ないた黒魔女、わらった白魔女
凪野 織永
ないた黒魔女、わらった白魔女
「起きて、ねえ、起きてってば」
ガサガサとした毛布に身を包むと、甲高い少女の声が、とろとろとした眠気を取り払っていく。うるさいなあ、まだ眠いのに、と言いたいけれどそれを口に出す労力すら惜しくて、拒絶の意を示すように枕に顔を埋めた。
「もう、アスワド! 起きてよ!」
突如、瞼を通り越した強い光が網膜を焼き焦がすような激しい感覚がした。目を固く瞑っているにも関わらず視界が真っ白に染まる。
「眩しっ⁉︎ 何すんのよアビヤド!」
黒髪の少女、アスワドが飛び起きて叫ぶと、白髪を靡かせた少女アビヤドは呆れたようにため息を吐く。アスワドはまだ眠気を滲ませた眦をめいっぱい尖らせて睨みを効かすが、それを受けてもアビヤドはどこ吹く風だ。
「もう朝だし、ごはんもできてるよ。冷めちゃうから早くしてね」
そう言ったアビヤドは右手の人差し指をピンと立てていて、その上には光の球のようなものが浮かんでいる。それはふわふわと彼女の周囲を旋回すると、泡が弾けるようにして跡形もなく消え失せた。それを忌々しげに見送ったアスワドは、唇を尖らせて文句を垂れる。
「ねぼすけなのは悪かったけど、起こすのに魔法を使うのはどうかと思うわよ」
「仕方ないじゃん。アスワドはこうでもしないと起きないくらい寝汚いんだから」
「だって、睡眠は人生最大の至福だもの」
アスワドは艶やかな黒髪を手櫛で梳りながらぶすくれた。デコルテが見える黒のワンピースの上に同じ色のローブを羽織り、トレードマークのとんがった帽子を被る。全体的に暗い色が多くの割合を占める衣服だった。
アスワドとは逆に、アビヤドは白が多い服を着ている。二人が纏っている色彩は全くの逆だが、顔を見合わせて頬を綻ばせる表情は瓜二つだ。
今日の朝ごはんは。畑の調子は。天気が崩れそう。この魔法がうまくいかない。これが薬学に応用できそう。そんなとりとめもない会話を交わしながら二人は階下に降りる。
食卓には昨晩の残り物のスープとパンが既に並んでいた。鍋を温めるときには必ず使う炉には、火をつけた形跡は残っていない。定位置である向かい合った椅子の片方にそれぞれ座って簡素な朝食に手をつけ始めた。
「ぬる……火加減の調整ミスったかな」
「そう? 丁度いいわよ。アビヤドは火の魔法は苦手だったっけ」
「うん。もっと練習しないとね」
アビヤドはスプーンを咥えながら手のひらで光の球を遊ばせる。炎から発せられる明るさをそのまま凝縮したような外見のそれは、実体なんてないはずなのに彼女の手に弄ばれていた。
光の球をふっと霧散させると次に炎の塊を浮かび上がらせる。アビヤドの指の上のそれは不安定に揺れていて、突然その勢いを強めたかと思えば火がつく前の火種のような状態になって消えていった。
アスワドは苦笑いを浮かべ、手のひらに同じように炎を作り上げる。アビヤドのものと違って安定しているそれは手のひらを握るとくしゃりと潰れて絶えた。
アスワドとアビヤド。彼女らは、いわゆる魔女だ。
二人は一卵性双生児、つまり双子としてこの世に生を受け、途中まではごく普通の子供として育った。しかし、いつだったか森の中にいたカラスと触れ合い、いつの間にやら契約をしてしまい、二人は魔女となったのだ。
両親は熱心に神を信仰しており、魔女とはイコール異教徒、神の道に反する異物だった。
そして、そんな認識の二人が、魔女となった人物を許すはずもない。それが実の娘であろうとだ。
家から追い出された二人はしばらく流浪し、ようやく魔女への弾劾がないこの村へと行き着いた。
ここは二人のような流れ者が多く集まってできた集落らしく、表立った人種差別をしない。人口は百人ほどの小さく貧しい村だが、ここは山奥に位置することもあって争いごとに巻き込まれることもなく、平穏そのものだった。現在二人は村の更に山奥に居を構え、二人で一緒に暮らしている。
「お昼になったら村に降りるよ。アスワドもどう?」
「いや、私はいいよ。一人で行っておいで」
アスワドが淡々と答えると、アビヤドは途端に不機嫌そうに頬を膨らました。
「もう、そんなんだから村の人の誤解が解けないんだって! 勇気出してみようよ」
「いや、だって……」
言い淀むアスワドに、もう決定だから! と捨て台詞のようにアビヤドは叫んでスープを口の中に流し込み、バタバタと家を出ていく。向かった方向からして、裏の畑に向かったのだろう。
アスワドは頑固なところがある。普段は聞きわけがいいのだが、変なところで我が儘になるのだ。あの調子じゃ拒否しても引っ張り出されるだろうな、とアスワドは半ば諦めながらパンをかじる。
「……村、嫌だなあ」
一人ぽつんと残されたアスワドは、小さく独りごちた。
