偶像の断末魔
凪野 織永
偶像の断末魔
電源ボタンひとつで、彼女の世界はゼロとイチで彩られる。
『はい、コンばんわ。紺の配信にいらっしゃい。今夜も油揚げで晩餐だよー』
Virtual YouTuber、通称Vtuber。
それは数年前に新たな配信者の道として開拓された道。仮想のキャラクターに声を吹き込むように命を与えて、デジタルの世界に新たな存在を産み落とす。
近々紺。それが、数年前に生み出されたVtuberの名前だった。
「近々」。一見すると「ちかぢか」と読まれそうな苗字だが、実際の読み方は「こんこん」。フルネームだと「こんこんこん」と読むけったいな名前だ。けれど、気に入っている。狐をモチーフにしたキャラクター性と、よく合っていると。
信仰を失った神社の稲荷神。油揚げを心置きなく食べ、同時に他人からの信仰を再度集めるためにバーチャルの世界に降臨した。結構突飛な設定だが、キャラクターの制作なんか一度もしてない割にはよくできているのではないかと思う。
『今日はね、前やったホラゲの追加コンテンツがあるって聞いたからそれやっていこうと思うよー』
明るい声音。常に上がった口角。可愛らしく揺れる赤い紐の飾りに、ぴこぴこ動く狐の耳と尻尾。
それでこそ紺だ。
紺は決して自分と同一の存在ではないのに、なぜか誇らしい気持ちになる。
「『さぁ、始めて行くよー!』」
画面の向こうの、名前も知らない観衆達。
同接の人数は百人を超えないけど、それでも。
声を張り上げて、精一杯に「近々紺」を演じるのだ。
「……夜も更けてきたし、今晩はここまでにしよっかな。それじゃみんな、また今度ー!」
配信の終わりには毎回言う定型分を告げると、配信を終わらせる。安物のゲーミンチェアに大きくもたれかかって、そして静かに嘆息した。
「……ふぅ」
伸びをすると肩からコキコキと音がする。何時間もモニターに齧り付いていたからだろう、配信が終わった瞬間から疲れがどっと襲ってきた。
ふと時計を見上げる。八時から配信を始めて、現在は十一時。無音の部屋に響く針が秒を刻む音が、何故だかひどく虚しく思えた。
「アイ、アイー! 配信終わった?」
「うん、終わったよお母さん」
「ならお風呂入りなさい、もうお父さんも入り終わってるんだから」
「わかったー」
部屋の外から響く母親の声に返事を返しながら、暗澹とした気分になる。
ああ、また「笛木アイ」に戻ってしまった。
アイ。笛木アイ。その名前を呼ばれる度に鬱々とした気分になってしまうのは、きっと紺のせいだ。
紺を生み出したのはアイなのだから結局自業自得という事になるのかもしれないが、やはり彼女の中で「笛木アイ」と「近々紺」が別の存在である以上、「紺のせいだ」と思ってしまうのは止められなかった。
『もう、紺のせいにしないでよねー』
紺はきっとそう言うだろう。アイが口を噤んでいる以上、紺の声は聞こえないけど。縋るようにパソコンに目を向けても、光が消えた真っ黒なモニターにはいかにも不健康そうなアイの顔が反射するばかりだ。紺はそこにはいない。配信している時のように、自分の一挙手一投足が紺に投影される事はないのだ。
「……ひどい顔」
紺とは全く似つかない。まるで月とスッポンだ。
ボサボサで雑に纏めた髪。目の下に目立つ隈。寝不足で悪くなっている目つきに、肌荒れもしている。服は何年も着古しているボロいパーカーだ。
対する紺はどうだろう。白く透き通った肌に、濡烏色の長い髪は編み込まれて簪でスッキリと纏まっている。狐耳と尻尾は艶やかで、同時にもふもふとした質感も感じさせる。コントラストが美しい巫女服も相まって、美しい、可愛らしいという形容詞がよく似合っていた。
紺は非の打ち所がないほど理想的な人間だ。いや、正確には稲荷神なのだけれど。
美しいのも可愛らしいのもプロの絵師に立ち絵を発注したのだから当たり前なのだが、妬いてしまうくらいに完璧だ。
『もう、アイは仕方がないなぁ。勝手に嫉妬して。ほんとに人間って愚かしいよ』
脳内の紺が呆れたようにそう言う。数年間、紺として活動を続けてきたからか、アイには脳内の紺が勝手に喋り出す、そのような妄想をしてしまう癖がついていた。
「……そうだね。わたしってほんと愚かしい」
そう呟くと、紺は微笑んだ気がした。
仕方ないなぁ、とでも言いたげに。子供を見守る親のように。
