正義とは

初手太郎

正義とは

「先生、私です。先生」

 今夜はうんと暑い日であった。日中の比較的涼しかった広島のそれとは打って変わり、今では服の裾で喉元を何度も拭く度に不快感が纏わり付く暑さである。八月に入ってまだ五日であるというのにもう嫌になると心は嘆き、ごくりと喉を鳴らす。間も無くガラガラと音を立て戸が開き、中から大柄な男が出てきた。

「おや、来たのかね」

 あいも変わらず煙管をぷかぷかとふかしているこの男。姓を木戸という。ぼさぼさとした髪に無精髭。眼窩に何時も隈をこさえているその様には、まさに「不潔」という二字が合う。比較的身なりの整っている私とこの男が出会ったことは、今にして思えばある種奇跡とも呼べるものであろう。

「夜分に失礼致します」

 私はそう簡単に答え、軽く会釈をした。

「入りなさい」

 くわっと大きく欠伸をする木戸を横目に、「失礼します」と再度会釈をして戸を潜った。ぴしゃりと戸を閉めた木戸に先を譲り、私はその後に続く。かなり年季を感じる木造の床を軋ませながら進み、どうぞと通された客間の椅子に座った。

「今茶を淹れてくるから」 

 そう言って木戸は煙管を灰皿の上に添えると襖を開け出ていった。煙管から立ち上る細い煙をぼんやりと眺めていると机上の紙束が目に付く。先の客人と読み合わせた原稿だろうか。一番上を掠め取り、木戸がまだ戻りそうにないことを確認して中を見る。

 

 

   振子時計

             木戸 孝太郎

 なあ君は聖人であるね、などと言われても嬉しくないのは僕の性分が捻くれているからか。将又浮世が意地悪であるからか。全く、僕は頗る不快である。彼程大筆特書されていたものは何処へいつたのだ。昨日まで笑つて居た隣の婆やが、今日では苦虫を噛み潰した様な顔をして居る。信ずるべきは……

 

 

「こらこら」

 突如として聞こえた木戸の声に胸が途端に跳ね上がり、襖の方を見た。盆に湯呑を二つ載せたまま呆れた笑いを見せる木戸の姿に、私はしまったと溜息を吐いた。木戸は私から紙を取り上げ、束の上に置いた。

「全く、君という奴は」

 そう言って木戸は湯呑を私の方に一つ置き、次いで自分の目の前に置いた。

「それにしても、君は文学にのめり込むと直ぐに周りが見えなくなるね」

 せせら笑いながら煙管を再び手に取った木戸は、吸い込むとふっと息を吐いた。

「先生も、相変わらず煙管なんて嗜んで。古いですよ。煙草に変えたらどうです。」

 無かったことにしてしまおう。私は話を変えようとする。木戸はかつての花魁に後ろ髪を引かれているかのように煙管を愛している。世は昭和であるというのに、木戸の煙事情は未だ江戸であるから、そこを指摘した。

「気にしなさんな。ほんの酔狂でやっていることだから」

 木戸は再び吸い、吐いた。紫煙はゆっくりと昇り、すうと消える。薄く笑みを浮かべる木戸を見つめながら、耳では確かに鈴虫の声を捉えていた。同時に、夏を捉えていた。

「ところで、」

 そう言って木戸は机上の湯呑に手を伸ばす。ずずと啜りそれを置き、鼻から深く息を吸う様子からは、どうやら茶の味を楽しんでいることが伺える。

「今日はどうしたのかな」

 木戸は私を見た。伸ばし放題の前髪から覗く細く鋭い眼は、私を深く見透かしているかの様で、この男と出会った時から変わらぬ背筋に走る冷たい感覚には嫌悪感すら抱くほどであるが、それに魅了されていると言っても過言でない私が同時に存在していることもまた事実である。

「聞きたいことがございまして」

「何時もそうだろう」

「そんなことありません」

「嘘をつけ。君がここに来る時は何時も抱えた疑問の解消だね」

 くくと笑いを堪える木戸に多少の憤りは覚えても、もはや毎度のことである。ぶつけるのは無駄だと承知している。はあと溜息を吐くと、「そんな顔しなさんな」と笑みを浮かべながら言った。

「正義の所在を知りたいのです」

 ここ数日、胸にかかる靄のようなものを、そのままの言葉で述べる。主導権を渡して仕舞えば、話がするりと進んでいくのだ。その一見人任せな会話に何よりも面白味を感じ、価値を感じている。鈴虫は絶えず鳴いていた。