双子というものは、必ずどちらかかが病弱だったり、才能がなかったり、片割れよりも劣ってしまうのだと、本で読んだことがある。迷信だとかじゃなくて、純然たる事実。統計的にそういった傾向が見られるというデータだった。
それでは、アスワドとアビヤド、どちらがその「出来損ない」なのだろうか。
百人に訊いたのならば、そのうち少なくとも九十五人はこう言うだろう。
「アスワドの方が劣っている」と。
「あ、白魔女さん、こんにちは!」
「こんにちはー」
「あら白魔女様。今日はどんな御用ですか?」
「こんにちはおばちゃん。今日は食料の買い足しと村の様子見だよ」
「おや白魔女ちゃん。みんなでパンを焼いたんだが、持ってくかい?」
「いいの、おじちゃん。なら遠慮なくもらっていくよー」
村に降りれば、そこの住人はいつも親しげに話しかけてくる。ある者はにこやかにすれ違い、ある者は施しを与え、ある者は相談をしようと人気のない場所まで離れようとする。しかし、それは白魔女……アビヤドに限った話だ。
村で黒魔女と呼ばれているアスワドは、誰にも歓迎されない。話しかけられない。笑顔を向けられない。ありていにいってしまえば、嫌われているのだ。
「あら、今日は黒魔女がいるのね」「やだなぁ、いつも陰気だし」「いかにも怪しい格好よね。あんなに真っ黒で」
そんなひそひそ声が聴こえてしまう。声を潜めているつもりなのだろうけど、筒抜けなんだよなぁ、とアスワドは肺の中で溜息を押しとどめた。
アスワドとアビヤドは顔立ちや体格こそ瓜二つだが、決定的な違いがある。髪と瞳の色が真逆なのだ。
黒髪黒目、さらには暗い色の衣服を好んで着るアスワドを黒魔女と呼び、白髪銀瞳のアビヤドを白魔女と呼ぶ。その分け方に不満があるわけではない。純粋に色で区別しないと、二人の見分けはつかないのだから。しかし、「黒魔女」という言葉のイメージで、アスワドはアビヤドより最初から少しだけ疎まれていた。
双子だというのに生まれ持った色彩で態度が変わることに嫌気がさしたアスワドは、元々の内向的な性格もあり家の中で魔法や薬学の研究に没頭した。対照的にアビヤドは頻繁に外にでて、村の人々と交流を深めるのだ。病気がちなせいで体調を頻繁に崩してしまい村に行けない日も多いが、それでも村人からの彼女への信頼は厚いものだった。
きゃらきゃらと可愛らしい子供の笑い声が耳朶を震わす。魔女の二人へと軽い挨拶をした子供がとてとて駆けていた。母親らしき女性の服の裾を引っ張り、あしらい方が気に入らないのか避けるようにアスワドの方向に走ってくる。
あっ、と小さな悲鳴。アスワドが見ると、子供が小石につまづき体を傾かせていた。
「危ないっ!」
アスワドは反射的に叫び、子供の肩を強く掴む。子供は前につんのめるが転ぶことはなく、ポカンとした表情を浮かべてアスワドを見上げると頭を下げ、また母親に駆け寄り、ふくふくとした手で母の服を掴み引っ張る。
「ねえお母さん、あの人が近づいちゃいけないっていう黒まじょ?」
無邪気な子供の声が周囲にきんと響く。その一瞬だけ、和やかな村の空気が凍りついたかのような錯覚に陥った。
子供の母親の血の気がさっと引いていく。まるで化け物とでも相対しているかのような慌てぶりで、アスワドの方は1周回って冷静にそれを見ていた。
「こ、こら! なんてこと言うの!」
「ちがうの?」
子供は心底不思議そうに言う。きっと、アスワドを悪く言うつもりなんかさらさらなくて、母の教えを確かなものにしようとしているだけなのだろう。
あれが、近付いてはいけない人間なのか。そう、ただただ純粋に。
「もう、少し静かにするのよ!」
母親の咎める声が大きく響くが、アスワドにはそれはひどく空々しいものに聞こえた。
「違う」と、アスワドは近付いてはいけない人間ではないと、そう言わないのだな、とアスワドは静かに思う。
三文芝居の喜劇でも見せつけられているかのような気分で、妙に胸の中に黒いものが渦巻いたような気がした。
「……」
アビヤドが気まずそうにする反面、当のアスワドは不快そうにするでもなく、その子供を見ていた。
悲しげにするでも寂しげにするでもない、完全な無表情。恐ろしいまでに色が剥落したかんばせが、温度もなく親子に向けられる。
まるで人形のようなその顔に母親は引き攣った悲鳴をあげ、子供をさっと抱えて素早く去っていった。
「……アスワド?」
「ごめん、アビヤド。私やっぱり帰るわね」
アビヤドが話しかけた瞬間、アスワドは帽子を深く被り直して彼女に背を向ける。アスワドを引き止めようとして伸ばした手は中途半端に空中にとどまった。周囲にいた村人も凝然と二人を眺めたまま、口を挟むことも手を出すこともしない。
気遣わしげな視線を向けるアビヤドの横顔、その口元が見えて、アスワドはすぐに目を逸らした。
「……ばかみたい」
しんと静まり返った帰路で、アスワドは独りごちる。
「認められるわけなんて、ないのに」