きみを作ったのはわたしなんだけどなぁ、と思うけれど、それでも紺は一応は神様だから、ありあまる包容力でアイを見守ってくれるのだ。
見守る、だけだけれど。守ってはくれないけど。
「……お風呂、入ろ」
呟いて、立ち上がった。
お風呂に入りに行く。それすら億劫だったけど、母に言われたのだから入らなければ。
母の趣味で湯船に入れられたバスボムはぬるいお湯に溶け切っていて、泡は出ない。華やかな香りはアイの気分をより沈鬱にさせた。
夢を見た。
明晰夢、と言うやつだ。
夢の中なのに意識がはっきりしていて、明確に「あ、これ夢だ」と思った。
真っ黒な世界。地に足をつけている感覚がない。かと言って落ちていたり浮いていたりする感覚もない。例えるなら、部屋中にぎっしりと詰められた綿に包まれているような。
上も下もない無明の中で、アイはただ揺蕩っていた。夢だと理解していたから、恐怖や不安はなかった。むしろ、母の胎内にいるような安堵があった。
『……笛木アイ』
声。
それは声としか認識できなくて、それ以上の情報が頭の中に入ってこない。
声の主の姿はどこにもいなくて、声質も認識ができないから男か女かも、歳をとっているか若いかもわからない。
けれどそれを不気味に思う事はなくて、受動的にそれを受け入れていた。
声は、静謐に問う。
『偶像は、いつ死ぬと思う?』
目を覚ます。
くたびれたベッドの上で、締めきったカーテンの隙間から漏れる光に眉を顰めた。
のろのろと起き上がって、パソコンのモニターを眺める。そこに映っているのは、隈が幾分かマシになった、けれどやっぱりひどい顔。
両手で目を隠して、そして呟いた。
「……おはよう、紺」
目を覆い隠したアイは気が付かない。
彼女の背後に、無定型、無臭の靄が発生し、そしてそれが何かの形を模すように蠢いている事に。
アイの中の紺が、アイの挨拶に返事を返す前に、靄が空気を震わせた。
「おハヨウ」
それは、一言で言うのなら「わからない」声だった。
夢の中で聞いた声とは少し違う。夢の中では、声が聞こえなくてもそれが雑音であるかのように、その声に含まれている個性を体が情報として受け取らずに勝手にスルーするようなものだった。
しかし、背後の声は少し違う。その声は確かにアイの耳に届いて、情報として脳に定着する。しかし、その声を形容する言葉が一向に見つからないのだ。
男性のようであり、女性のようであり、中性的なようであり、若いようであり、老いているようであり、小さいようであり、大きいようであり、嗄れているようであり、透き通っているようであり。
この世のものとは思えないような。けれど決して不気味ではない。そんな声。
故に、わからない。その声が一体なんなのか、アイにはわからなかった。
愕然としながら振り向くと、そこに居たのはやはり「わからない」誰かだった。誰か、という言い方も適切なのかわからない。
形のない靄。煙ではないから当然匂いはないし、それは蠢きながらその姿形を毎秒変えている。
子供のように小さくも、大人のように大柄にもなる。縦にも横にもサイズが変わり、髪や顔のような部位は完全に靄になっていて見えない。そもそもそれが存在するのかすら怪しい。
「……だ、れ」
情けない、掠れた声。
驚きはしたが、悲鳴は上げなかった。怖くはなかった。むしろ、何故かわからないが、親しみすら抱いた。
アイの問いに、靄は答えない。
靄がアイの言葉を認識できなかったとは思わなかった。その無言を、アイは「名前がない」と言う意味だと取る。
「……形、無い」
靄の、人間だったら頭がある高さの所に手を伸ばす。触れている感覚は全くなくて、空気を掴むだけ。温かいも冷たいもない常温で、靄は幻のようにアイの目にのみ映るもののようだった。
明らかに異常な存在だ。しかし、常に自分の中で「近々紺」という存在と同居しているアイは、それを従容と受け入れた。
「無い、形、かたち、貌……無貌……」
靄が持っている、唯一と言っていい個性を表す言葉を口の中で転がしながら、アイは唇に手を当てて考えた。
「ムボウ。ムボウはどう? あなたの名前」
靄は、頷くようにふるりとみじろいだ。
ムボウがアイの元に現れて数日が経った。気まぐれに現れて、気まぐれに姿を消す。けれど基本的にはアイの側に侍っている。
観察しているうちに、いくつかわかった事もある。
