第8話

***


十五日(オリジナル+二回目)

【タムリンの予定】オーグが助かった場合、同じ日を繰り返す。助からなかった場合、行動を見直して次の日の行動を決める


***


 悪夢を見ていたのかもしれない。


 体がガクン、と揺れるような衝撃でタムリンは飛び起きた。十月だというのに、じんわりと汗をかいている。当たり前かもしれないが、昨日のとんでもない首の痛みや目の痺れは、全くない。ただ、気持ちはめちゃくちゃ、落ち込んでいる。

 昨日はオーグを救えなかったというショックと動揺で気を失ってしまったんだろう。自分としたことが情けない。おそらく起きることなくそのまま眠りに落ちて、次の日、要するにリセットしてオリジナルから数えると二回目の十五日を迎えてしまった、そういうことなんだろう。


 「くそ!」


 声に出して拳をベッドや壁に叩きつける。くそ!!

 起きていたかった。起きているべきだったんだ。失敗するにせよ、もうすこし周りの情報をしっかりと、収集しておきたかった……ちくしょう。

 

 ……もう、仕方ない。切り替えよう。

 十分以上も悔しさで布団やまくら、壁や机や自分自身に八つ当たりをしまくったタムリンは、ようやく深呼吸をしてから、昨日を振り返り始めた。



 大幅に変わったことは、もちろん自分がオーグを追ったことだ。小さいことで洞窟を出発するところでお嬢さんに話しかけられたことはあったけど、まああれは、その後の行動に影響を与えたとは思えない。おそらくは、誤差の範囲だろう。一応はでも、メモはしておこうかな。あとは、変わらなかったこと。……変えられなかったのは、オーグが死んでしまったことだ。


 ……ただ……待てよ? 


 タムリンは、メモを見ながら考える。昨日……正確にはオリジナル(+一回目)のオーグの死因は、本当にオリジナルと、同じだったんだろうか?自分が気絶してしまったので聞けてはいないが、オーグはあのとき、半分くらいはタムリンの言葉に従おうとしているようにも見えた。そして、タムリンが首に衝撃を受けて意識を飛ばしてしまう直前のあの、驚いた表情。あれは何を、もしかしたら誰を、見たんだろう。そして自分を昏倒させたのは、なんだったんだ?本当にオーグを殺したのは、獏だったのか?

 なにもないのだが、思わず手のひらで首筋を撫でる。首の一擲といえば、自分がここに連れてこられた時と、JKの前だ。キムノワ?

 ……まずは、整理しよう。タムリンは、鉛筆を取り出す。

 今日は、二度目の十五日。チャンスは今日を含めて、三回だ。いや、最後を最終とするなら、あと二回。たった二回しかないんだ。


 ・オーグとセセナの馬車の後ろに位置取る(洞窟を出た後)

 ・オーグを追いかけ、一緒に戻るように説得する

 (オーグは応じてくれそうに見えた、何かを見たように驚いた表情をした)

 ・首の後ろに衝撃が走り、目覚めると隊に戻っていてオーグは助かっていない


 細かいことだからいいかな、と思いつつもタムリンは、最初の項目を書き直した。


  ・オーグとセセナの馬車の近くに位置取る(洞窟を出た後。オリジナルは自分の意思で、+一回目はセセナの依頼で)


 その文字をじっと見て、いややっぱり、いらないか。と、二重線で付け足し分を消す。集合場所に向かいながらカバンに手を入れ、メモの感触をもう一度しっかりと、確認した。



 事前視察の集合場所に到着すると、もう若干慣れっこになった内容、セセナの同行がキムノワから発表された。ざわつく団員を叱咤するキムノワの声。そして顔を上げると予定通りダレオが近づいてきて、大きな声でタムリンの資料を褒めてくれる。

 ぐるっと辺りを見回して、もう見慣れたあの帽子のオーグを見つけると、タムリンはうっかり、泣きそうになってしまった。……よかった。本当に良かった。

 あの錠剤の効力だとわかっている。昨日は昨日で今日ではない。昨日はまだ、作りかけの昨日なんだ。そう頭では分かっていても、半日ぶりのオーグの生きている姿は、タムリンにはまぶしかった。

 「さあ、出発だ!」

 ダレオが馬上から、大きな声をかけてくる。いつも通りの雰囲気で。やばい。まだなにも起こっていないこの雰囲気が嬉しくて、タムリンはまた少し、泣きそうになる。目の端にとらえたオーグが、当たり前のように息をし、生きている。その光景が全く当たり前のものなんかじゃないんだ、と、タムリンはもう、気づいてしまった。見つめていると泣きそうになるので、そっと目を逸らす。


 ゆっくりと後退し、セセナの護衛の近くまで来た。見慣れた馬車が見える。さっと馬車のカーテンが開き、セセナが顔をだす。

 「お嬢さん……?」

 少し違和感を感じた。本来ならセセナは呑気に馬車に一緒に乗らないか、のようなことを言って、護衛はいいからタムリンは自分の仕事を頑張れのように言ってくれたはずなのだが、妙に表情が固い。

 「あ、タムリン……」

 固い表情のまま考えたように口を開きかけたが結局は、

 「えっと……資材調査。頑張って」

 と、短く口にした。

 「まあ、がんばるけど……」

 お嬢さんも無理をするな、と言おうとした時に、


 「ヤェイホゥ、クンゥッオエィ」


 の声が耳に入ってきた。オリジナルや+一回目と同じ流れで、オーグから斑鳩インコの話を聞く。途中からダレオが割って入るのも同じだった。ただオリジナルや+一回目に比べるとセセナが見るからに元気がない、というか、心ここに在らずの感じがして、そこだけ想定外だ。どうしてこの変化が起こっているんだろう?