彼女の言葉を聞き届ける者はなく、深い木々の隙間に飲み込まれて消えていった。
それから季節を一つ超えるほどの月日が経った頃。空気が乾いてだんだんと気温が下がってきた秋だった。
自室で薬学の研究をしていたアスワドは、視界の端で何かが蠢くのを見て作業の手を止める。見やってみると、部屋の隅で弱りきったネズミが虫の息になって倒れていた。
「これ……」
アスワドは嫌な予感を覚えて、そのネズミを拾い上げ様子をよくよく観察してみる。すると、それが何かしらの病に罹っている事がわかった。妙に胸騒ぎがして、まさか、と壁に開いた穴を覗き込む。家に住み着いたネズミたちが、ねぐらのために開けた穴だ。
「やっぱり……!」
中を探ってみると、同じように未知の病に罹ったネズミがゴロゴロと現れる。生きているものも、死んでいるものもだ。病が感染症であることは明白だった。
そして、ネズミとは薬などの実験の検体としてよく使われる生物だ。ネズミに効く薬は、人間にも効く。
それはつまり、ネズミが罹る病気は人間も罹る可能性が高いと言うことを示唆している。
その可能性に思い当たった瞬間にさーっと血の気が引いていく心地がする。急激に渦巻き立つ不安を煽るように、突如木の扉を破らんばかりの力で部屋の扉が押し開けれらた。
「アスワドっ!」
古くボロい木製の家全体が軋むのではないかという勢いで、アビヤドが転がり込んだ。
彼女は、暫く前に村に降りたはずだ。アビヤドは体力が多くないから、いつもは山道をゆっくりと進んで村まで行くのだが、今日は随分と急いで行って帰ってきたらしい。呼吸を整える暇もなく走ってきたようだった。
「……村が、大変なの、パニックになってて、」
アビヤドは声を上ずらせ、錯乱した様子でアスワドに縋り付く。彼女がこんなにも動揺を顕にしている理由はすぐに察しがついた。あのネズミと、同じなのだろう。遅かったか、とアスワドは舌を打った。
病が、既に村で広がり始めている。感染源もわからず、特効薬もなく、見る限りだと致死性も高そうな病が。
「こんな、こんなこと初めてで、ねえアスワド、アスワドは薬学に詳しいでしょ? 今すぐ村に降りて、状況を見れない?」
「……今ここで話を聞くことは? 私たちだって感染の可能性があるでしょう、無闇な行動は危険だわ」
アビヤドを宥めるように、平静で優しい声を心がけたつもりだが、緊張感で知らず声は尖っていた。アビヤドの体力を慮る余裕すら、今はないのだ。
「私もよくわからないの。さっき村に降りて、風邪か何かだと思われてた人の容態が急に悪化して。おんなじような症状の人が沢山いるらしいの。ついさっき、これは新しい病気だって言われて」
話しているうちに冷静さを取り戻したのか、少しずつ落ち着いた声音でアビヤドは語る。
「……わかった。背に腹は代えられないわよね」
村には降りたくない。けれど、アスワドの持つ薬学の知識と技術こそが必要なものなのだ。いくらあの村民がアスワドを嫌っているとしても、それを理解してもらえれば協力くらいはできるだろう。そう踏んで、アビヤドは黒いローブを羽織り直す。
「診療所まで案内してくれる、アビヤド」
村の状況は、思っていたよりは悪くはなかった。
診療所は混乱しているがまだ病床は空いているし、爆発的に感染が広がったわけでもない。まだ余裕はある。しかし、だからと言って油断してはいけない状況なのは確かだった。この感染症は治療法も特効薬もわからないし、感染力もどれほどなのか未知数だ。あぐらをかいていたらロクなことにならない。
何より、これから冬が来る。越冬に備えた準備に人同士の協力は不可欠であり、必然的に他人との接触が多くなる。そのせいで感染が広がってしまう可能性が大いにあるのだ。
村には小さい診療所が二つあり、それぞれ入院できるための施設は揃っているが、上限は二つ合わせても二、三十人。医者の数も少なく、病床が全て埋まったなら現場が崩壊することは想像に難くない。医者が感染する可能性もある以上、人員不足が予想される。
「こんな場所で流行病⁉︎ くそ、設備も薬の材料もないって言うのに……!」
「山の麓の町にも流行っているなら、そこで薬を手に入れられるかも……」
「いや、薬を買う金なんか誰も持ってないし、そもそも買えるかどうかすら怪しい」
「大体、そんなの誰が行くんだ? みんな村を離れるのは嫌だろう」
「町は人口が多い。ここより病が広がっているんじゃないか? そこに行って万一にも感染したら、ここに帰る事すら憚られる」
村の中、特に診療所内は既に混迷していて、あちらこちらから怒号や不安げな声が聞こえてくる。
ああ、忘れていた、とアスワドは静かに絶望したような息を吐いた。
この村はもとより移民が集まってできた集落だ。差別や犯罪や、諸事情ばかりでここに移り住まざるおえなかった者達とその子孫により構成された場所だ。そんなものが、外部の人間に疎まれないわけない。