ムボウは、基本的に喋らないし、何もしない。害にも益にもならない。アイのそばで常に揺蕩っていて、烟っている目のような光がじっとアイを見ているだけだ。アイの両親にはムボウは見えていないようで、明らかに異常な動く靄を見ない。視界に入っても何の反応も示さなかった。
アイは基本的には自宅からは出ないので他の人間はわからないが、少なくとも親には見えないし、スマートフォンで撮影しようとしても画面の中にはムボウは影も形もいなかった。元より影もかたちも持っていないが、アイに見えているものは世の中には一切認識されないのだと結論づける。
「最近ねぇ、変なのに付き纏われてるんだよー」
「近々紺」は、日曜日の昼の雑談配信でそうこぼす。同接はやはり百人を大きく下回っていた。
『ストーカー?』
紺の配信によく来てくれる数少ない視聴者の一人が、コメントで訊いてきた。ううん、と紺は首を横に振る。
「そういうのじゃないんだけどねぇ。まあ紺は腐っても神様だから? みんなには見えないからわかんないだろうけど、そーゆーの見えちゃうんだよねー」
紺の稲荷神という設定に準拠した発言をすると、視聴者はコメント欄で草を生やす。
それはただ単に発言を面白がっているのか、それとも、イタイ奴だと嗤っているのか。
「……ま、人間にこんな話しても詮ないよね。あ、この前のホラゲの感想とか言う? ヒロインが死んじゃったのは悲しかったよねぇ、他の誰でもない紺が、生きていてほしいって思ってたのに」
自分の中のネガティブな考えを振り払うように、意識して明るい声を出した。大丈夫。配信の画面では、紺はいつも通りの笑顔だ。八重歯を少し覗かせた、可愛い、しかしどこか食えない笑顔。
大丈夫。こんな、不安そうな、引き攣った笑顔、紺はしていないから。
誰にも、見られていないから。
アイは気づかない。
「近々紺」ではなく、「笛木アイ」を見ている者が一人だけいることに、アイは気が付かない。
ツイッターのタイムラインが荒れていた。
何故、と問われれば、アイがパソコンの電源を落とさないまま昼寝をしてしまったからなのだろう。原因が100%アイにあるとは言えないが、少なくとも半分近くは自分のせいなのではないかとアイは思う。
『新宿えらいことなってんだけど』
『うっわ不気味ーw』
『てゆーかこの声なによ』
『加工音声っぽいのは置いといて、途中からの女の子の声は? 立ち絵は?』
『この声、なんか聞き覚えある気がするんだけど』
『俺知ってる。紺ちゃんじゃん』
『紺って誰?』
『Vの子だよ、近々紺』
『調べてみたけど、確かに声似てるし、立ち絵もまんまだわ』
次々と流れていくツイートの数々。アイは冷や汗を頬に伝わせ、そしてネットニュースを開いた。大きな見出しには、こう書かれている。
『東京新宿クロスビジョン、VirtualYouTuber、近々紺に乗っ取られる』
どうしてこうなった。
そんな事をぐるぐると考えながら、アイは数十分前の事を思い浮かべていた。
アイは動画の編集をしていた。収益目的ではなく再生数目的で、短く手軽に見てもらえるショート動画。内容は特にいい案が浮かばなかったから、ホラーゲームをやっている時の自分の叫び声を集めたものにした。
自分の声ではあるが、悲鳴ばかりを編集のために何度もリピートしていると、何だか頭が痛くなってくる。
連日の夜更かし、寝不足もあるのだろう。眠気が酷くて、デスクに突っ伏したまま眠ってしまった。
そして、数時間後に目を覚ました。カタカタとキーボードを叩くような音で。薄く目を開けると、薄暗くブルーライトに仄かに照らされた部屋に、誰かがいるような気がした。どこかで見覚えがあるような、けれど見たことがないような誰か。情報が不明瞭である点はムボウとは違うが、その人物は確かにかたちがあった。
人物は意識が覚醒しかけているアイに気がつき、そしてその口元に微笑を浮かべる。誰だろうかと目を凝らしてみるが、暗くてよくわからない。瞬きを一つすると、人物は霧散するように忽然とアイの視界から消えた。
ザァザァと雨音のような異音で、アイはハッキリと意識を取り戻す。見上げると、ついたままのパソコンのモニターが明らかに異常になっていた。
編集画面のままだったはずなのに、砂嵐が写っているのだ。
「な、にこれ……」
呆然と呟いた。その時点では、機材類やマイクがオンになっている事になんか気がついていなかった。