 オリジナルに戻る時点で状態が白紙化されるはずなので、+一回目に何があっても、その時間までのオリジナルに変更はないはずだ。と、少なくともタムリンはそう考えていた。自分が全く別行動をした時間以降はもちろん、変わるにしても。それとも別に、オリジナルをも改変する要素があったってことなんだろうか?図書館で調べた範囲ではなにもなかったと思うんだけど……博士からも特に、そういった説明はなかったように思う。うーん……

 すくなくとも洞窟までは概ね、オリジナルも(+一回目)も変わらなかったと思う。強いて変化があったと言えばお昼以降、洞窟を出てからのセセナの指示だ。声をかけられて、近くにいて欲しいと言われて。あれがおかしいと言えばおかしかった。それ以外は逆に、まったく変化がなかったように思う。すくなくともタムリンの周りの、他の人に関しては。ただ今日は、なんなんだ。昼どころかその前からこの変化、セセナの反応、言葉……

 ……セセナだけ、なのか?セセナ以外に影響は、出ていない?

 もしそうだとしたら逆に、セセナさえ押さえておけばいい、と言うことはないだろうか。セセナの動きや挙動にだけ気をつけて、あとは予定通りにオーグを守ればいいのかも?……だったらここはセセナに集中してみよう。


 「このあたりで休憩にしよう」

 オリジナルと+一回目通りに、昼休憩は洞窟ということになった。タムリンはそっとセセナを探し、他の団員たちを一通り眺める。もちろん全員の一挙手一投足を記憶しているわけではないけど、やっぱり今のところ、セセナ以外にオリジナル(+一回目)から、大きく変わったことをしている人間はいない気がする。

 セセナをしっかり、マークしよう。タムリンは心を決めると洞窟に入り、昼食を配る列に並んだ。そしてゆっくりと、オリジナルと、オリジナル(+一回目)の昼の出来事を、頭の中で整理し始めた。


 オリジナル:タムリンはダレオを中心としたグループに混ざって昼ごはんを食べた。オーグと会話をしているセセナに軽く挨拶をし、二人と少し話す。またグループに戻り、報告を聞く。洞窟を出て獏と遭遇。セセナの安全確認をする。

 オリジナル(+一回目):昼ごはん、オーグとセセナと会って話すのは同じ。ただ、洞窟を出る時にセセナから馬車の近くにいて欲しいと依頼される。


 ……今回は、どうなるんだろう?と考えていると、

 「おい、ぼーっとしてどうした、大丈夫か?」

 と、ダレオが話しかけて来た。予定通りだ。そして昼ごはんを食べてからセセナと……

 「タムリン……ああ、そうだわ、ダレオ副団長にお願いするほうがいいかも」

 セセナがオーグの腕を掴んでこちらに走ってくる。……え、またか?また、セセナだけが別の動きをしている。昨日(オリジナル+一回目)よりもさらに早い変更だ。なんだろう、どんどんセセナだけが、オリジナルから離れていく。

 「どうしたんですか、お嬢様」 

 ダレオがすっと立ち、セセナの顔を見る。

 「あのね、午後なんだけど、隊列を少し変えてもらうことはできないかしら。あ、そんなに大袈裟でなくていいわ。あの、私の馬車の近くにこのオーグと、それからタムリンについていてもらいたいの」

 「オーグと、タムリン……」

 ダレオは少しだけ考える顔になる。

 「問題ないと思いますよ。このあとデータ班と打ち合わせをします。そこでその話をしますので、出発までにはご連絡しますので」

 「ありがとう!」

 やりとりを聞きながらタムリンは、セセナの行動はまったく、オリジナルの流れに影響を与えてないことに気づいた。ダレオやタムリンと一緒に報告を聞いていないセセナは知らないが、そもそもこのあと、データ版の報告に基づいて、後半は列を並び替えるのがオリジナルの流れだ。セセナの依頼とはまったく関係なく。

 セセナからしたら要望通りだが実際には、これがあろうがなかろうが、隊列はオリジナルと同じ展開になる。もしかしたら世界は、違和感を認めたくないのかもしれない。オリジナルに近づけようとする、なんらかの力があるような気もする。

 タムリンはそのままセセナとオーグと話をし、オリジナル(そしてオリジナル+一回目)と同じように、オーグが音声や音響の専門家であるという内容を聞いた。やはりだ。セセナ以外は変わっていない。となればオーグは放っておいたら、オリジナルか、あるいはオリジナル+一回目と同じように、その好奇心から命を落とすに違いない。やはり何があっても獏の場面でオーグを守らなければならない。今度こそはとタムリンは、ぎゅっと拳を握りしめた。

 「タムリン、あのね」

 戻ろうとするとセセナがタムリンの服の裾を、きゅっと握る。

 「どうした、お嬢さん?」

 「あたしから、オーグから、離れないでね?」

 また、少しの変化。こんなセリフ、オリジナルにも+一回目にも、なかった気がするが。

 「大丈夫、お嬢さん。安心して」

 セセナの肩をポンと叩くと、セセナは笑った。洞窟のひんやりとした空気の中でその笑顔は、冷たくも美しく輝いていた。



 洞窟を出るとやはり、緊張する。馬に乗る時にちらっと背後を見るとセセナがダレオになにか、話しかけていた。ダレオが首を振り、それからちらっとタムリンを見る。ダレオがもう一度セセナに何か話しかけ、セセナがため息をつき、二人は離れた。これは一体……オリジナルでも+一回目でも気づかなかったがこれは、また別の変更なんだろうか?

