ミツウラ

 光浦ミツウラナナミはごく普通の町娘であった。自営業で働く父を持ち、四人兄弟の上から三番目として生まれた。


 兄と姉が一人ずつ。下に弟が一人。家は裕福では無かったが、さほど貧しいわけでもなく。……高校は行かせてもらえていたし、アルバイトに精を出さずとも十分満足できるだけのお小遣いも貰えていたので、わりと裕福な方だったのかもしれない。


 その頃のナナミは高校を卒業したら親の口利きでどこかに働きに出て、親が決めた相手とお見合いして結婚して……姉がそうであるように、自分もそうなるんだろうなと漠然と考えていた。だから学校で憧れの先輩が居たけれどただ眺めて憧れるに留めていたし、流行りの映画や小説のような恋物語は自分の人生には無関係だと思っていた。


 当時の日本は女は家庭に入るべきだという価値観がまだまだ強い時代であったし、それはそれで幸せな未来が待っていると信じて疑わなかったのである。


 ナナミが高校卒業を数ヶ月後に控えたある冬の日。友人と共に夕暮れの道を歩いていたナナミは、突然足元に開いた亀裂に落ちた。隣を歩いていた友人の驚いた顔が何十年も経った今でも忘れられない。


◇ ◇ ◇


「もしかしたら白昼の神隠しってことで新聞に載ったりもしたかもしれないけどね。その後であった落ち人の子たちはそんな記事は見たことないって言っていたから、たいしたニュースにはなっちゃいないのかもしれないね」


 ニュースに載るのがナナミの感覚だと新聞なんだなとアカはジェネレーションギャップを感じた。そういえば自分たちは修学旅行中だったけど、他の子達はどうしているだろう。私達が居なくなったってネットに書き込んだりしてるのかな? 今だとネットニュースだよなぁ。


「それで、亀裂に落ちてこの世界に?」

「おそらくそうなんだろうね。深い穴に落ちるって感覚では無かった気がするけれど、気付いたらこの世界のとある街に立っていたんだ。文字通り落ちてくる人だから、落ち人さね」


 ナナミはそう言ったが、アカとヒイロは穴に落ちたというよりバスから放り出されただったような気がする(※)。その直前には辺りが真っ白になったような気もするから、あれが穴の開く兆候だったのだろうか?

(※第2章 第14話)


「穴に落ちる前に、周りが真っ白な霧みたいなのに包まれたりとかってありましたか?」

「アンタたちの時はそうだったってことかい? なにせ五十年も前のことだ、なかったとは言い切れないね。だけどアタシの記憶では何の兆候もなく足元が割れただから、その前に異常があれば覚えているとは思うんだがねぇ」

「そうですか……」

「まあアンタたちの話はこのあとたっぷり聞かせてもらうよ。……さて、そんなわけでこの世界に放り出されたアタシだけど、それでもまだ運が良かったと言えるのか、立っていたのはとある街のど真ん中だったのさ」


◇ ◇ ◇


 たった今まで目の前にあった風景が、全く別の街になっている。そして周囲を歩く人々は明らかに外国人然としている。


 意を決して道ゆく人に話しかける。


「あ、あの……っ!」

「☆〜○、・€¥^¥○〜○☆?」

「え、えっと、キャンユースピークジャパニーズ?」

「〜|☆¥、・€÷€・<¥〜¥^+☆+」


 日本語が通じなかったので、必死で学校で習った英語を使ってみるが、残念ながらそれも通じなかった。その後も手当たり次第に人々に声をかけて見るが、残念ながら誰ひとりナナミの言葉がわかる人はいなかった。


 気が付けば辺りは薄暗くなって来て、言葉も通じない見知らぬ街で夜になったらいよいよどうしたらよいかと絶望するナナミに声を掛けて来たのは、これも日本人では無さそうだが、高そうなローブを着た老人だった。


「オマエ、イセカイノモノ、タダシイカ?」

「……!? 日本語が分かるんですか!?」


 思わず詰め寄るように返事をすると、老人は首を縦に振った。


「コトバ、ワカル、スコシ」

「……もしかして、日本語を勉強してるんですか?」

「アー、ベンキョウ、タダシイ。ワタシ、ベンキョウ、コトバ、スコシ」

「はい、はいっ……!」

「ワタシ、ライオル、ナマエ。オマエ、ナニ、ナマエ?」

「私の名前……、ナナミです! ナナミ。ナナミ・ミツウラ!」

「ナナミ。オマエ、ナナミ」

「はい、ナナミ。私はナナミです!」

「ナナミ、イッショ、イク」


 ライオルと名乗った男は手を差し出して来た。一瞬躊躇したナナミであったが、この訳のわからない状況で奇跡的に出会えた日本語が分かる人物である。たとえこの男が悪人であったとしても、このまま何もわからずもう一度放り出されるよりは幾分かマシだ。そう考えて彼の手を取ったのであった。


