3.不穏な幕開け
時を遡ること24時間前。
巨大な建築物がひしめく霞ヶ関のビルの一室で、緋色は緊張の面持ちで椅子に腰掛けながら、それでも物珍しげに室内を眺め回した。
通された部屋の前には『内閣官房室付 特務機関対仮想空間研究機動隊』という表札が掲げられている。二年前に新設された機関のはずなのだが、割り当てられた部屋は官庁からはほど遠く、内装は簡素で、お世辞にも清新さを感じ取ることはできず、肩書きに見合った施設とは言えない。
(最新鋭って聞いていたんだけどなあ?)
これから自分が働く先も、同じように寂しい場所なのだろうか? いくばくかの不安を抱いていた矢先、眠たげな声が緋色の耳に届いた。
「ボロボロで驚いただろう?」
「いえ、そのようなことは……」
「かまわんよ。ここへやってくる連中は、皆揃って同じ感想を口にするからな」
ビジネスデスクに書類を広げながら、
デスク上に置かれた『統括課長』というプレートをちらりと眺めつつ、緋色は訓練所にいた頃の噂を思い出していた。
内閣官房室付のエリートとはいえ、不確定要素の多い“特機”は厄介者にすぎない。それを束ねる統括課長はよほどの貧乏くじを引いたか、過去に不祥事を起こしたに違いないのだろう……。
そして千疋の人物評といえば、派閥争いの末、権力を剥奪され、閑職に回された定年前の老人、という見方が大勢を占めていたのだった。
老眼鏡をかけ、目を細めながら経歴書を眺めやる千疋は、いかにも興味なさげといった様子である。その態度に、緋色は噂の信憑性は極めて高いものであると結論を出した。
「一ノ瀬緋色、21歳」
不意に名前を呼ばれたことで緋色は我に返ったが、どうやら千疋は、書類に記載された内容を口にしていただけらしい。
浮かしかけた腰を再び椅子に落ち着かせ、緋色は続きを待った。
「――高校卒業後、品質検証評価企業にテスター入社。以降、フルダイブ型VRソフトウェアの
無感動にこれまでの経歴を読み進めた千疋は、それでも『異常要因の発見および反応速度』において優れた成績を修めていることに触れ、老眼鏡越しに緋色を見やった。
「バグやエラーに対する反応は群を抜いている。テスターとして極めて優秀だな」
「いえ、自分はまだまだ未熟だと痛感しています」
「謙遜しなくてもいい。こちらの招聘に応じてくれたことにも感謝しているのだ。もっとも喫緊の要請を承諾してくれたのは、きみにも動機があったように思えるが」
「私事ながら妹がフルダイブ型VRMMOにどハマり、いえ、夢中になっておりまして……。妹が安心してプレーできるよう、兄として、仮想空間の秩序を守れたらと考えたのです」
「家族思いで結構。きみを選んで正解だったな」
「はあ」
答えながらも、緋色は居心地の悪さを隠しきれずにいた。40人中8番目という訓練成績はまずまずといったところで、誇ってもいいのだろう。
しかしながら自分より優れた成績を修めている人物が七人いることもまた事実であり、緋色は自分がなぜここへ招かれたのか、その理由をはかりきれずにいたのだ。
「事情を知りたいかね」
見透かしたように千疋が呟く。緋色が返答に窮していることも気にとめないといった具合に、千疋は老眼鏡を外すと、あらためて緋色を見やった。
「単純な話だよ。部隊に欠員が出たので、訓練課程を修了した者に声をかけた、それだけさ。……いずれわかるだろうから打ち明けてしまうが、実を言うとスカウトしたのはきみだけではないのだよ」
机の上で両手を組み、千疋はさらに続ける。
「この半年間で三人、訓練課程を修了した成績上位者が特機に参加した。すでに全員辞めてしまったがね」
「辞めた?」
「一人目は四ヶ月持ったんだがな。二人目と三人目は一ヶ月も経たずに辞めてしまったよ」
虚空を見やった千疋が、何事もなかったかのように付け加えるも、緋色の心中はと言えば穏やかではない。
(……ブラック企業並みの離職率じゃないか?)