 まあ、仕方ない。のどかでまぶしい光の中、タムリンはセセナの言葉通りに、セセナの馬車とオーグの馬が並ぶの真後ろあたりに場所を確保した。


 「タムリン、ちょっと来て」

 ものの数分も経たないうちに馬車のカーテンが開き、セセナがタムリンを呼ぶ。タムリンの顔が引き攣った。うそだろ、今はやばい。タムリンの背中の辺りがざわざわっとする。また、セセナだけがオリジナルから離れようとする。しかももう、時間がない。

 「タムリン?」

 「わかった、どうしたんだ?」

 セセナの馬車に近づき、軽くオーグに会釈する。いや、ある意味セセナとオーグの真横にいた方が防ぎやすいか?と思い直して落ち着こうとするタムリンだったが、セセナの次の言葉でタムリンの心臓は、びくんと跳ね上がった。

 「あのね、オーグにも相談していたんだけど、ちょっとだけでいいから私も、馬に乗れないかしら?」

 「え?」

 セセナがにっこりと笑う。窓から手を伸ばして、するっとタムリンの馬に手をかける。

 「ダレオにも話してあるから、大丈夫」

 「本当に? いやでも、危ないから、もうちょっと後でも……」

 っていうかお嬢さん、ダレオは本当に納得していたのか?あたしの前で適当に言っていない?

 「ああ、もう、時間ないのよ」

 ぐいっと馬の首を引き、セセナが無理やりタムリンの馬に体を預けてくるのと、


 「……よゥ……」


 遠くの方からかすかな声と、ふうわりと温かい、パンを焼くような香りがしてくるのがほぼ同時だった。

 ぐらりとバランスを崩しかける馬の首をひねって体制を整え、落ちそうになっているセセナの体を慌てて引き上げ、自分の前に座らせる。

 「オーグ!」

 オーグの馬ははっとしたようにかけ出す。セセナの体が大きく前のめりになるのを、腰の辺りに腕を巻き付けて引き止める。

 「タムリン!」

 振り返ったセセナは泣きそうな顔をしている。

 「セセナ、一旦降りて、誰かと逃げて。オーグはあたしが必ず連れ戻すから!」

 遠くからダレオの声がする。

 「あいつらにはかかわるな、走れ、戻るんだ、方向転換しろ。急げ!」

 「お嬢さん、時間がない!」

 「……タムリン、この馬、あたしたち二人を乗せたままでも、走れると思う?」

 「いや、え? 重さは問題ない、だけど……だめだよ、危険すぎる!」

 「問題は、ないのね」

 わかった、とばかりにセセナは、馬の首の辺りをばしっと叩き、同時にかくを入れた。

 「時間がないのよ、追うわよ!」

 「セセナ!」 

 もともと乗馬の腕に関してはタムリンよりもセセナのほうがずっと上だ。スピードが一気に加速した以上、ここで争うわけにはいかない。タムリンは覚悟を決めて、馬上で姿勢を低くした。

 「セセナ、しっかり掴まってよ」

 「あんたに言われたくないわ、私の腕を見てらっしゃい!」

 後ろからダレオやその他の声が戻れ、戻れと言っている。団員たちを戻そうとする声なのか、タムリンたちを呼び戻そうとする声なのかわからない。セセナが馬車を離れたことでさらに混乱しているのだろう。ダレオやキムノワには本当に悪いことをしているとは思うが、もう引き返すわけにはいかなかった。

 「急いで!」

 主導権を握っているのはセセナだ。馬に鞭を入れ、上手に馬をコントロールしている。

 「オーグ!」

 オーグの背中が森の木々に、ちらちらと見え隠れする。まだ少し距離がある。

 「お嬢さんどうしよう、やっぱりどちらかが降りたほうがいいんじゃ? すこしでも軽いほうが、馬だって早く進めるんじゃないか?」

 「バカ言ってないでよ、止まってる暇なんかないでしょ?」

 「まあ、そうなんだけど……」

 「大丈夫、あたしのほうが乗馬は詳しいわ。この馬は、ダイナっていうの。私も乗ったことがあるからよく知ってる。この子はこの程度じゃ、へこたれないわ。第一あんたをおいてなんか……」 

 「そうなんだ……あ、おい! オーグ!」 

 オーグの馬がなにかに脚を取られたらしい。スピードが落ち、オーグが馬を気にしているのがわかった。タムリンも声を上げる。

 「オーグ! 待って! 止まって! お嬢さんの命令が! 聞こえないのか?」

 道中のオーグの態度からして、オーグがセセナに対して敬意を持っているのは明らかだった。そのお嬢さんがわざわざ追ってきた、というのは多分、刺さるだろうと思ったのだ。狙い通りで、びくん、とオーグの背中が揺れると、馬を急停止させて、こちらを伺っている。

