青を好む

初手太郎

青を好む

 その日は暑かった。流れる汗を拭き取る度に湧き出る不快感は一緒に拭えないみたいだった。校庭から聞こえる、野球部だろうか。耳元を跋扈する声に苛立ちを覚える。全く、暑さの中よくもまあそこまでやるなと呆れる反面、そういった泥臭さの中に自分が置かれていないことに嫌気がさした。

「高村」

 声が服の背を摘む。振り向くと担任が居る。

「こんにちは。岡田先生」

 誰も居ない廊下に、声が乱反射する。俺は小さな箱にいる。

「夏休みだっていうのに、なんで学校に来たんだ」

 ヒタヒタと、冷たそうなビニル板のタイルをまるで滑るかのように近づいてきた。

「課題を一個、置き忘れてたんです。それを取りに来ました」

 ふうんと、聞いておきながらあまり興味の無さそうな反応を示す先生に苦笑いをする。首筋を汗が流れる。

「それじゃあ、失礼します」

「待った」

 先生は、ひょいと僕の肩に手を置いた。半身になっていた身体を先生の方へ向けると先生はにっこりと笑みを浮かべている。「ちょっと待ってて」と言うと、そのまま職員室に入っていった。

「はいこれ」

 職員室から出てきた先生は、大きな段ボールを抱えていた。それをぐいと押し付けてくる。

「美術室まで、よろしく」

 全身から汗が噴き出した。口の中に檸檬を放り込まれた時に唾が出る、その感覚に似ていた。

「俺が、ですか」

 にっこりと笑う先生に、軽く憤りを覚える。後悔した。

ひらひらと手を揺らす先生に答えることなく歩き出した。段ボールと腹の間が蒸れて更に不快感が増す。本当に、今日来るべきでは無かった。そう思った。

 


  *


 

 美術室は四階の一番東の教室である。廊下をまっすぐ、階段を二つ。そんなに重くない荷物なのでまだ良かった。中身はなんだろうか。そんなことを考えながら外を眺めると、景色を遮るかの様にどこまでも空の青が続いている。夏というのは、この空が嫌だ。青々としていて、その青が自分を飲み込んでくる感覚がする。運動が嫌いな理由の一つであるが、決して身体を動かすことが嫌いな訳ではない。中学二年生の頃、なんとなく入った部活で先輩からポジションを奪った。素人だった俺が数ヶ月で先輩の居場所を壊し、そのまま全国大会で優勝してしまった。歓喜の中、一人涙を流す先輩を見て、もう運動に力を入れないと決めた。だから勉強に集中してみようと思った。中学三年の終わる寸前から勉強に力を注ぎ、難しいと言われている志望校に受かった。同じ高校を志望し、遥かに早くから勉強をしていた友達が隣で恨めしい顔で泣いているのを見て、もう勉強に力を入れないと決めた。だから俺には趣味が無い。熱を注げるものが無い。毎日に色がない癖に、空の青さは俺を喰らう、そんな矛盾の中に生きている気がする。だから、夏が嫌い。

「失礼します」

 いつの間にか着いていた、美術室の扉を軽くノックしてゆっくりと扉を開ける。ギギと軋む音、埃の匂い、顔を覗かせると、教室の真ん中に人がいることがわかった。キャンバスを立たせ、パレットを手に持ち絵を描いている様だった。

「あの、岡田先生から、段ボール預かってるんですけど」

 ゆっくり足を踏み入れ、様子を伺う。依然応答は無い。

「あの…」

 忍び足でその人に近づく。キャンバスに描かれている、その絵を覗き込んだ。

「うわ」

 声が漏れた。衝撃だった。たかだか数メートル程度のキャンバスに、あまりにも鮮やかに色が塗られている。麦わら帽子を被った少女が、向日葵畑の中を駆けている。ただ単色で描かれているのではなく数色が重ね重ねに盛り込まれ、現実で見る花や人肌の色よりも、より「色」に見える。まるで今まで見ていた色が、間違っていたかの様な、この世界が、全て嘘だったかの様な、この絵の中だけが、本当の世界かの様な、そんな感覚。背筋を何かが辿る。高揚感なのか、はたまた不安感だろうか。でもまだ、空が塗られていない。いつの間にか絵の主が振り返っていたことに気付く。