「もしかして、壊れた?」
試しにキーボードを叩いてみるが、反応を示さない。壊れたテレビのように砂嵐の画面を垂れ流すのみだ。
今までにない不具合に、不安を超えて恐怖を覚える。
「……紺、どうしよう、どうしたら」
アイは紺に話しかける。自分の中にいる紺に。
『もう、人間は突発的な事に弱いなー。ほら、こんな時はとりあえず叩けばいいんだよ』
紺ならきっと、そう言う。実際は壊れた機械を叩いても余計壊れるだけだけれど、けれど相変わらずの紺には安心した。
「ふー……とりあえず、様子見かなー……パッと直るかもしれないし」
今まで何十回とやってきた、「近々紺」のロールプレイ。これが一番安心する。深呼吸とか、そんなものよりもずっと。
ふと、横から手が伸びた。正確には、手と思しき部位が。見ると、いつものようにアイの後ろにいるムボウが、体に纏う靄の一部分をキーボードに向けていた。ムボウの靄に包まれた腕が、キーを触ったのだ。かちり、とエンターキーが押された瞬間、画面が切り替わる。無彩色から突然有彩色になり、その眩しさアイは目を細めた。
そして、画面に映る光景を見て、愕然とした。
そこは、東京の風景だった。人通りの多い、週末の日中の。それをビルの上から睥睨しているような視点で、道を行き交う人々はみんなあんぐりと口を開けてこちらを見上げていた。スマホのカメラを向けていたり、ただただ驚愕していたり、その反応は様々だが、みんな一様にこちらを見ていた。
こんな映像、撮った覚えはない。どう撮るのか、検討もつかない。どこかの映画のワンシーンかと思う。
アイには、知る由もなかったのだ。
モニターに映っていたのは、リアルタイムの新宿の風景だと。
そして、人々が軒並み上を、アイからしたらカメラの方向を向いていたのは、そこにあったのが、ジャックされた巨大な電子広告版に、近々紺が写っていたからに他ならなかったからだと。
困惑するアイの横で、ムボウが誰ともつかない声を出した。
「キミは、死ナないで」
え、と呟いて、その言葉の真意を問う前に、ムボウはアイの横をすり抜けて、僅かに空いた扉の隙間から去っていった。
一連の事件の後、ハイジャックに関してはアイのパソコン送られたウイルスとそれの送り主が悪さをしたという処理になり、アイにお咎めはなかった。
けれど一件で得られた知名度は絶大であり、「近々紺」の名前は一気にネット上に広まる。
「同接、せんにん……⁉︎」
急に跳ね上がった配信の視聴者数にアイは舌を巻く。事件が起こって以来最初の配信だった事もあるだろうが、それでもあまりに多い数だった。
しかも、しかもだ。紺のツイッターのダイレクトメールに有名なVtuberのグループ、『リフレール』から連絡が入り、面接をする事にもなった。
「はー……唐突すぎる……」
まるでアニメのような成り上がり方だとアイは思う。つい先ほど企業での面接を終え、慣れない事をして疲労困憊になったアイはゲーミングチェアにもたれかかった。
「……はぁ」
パソコンのディスコードを開く。そこにはほんの少しのフレンドの名前がいくつか登録されていて、その欄の一番上にある名前を見て、ため息を吐いた。
ドラー・プロフィティス。
現在人気急上昇中の、『リフレール』所属のVtuberの名前だ。
時代性故に預言を聞き入れてもらえなかった預言者で、自分の言葉を少しでも多くの人に聞いてもらうためにネットを始めた、という設定と異国情緒溢れる装束に身を包んだ少女のスキン。
彼女は、面接のために訪れた『リフレール』の事務所で偶然に出会った。
「あら? どなたかしら」
そんな風に、お淑やかに。
彼女は配信の中での印象とあまり違わない、おっとりとした喋り口調で、そしてアイを見て目を丸くしていた。
「えっと……初めまして、無所属のVtuber、『近々紺』です……本名って、名乗った方が良いんでしょうか」
「ああ、あの話題の! お噂はかねがね。私はドラー・プロフィティス、本名は明壁平那です。よろしくお願いしますね」
促されるように視線を向けられ、アイはたじろぎながらも本名を名乗った。
「笛木アイ、です」
アイが言うと、ドラー改め平那は満足げに微笑む。
「えっと、配信とか切り抜きとか、いつも見させてもらってます。本当にすごくて、尊敬していて……」