 びし、とセセナがダイナに、鞭を入れる。急いで馬を駆けさせ、オーグと並ぶことができた。

 「す、すみません、お嬢様……失礼を、いたしました」

 オーグは馬から降りて、膝をついて恐縮していた。少し落ち着いたのか、我を忘れて、という表情ではないのが見てわかった。よかった。これなら話を聞いてくれそうだ。それにしても昨日(オリジナル+一回目)にも思ったが、オーグの所作にはなんとはなしに品がある気がする。オーグってもしかしたら割と、育ちが良い子なんじゃないだろうか。

 「熱心なのはいことだわ。ただ、この香りを発しているのは獏らしいの。そしてここにいる獏は、非常に危険なのよ。説明するからとりあえず、戻りましょう。馬は、大丈夫そう?」

 「はい、すこし脚を痛めたようですが、全速力でなければ大丈夫だと思います」

 「そう。無理せずに脚の様子を見ながら、一緒に行きましょう」

 「わかりました」

 オーグに対して獏の説明をするセセナを横目にタムリンは、周りに気を配った。昨日(オリジナル+一回目)に後ろから殴られたのかなにかが飛んできたのか、タムリンはこのあたりで気絶してしまったのだ。今回はそうはいかない。セセナもいるし……しかしセセナはすごいな、獏の知識もあるのか。


 「早めにこの付近から遠ざかるには、川を横切るのがいいかもしれません」

 オーグの言葉に従ってすこし西に向かうと、目の前に川が現れた。川幅はそこそこあるが、簡易な丸太の橋もかかっていて、渡るにはなんとかなりそうだ。川の水は最近の雨のせいか、すこし濁っている。

 「オーグの馬は足を痛めているから、この不安定な橋を渡るのは酷ね」

 セセナが少し考える顔をして、

 「このまま馬と一緒に川を渡るのが良さそうね。オーグとタムリンは一緒にダイナに乗って進んでくれる? 私がオーグの馬を誘導しながら、ダイナを先導するわ。ゆっくりでいいから、私についてきて」

 「わかった」

 オーグの馬の手綱を握ったセセナが先に川に入り、そのあとをダイナに乗ったままのタムリンとオーグが続く。

 「お嬢さん、濡れちゃう。大丈夫なの?」

 お嬢さん育ちのくせに。心配するけどセセナはにやっと笑って、

 「あんたほどは慣れていないけど、私だってやるときはやるのよ。『いざという時のいざ、は、わりとすぐにやってくるものだ』、だったっけ?」

 「あんた、結構すごいじゃん。見直した」

 「失礼ね、あなたに見直されるほど私、堕落してませんけど」

 くすくすとオーグが笑う。

 「お二人とも、仲が良いんですね」

 「そんなことないけど……」

 といいつつ二人とも、思わず笑ってしまう。

 「さ、急ぎましょう」

 じゃば、じゃばと、足元で大きな音がする。さすがはセセナのお墨付きの馬だけあってダイナはまったく動じることはなく、慣れた調子で危なげなく川を渡ってくれる。

 「二人とも、平気?」

 セセナが前から、振り返って声をかけてくれる。

 「大丈夫。お嬢さんこそ足元、気をつけて」

 そう声をかけた瞬間足首をギュッと握られ、そのままぐいっとものすごい力で下に引っ張られる。まずい、落馬する!ダイナが驚いて体を揺らし、勢いでタムリンの体はそのままぐらりと傾げ、水中に落ちる。なんとか水面に顔を出そうとしたが生臭いなにかに口を塞がれ、腕を回されて水中に引き摺り込まれた。もがいてなんとか逃れようとしたが、顔に布のようなものを被せられ、苦しさでそのまま、タムリンの世界は、暗転した。


 ……あれ、これ、夢?
 自分が泣いているのを、もう一人の自分が見ている。これはまだタムリンが、じっちゃんのところにきたばかりの時だ。泣いていた自分をじっちゃんが、慰めてくれたことがあったっけ。泣いた理由は覚えていない。なにかが壊れただとか、なくしただとか、そんなたわいもないことだったと思う。ただその時は母と離れたこともあり、どうしようもなく寂しくて悲しくて、珍しくご飯も食べずにタムリンは、一人で泣いていたのだ。

 泣いているタムリンの横にそっと腰を下ろして、じっちゃんは黙って背中を撫でてくれた。どうしたのか、とも問わなければ、泣きやめ、とも言わなかった。タムリンはずっとずっと、ただ泣いていた。じっちゃんはずっとタムリンに寄り添ってくれた。そして散々泣いたタムリンに、歌うように言ったのだ。


 なあタムリン。

 おれはさ、お前が泣いてくれて、嬉しいと思うよ。泣いたら母親が悲しむから、義理の父親の機嫌が悪くなるからって、多分お前は、あそこじゃ、泣けなかったんじゃないかって思っていたんだ。泣く自由が、お前にだってあるんだよ。好きなだけ泣くといい。タムリン。ここにはその自由がある。