つまり、アスワドが村人に受けている扱いは、そっくりそのままこの村自体が受けている扱いで、ともすればもっと酷いものであるかもしれない。
アスワドが腫れ物扱いされているのと同じ。この村もまた、外部の者にとっては巨大な腫瘍なのだ。
絶望が押し寄せる。一瞬諦めの二文字が頭を掠めて、あ、と掠れた声が出ると同時、横を通る白い人影に一瞬気を取られた。
「みなさん、落ち着いて!」
毅然としたアビヤドの声が、騒然とした中をきんと貫く。一瞬、ざわめきが止んで、視線が一斉にアビヤドに向いた。
「まだ救いの手立てがないと決まったわけではありません!みんなで諦めず協力していきましょう! 薬を買うお金は、心苦しいですが村人全員から徴収します。全員で負担すれば大したものにはなりません」
先ほどまでひどく動揺していた彼女は、それが嘘のように落ち着き払っている。
全員の目が彼女に向く。伝承の中の聖女を見るような目は、すぐに無謀な挑戦者に向ける訝しげなものに変わった。
苛立ちを覚えてしまうほどに純潔な思想。そんなものは物語の中のように全員を団結させるには圧倒的に足りない。そんなこと、とでも言いたげな視線がアビヤドを睨む。
「っ、危険な……」
村人たちの鋭い目に、アビヤドは一瞬立ちすくむ。隣に居ただけのアスワドも、微かに身震いをした。けれど、アビヤドは叫ぶ。
「危険なことは、私が請け負います……」
は、と呆けた声を出してアスワドは自分の片割れを見た。理解できない。そんな目だった。
「町には、私が降ります! 必ず薬を入手して帰ってきましょう!」
「アビヤド!」
あまりに無謀なことを言う彼女に、アスワドがたまらず口を出す。
「あなた、一体自分が何を言ってるかわかってる⁉︎ この村から外に出れば、私たち魔女は公共の敵なのよ⁉︎」
今まで出した事がないくらいの、切り裂くような大声が出た。それくらい、アビヤドの声は常の彼女からして有り得ないものだった。
魔女とは往々として被差別者だ。この村で「白魔女」たるアビヤドは差別されていないが、それはこの村だけ。ここが特殊なだけ。他の人里に行こうものなら、良くて拒絶、悪くて私刑。暴力を振られる程度ならマシだろうが、異端審問にかけられ、死ぬより辛い目に遭う可能性すらある。
まさかアビヤドも知らないはずがない。残虐で凄絶な、魔女狩りの歴史を。
そんなリスクを呑んでも尚山を降りると言うのなら、それは自己犠牲のレベルに留まらない。遠回りな自傷とすら言える。アスワドは、無二の片割れのそんな行為を容認できない。
「わかってるよ! わかった上で言ってるんだよ、そんなに私バカじゃない!」
アビヤドは叫ぶ。一緒に居た年月の中で一回も聞いたことのないような鋭い絶叫。一瞬アスワドはたじろぎ、しかし退くことはできないとばかりに声を張り上げた。
「なら……なら、なおさら認められるわけないでしょう⁉︎ そんなことあなたにはさせられない、だったら私が町に行く!」
「アスワドにそんなことさせたくないから私が行くって言ってるんだよ! 得意の薬学と魔でこの村に貢献してよ! 私にはできないことなんだから、それをやってよ!」
「何ができるとかできないとか、そんなの今は関係ないでしょ⁉︎ アビヤドこそ、みんなに慕われているあなたこそここに残るべきよ!」
「ワガママはやめて、優秀なアスワドと比べて、私にはこれしかできないんだから!」
「我が儘はそっちでしょう! 優秀だとか言って、詭弁と嘘で丸め込もうとしないでよ!」
「その態度が気に入らないの! 私にないものを持ってる癖に、その悲壮感漂わせた面やめてよ!」
「悲壮感って何よ⁉︎ 私が『かわいそう』だっていうの? そこが嫌いだって言うの⁉︎ なら……」
アスワドは大きく息を吸う。叩きつけるように、その、前々から胸の中に隠していた疑問を眼前に突きつける。
「『かわいそう』な私を見て、嗤ってるのはなんでよ!」
ひゅっ、と細い息が吸われる音。アビヤドのの白い瞳の、黒い瞳孔が細まって、衝撃を受けたように揺れた。
ああ、そうだ。数ヶ月前、村に二人で訪れた時。居た堪れなくなって去った時に見えたアビヤドの横顔。
あれは、意地汚く、優越感に浸るように、微笑んでいたのだ。
完全に平行線な言い合いが硬直する。村人たちもすっかり圧倒されていて、ポカンとした表情で二人を眺めていた。
「……もういい」
先ほどの大声が嘘のように、冷え切っている声音。
「最初からアスワドの同意なんか必要ないじゃん。私は勝手に行くから。お願いだから、私の決意も思慮も無駄にしないでよ」
アビヤドは激情のままに言い捨てて、ひらりと純白のローブを翻して去っていく。アスワドは、待って、と言いかけて、しかし今までにないアビヤドの冷たい声に伸ばした腕をだらりと下げた。
「あび、やど……」