「私はそんなに大層な人間じゃないですよ。あなただって、今ものすごく話題になっているでしょう?」
大層ではないと謙遜しているが、彼女は相当に有名、かつ人気のある人間だ。初配信ではいきなり実写でタロットで視聴者を占い始め、しばらくした後にその占いが全て当たったという伝説を作り上げている。その後すぐにチャンネル登録者は鰻登りし、半年も経たないうちに百万人を超えたのだ。
そんな人間に「大した者ではない」と言われたら、アイの立つ瀬がなくなってしまう。
「いえいえ、偶然みたいなもので……」
謙遜をし返すアイを見て、平那はくすりと笑う。アイが首を傾げると、堪えきれないとばかりに口元を押さえながら彼女は説明をした。
「いやね、何だかわからないけれど。昔よく一緒にゲームをしてた同期を思い出してね。いつも澄ました顔しながら変な事をする人で、ギャップが激しかったのよ。リアルと配信の差が激しいあなたを見てたら思い出しちゃった」
眉尻を下げて微笑みながら、彼女は言う。サラリと告げられた「紺の配信を見ている」という事実にアイは思わず固まってしまう。
「私の方がVtuberとして先輩だから、何か困った事があったら何でも訊いて頂戴」
それじゃあ、私は用があるから、と彼女は言って、ディスコードだけ登録して去っていった。
「っ、なんで……⁉︎」
夜の配信を終えたアイは、絞り出すように叫んだ。
同接は、前回の配信の半分以下になっていた。コメントもスパチャも、前回と比べて断然減っている。
そうか、なにを勘違いしていたのだろう。
確かに先日の事件で知名度は上がった。しかし、知名度と人気はイコールではない。
前回は名前が急に知られて、お試しとして視聴しに来た人が多かっただけ。元々対して面白いわけでもなく、多くの人を繋ぎ止められるほどの実力はない。
どうしよう。どうしよう。何かをしないと人に離れられるばかりだ。新たな人に紺の事を知ってもらうのだ。
なにをしよう。新たなゲームジャンルの開拓? 部屋紹介でもやってみるか? それとも、歌ってみたとか。
ぐるぐると思考し続ける中で、ふと思う。
そんなの、需要ある?
知ってもらう。そんな独善的な事を。
紺の事を知ってもらうなんて、プロフィールを一読すれば事足りる。もっと深い人間性まで突き詰めてくれる視聴者なんて、ほんの一部だ。紺の事を考えて、紺がどんな性格なのか、こんな時にはなんて言うか、なにが好きでなにが嫌いか、そんなことを知ろうとしてくれる人なんて、ほんのひとつまみだ。
そして、そのひとつまみを惹きつけるほどの魅力は、紺には、アイにはない。
「面白い」と、「あなたを観ている」と、そう言ってくれる人がいないのだ。
「そんな底辺V、続ける価値ある……?」
エゴサをしても、出てくるのは最近の自分のツイートと例の事件に関するものだけ。どれほどスクロールを続けても、「近々紺」にネームバリューが無い事が露呈するだけだ。
虚しい。まるで、あの事件の日に、紺が死んでしまったかのようだ。
いや、もうかなり昔に、それこそアイが「近々紺」のチャンネルを立ち上げた時から、紺は死んでしまっているのかもしれない。
自分だけの偶像にしておけば、こんな事にはならなかった。中途半端に皆の偶像に仕立て上げてしまったから、紺がアイだけのものにならなかったから、紺はこうして殺されている。「他人に認知されない」事で、死んでいる。
「……はっ」
アイは、自嘲した。
Vtuberは憧れた姿だった。自分じゃない誰かとして演じて、自分として笑って。役者とアイドルの両面を兼ね備えているような、そんな偶像だった。
アイは、自分はどうだ。紺に縋って、過去の小さな栄光ばかり見上げて。こんなの、憧れた姿じゃない。「近々紺」と共に歩みたいと思った道じゃない。
紺の立ち絵が出来上がった時、私はこの子と一緒に人生を共にするのだと思った。けどやっぱり違う。アイはアイのままで、紺は紺だ。紺はアイの偶像として生み出されただけで、アイの別れ身ではなかった。
紺は決して進んではくれないし、紺の足元で項垂れているだけのアイもまた、停滞しているのだ。
部屋を見回す。特に特徴のない、強いて言うのならVtuberのグッズ類や趣味の漫画が置いてあるだけの、変哲のない部屋。機材類も特別高価なものでもないし、こんなものを見せても面白みなんてないのでは?