 驚いてタムリンは、じっちゃんに聞いた。

 「泣いてていいの?」

 「ああ、好きなだけ泣けばいい。泣き疲れたら、すこし眠るといい。じっちゃんがここにいるから。大丈夫だ。たくさん泣いて、たくさん眠るといい」

 そんな風に考えたことのなかったタムリンは、じっちゃんに聞いてみた。

 「あのね、でも……泣き止みたくなったら、どうしたらいいの?」

 「はは、それだけ元気なら、大丈夫だ」

 じっちゃんはタムリンの背中をとん、と優しく叩いた。

 「そうだな、すごく悲しくて絶望したくなったらさ。こう考えてみたらどうかな。つまりな、人間がこの世に生まれてそこそこたつだろ? 世界にはいろんな人がいて、生きてる人も死んでしまった人もたくさんいるんだ。だったらもしかしたら悲しみのバリエーションなんてもう、すべて出尽くしてしまっているんじゃないかって、そう、考えてみるんだ。今自分が悲しんでいるのは、単に、悲しみのひとつのパターンにあてはまっただけなんだ、って。同じような目にあった人はどこかに必ず一人はいてさ。きっと過去のどこかでは、誰かが必ずそれを、乗り越えたんだ。

 タムリン、人間なんて、割と単純だ。自分だけのオリジナルの悲しみなんて、なかなか作れるもんじゃない。いつかどこかで誰かが必ず、その同じような悲しみを乗り越えたはず。その悲しみは自分だけのものじゃないんだ。同じように感じて、苦しんで、でも乗り越えた仲間がきっとどこかには、いたはずだ。

 だから大丈夫だ、タムリン。じっちゃんは今のお前の悲しみを、完全にわかってやれないかもしれない。けど、きっとどこかで誰かが、乗り越えたはずだ。だからお前にだってできるって。

 お前はそれができると、じっちゃんは信じてる」


 ……だけどさ、じっちゃん。

 いまここで体験している、途方もないほどの孤独は?タイムトラベラーもどきの悲しみまでも、そうだと本当に、言えるのかな。

 夢の中のじっちゃんは、すこし困ったように笑って、わしわしわし、と、タムリンを撫でてくれる。大丈夫だよ、タムリン、お前は大丈夫。



 わしわしわし。髪の毛が揺れる。頭が揺れる。

 ……大丈夫、大丈夫……



 「大丈夫? 大丈夫なの? 目を開けて、タムリン!」

 頭ががんがんする。あ、夢、か。

 「タムリン! 起きて! タムリン!」

 ほっぺたにひんやりとした土を感じる。生臭い。錆のような味がする。いや、臭いのは自分で、錆の味は口の中の血の味だ。ずぶ濡れだ。寒い。

 「頭……痛い……」

 なんとか声を絞り出した。喉が熱っぽい。喉の内側に粗い紙やすりをはりつけたみたいに、ひどくひりひりする。たまらず頭を抱えた。なんとかつばを出そうとする。まぶたにも心臓があるようにずきずきする。熱を持ってまぶたが重たい。腫れているのだろうか、目が、開かない。

 「大丈夫? 水、飲める? ほら、水筒」

 水。その言葉に一気に喉がざわついた。水。飲まなければ。なんとか目をこじ開けて、目の前に差し出された水筒に手を伸ばす。指に濡れた袖なのか、布がからみつく。邪魔だ。どろどろに疲れて体が重い。なんとか腕を振り、指を袖から出す。

 「体、動かないの? ちょっと待って、開けてあげる」

 かち、と蓋が開く。奪うように水筒に口をつける。ぬるりと液体が喉を通り……

 「ごふごふごふ、ごはぁっ」

 タムリンはむせ返った。

 そうでなくとも喉が痛んでいるところに咳まで加わり、本気で喉が切れたと思った。体のいろんなところから液体が出て、苦しさに地面に爪を立てた。

 「ぐぇ、げ、げほっ」

 「ちょっと、無理しないで、大丈夫?」

 上半身がぐいっと引っ張られる。セセナだ。そのまま体を寄せると、背中をさすられる。少しだけ楽になった。タムリンはゆっくりと、目をひらく。

 「大丈夫? 喉だけ? つらいのは?」

 目に入ったセセナの髪は濡れ、服も泥で汚れている。

 「お嬢さん、ここは?」

 「もうすこし水を飲んだほうがいいわ。すごい声になってる。目もまだ腫れてるわね……ちょっと待ってて、濡らした布をあてるから」

 セセナが布を取ろうとして体を少し離したので、タムリンの視界が少しひらけた。ゆっくりと首を回して、辺りを見回した。水辺……焚き火……森……

 「セセナ、ここは? 何が起こったんだ? オーグは?」 

 「あなたが川に落ちたから、慌てて水に入ったのよ。引き上げてとりあえず、ここに寝かせたの。オーグはほら、そこよ」

 「大丈夫ですか?」

 セセナの影になっていたオーグが顔を出す。オーグの顔を見て、その声を聞くと、ほっとしてまた涙が出そうになった。

 「服も濡れたし、乾かしているのよ。あなたが動けるようになったら戻ればいいし、もしかしたら探しに来てくれるかもしれないから、焚き火も準備したわ。体も濡れてるから、寒いしね」

 「悪い……」

 水筒からゆっくりと水を飲み、冷たい布で目や頬を冷やす。焚き火に近づいて手や足を暖めると、ようやく調子も少しずつ戻り始めた。タムリンは徐々に記憶を呼び戻していった。