「毎度君は突然だね」

「多感な年頃ですので」

「それを自分で言うのかい」

「演じたいからですよ」

「何を」

「自己を客観視出来ているかの様に振る舞う大人」

 木戸は湯呑に手を伸ばし一口味わうと、「皮肉だね」と呟いた。私も木戸の物真似をして、湯呑を口元に運んだ。

「それで、正義の在り方、だったかな」

「正義の所在、ですよ」

 木戸は煙管を灰皿の上に置き、一つ咳払いをした。

「まあ、同じ様なものかな」

「そうですか」

 机上の紙束の一番上を私に寄越す。先程も見た「振子時計」である。

「さっき読んでいたろうけど、丁度私も同じような題について考えていてね」

 木戸は少し深刻そうな顔をして、視線を私の手元に移した。

「惨いことに、今も多くの生命が失われているからね」

 一九四一年十二月。我が国は真珠湾に対して先制攻撃を加え、連合国との戦争を開始。これを大東亜戦争と名付け、開戦から既に三年と八ヶ月もの月日が流れていた。

「私も、急に浮かんだのです。疎開した学友のことを思い出しまして。私は病弱ですので疎開もできなかったものですから、戦争さえ無ければまだ彼等と独楽を回していられたのかと考えてしまったのです」

 私は拳を強く握りしめた。最早、夏の暑さは何処かへ行ってしまった様だった。

「こんなことを言ってしまえば非国民扱いをされてしまうので、そういったことに寛容な貴方という人に頼るしかないのです」

 木戸は乾いた笑いをこぼすと、「それでは僕が非国民であると言っている様なものではないか」と言った。数秒の沈黙、僕は茶を啜る。

「そういう訳ではございません。貴方の批判は文学でありますから」

「気休めにもならないな」

 微笑む私に木戸は呆れ、苦そうに茶を啜る。話を元に戻す。

「正義は、」

 僕は唾を飲んだ。風が窓を叩き音を立てる。

「あって、ないようなものだと思うよ」

 木戸は煙管を手に取り、再び吸い始めた。

「と、言いますと」

 僕は次の答えを急かす。

「正義ってのはさ、すぐに変わるものだと僕は思うんだ」

「変わるのですか」

「そう。まあ厳密に言ってしまえば、立場であるからだと、僕は思うね」

「立場、ですか」

「そうさ。主張する側とされる側、それぞれに正義はあって、その受動性もまた裏表で存在する。それでいて、人間は直ぐに自己の利益を追う生き物だからね。コロリと昨日の立場を捨てたりするのだよ。それで昨日の敵に回れば、元の正義もくるりと変わるだろう」

「…では、あってないようなとは何ですか」

 木戸はまたふっと煙を吐いた。それを吸ってしまい咽せる僕を見て「ごめんよ」平謝りをする。

「正義の衝突、これが戦争であると僕は思う。宗教の教えだの御国の為だの、何かしらの正義をぶつけ合って人は命をかけている」

 「何だか周りくどいですね」と言うと「僕の性分であるからね」と笑う。

「命を天秤にかけたならばその瞬間、それは正義の皮を被った欺瞞であると思うのだよ。正義を口にする、邪悪だ」

「では大衆煽動も悪ですか」

「今の話からすれば、遠回しにはそうなるね」

「いやはや、やはり非国民でした」

 木戸はハハと笑った。茶を啜ればすっかり緩くなっている。「入れ直すかい」と言う木戸に、「結構です」と私は答えた。

「人間は愚かであるからね。直ぐに戦争を起こすだろう。だから、正義は悪に成り、僕や君が頭を抱える正義なんてものは無くなるんだよ。どうだね。あってないようなものだろう」

 そうして木戸は三日月の様に笑みを浮かべた。

「右に振れたと思ったら、いつの間にか左に振れて、時の流れと共にあれよあれよと消えていく。ほら、振子時計みたいだろう」

 僕は手元に目を落とした。無意識に左指に力を込めていたのだろう、紙に付いた皺を軽く伸ばす。

「だから、振子時計なのですね」

「そういう事だ」

 私の額からつうと汗が滑り落ち、気付けば口元には笑みを浮かべている。

「君は、文学にのめり込むと直ぐに周りが見えなくなるし、題材になるものを見つけると満ち足りた顔をする」

 木戸は煙管を灰皿の上に添えると、懐から扇子を取り出し、広げて扇ぎだした。

「だからこそ、話し甲斐ってものがあるね」

 やはりこの男との会話は唆られる。改めて実感する。それからぺちゃくちゃと雑談を続け、ふと壁掛け時計を見ればどうやらもう日を跨ごうとする頃であった。

「さて、そろそろお帰りなさい。身体に障るよ」

「ええ、そうします。」

 うんと頷くと、木戸は「少し待ちなさい」と言い、部屋の奥へと入っていった。戻って来たその手には茶封筒が握られている。机上の紙束と、私の掴む一ページ目とをそこに詰めると「読んでみるといい」と言って此方へ寄越した。「ありがとうございます」とそれを受け取り、部屋を出た。

 表に出れば、掛かっていた雲はどうやら流れ、今宵は満月であった。月明かりが庭の池を照らす。

「なあ」

 歩き始めた背中に木戸の声がかかり、私は歩みを止め振り返る。

「だからこそ、正義とは何かを考えねばなるまいね」

 私は深くお辞儀をした。木戸はにっこりと笑っている。再び前へ歩き出した私を、月明かりは照らしている。やはり暑い。八月六日、一眠りしたら一筆書こう。そう思った。

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