縋るように、棚に大事そうに飾ってあるヘッドフォンを見る。一番初めに好きになったVtuberの概念的なグッズ。当時はVtuberの概念が一般にあまり浸透していなかったから公式からグッズなんてなくて、けれども立ち絵を適当にアクスタにしただけの非公式なものを買う気にもなれなくて、だから色合いが一番「ぽい」ものを選んで買った。
ノイズキャンセリングがされていないのが嫌で使ってはいないが、色やデザインが気に入っている。青に黒を混ぜた、深い紺色。
そういえば、もうあのVtuberを思い出す事も少なくなってきている。棚のヘッドフォンよりパソコンに相対している時間が長くなって、もう彼の容姿も鮮明には思い出せない。
「……何年前だっけ、あの人が引退したの」
事務所との方向性の違いだとかでVを引退した彼の名前は、なんだったか。時間経過で不明瞭になった記憶を探り、彼の名前を掘り起こす。
「黝、だっけ。黝、無忘」
ああ、そうだ。こんな名前だった。いざ口に出してみると、喉がその響きを求めていたかのように、乾きが潤されるような感覚がした。
その名前を口に出した瞬間、後ろにいたムボウがふるりと体を震わせた気がした。
「……あの人、面白かったよなぁ」
彼のチャンネルは彼の引退と同時に消去された。配信のアーカイブも残っていない。あるのは、数少ない切り抜き動画くらいだろうか。Vの流行り始めを助けた人なのに、と少し理不尽に思ってしまう。
あの人は忘れられてしまった。人気があっても、記憶から消えてしまう。かつて憧れたあの人が。かつて焦がれたあの人が。かつて狂おしいほどに熱狂に浮かされたあの人が。
結局忘れ去られる。紺も、彼も、誰もかもが。
アイはその日、枕を濡らした。今まで崇拝にも近しい感情を向けていた紺という偶像が、掠れて消えていってしまうかのようだった。
『何か、困った事があるのかしら?』
通話アプリで、平那に開口一番そう言われて、アイは咄嗟に否定しようとしていた。けれど、すぐにそれは肯定と同義だと気がついて口を噤む。
困った事。アイは少し考えるような素振りを見せて、それで平那は何かを察したのか促すようにアイの次の言葉を待っていた。ヘッドホンをつけている平那の顔が映った画面を、アイは見上げた。
初対面の人物に悩みを話す、と言うのは些か抵抗があったが、不思議と平那は真摯に受け止めてくれる気がしたのだ。
「……あの、私の配信って、面白いと思いますか?」
アイの言葉に、平那は「やっぱりか」といった表情をする。きっと、Vtuberとしてはありふれた悩みなのだろう。もしかしたら、彼女も同じ事を思った事があるのかもしれない。
『……声は、可愛いと思うわ。けど、それだけ。キャラに声を吹き込む以上それは大切な要素ではあるけれど、それが第一ではないし、面白さと直結はしないもの』
もちろん、全くつまらないわけではないわ、と取ってつけたようなフォロー。平那の厳しい言葉に、アイは俯く、そうですよね、とうわごとのように呟いた。居た堪れない。
「……どうしたら、面白くなれますか」
問うたのは、ほとんど惰性によるものだった。
アイの問いに、平那は少し意外そうにあら、と呟いた。パーカーの裾を、指先が白くなるくらい強く握っているのを見て、わずにかに目を細めた。
『……芸人になりなさい』
平那の言葉に、アイは思わずきょとんとする。
「……私、芸人になりたいわけじゃないです」
『比喩よ。芸人みたいになりなさいって言っているの』
彼女は淡々と語る。これは受け売りだけどね、ともったいぶりながら。
『小説家も漫画家も俳優も芸人も、もちろんVtuberも、エンターテイナーであることには変わらない。笑いも感動も悲しみも、ありとあらゆる感情を揺り動かす。それができて始めて、人に面白いって言ってもらえるのよ』
だから、芸人みたいなプロのエンターテイナーになりなさい。
平那はそう言って、微笑んだ。
『頑張ってね、紺ちゃん』
そう言って、彼女は通話を打ち切った。彼女の背後で妖艶な笑みを浮かべる預言者の姿を、アイは幻視した。
その次の配信で、アイの目に一つのコメントが突き刺さった。
『話題になってたから来たけど、意外とおもんないな』
例の一件から上がった知名度と比例して増えたコメント。よく言われる事だと無視できたならば良かったが、その日その時のアイにできなかったのだ。
アイが口許を引き攣らせると、画面の中の紺は微笑む。震えた声を精一杯に誤魔化して、アイはようやく配信を終えた。
枕に顔を埋めながら、アイは部屋の隅で居心地が悪そうに小さくなっているムボウに語りかけた。
「……ねぇムボウ、面白くなるためにはなにをしたらいいと思う?」