「何か用」

 鋭い眼だった。目元ギリギリまでかかった前髪から覗く眼光に、思わずたぢろんだ。

「あ、えっと。岡田先生から、これ預かってて、」

 そう言って俺は段ボールを絵の主にほらと見せる。絵の主はパレットと筆を作業机に置くと、段ボールを受け取った。

「雑用を頼まれたんだね。こんなに暑いのに、災難だったろ。ありがとう」

 絵の主は薄く笑みを浮かべた。整った顔立ちにすうと笑みが加わり、思い出す。同じクラスの漆原君。喋ったことが無かったから気付かなかった。

「あれ、高村君じゃないか」

 向こうも気付いたらしい。というか、認知されていたことに驚いた。

「俺のこと、知ってんの」

 こういう時が、嫌いだ。何か話さないといけない気がして。無言が嫌い。だから俺は苦笑いをする。

「知ってるよ。君、クラスで目立つ方だし。期末テストとかも毎回割と上位にいるしね」

 話しながら漆原君はパレットと筆を手に取り、再び作業に戻った。「そっか」とほぼ呟いたに等しい声量の応答を済ませ、後退りする。

「それじゃあ、俺はこれで」

「待って」

 漆原君の一言は、空気をピリつかせる。擦っていた足を止め、漆原君の方を注視した。

「絵、興味あるの」

「え」

 てっきり何か怒られるのかと思った。予想外の質問だった。

「絵だよ。興味、あるの」

 漆原君は作業を中断して、段ボールをガサガサと開け始めた。

「えっと、何でそう思ったの」

 段ボールに入っていたのは絵具だったらしい。漆原君はにこりと笑みを浮かべるとそこから青色を取り出した。

「だってさっき、僕の絵を食い入るように見てたから」

 しっかり見られてた。「あはは」と、苦笑いしか出なかった。

「ごめんね。絵に集中すると、音とか聞こえなくなるんだ。入ってきてたの、気付かなかった」

 青色の絵具をパレットの上で開け、絞り出している。俺の嫌いな、色。

「俺もごめん、勝手に見ちゃって」

 もう一箇所に青を絞り、そこに白を足している。水色だった。

「別に良いよ。ところで、どう思ったのかな」

 頬を汗が流れた。でも何だか、これは暑さからくるものでは無い気がする。じじと蝉が大きな声で鳴く。

「どうって」

 漆原君は、また作業を中断して、身体を僕の方へ向けた。やっぱり、眼が苦手なんだ。

「僕の絵だよ。どう感じたかな」

 漆原君は真っ直ぐ僕を見ている。鋭く、そして確かに。

「良いんじゃないかな」

 右手を後頭部に当てた。ぐっしょりと汗をかいている。漆原君は溜息を吐いた。

「僕、嫌いだな。君のその笑い方」

 後頭部にある右手を、そのまま口元まで持っていく。また、苦笑いをしていた。

「周りを気にして、人を傷付けないように自分を殺すその笑い方。僕は嫌いだよ。教室でもよくするよね」

 そんなとこを見られているとは、驚いた。それと同時に、軽く苛立ちも覚えた。

「じゃどうすればいい」

 突っぱねた様な言い方をする。部屋が冷たく感じた。瞬間夏を感知しなくなる。

「素直になって欲しいな。せめてこの部屋では。何を言っても、どんな評価をしても、それは君自身の感性だよ。誰にも責められることの無い、君の純な言葉。それを聞かせて欲しい」