 「……ちょっとまて。お嬢さんでもオーグでもいいんだけど、あの、あたしあの時、確かに誰かに足を引っ張られた気がするんだけど。なにか、怪しい人とか見なかった?」

 「え?」

 セセナとオーグの目が見開いた。

 「本当なの?」
 「そんな……」

 うーん、その反応は多分、誰も見ていないってことか……

 「ああ、足首を掴まれて。顔に布が被せられたような感触があったんだけど、お嬢さんも一緒だったオーグも全く見えていないんだったらちょっと……」

 自信がなくなる。もしかしたら全くの気のせいってこともあるのかもしれないしなあ……

 「あたしが気がついた時には、あなたの体が沈みかけながら流されかけるところだったから。特に人影とかには気が付かなかった……ごめんなさいね」

 「ぼくも、慌ててしまって周りとかはみていなかったかもしれないです」

 「いや、謝るとかじゃないよ。なんかあたしもちょっと、自信無くなって来た」

 なんとなく気まずい沈黙が流れる。静かになるとぱちぱちと、焚き火のはぜる音が耳に響く。

 「タムリン、これ。少し楽になると思うわ」

 「あ、ありがとう」

 タムリンの喉に、セセナが濡らした布を巻いてくれる。

 ……そういえば。

 「お嬢さん、あたし、どのくらい気を失ってた?」

 「うーん、落ちてからだと二時間くらいたってる、かな」

 「そうか……あ」

 腰に手をやる。カバンはそこにちゃんとあった。体に目をやるが大きな傷などはないようだ。あの時の足の感触は……本当にただの、気のせいだったんだろうか。

 「ごめん、いや、ありがとう。動けるから、すこし乾いたら出発しないか?」

 タムリンは空を見、周囲の匂いを確認しながら考える。あまり暗くならないうちに隊と合流したい。ドラゴンと共闘しているかもしれない獏がいるとしたら、近くにドラゴンがいてもおかしくはない。オーグを守ることはもちろんだが、セセナとドラゴンに関するものをむやみに近づけたくはない。自分一人じゃ手に余る。すくなくともダレオやキムノワレベルの力を借りたい。

 「そうね、焚き火の煙にも反応がなかったからもしかしたらそこそこ遠くに来たのかもしれないし、いずれにしても本隊と早く合流したいわね。暗くなる前に」

 洞窟の辺りまで戻れば帰りかたはわかるので、まずは洞窟を目指すことにした。

 「ここからだと位置的には、すこし南西に向かうことになると思います」

 オーグが言う。

 「よし、行こう」

 まだ少し半乾きの服を着て、火を消し、三人は西を目指して歩き始めた。

 「お嬢様、タムリンさん、足元には気をつけてください」

 オーグが声をかける。

 「どうしたんだ?」

 「このあたりの川辺、すごく滑りやすいです。あと、このあたりはどうも、川の深さが急に深くなるみたいで。ほら、あそこの魚。あの魚は本来、かなり深い場所で生きている種類です。それがこんなに近くにいるってことは多分、川辺から少し行ったところで、川が急に深くなっているんだと思います」

 「了解」

 「タムリンは特にまだ、無理しすぎないでよね。頭を打っているかもしれないんだから」

 「わかってるって」

 今回のことでセセナはずいぶんと、強くなった気がする。

 「本当に? いざがまた来るとも限らないんだから。気をつけなさいよ」

 「はいはい。お嬢さん、ありがとう」

 タムリンはぎゅっと、セセナを抱きしめ、そっとおでこにキスをした。セセナはぽかんとした表情を浮かべる。

 「どうしちゃったの? まあ、えと、どういたしまして?」

 『肝心な時は言葉だけじゃなくて、ちゃんと体でも態度でも、伝えるもんだ』

 じっちゃんの言葉が思い出される。言葉ってもしかしたら、人だけに許された補完的な贅沢なんじゃないだろうか。たぶん神は伝え損ねないし、言いつくろわない。神じゃないタムリンは、言葉でも態度でも、セセナに伝えたいことがたくさんある。

 



 「え、これって……?」

 どこかで姿を見ていた人がいたらタムリンたち三人は、ぽかんと口を開けたさぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。

 「うそ、こんな大きな建物……うちの敷地内にあるなんて、聞いたことないわ」

 西に向かって歩いていた三人が突き当たったのは、苔むして古びた、研究棟のような巨大な建物だった。建物の周りにはシロツメクサが生い茂り、建物は蔦に覆われている。ガラスには埃がびっしりついていて、全体的に薄暗い。建物のすぐ脇には人が一人か二人、なんとか通れそうな小道がある。

 「誰もいなさそうだけど、中を突っ切るよりは無難に、建物をぐるっと回避して進むのがよさそうね」

 小道を指さして、セセナが言う。

 「ここに馬を通すのは難しいかもしれませんね、人間なら大丈夫ですが。……いったん、馬をここに繋いで、三人で抜けてみましょうか。安全確認をしたら、馬を引き取りに来ましょう」

 「賛成。わたしが先導するからお嬢さんとオーグは、手を繋いで。わたしから離れずに、ついてきて」

 セセナはうなずくとぎゅっとタムリンの腕を掴み、自分の方に寄せた。

 タムリンは視線を左右に分けながら、慎重に足を進める。近くにいるセセナの息づかいがシンクロして、ひとつになった息がしゅうしゅうと背後に流れる。建物の角には階段のような張り出しがあるが、蔦で隠れてよく見えない。もう少しで建物を抜けられそうだ、というあたりに蔦が密集していて、そのまま通れそうにない。

