第21話

 ひとけのないところで降ろされた誉は、男に引きずられるようにして歩いていた。足裏の傷口に砂利が突き刺さるたびに身を竦めてしまうが男は意にも返さず、むしろいっそう強く引っ張った。誉が悲鳴を上げるたびににやにやと笑っているあたり、こうして歩かせているのはわざとなのだろう。相当嗜虐心が強いようだ。


「ぅ、あっぐっ」


 足がもつれ、派手に転んだ。「もー早く立てよ」と男が腕をぐいぐいと引く。急いで立ち上がらないと男が笑顔のまま不機嫌になると知っているので、誉は痛みを堪えて立ち上がった。

 ときおり転んだり、身を竦めて立ち止まったりしながらも、誉は大した抵抗もせず引かれるままに歩いていた。にこにこしている男の瞳が狂気じみた色に染まるのが怖かったからだ。

 けれど同時にこのままでいいのかと考えていた。このままなにもせずに、散歩中の犬のように歩かされ、連れて行かれてもいいのかと。


「……っ」


 連れて行かれるのは闇オークションだろうか。また誉は商品になるのだろうか。粗悪なブリーダーの元にいる犬猫のように檻の中に閉じ込められ、買い手がつくのを待つのだろうか。


(そんなの、昔と同じだ)


 それじゃあいやだと思ったから、頑張っているんじゃないのか。


 ――俺がついてる。


 杜和の言葉が蘇る。強くて、優しくて、いつだって誉を支えてくれる魔法の言葉。杜和にもらったものはたくさんある。穏やかで充実感のある生活、優しく頼りがいのある友人、そして誉の生きる意味――。

 抗うこともせずに唯々諾々と従うのは、それらすべてを手放すことじゃないのか。それでいいのかと自問する。杜和や喫茶店のみんなと過ごしたかけがえのない時間が、遠い過去の記憶となってしまってもいいのか。

 そんなの、考えるまでもなかった。


(いいわけない)


 誉は強く思って、みんなの顔を思い出しながら心を奮い立たせた。

 また杜和やみんなと、何気ない日常を過ごしたい。亀の歩みでも隣でゆっくりでいいんだと待ってくれるあの人達と、一歩一歩を歩んでいきたい。彼らのそばで未来を行きていきたい。

 そのためにはどうしたらいいのか。――答えはひとつだ。


(力を使うしかない)


 震える足腰に力を込めて、誉はその場に立ち尽くした。絶対に動かないという強固な心持ちで。恐怖心はもちろんある。けれど絶対に負けたくないし、負けられないと思った。

 足の裏が激しく痛むがそんなのはもう関係なかった。

 つ、と男に握られていないほうの手で口元に触れる。ちょうど男が襲ってきたときは家にいたためマスクはしていなかった。誉はごくりと喉を鳴らす。やる。やるぞ。絶対できる。だって杜和さんとあんなに訓練したんだから。

 誉は強い気持ちで息を吸った。そして、力を込めるようにして言葉を発する。


「――やめてください。俺は、行かない」

「はー? なに突然」


 男に変化は見られない。力が籠もらなかったのだ。あいかわらずの不発に心がぎしりと軋んだ音を立てる。


(なんで?)


 なんで、なんで、なんで。どうしてこんなときまで自分はだめなのだろう。追い詰められても、心に強く思っても、どうしても能力が使えない。どうして、どうして、どうして!

 ショックを受け顔をくしゃりと歪める誉に男が目をぱちくりと瞬かせた。


「あ、もしかして能力使った感じ? ぜんっぜん効いてる感じしねえんだけど。……おまえほんとにゼロイチなん? あいつ嘘教えたのかよ、サイアク」


 不躾にじろじろと眺めてくる男のセリフに「ゼロイチ、って……」と呆然としてしまう。男は小さく舌打ちをした。


「あの金髪くんが教えてくれたの。おまえがゼロイチだってさ。まあ、嘘だったみたいだけど。……あいつ許せねえ。もう買い手がついてるころだろーけど」


 いやな買い手だったらいいなとにやつく男に、誉はなにも言えなかった。


(本宮くん……)