もちろん、声に出すわけにはいかない。せいぜい
「それは大変ですね」
と、応じるに留めるのだった。
「つまりきみは四人目というわけだ、一ノ瀬くん。きみにとっては不本意だろうがね」
「いえ、そんな……」
「ああ、誤解のないように言っておくが、きみの能力は我々の求める厳しい基準をすべてクリアしている。声をかけたのは、きみであれば部隊に適応できると踏んだからからさ。これは本心だよ。なあ、姫崎くん」
千疋の視線が横に動くと、壁面にかけられた大型のディスプレイに若い女性の顔が映し出された。
「困りますよ、千疋統括。私が口を挟むのは、もう少しあとだと事前に話していたではありませんか」
「一ノ瀬くんも、直接、現場の声を聞きたいだろう。であれば、隊長であるきみにも出番が回ってくると思ってな」
「まったく。……いや、まずは自己紹介がまだだったことを詫びなくてはいけませんね」
そう言うと、ディスプレイに映った女性は緋色へと視線を向けた。
「
そう言って、姫崎は丁寧に一礼する。つられて緋色も頭を下げた。
姫崎礼は眉目そのものが非凡であり、見る者を惹きつける魅力にあふれていた。
ディスプレイ越しでもはっきりとわかる、肩までかかった黒髪と、切れ長の瞳をした知的な雰囲気の漂う女性で、部隊の制服である紺色のスーツを身にまとっている。
(クールビューティって感じの人だな)
精鋭部隊を任されるに相応しい堂々とした様子に、自然と身の引き締まる思いに駆られつつも、緋色は尋ねずにいられない。
「差し支えなければお伺いしたいのですが」
「どうぞ、私に答えられたらいいのだが」
「なぜ新しく入った隊員は辞めてしまったのですか? 立て続けに三人、それも半年の間に」
緋色の言葉に、姫崎は形のいい眉をわずかにひそめた。どう説明したらいいのか悩んでいるようにも思える面持ちだが、そんな部下を見かねてか、千疋が口を挟む。
「端的に言えば、人間関係が原因だな」
「は……? 人間関係、ですか」
「統括、その話は……」
「姫崎くん、隠していたところで、遅かれ早かれ真相は判明する。であれば、いまのうちに打ち明けておいたほうがいいじゃないか」
「…………」
「古株の隊員と、新人たちの折り合いが極めて悪くてね」
緋色は脳裏の記憶を掘り起こし、かつての訓練をともにした仲間たちの顔を思い出した。
上位十名については同じグループになることが多く、食事をともにする機会が多かった。全員、協調性も社交性も十二分に兼ね備えており、緋色自身、不愉快な思いをしたことなど、一度もないのだが。
(気持ちのいい奴らだったけどなあ? とても問題を起こすようには思えないけど……)
思い返した緋色は反射的に問い返した。
「なにかの間違いでは? みんな揃っていい人ばかりでしたが……」
「そう、訓練生は皆、人格的に優れていた。しかし、だからこそというべきかな。癖の強い問題児とは相容れなかったのだろうね」
「問題児……?」
「統括。直属の部下に対する評価については、慎重に言葉を選んでいただきたいものですね」
割って入った姫崎が千疋に一瞥をくれる。
「失敬な。これでも私は、あの問題児を愛おしいと思っているのだよ」
「とてもそうとは思えませんが……」
「なんといったかな、最近は“狂犬”とか呼ばれているそうだね。結構なことじゃないか」
「どこでそんな噂を聞いたかは知りませんが、冗談もほどほどにしておかないと嫌われますよ」
「嫌われるのは嫌だな。せいぜい平和に定年を迎えたいのだがね」
「では、軽口はそこまでにしておくことですね」
話題を打ち切るように視線を外した姫崎は、緋色のほうへと向き直り、“問題児”についてフォローするのだった。
「どうか誤解しないでもらいたい。癖が強いのは確かだが、彼女も実に優秀な隊員なのだ」
「彼女? 女性なんですか?」
「ああ、うん。隊員たちについてはきみが配属されてから、ゆっくり腰を据えて話そうじゃないか」
どうにも歯切れが悪いなと、緋色が疑わしげな眼差しをディスプレイに向けていた矢先、注意を引きつけるように、再び千疋が呟いた。
「まあなんだな。きみは仲良くやってくれることを期待しているよ。一ノ瀬緋色くん」
千疋は椅子の背もたれに寄りかかり、そう結んだ。
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