 「ちょっと待って」

 タムリンはカバンから、小さなナイフを取り出した。

 「少し二人は下がって。蔦が跳ねると危ないから」

 蔦の束をまとめて手で掴み、ナイフで少しずつ切り落とす。絡まっていて硬いが、じっちゃんにもらったナイフは定期的に研磨しているので、思ったほど手強さはなかった。

 「よかった。じゃ、抑えているからお嬢さんとオーグ、先にくぐって」

 体全体で蔦を押さえ込むようにして二人を先に通し、タムリンも目を保護しながら足を一歩前に踏み出した時。


 どぅーん!と爆発のような大きな轟音と、ものすごい風。一瞬こそ処理速度が追いつかなかったが、すぐに切り替えるとタムリンは、体当たりするような勢いでセセナとオーグを抱き抱え、建物を背中にした。張り出し部分に、二人を押し込むように座らせる。

 「いったん、ここにいて。動かないで」

 「タムリン、ダメ……うっ」

 「セセナ?」

 セセナが足首を抑えている。

 「ひねったの?」

 「大丈夫、たいしたことないから。だめよ、タムリン、行かないで。いったん建物の中に入ることを考えましょう。無理よ!」

 キシャー、というようなものすごい咆哮。建物のガラスがみしみしと音を立てる。埃の中から現れたのは、巨大なドラゴンだった。その目がぎょろりと動き、こちらを捉える。ドラゴンは火を吐くとも言われているが、おそらく間違いではなさそうだ。ものすごい粉塵。これはドラゴンの体重で埃が舞っているだけではない。おそらくは体温がとてつもなく熱いのだろう。ごうごうと漏れる息が熱く、周りの温度が急激に上がっているのがわかる。

 「お嬢さん……オーグ、お嬢さんを頼む。隙を見て建物内に入っていてくれ。必ず、あとで合流する」

 まだ何か言いそうなセセナの手をぎゅっと握るとナイフを取り出し、タムリンはすばやく駆け出した。ばらばらばら、と、風と共に小さな石が降ってくる。どうっと大きなかけらが降ってきて、避けようと大きくジャンプするとそのまま、シロツメクサに足を取られてごろごろ、と体ごと回転してしまった。口の中に青臭い匂いが充満し、少しえづいてしまう。なんとか手を入れ、ぺっぺっと草を吐き出す。土埃に混じってうっすらと血の匂いと、生臭い獣の臭いがする。大気がやけに重たい。

 轟音。そしてもう一度、辺りを揺るがす咆哮。ビリビリと空気が揺れ、タムリンは思わず膝をつく。興奮すると人でも体温が上がるが、どうもこのドラゴンはその比ではないらしい。その足で踏まれた草が干からびて、地面からしゅうしゅうと湯気が立っている。見上げるとその頭部が、陽炎のようにゆらりと揺れた。

 緑のぎらぎらした鱗に覆われたドラゴンは、ちょうど建物と同じくらいの大きさだった。伸びた首の先にある頭部は鱗のついた巨大なトカゲのようで、瞳も緑。閉じかけた口の中に、一本一本が短剣のような鋭い牙が見える。揺れがおさまったと思ったが、ぎしぎしっと嫌な音が鳴る。白煙。建物の壁が一部割れて、砕け落ちてくる。タムリンははっと、セセナとオーグを見る。

 「大丈夫よタムリン、あたしたちは平気!」

 セセナが叫ぶ。よかった。しゃがんだオーグが、庇う形でセセナを背にしている。ありがとう!タムリンと目が合うとオーグは男らしく、にっと笑った。とにかく、離れなければ。

 なんといってもこの敵の巨大さはやっかいだ。戦うにしてもこいつが尻尾でも足でも少しでも派手に動かせば、建物なんて倒壊してしまう。オーグとお嬢さんから、距離を置きたい。どうする。

 「こっちよ! ほら、来い!」 

 タムリンは首から巻いていた布をほどき、ナイフをと共に大きく掲げた。ナイフの光とぴらぴらと動く布。わざとドラゴンの前でジグザグに走り、光と動きでドラゴンの気を引こうとした。セセナとオーグから少しでも、ドラゴンの気を逸らさなければ。こんな子供騙しのナイフと布だったけれど、見たこともなかったのか、ドラゴンはぴたりと動きを止めた。きょとん、と首をかしげるようにして、顎からだらりと涎を垂らしたまま、きょろ、きょろ、と、目だけがナイフの光を追っている。

 いいぞ。そのまま。尻尾はそのままだ。おとなしくまっすぐ、こっちに来い。

 タムリンは神経を研ぎ澄ます。二人の無事の確保と、ドラゴンの討伐……武器はナイフひとつ。できるのか?

 「タムリン、いざは、今よ!」

 セセナの声がする。タムリンははっとして、カバンに手を入れた。火薬の瓶が触れる。そうだ、やるしかないんだ。

 「ほら、こっちだ、来い!」

 タムリンは猛スピードでドラゴンに近づき、その鼻のあたりを、ナイフで払うように、傷つけた。そしてまた、距離を置いて建物とは反対方向に猛ダッシュする。

 ひるむように見えたのは一瞬で、ごう、という声がドラゴンの喉から漏れ、首が伸ばされると同時に太い前脚が一本ぐいっと上げられた。来る!