 間違いなく金髪くんというのは流風のことだろう。この口ぶりからして男が彼を攫った誘拐犯のようだ。

 ゼロイチというのは、アンチ・ホルダーの中でも都市伝説のような存在だ。ただでさえ少ないアンチ・ホルダーのほんの上澄みのことで、0.1%にも満たないだろうということからゼロイチと呼ばれている。

 ゼロイチはその声だけでなく、視線、心臓の音、呼吸音、におい――存在そのものに力が宿っているのだという。

 もちろん誉がそんな存在であるわけがないし、なによりゼロイチなどじっさいには存在しない。そんなの流風だってよくわかっているはずだ。それなのにどうしてそんな嘘をついたのか。

 彼は邪魔だったのだ。見え透いた嘘で排除にかかるほど、誉のことを疎んだ。

 嫌われていることなど知っていた。あそこまで執拗に絡まれれば誰だって気づく。それでもあからさまな悪意を向けられて、ショックを受けないわけじゃない。誉はくっと唇を噛んだ。首を絞められたみたいに息が苦しい。


「もう悪あがきすんなよ、うぜーから。……あーあ、使えないなら意味ねえし捨てとくか? いやでも一応アンダーみたいだからなあ……ま、土産にはなるか」


 ぶつぶつとひとりごとを言い、なにかに納得すると男は誉の腕を力強く引っ張った。足裏の痛みと、なによりギフト・ホルダーの力に叶うはずもなく、いくら踏ん張ったところで意味をなさない。


「うぅ、う、ぐ、放し、て……っ」


 それでも諦めるわけにはいかなくて。なにより諦めたくなくて。誉は踵をつっかえるようにして、引かれる腕とは逆方向に体重を乗せた。ずり、ずり、ずり。アスファルトで踵が削られる。痛いがそれでも我慢した。

 痺れを切らしたのは男のほうだ。


「はー、抵抗すんなって言ってんだろ。もーうぜえなあ」


 ボキッ。まるで細い木の棒でも折るみたいに簡単に、誉の右腕が折られた。


「ああああぁぁっ……! ぐっ、ぁ、ぅっ」


 折れた腕を守るようにして地面にうずくまった。額に脂汗が浮く。痛みにアスファルトに頬をこすりつけていると、男がはあとため息をついた。


「いい加減にしろよな。次は足折るから……あ、そっち先に折っちまうほうが楽かも?」

「うぅ、ひ、っひ、っ」

「まあいいや。うるさいのはやだし」


 襟首を掴んだ男が引きずろうとする。目から涙がこぼれるばかりで、唇は震えるばかりで、痛みで意識は朦朧とするばかりで抵抗する意思すら湧かない。

 ずるずるずる。ズボンが汚れ擦り切れていく。そんな中、地獄の底のようなドスの効いた低音が、雪のちらつく静寂な夜を切り裂いた。


「てめえ、なにしてる」


 優しさのかけらもない、穏やかさを捨てたような、ひどく冷たい声だった。けれど誉にはそれが杜和の声だとわかって、気づいたときには鼻声でぽつりと「とわさん……」とつぶやいていた。


「その手を放せ」

「あ、おまえあんときのギフターじゃん」


 杜和に関心が移ったらしい男が襟首から手を放した。突然放り出され、誉は受け身を取る間もなく頬をアスファルトでしたたかに打つ。「うぅ」と呻くと杜和のほうからいっそう怒気が膨れ上がったような気がした。

 ざっと砂利を蹴るような音がする。同時に楽しげな男の声も。

 顔を上げることもままならず、うずくまったまま、誉は彼らの攻防を聞いていた。


(とわさん)


 そう心の中でつぶやいたとき、頭上から彼が「誉」と名を呼んだ。薄めを開けて見ると、眼前に杜和の広い背が広がっていた。ところどころ蹴りがかすめたかのような土汚れがついている。

 ちら、と杜和が誉を一瞥する。


「大丈夫だから、少し待ってろ」


 うしろ手に誉の頭を撫でると、彼は再び男のほうへ向かっていった。熱くなった目頭を押さえることもできずに、誉はその背を見送った。

 まただ。また杜和が助けてくれた。いつだって彼はこうして助けてくれる、誰よりもかっこいい誉のヒーローだ。

 誉は頑張って身を起こして、杜和の姿を視界に焼きつける。彼が自分のために動いてくれているのに、いつまでも寝転んではいられない。

 杜和と男は同格に見えた。どちらも最上級の強いギフト・ホルダーであることは間違いない。杜和が蹴りを入れると、相手の拳が入る。杜和が攻撃をよけると相手も身を伏せて躱した。