なにを言えばいいのかわからなくて、掠れた消えかけの言葉が唇から滑り落ちる。
ああ、止められない。あの子があんなにも自分の意志を誇示することはほとんどなくて、だから、どうしたらいいのか、全く知らないのだ。
アビヤドの言葉が何度でもリフレインする。走馬灯のように脳内で繰り返される刺々しい応酬に、さらに心臓が抉られるような心地になった。
「私は……私は一体、なにをすればいいの……?」
泣き出してしまいそうに、アスワドはつぶやく。
「あなたに進まれたら、いよいよ対等なんて言えなくなるじゃない……」
みんなに好かれていて、みんなに慕われている魔女、アビヤド。
その上、名誉ある献身の称号までついてしまったら、片割れと名乗ることすら烏滸がましくなってしまうじゃないか。
隣に立っていたい。唯一の姉妹として。互いを補い合う家族として。いや、いたい、ではない。それが正しい形であるかのように、そうでなければ違和感があるのだ。
なら、何をすればいいか。考えてみれば、そんなもの、早い段階で提示されていた。
アスワドは決意を固める。屹と前を見据えた目は、今までの内気な彼女とは似ても似つかぬ感情を宿していた。
なんで、なんで、なんで。
消えない苛立ちがちりちりと胸の内を焼くような不快感に、アビヤドは眉を顰める。彼女を心配してついてきた村人たちを引き離すと、激情を吐き出すように付近にたまたまあった木を殴りつけた。鈍痛が滲んで、さらに彼女は機嫌を降下させる。
「何、なんなの。何にもわかってないくせに……!」
先ほどのアスワドの言葉が脳内に去来する。『かわいそう』な私を見て、嗤ってるのはなんでよ、と。悲鳴のような悲痛な声が。
だって、だって、仕方ないじゃないか。そうでもしないと自分を保てない。
アスワドは優秀だ。彼女自身はそうは思っていないが、事実としてそうなのだ。双子の中でどちらが出来損ないか、その問いにアビヤドは迷わず「自分が出来損ないだ」と答える。
病弱で魔法の才がアスワドよりない自分と、薬学にも精通しており魔女としての素養も十分に持っているアスワドとは、比べるまでもないと。
以前、手のひらの上に生み出した炎。アビヤドは不安定で小さな火種しか生み出せないけど、アスワドはその大きさも強さも温度さえも自由に操れた。その差はいつまで経っても縮まらない。
アビヤドが一つ魔法を覚えたら、アスワドはさらに格上の魔法を覚える。
アビヤドが一つ魔法を扱えるようになったら、アスワドは一つの魔法を達人の領域まで極める。
天賦の才、というやつだ。アスワドにはそれがあって、アビヤドにはそれがないのだ。
だから、彼女の短所であるコミュニケーション能力の欠如を嘲笑っていないと自己肯定なんかできなくて、そして彼女から掛けられる過分な期待に押しつぶされてしまいそうだった。
蔑んで何が悪い。嘲って何が悪い。自己嫌悪が止まないのだから、他の誰かも、世界そのものも嫌わないと気が済まない。
同じ血が流れていても、流れているからこそ、姉妹を憎む。アビヤドは、アスワドが思っているほど清廉でも純潔でもないのだ。
ここしかない。ここで身を呈さないと、いよいよ自分ができることはなくなる。病に犯されゆく町で求められるのは、指導力より特効薬だ。アビヤドよりアスワドだ。
自己犠牲でしか、もうアイデンティティなんか保てないのだ。
アビヤドの決意は既に固まっている。屹と前を見据えた目は、死すら厭わぬ者の目だった。
出立の日はすぐに来た。アビヤドと、有志で募った供回り二人。異常事態が起きなければ長くて一週間、彼女らは村から出る。旅立とうとする一行を、多くの村人が見守っていた。それはアビヤドの人望を表していて、しかしそれを見ても彼女の心は漠然と乾いて満たされない。
「……もう、行くね」
そこにいない黒色の片割れに告げる。「いってきます」ではなく、「いく」と。
それだけ言うとアビヤドはもう振り返ることもなく、凛とした姿を雨の予兆に香りを強くする森林に沈ませていった。
木々の隙間に消えていく白色を、アスワドは隠れるようにして見送る。
「……いってらっしゃい」
行って、帰ってくるんだよ。
聞こえるはずがない距離感であるとは理解しながら、言わざるおえなかった。深緑に覆い隠されていく彼女の背を完全に見えなくなるまで眺め続けて、影が完全に消えてから、アスワドはようやく動き出す。
さあ、私が責を果たす番だ。
霧雨が降っていた。
しとしとと微かな雨音を立てながら、濡れた緑の匂いをもうと際立たせて。鼻腔にからみつくその匂いが、自分に纏わりつく検死の名残の異臭を掻き消すようでありがたかった。
アスワドは帽子を深く被り、森の奥深くの家から出る。片手には大きな鞄が握られていて、そこから僅かに死臭が漂っていた。