◇ ◇ ◇


「あとから知ったんだが、ライオルは落ち人を研究している学者でね。まあ周りからは変わり者扱いされてたりもしたんだが、アタシが日本語でいろんな人に話しかけているのを見た街の人が「あの変わり者なら言葉が分かるんじゃないか?」って思ってあの爺さんを呼んできてくれたらしいんだ」

「すごい確率ですね……」

「そうさね、たまたま街の貴族街だったことや、そこに日本語を少しだけ話せるライオルが居たことなんかはいま振り返っても奇跡としか言いようがない。そのお陰で今ここにいると言っても過言じゃないからね」


 アカとヒイロもこの世界に来た初日にギタンに出会うことができたことをこの上ない奇跡だと思っている。この世界に来て、早い段階で頼れる人間に出会えるか否かがその後の運命を左右すると思えば、自分たちは大層幸運なんだろう。


 まあ、こんな世界に放り出された時点でどん底レベルの運の悪さではあるけれど。


「ライオルは一応貴族でもあったからね。日本の言葉や文化を教える代わりにアタシの後見人になってくれたんだ。言葉もだけど、あの爺さんが特に興味を示したのは科学の本だったね。私が持っていた学生鞄に入っていた教科書とか、過去の落ち人が持ち込んだと思われる本なんかをそれは興味深そうに読んでいたもんさ」

「本が読めるって片言の日本語くらいだも結構大変だと思いますけど、ライオルさんは日本語がペラペラに話せるようになったんですか?」

「そうさね。言葉を教え合ってアタシはこの世界の言葉が、ライオルは日本語が読み書きできるようになった。それだけでなくあの爺さんは日本語を「異世界言語学」としてひとつの学術分野にしちまってるのさ」

「日本語を研究してる人がライオルさん以外にもいるって事ですか?」

「そういうことだよ。マイナーな学問であるけれど、日本の科学技術を取り入れようとするなら必須とも言われていて、そういう研究者が多い場所では日本語が通じるんだ」

「もしかしてこの街がそうっていう意味ですか?」


 ナナミは首を振る。


「こんな田舎街じゃないよ。もっと本格的な研究所があるような……まあこの国なら王都にでも行かないとそんな場所は無いだろうね。逆に、王都でうっかり日本語で会話していたらアンタたちが落ち人だって分かるやつには分かっちまうんだよ。この世界じゃ日本語を話すのは学者か落ち人しかいないからね」

「ほぇー。探せば日本語が通じる人もいるって事ですね」

「危機感がなさそうだから言っておくけど、自分たちが落ち人だなんてことは絶対に明かしちゃいけないよ。碌なことにならないんだから」

「そうなんですか?」

「そういう常識も無いか。よくこれまでやってこれたもんだねぇ」


 ナナミは呆れたようにため息をついた。


「まあ、その辺りもあとで話してあげるよ。さて、アタシの話としては実はもうこれで終わりというか、あとはこの世界でなんだかんだ五十年間生きてきたってぐらいなんでけど」

「その五十年間を聞きたいんですけど」

「あはは、話してやってもいいんだけど、先にアンタたちの話を聞かせておくれよ。今の日本がどうなってるか、こっちは数十年間古い情報しかないんだからそういう話が聞きたいんだ」

「うーん、私達も五十年前の日本との違いってよく分かんないですけど……やっぱり最近でいえばスマホとかインターネットとかですかね?」

「すまほ?」

「はい、このくらいの小さな電子機器なんですけど、それで写真や動画を撮ったり、メッセージを送りあったり、あとついでに電話ができたりするんです」

「なんだいそれは!? ぜひ詳しく聞かせておくれよ」


 ……。


 …………。


 ………………。


 スマホに対して物凄い食いつきを見せるナナミ。そんな彼女にスマホの説明や、そこから携帯電話、インターネットなどについてたっぷり数時間の説明させられたアカとヒイロであった。

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