ひこうき雲

初手太郎

ひこうき雲

 陽炎立つ坂道は、

何処までも続いているようで、空の先にもまるで延びているかのようにも思えるのだった。


 私はふっと、伸びる草木の柔らかさにその身を沈めた。流れる小川のせせらぎの、その小ささに何故か儚さを覚え、その向うに見える診療所の幾つにも取付けられた単調な格子の窓の、硝子の向こうを行き交う白の看護服を身に纏った者達が過ぎてゆくのを見ていると、つい先日まで笑っていた彼の顔が脳裏を過ぎてゆくのだった。嗚呼、逝くのだね。誰に聞こえるわけでもなく、周囲の緑に投げかけるのか、白い木造の壁を眺めながら小さく呟いていた。


   *

 

 「僕はもう永くはないらしいよ」

そう彼から伝えられたのは、彼が逝くつい先日の事であった。余りにもさらりと口から溢す彼に驚きを隠せなかった私は、彼の寝具の横に置かれた机の上の盛り籠の、その果実と皿とに手を伸ばし、只管にその皮を向いていた。格子窓の向こうから聞こえて来るひこうきの、風を切る音が私の心中を新たにして私は彼に云っていた。

「どれ程だい」

今にして思えば、酷な問い掛けだったと思う。間も無く散るのだと自ら話してくれた人間に対してその余りを聞くのはなんとも失敬なものであった。だがしかし、喉元から唯一出た言葉であり、其れが私の、彼を想った唯一でもあるのだった。

彼は涼しげな笑みを顔に浮かべた。少しばかり痩けたその頬を細かに割くように、すうと線が入る。入り込んだ微風が少し伸びた白髪混じりの髪を靡かせた。

「一月、もって三月程だと」

余りにも、若い。この男が、逝くには若過ぎる。枝の様に細く枯れてしまったその腕を持ち上げ、その指先で頬を掻いていた。私はやはり、何を云おうにしても喉にどろりと絡み付き、そして何も語れぬまま、それは過ぎ去ってゆくのだった。

八月の空を、再びひこうきが飛んでゆく。白いひこうき雲が青を二つに裂いて、遥か彼方へと、いった。

「肺病とは、意外にも苦しく無いものだよ」

口を開かぬ私を思ってか、彼は判りきった嘘をついたのだった。そんな思いすらをも私は無碍に、「そうかい」と応える。彼は私の手元を見て、「その林檎、おくれよ」と云った。細かく分けた薄い黄色の、欠片の載った皿を彼に渡すと、微かに震えたその指で、皿を取り、彼は幾つか口に放り「旨い」と、か細く呟いたのだった。

「ひこうきには、」

青い空に未だ残るひこうき雲を見て私は云った。

「ひこうきには、乗れないのかい」

空から目を離し室内に目線を戻すと、私は何処を見ればいいやら分からず、ただ組んだ未だ雄々しい指を見つめているのだった。彼は暫く口を開かず、夏蟬の重なる音のみがまるで延々の様に私の耳で跋扈していた。私はどうも耐え難く彼の方を横目で見れば、彼は顔を少しばかり俯かせて、それでも笑みだけは薄く浮かべているのだった。

「無理、だろうね」

彼は、笑みだけは消すまいとしていた。その声は微かに震え、それでも私を気に掛けていた。

「そう、なのかい」

か細く口から溢れた落ち、其れは夏の香りに消えていくのだった。そして私は掛ける言葉を失い、やはり組んだ指を見る。いつもよりか、ごつごつと強健さを感じるのだった。

「乗りたかったけれどもね」

私は息が詰まりそうだった。ああ応えねば応えねばと打つ胸だけが先走り、「そうかい」と、漏れた。

じじじ、と、死に往く夏蝉の最期の猛りが聞こえた。

 「君が、飛んでおくれよ」

彼は云った。私は彼の顔を見た。彼の眼は鋭く、確かに私を見ているのだった。今までになくとても潑剌と、とても、満ちていたのだった。

私は何も云わず、静かに頷いた。それだけで、彼はどうやら充分な様だった。

「僕の今の、夢だよ」

彼はそう云って、笑ったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひこうき雲 初手太郎 @Hajimekara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