死臭といっても彼女が人を殺したわけではなく、病で死んだ鼠の死体をいくつか保存して持っているだけだ。専売特許である魔法があってもほんの数匹の死体から薬が作れるわけがなく、アスワドの元には設備や資源、人手が全く足りなかった。だから、薬の開発は村でしかできない。協力が得られるかはわからないが、とにかく助けを求めるしかないのだ。
家を出て数歩進み、思わず我が家をふり仰いだ。ボロ小屋のような古びた家屋。アビヤドがおらず、アスワドも薬の開発のために暫く帰るつもりがないため、無人になる家。胸がきゅうと締め付けられる心地になりながら、アスワドは背を向ける。
鴉の羽のように真っ黒なローブを胸元で掴み寄せ、振り返らずに歩を進めた。
村は病と雨のせいでやはり閑散としていて、アスワドの姿を見る者は一人もいない。喪に服しているような格好に不愉快げな顔をする人間もいなくて、それに居心地がいいと感じる反面、本来はこんなに静かじゃないのに、と寂寞とした感傷を抱かざるおえなかった。
病が流行り始めてからずっと忙しなく、見えない恐怖に燻され続けている診療所。まともな整った設備も少なく、医者の数もなく、感染が広がれば簡単に瓦解するであろうそこ。
アスワドは黒のローブを不安げに掴み、しかし毅然とした出立ちでそこに乗り込んだ。怪訝に彼女の顔を見る医師に、その躊躇を気取られないように話しかける。
「こんにちは。例の薬の製薬についてご相談があるのですが」
たじろぎそうになるのをぐっと抑えて、アスワドは臆することなく言う。医師は隠す気もなく不快げな顔をした。
「悪いけどねぇ、黒魔女の力を借りることなんてないんだよ。せいぜいこの災害が収まるように祈祷でもしておいてくれないかね。ああ、けど君は神の道に反する者だったね」
医師は嫌味ったらしく、しっしと手を振った。どうやら彼は、アスワドの両親と同じ神を信仰しているらしい。それか、アスワドを拒否するために神の名前を使っているか。
黒魔女。アスワドの代名詞。アスワドの象徴。
「黒魔女、ね……」
独り言のように呟いた彼女の言葉に、医師はさらに眉の間の皺を深くする。
「何を以てして、私を『黒魔女』だと?」
は?とまた眉を顰める医師に、アスワドは更に言い連ねた。
「この服の色ですか? 髪ですか? 虹彩ですか? アビヤドがその全てを黒に染めたら、あなたたちはあの子を黒魔女と呼びますか?」
どこか鬼気迫る詰問に、医師は言葉を詰まらせる。なぜ彼が問いに答えられないのかを、アスワドは知っていた。要は、彼らは「黒魔女」が嫌いなのではない。『アスワド』という個人が気に入らないのだ。
嫌悪している口実として色を使っているだけ。皆が好くアビヤドとの目に見える違いをなじっているだけ。
そして、それはあくまで口実だ。理由を問い詰めてしまえば、先の理由を答えるしかなく、その表面的な理由を論破してしまえば、彼らに言い返す術はない。人を嫌うという人間の心理的なものを論理で武装するのなら、同じく論理でひっぺがそう。
慣れない大声に咳がこみ上げそうになる。それを留めて、腹の中で燻らせながらアスワドは叫んだ。
「この服が気に入らないのなら今すぐ脱ぎ捨てましょう。この髪が煩わしいのならここで削ぎ落としましょう。この瞳の色が邪魔なら、すぐに抉ってご覧に入れましょう! だから、どうか」
それは、懇願に見せかけた脅迫だった。被差別者の哀願であるように他人には見えるが、彼女の瞳にはギラギラとした獰猛な光が宿っている。それは、哀れまれ蔑まれる魔女の目ではない。
「どうか私に、一握りの権利を」
その時アビヤドは、自分の行いはただの逃避であったことを思い知った。
約一週間の町への道は雨による土砂崩れや町の人々の拒絶により伸び、約一ヶ月にまでなった。そして、残念ながら収穫はなし。町に降りても、懸念されていた通り一行は歓迎されなく、薬もなかった。売ってもらえなかったのではない、もとより存在しなかったのだ。閉鎖された村にない薬は発展した人里にあるという考え自体、間違っていた。
なんの収穫もなくすごすごと戻ったアビヤドを迎えたのは、アスワドの成功という現実。
たった一ヶ月の間で、アスワドは新しい薬の開発という偉業を成し遂げたのだ。
落ちこぼれの黒魔女と優秀な白魔女という評価から一転、偉大な黒魔女と失敗者の白魔女へと完全に立場が逆転した。アビヤドは、役立たずの烙印をつけられたのだ。
「……何、アスワド。私を嗤いに来た?」
放置されていたのはひと月だけにも関わらず、埃が積もって廃墟の様相を呈した彼女らの家。その中の自室で、アビヤドは卑屈に問う。
開かれた扉からはアスワドが顔を出していた。差し込む光が後光のようで、煩わしかった。アスワドを讃え、アビヤドを暗い引き立て役にしているかのようだ。
「……アビヤド、私は」
「いいじゃん。今まで私がしてきたように、思う存分嗤いなよ。アスワドにはその権利があるでしょ」
何かしら弁明をしようとする唇が、アビヤドの鋭い言葉により噤まれる。