ムボウは、なにも言わない。なにも返さない。
答えるわけないか、と諦めながら机に突っ伏し、目を閉じかける。その横を靄が通り過ぎて、キーボードを打ち始めた。
『俺にとっての面白いは、求められた事を求められた以上に返す事だった』
その分は、ムボウの外見や声とは違って、ハッキリと「誰か」の存在を感じさせるものだった。
「ねえ、ムボウ……あなたは、だれ?」
アイの問いに、ムボウは靄を揺らめかせる。瞳のような光が、すっと細まった気がした。
『ムボウ』
画面には、新たに打ち込まれたその三文字が光っていた。
その次の夜の配信では、同接の人数はやっと百人を超える程度にだった。
「ねえ、やっぱり無理だよ。私、できない。面白くなんてできない」
Vtuberは、アイの憧れだった。醜くて弱い自分の姿を覆い隠し、人々の偶像として笑いを巻き起こし、同時に自分も笑う。
何度も見てきた配信や、その切り抜き。
何度も憧憬を抱いて、何度も笑って、元気をもらって。
やっぱり無理だ。こんなに上手くできない。元々リアルの世界に居場所がなくてバーチャルの世界にのめり込んだのだ。リアルの世界で器用にできないからネットの世界に居場所を見出したのだ。
そんな人間が、バーチャルでもうまくやっていけるわけがない。
今日やった配信の同接は、前回の半分以下だった。やっぱり、才能ないんだ、私。
「紺、紺……ねぇ、紺」
『なぁにもう、うるさいなー』
紺を呼べば、欠伸をしながら彼女は現れる。いつも通り、飄然と。
「私、もう、あなたを死なせたくないよ……!」
アイは泣き縋る。紺の幻影に。彼女の微笑みに。
紺は死んでいく。ゆっくりと、静かに、誰にも認識されず。だって、紺は偶像だから。他者から存在を認められないと、偶像は存在しないから。
人間が理不尽からの救いを求めるために神を作り出したように。けれど、神は人間が信仰しないとその意義を失うように。
紺も、ネット上での存在をじわじわと亡くしていっているのだ。
「……」
無言で、一つのファイルを開いた。紺の立ち絵の情報が入ったファイルだ。他にも紺の情報が書かれた文書のファイルもある。
ここで、全てデリートすれば。
紺は、死なない。
私だけの、偶像にしてしまえば。
アイの手がキーボードを打とうとする。人差し指がゆっくりとエンターキーに触れる。瞬間、アイの脳にVtuberとして過ごした日々の記憶が走馬灯のように蘇った。
パソコンの前でひたすらにゲームをプレイするアイと、それに付き添う紺。紺との記憶は、それ以上も以下もなかった。
これを消したら、YouTubeのチャンネルも、Twitterのアカウントも、全部消そう。ネットタトゥーのように紺の存在は永遠に残るかもしれないけれど、それに関しては時間が解決してくれるだろう。
紺は、もう、死なないのだ。
そんな温かな安堵に包まれて、指はキーを押し込もうとして——
——そして、その腕を誰かが掴んだ。
「ヤめて」
ムボウの声が、アイを静止させる。腕を掴まれている、というのは彼の靄がそのような形に蠢いているだけで、実際はそこに触れられている感触はない。しかし、靄は確かにアイの手を止めた。
「……なに、なんで」
声が無意識に尖る。煩わしげに眉を顰めた。
手が強く握られているような感覚。実際はムボウは靄だから、触れてもなにも感じないのに。熱くて痛いような気がして、力を緩めた。キーが指から離れていく。
それを弱々しい力で、しかし全力で振り払い、アイは叫んだ。
「やめてよ! 私はドラーさんみたいにも黝さんみたいにもできないんだから、これくらい自分でキリつけさせてよ!」
喉がぴりぴりと痛む。ムボウの靄が少し揺らいだ。
「私の憧れは終わったって、どうしてそれで終わらせてくれないの? 挫折したんだから止めないでよ、まだ望まれてるって勘違いしそうになる!」
もう紺は望まれてなんかいないのに、これから死にゆくだけなのに。
そうだ。あのVtuberも、黝無忘もそうだった。ゆっくりとその存在を思い出されなくなって、死んでいったのだ。アイの場合はより酷い。活動を続けたまま「一時期話題になった人」として少しずつ忘れられていく。
黝無忘。その名前がアイの頭に幾度も浮かんだ瞬間、ムボウが纏う靄が少しずつ霧散していく。
黒色が大気に溶け込むように消え、今まで覆い隠されていた靄の中身が顕になった。
完全に靄が消え去った時、そこにいたのは男性だった。
静かに目を伏せ、悲しげにアイを見つめている。その髪や瞳は、黒を混ぜた群青の色。
「偶像は、いつ死ぬと思う?」
男は、静謐に問う。
イラストの人間がそのまま現実世界に飛び出てきたような、整いすぎた容貌。あまりに、見覚えがある。
「……むぼう」