 戦況は拮抗していた。しかし徐々に杜和が押され始める。アンチ・ビーストの症状が出始めたのか、杜和がときおりふらつくのがわかった。頭痛もあるのか目を眇めるときもある。

 男は始終楽しそうだった。青の瞳は妙にぎらついていて、口元は狂気じみた笑みを浮かべている。楽しくて仕方がないと全身で語っていた。


「っ、ぐ、うっ!」

「杜和さん……っ!」


 男の蹴りが杜和の固い腹にまともに入った。背中からアスファルトに叩きつけられ、転がった杜和に男はなおも追撃しようとする。


(やだ)


 このままじゃ杜和がやられてしまう。もう傷ついてぼろぼろなのに。もしかしたら殺されてしまうかもしれない。そんなの、そんなの、そんなの――。


(いやだ)


 誉は強く思った。


(ぜったいに、いやだ……!)


 男が杜和を蹴ろうと足をうしろに引いた。くくっと笑う。杜和がぐっと奥歯に力を込めた。誉は真っ白になって、ただひとつの強い思い――杜和を守りたいという願いに引きずられるようにして絶叫した。


「やめてええええぇぇ……!」


 喉を限界まで酷使したような声だった。寒気を貫いた鋭い声は、そのまま男に突き刺さる。とたん、男は「は」と間の抜けた声を上げうしろにひっくり返った。尻もちをつき、呆然とした様子で自身の手のひらを見つめている。

 杜和も力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。誉は急いで杜和の元へと駆けつける。足も腕ももう痛くなかった。


「とわさん、とわさん、とわさん」


 杜和を抱えると引きずって男から距離を取る。自身よりずっと体格のいい杜和を引きずるのは、片腕だったこともあり大変だった。

 はあはあと忙しなく息をつきながら杜和の頭を抱え込む。ぎゅうぎゅうと片腕で抱きしめると、震える指が腕に触れた。「いてぇよ」と気の抜けた声がする。慌てて力を抜き涙声で謝ると、「んーん。とりあえず無事でよかった」と微笑まれた。


「はは、ははは、はは」


 突然響いた笑い声に、杜和は身を固くして誉のことを背にかばった。まだ身体にうまく力が入らないようで、ふらつく彼の背を支える。

 男は笑いながら、自身の手のひらを開閉を繰り返した。しばらくすると、ふとこちらを――誉のことを見やる。狂気の孕んだ薄青に捉えられ、誉は思わず身を怯ませる。

 男はにたにたと口裂け女の怪異のように口端を上げた。


「すっげええ、すげえ、すげえ! おまえまじですげえよ! やべえ、きもちいい……!」


 頬を紅潮させる彼の言っている意味がわからなかった。はは、はひ、と男はなおも恍惚そうに笑っている。ふらつきながらも男が立ち上がった。杜和がいっそう身を固くする。

 そのとき遠くから杜和と誉を呼ぶ声が聞こえた。


「あ……」

「涼二たちだな」


 三対一ではさすがに男に勝ち目はないだろう。男はピエロのような笑みを浮かべ、けれど落胆したように「あーあ」と言った。白い髪をがしゃがしゃと掻き回す。


「まだ遊びたかったけど、さすがに分が悪いから帰るわ」


 つと誉に視線を送ってくる。薄青の火で炙るような、熱い視線だった。


「俺は多々良優斗。覚えておいて。……おまえは絶対に俺のもんにするから」


 男もとい優斗がまるで獲物を狙う猛獣のような目つきで続ける。


「じゃあまたね、誉。……俺のアンダー」

「させるかよ」


 手を振って去っていく優斗に杜和が不機嫌そうにつぶやいた。それからすぐに涼二と季央が到着して、助かったのだと改めて思った誉は、安堵に息を溢すのと同時に寒さに身体を震わせたのだった。

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