「その気がないならどっか行って。『偉大なる黒魔女様』になったんだから、村にでも行ってれば」
適当に放り投げた白いローブをクシャリと握り締め、丸くなって膝の間に顔を埋めた。アスワドの顔は、見ようともしない。
「……一つだけ、伝えておきたいことがあって」
アビヤドは何も返さない。
「村の子どもたちは、あなたを待ってるわ。それから……」
一つだけじゃないのか、と言う指摘が脳内に浮かんだが、それを口に出す元気はなかった。
「忘れないで。私はあなたの家族だから」
そうとだけ言うと、アスワドは静かに扉を閉めた。部屋が静寂に満ちる。苛立ったようなアビヤドの息遣いが、癇癪を起こしている子供のように思えて、ひどく煩わしかった。
「……くだらない」
アビヤドは投げやりにひとりごちる。
「『家族』なんていう縁は、簡単に崩れ去ってしまうのに」
アビヤドが家族であるアスワドを蔑んでいたように。家族なんてものは自分という存在を確立させるための道具でしかない。それが、唯一の家族を慰み者にしていた彼女の所感だ。
洟をすする音がひとつ、部屋に落ちた。
「ああ、黒魔女様だ!」「黒魔女様、あなたの薬のおかげで親が助かりました!」「本当に、ありがとうございました」「……あら?」「今日は白魔女もいるのですね」「俺はてっきり逃げたのかと思っていましたよ」
ああ、居た堪れない。
アビヤドはひっそり唇を噛む。人の波に揉まれるアスワドと対照的に、アビヤドには冷たい視線が降り注いでいた。アスワドの時ほど侮蔑を含んでいないが、その分関心も薄い冷ややかな目。自分だけ路傍の石ころになってしまったかのような感覚がした。
幼い、駄々をこねる声が聞こえて、ふと見てみると、子供が母親に抱き寄せられていた。それは一見微笑ましいが、よく見るとそれは子供の動きを制するための行為だとわかる。
「ねえ、なんで近づいちゃいけない黒まじょにみんな話しかけるの? なんで白まじょさまのところにいっちゃダメなの? ねえ、なんで?」
子供の純粋な問いに、母親は一瞬言葉に詰まり、激昂したように「事情が変わったのよ! ほら、もう行くわよ」と怒鳴っている。泣いてしまいそうになった子供がアビヤドの姿を見つけ、腕を引っ張られながらも手を振った。
「もう白魔女はいい魔女じゃないんだから」
母親が吐き捨てるように残した言葉が胸に刺さる。
「……いい魔女、ね」
アビヤドはくるりと踵を返す。
私は一体、何をしていたんだろう。
愛想良くして、自分の短所を精一杯隠して、肉親を蔑んで。その結果が、これか。酷い虚無感がアビヤドを襲う。
「……天にまします、我らが父よ」
手を組み、空を仰いで唱える。信じてもない神への言葉。魔女である以上絶対に相容れない存在への祈り。
「私は、どうすればいいのでしょう」
迷子になった幼い子供のような、縋るような声音。
「私は、逃げることしかできない、してこなかった」
諦めるような、涙をこぼす権利すらないと言い聞かせたような乾いた瞳。
「……私は」
ああ、また、逃げてしまいたい。
逃げるのは楽だ。目を逸らすと安心する。心の安寧を保つ方法を、アビヤドは逃避しか知らない。彼女は静かに嘆息した。
そういえば、何故逃げてはいけないのだろう。
傷つくことを恐れ避けることは当たり前のはずなのに、何故痛みに立ち向かうことが美徳であるかのように思い込んでいたのだろう。
逃げればいい。嫌なことからも痛いことからも徹底的に逃げればいい。今までそう生きてきたのだから、これからもそうすればいい。
「……ごめんね、アスワド」
思い立ったが吉日。アスワドは薄汚れたリュックに着替えや保存食、家にある金貨の半分を詰める。
幼い頃、この村に辿り着くまで放浪した経験があるから野外で生き残る事はできるだろう。最も、その時はアスワドがいたのだが。町まで降りた時も共回りがいたし、一人旅はこれが初めてだ。
不安がないわけではない。むしろ今までに経験のないことに足がすくんでしまいそうだ。けれど、一歩を踏み出さなければまた停滞してしまう。心が死んでしまう。
荷物をぎゅうぎゅうに詰めて重くなったリュックを背負う。一瞬後ろによろつくが、持ち直した。最後の別れだとばかりに自室を見回す。
放置していたせいで埃が溜まった家具。幼い頃に気に入っていたおもちゃがひっそりとアビヤドを見ている。
置いていくの、と問われている気がした。
「……さよなら」
全て決別しなきゃいけないから。だから、さよなら。
そう言って、扉を開ける。
「何がさよならなの、アビヤド」
険しい声が、降り注いだ。
開けた扉の前には、アスワドが立っていた。少し息を切らして、今まで見たこともないくらいに眉を顰めて。
「ねえ、何と別れるの。そんな荷物持ってどこにいくのよ」
ひゅっと呼吸が詰まった。こんなに不愉快そうな表情をしたアスワドは初めてで、どうしたらいいのか分からない。