 足が下ろされる瞬間にタムリンも体を捻って旋回し、振動をそらす。また体制を整えるとドラゴンを扇動するように、一気に走り出した。獲物を逃すか、と思ってくれたんだろうか、ドラゴンはどすどす、とタムリンを追って、前へと進む。足が下ろされるたびに地面が地震のように揺れ、木々が裂ける音がする。


 じっちゃんの言葉が頭をよぎる。『ものにはそれぞれ、向き不向きがある。どう使うべきなのかを見極められるのが賢者だ。使えないのはお前の頭だけかもしれない』


 走りながらなんとかタムリンはカバンに手をやり、火薬を掴み出す。すっかり乾いた布の中心に手早く火薬の入った瓶を押し込め、そのあたりにあった小石と一緒にぎゅっと包んでぐるぐると巻いて、硬くナイフにくくりつける。一瞬でいい、目眩しができれば。タムリンの頭には、川があった。深い箇所がいくつかある、あの川が。走りながらタムリンは必死で、ドラゴン討伐の講義を思い出す。

 「ドラゴンは宝石や金属の特性を持ち、体の色や瞳などにそれが現れる」

 キムノワの声が頭に響く。

 「特性に応じた強さと弱点があるということだ。例えば属性がオパールであれば、オパールの石としての特性が強く現れる。具体的にはオパールと同じで、熱や乾燥に弱いんだな」

  タムリンは自分のピアスに手を当てた。母にプレゼントされた、母と同じ目の色の、エメラルドのピアス。その時母は、なんと言っていた?

 「タムリン、これはね、エメラルドっていう宝石なのよ。硬い宝石だから、壊れたりはしないと思う。とっても小さいしね。だけどね、タムリン、エメラルドって、インクルージョンっていうゴミみたいなものが結構入っているの。だから、結構壊れやすいのよ。……落としたり、強い衝撃には弱いの。大きな指輪のエメラルドが、ぱきん、って壊れるのを見たことがあるわ」

 緑の金属はないはずだ。このドラゴンの属性が宝石、つまり石だったとしたら。緑の宝石ならたくさんある。エメラルド、翡翠、ペリドット、めのう……確かその中で一番硬いのは、エメラルドだったはず。その硬いエメラルドでさえも「衝撃に弱い」としたら?怒りで急激に上がった体が川の水で急冷されることで、欠けたり割れたりといった、石に起こる変化を引き起こせないだろうか?


 タムリンは必死に走った。もう後ろを見るゆとりはなかったが、熱い息遣いと振動が、ドラゴンが近づいているのを教えている。さあ、もう少し。川が見えたら。


 「くらえ!」

 川が目に入る。勾配に足を取られつつもなんとかタムリンは体を捻り、丸まった布でぐるぐる巻きになったナイフを、ドラゴンめがけて思い切って投げつける。

 ぎゃあ、と吠えるような声に、爆風。ざあっと泥と草が大量に降ってきた。うまく火薬は、ドラゴンの口腔内で爆発してくれたようだ。

 じじっと肉の焦げる、嫌な匂いがする。そして巨大花火が上がったときのような爆音とともにドラゴンの前脚ががくりと折れる。

 「うわっ」

 ぐらっとドラゴンの体が傾ぎ、地震のような縦揺れ。川辺の地面が崩れ、土砂となって一気に川へと吸い込まれる。ばきばきという音と共にその流れは見る間にドラゴンの足元まで伸び、巨体が川へと倒れ込む。

 「わ、あっ……!」

 まずい。足を取られる。滑る地面になんとか手をつくが、泥の流れの中にタムリンの体も巻き込まれる。濡れた草と泥がうねりとなり、一気に加速をつけて体が川へと吸い込まれてゆく。

 「タムリン!」

 必死に声のほうを見ると、タムリンの目に黄色の地に、王冠をかぶったワインレッドのウロボロスが見えた。

 「ダレオ……」

 騎士団が、来てくれた。よかった。あたしはいいから、セセナを……

 「セセナ! オーグ! 建物の方にいるから! 二人を頼む!」

 転がりながら叫んだ声は、誰かに届いただろうか。お願いだ、二人を助けて。もう一度叫ぼうとすると、ものすごい頭痛がしてタムリンは頭を抑える。なんだ、これ?

 ばしゃん!

 体が水に入ったのがわかる。そして轟音と共に、体が旋回し、上下左右もわからなくなった。ずうん、という音がこれは、ドラゴンが沈む音、できたら壊れる音だといいのだが……

 頭が割れるように痛い。脳に心臓が引越ししてきたみたいにずきずきする。ああ。


 「セセナ……」

 ドラゴンを怖がっていたセセナに、怖いものを見せてしまったかな。 

 タムリンは目を開けようとする。あ、だめだ。また目が開かない。

 もう、無理しないでって言ったじゃない。

 セセナ?泣いてるのか?泣かないでくれよ、お嬢さん。目の前で女性に泣かれるのは、好きじゃないんだ。


 タムリンの思考は再び、深く沈み込む。

 ……思考は?いや、思考だけ?


 そうじゃなかった。思考だけじゃない。タムリンの体も、もっともっと深く。深く、もう見えないほど深く、沈んでいった。

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