アイは呆然と呟いた。
なぜ忘れていたのだろう。こんなにも簡単な事だったのに。黝無忘——アオグロムボウ。
ムボウは、無忘だった。黝無忘だった。
「偶像は、忘れ去られた時に死ぬんだよ」
無忘は呟くような沈痛な声で言った。不思議と、実感がこもっていると思えた。
「……なら、これ以上忘れられると、紺は死んじゃって……」
「違う」
グズつくアイの言葉を、無忘はぴしゃりと否定した。
「偶像は忘れ去られた時に死ぬ。……作り主すらもが『Vとしてエンターテイメントを届ける』という偶像の存在意義を否定して切り捨ててしまえば、もうそこには亡骸すら残らない。俺のように、中途半端な、貌を無くした化け物になってしまうだけだ」
無忘はそう、自分の掌を見た。そこは形を留めているものの、凝視すればするほどにシルエットがぼやけて靄のように形を失う。今はアイが黝無忘を思い出しているから姿を保っているだけで、忘れ去られてしまった彼は本来形を失くしているのだ。
アイは、ぞっとした。脊椎がそのまま氷にすげ替えられたように背筋が冷えていく。紺も、こうなってしまうのか。声もなく、姿もなく、彷徨うだけの無貌の靄になってしまうのか。
自分が、紺を捨てたら? いや、違う。Vtuberをやめたら。
デジタルの世界に生きる紺の居場所を捨ててしまったら。
「紺が、死ぬ……?」
自分の口から出しておいて、悍ましい言葉だと思った。ひどく怖かった。
無忘は重々しく一つ頷いた。
アイには、紺しかないのに。
その紺が、死んでしまったら。無忘のように、姿形も声も判然としない、無貌になってしまったら。
それは、その時は、アイの死でもあるのだろう。
「俺は、紺にもアイにも、死んでほしくないよ」
無忘は優しい声音で言った。
ああ、そういえば、と思い出す。
無忘は随分前の配信で、死にたいなら死ねばいい、と言っていたっけ。
けれど、続けてこうも言っていた。
けど、その命を誰か一人にでも望まれているなら、その人のために生きていてほしいよ、俺は、と。
パソコンの画面には、メモアプリの表示があって。
そしてそこには、十数人のネットユーザーの名前があった。紺の配信にほぼ毎回来てくれて、コメントしてくれて、時折スーパーチャットもしてくれる人の名前だった。
紺を望んでくれる人達の、名前だった。
無忘は咲う。
晴れやかに。清々しく。同時に寂しげに。
「もう俺の事は望まなくていい。代わりに、きみがたくさん望まれて、そして偶像として生き続けてね」
「咽頭癌だったのよ」
平那は、そう嘆くように言った。
彼女は昔、黝とチームを組んでいた一人で、彼とそれなりに仲が良かったらしい。
「Vtuberは声で命を吹き込む仕事だから。だから、手術前みたいな声が出せなくなって、それで引退」
黝は、公的には事務所との方向性の違いにより引退したと発表があった。けれど、それは表向きの嘘だったらしい。
「ほんとなの? 本当に、会いたいの?」
確かめるように、平那はアイに問う。
本当は、推奨される事ではないのだろう。だって、黝はアイの憧れだったから。それが今落ちぶれてしまっていたら、ショックだろうから。
紺を心の中で呼ぶと、彼女は霧のようにふわりと現れる。
『……会いたいんでしょ? 会いに行けば? 紺も黝が今どうなってるのか気になるしね』
紺は鈴の音を転がすように笑いながら、そう言った。
いや、違う。
自分の言葉を、紺に押し付けてはいけない。紺に言わせてはいけない。
これは、他ならぬアイ自身の意思だ。
紺じゃなくてアイの言葉なのだ。
『私』が行きたいのだ。『私』が会いたいのだ。
「私、会いに行きます」
そこは、寂れたアパートだった。かつて名を馳せたVtuberが住んでいるとは思えないくらいに。薄汚れた外壁や一部が剥き出しタ鉄筋は年季を感じさせる。入居者募集の張り紙が塀に貼り付けられていて、きっと住人は少ないのだろうな、と思った。
今日は週末の昼下がり。一般的な働き方をしているのなら、家にいるだろう。そう算段をつけながらも、アイの心臓は早鐘を打っていた。初めて来る場所で、初めて会う人と会うのだ。緊張しない訳がない。
けれど、アイは深呼吸をして扉の前に立つ。後ろから背を押された気がした。紺、という名前を口の中で転がした。
コンコン、とノックの音が響く。狐の鳴き声のように。
数秒の間を置いて顔を出したのは、紺より少し年上の男性だった。
彼を見上げて、そしてアイは告げた。
毅然と、晴れやかに。
「あなたの偶像を、生かしに来ました」
偶像の断末魔 凪野 織永 @1924Ww
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