「あ……アスワドには、関係ないでしょ……」
情けないくらいに弱々しい声。思わず一歩後ずさると、その間を埋めるようにアスワドが一歩近づく。
「関係なくないわよ。姉妹でしょう? 家族でしょう? 何を怖がっているの」
「……関係ないよ。私の意志や考え方に、アスワドは介在してない。何をしようと私の勝手でしょ」
アスワドが更に眉間の皺を深くする。
「……そう。確かに、私たちは双子だけど、ずっと別の人間だったものね」
アビヤドは白だった。病弱で儚くて、外交的で愛嬌があった。
アスワドは黒だった。才能に溢れていて、内向的で無愛想だった。
双子だから一緒にいただけの、他人なのだ、二人は。
それがひどく虚しくて、アビヤドは唇を噛む。視界が少し滲んだけれど、ここで目元を拭うのは不恰好な気がして、下を向いて誤魔化した。
「じゃあ、あえて言うわ。血のつながりがあるだけのあなたに」
アスワドは胸元のローブを手繰り寄せ、強く握りしめる。その仕草はアスワドが何かの覚悟を決めるときの癖だと、アビヤドは知っている。両親の元から離れようと、そう言った時、彼女は同じような仕草をしていたのだ。
不安を自分の胸の中に押し込めるような、そして、屹然として自分の意志を口に出す時の。
「私も、連れて行って」
その凛とした声音と出立ちに、アビヤドは少しの間呆然としてしまう。半開きになった口から、は、と不可解そうな声が漏れ出た。
「そ、な……なん、で」
困惑しきった掠れた声しか出なくて、喉がざらつくような感覚がする。アスワドはふっと目を細めて、悲しげに微笑んだ。
「こんな場所、あなたが居なければとっくに離れてるわよ」
「違う、ちがうよ。だって、私がみんなに好かれてる時は、ここを離れようとは思わなかった」
ここは決して悪い場所ではない。それこそ、昔のアスワドのように嫌われてさえなければ居心地のいい村だ。現在は村の英雄になって慕われているアスワドが、拒絶する理由がない。
「……確かに、ここの人たちはみんな悪い人ではないわ。みんな寛容で、嫌っていても実力行使に出ることは決してない。人にしてはいけないことの線引きをみんなちゃんと理解しているんだわ」
アスワドは語り続ける。
「私はね、拒絶することは悪いことじゃないと思うの。だってそれは防衛本能に似たものだわ。人は痛みを感じなければ火傷を負っていることに気がつかない。自分や他の誰かの安全や名誉を守るために、必要だと思う」
けどね、と言って一つ息を吸う。
「それはあなたがその範疇にいない場合だけよ。あなたが拒絶されるならそれは悪で、切り取ってしまうべきものだわ。あなたが拒絶される場所なんて、私は要らない」
アスワドの瞳に揺らめくのは、一体なんなのだろうか。
激情? 悲嘆? いいや、違う。そんな二文字程度で表せるものではなかった。
あえて言うのなら、執着、だろうか。狂気的なほどの世界に対する希望が反転したかのようなものだった。
「……全部、棚に上げるの? 私が拒絶されるのに正当な理由があっても、それでも私は悪くないって言うの?」
「勿論よ、アビヤド。だって……」
アスワドの口角が吊り上がる。目が細められる。凄絶に、魔女という言葉がにつかわしく思えるほどに。
「あなたが否定される世界で、私が肯定されわけがないもの」
アスワドはそう言って、アビヤドの両手を取る。ワルツでも踊るかのように、そのままふわりと舞ってみせた。
「私の家族。私の姉妹。私の片割れ。私は黒で、あなたは白。ねえ知ってる。無彩色は、黒と白だけじゃ成り立たないのよ」
真っ黒な風景などない。真っ白な物体などない。無彩色であろうと、その二色が混じり合った色があるのだ。
「だから、私はあなたで、あなたは私。自分を構成する欠片同士なのよ、私たちは」
同一の人間でなくとも。
自分の断片を要らないと言って切り捨てられてしまう居場所なんて、最初から居場所じゃない。自分の全てが認められる場所こそが、アスワドが求めるものなのだ。
「……ばかだなぁ」
悪態をつきつつも、アビヤドの眼からは涙がはらはらと落ちていた。それは悲しいからでも、嬉しいからでもない。あるべきものがそこに戻ったかのような、帰郷感からだった。
「ここ以上にいい場所なんて、ないかもしれないのに」
白い頬を伝う涙を指でそっと拭いながら、アスワドは安堵したように笑う。
「あなたが一緒にいなければどんなところも塵同然よ」
二人を目を合わせ、ふっと微笑み合う。柔らかく、無邪気に。
かちゃりと扉が閉まった。
思い出が詰まった部屋も、二人で一緒に遊んでいたおもちゃも、もう二度と日の光を浴びることはないだろう。
ないた黒魔女、わらった白魔女 凪野 織永 @1924Ww
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