 漆原君はにっこり笑った。初めて、漆原君を親しく思えた。世界が徐々に夏を取り戻す。糸が解れる。金属バッドに球が当たった音が、心地好く響いた。

「俺は、ちょっと変だと思った」

 手汗を断ち切るかの様に、手を硬く握る。今度はしっかりと、漆原君の眼を見た。

「変、か。どこら辺が変だと思った」

 漆原君は自分の絵をまじまじと見る。俺も彼に近づいた。

「色がさ。綺麗じゃない訳じゃないんだけど、肌の色とかが肌色というか山吹色に近い気がして」

 顔を伺った。漆原君は眼を大きく開きながら、薄く笑みを浮かべている。窓から吹いた風が、鼻孔に油の香りを運んできた。

「なるほどねぇ。ここに違和感を感じるんだ」そう言って漆原君はハハと笑う。

「僕には、こう見えるんだ。人の肌。だからそのまんま書いた。正確には青とか緑も混ざってるんだよ」

 俺の方を見て、俺の顔に手を伸ばした。ひんやりとした手の感触が心地良い。

「自分の顔、細かく見てみたことはあるかい。色は本当に、肌色かな」

 そう言って再び筆を持った。パレットの青を筆先で攫い、それをのっぺりとキャンバスに塗る。

「好きな様に描けばいいんだよ。この僅か数メートル程度のキャンバスは、君の心の白紙。希望を描くのも絶望を描くのも、理想も現実も、君の色で世界を描けばいい」

 空の青に、水色が合わさった。そして白を掠め取り、付け合わせていく。綺麗だった。まだ完成していない、僅か三度程しか加えられていない空が、確かに綺麗だった。

「僕は、夏の空が好きなんだ。大きなキャンバスみたいで」

 漆原君は空を見た。つられて窓の外を眺めると、飛行機雲が伸びていた。青のキャンバスをバッサリと、白で断ち切っていた。夏の暑さとは違う、恐怖から来るものとも違う熱さが身体を覆った気がした。多分、心が揺れた。

「描いてみる?」

 そう言いながら漆原君は奥の準備室に入っていった。改めて作品を見てみる。向日葵畑を駆ける少女は、とても楽しそう。よく見ると、家らしき木造建築物の扉から母親らしき人物が手招いているのが見えた。

「絵の見方は十人十色。描き方も十人十色だよ」

 漆原君は手に画材道具を持ってくると、組み立て、それを僕の方へ寄越した。

「さ、どうぞ」

 筆とパレット、そして絵具を受け取る。漆原君はニコッと笑うと、自分の作品に戻った。唾を飲む。言われるがままではあるが、描いてみたい。パレットに絵具を出す。筆を湿らせ、色を取る。俺の嫌いな青。だけど、漆原君の話で少し好きになった。これまでの俺と、これからの俺。好きな景色は、多分ここ。この美術室は、少し埃臭くて、油の香りもして、俺からすると、嫌じゃない青に見える。色を乗せていく。どんどん、色を乗せていく。色と共に想いも乗せる。楽しい。

「描けた?」

 二時間程経ったか、漆原君の声で集中の糸は切れた。丁度完成。俺の一作目だ。

「拝見するよ」

 漆原君が俺の作品を見てる。そういえば、こんな一面があるなんて知らなかった、こんなにも明媚な世界を持っているなんて、羨ましかった。

「うん。下手っぴ」

 漆原君は微笑みながら言った。なんだか、優しかった。

「でも、綺麗だね」

 心臓が高鳴っていた。俺は多分、今熱を注ぐべきものを見つけた。俺の世界を見つけた。

「ねえ、美術部、入らない?」

 もう漆原君の眼は怖くない。優しが見える。温もりが見える。差し出された右手を、俺はがっちりと掴んでいた。

「よろしく、お願いします」

 相変わらず鼓動が煩い。でも心地好い。暑さも、苦手な空も、快く俺の中に吸い込まれる。

「じゃあ今日はこれで」

 漆原君に手を振って、俺は美術室を後にする。忘れ物の課題も、どうでも良かった。駆け出したい気分だった。漆原君のあの絵の少女のように。そうだ。帰り道に画材道具を買って帰ろう。青の絵具を買って帰ろう。そう思った。

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青を好む 初手太郎 @Hajimekara

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