消えかけた監督のサイン
古田地老
1. 前編
「いーち、にー、いーちに、そーれ」
晴れ渡る6月の空気に広がる掛け声と、昨日の雨で湿った野球のグラウンドに響く駆け足のリズムを聴きながら、高校2年の
頭の中では今日の午後にある、2年が中心のチームの練習試合を考えていたが、それは他の部員とは少し違う意味で頭が一杯だった。カズトはサインを覚えるのが苦手だった。
監督の出すサインは特別難しかったり、複雑であったりしている訳では無かった。帽子のツバとかベルトとかがキーサインとなり、その2番目に触った所によって「バント」や「盗塁」といった実行サインが決められているよくある方式だった。
カズトは毎試合変わるキーサインは何とか覚えられるのだが、その後の実行サインを見て、それを
1年の時は試合に出ていなかったので問題なかった。
2年に進級してからは、ダブルヘッダーで行う練習試合の午後に「7番・レフト」で出場する機会が増えた。上位打線だったり内野手だったりしたら、攻撃のサインやら守備のサインやら覚える戦略があって大変だったであろう。しかし、下位打線でかつ外野を守るカズトはこの2か月間、塁に出てもサイン無しだったり既にツーアウトだったりと、何かと切り抜けてきた。監督の「3年は夏に向けて色々戦略を考えないといけないが、2年の最初は試合慣れから始めよう」という方針も助けになっていた。
だが今朝のミーティングで監督から「6月にもなったし、新人戦も見据えて戦略慣れもする」と言われた時から、サインのことで頭が一杯になってしまったのだ。
「キョウヘイはさ、ピッチャーのサインとか守備のサインとかって、どう覚えてんの?」
二人一組の体操でペアとなったキョウヘイに、カズトはそれとなく訊いてみた。キョウヘイはキャッチャーで、よく5番や6番で打つ。
「覚えるっていうかさ、ここはスライダーで決まりや!とかホームゲッツーで刺すしかない!とか、体が反応するやん?試合の流れから何となく分からへん?」
背中合わせで伸びをするカズトの背後から、キョウヘイの回答が聞こえた。
「いや、流れから戦略は分かるんけど、そのサインのキーとかってイマイチ頭に入らんというか……」
「なーに言ってんの、カズト。秀才のカズトが覚えられんものを何で俺が覚えられるんよ?この前の定期考査の結果、聞いたで。学年10位やと。」
「それとこれは関係なくない?」
「関係あるやろ。記憶やて記憶。勉強できる人はいい記憶術を持ってるんやないの?」
実際、カズトは暗記は得意ではなかった。定期考査もたまたま覚えていた内容が出たのと、
「もしかして攻撃のサイン、覚えてへんの?」
「まあちょっとね。一瞬何やったけってなることも有るというか無いというか。」
「サイン間違いしたら、監督にめっちゃ怒られるで。先週カズトが部活休みの日に、佐々木先輩がエンドランでバット振らんくてさ。走ってたランナーが刺された挙句、フォアボールで塁に出たんやけど、2回も盗塁のサイン無視しとった。」
「それどうなったん?」
「もちろん次の守備から変えさせられて、午後の試合中、ずっと
時代的にパワハラになりかねなくね?とカズトは思ったが、普段生徒思いの監督がたまに制裁を与えるのは、教育の一環です、で済まされる気もした。
「やべーな。もし俺の前に誰かが塁に出てたら、サイン出んようにキョウヘイがホームランで一掃しといてよ。」
「そんな都合良くホームランなんか打てる訳ねーよ。」
準備運動を終えた部員たちは、午前の試合に出る3年を中心としたグループと、午前中は基礎練をするその他のグループに分かれた。
(中編へ続く)
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