とある異能力者の溺愛
花房いちろ
プロローグ
薄暗い部屋の中、左右の壁に沿うように大きな檻がいくつも並んでいた。その少年が入れられている檻は入口から一番近いもので、彼がここに連れてこられてからすでに三日が経っている。部屋に窓はなく、小さな明かりがひとつ天井からぶらさがっていた。
一日に一度だけ食事が与えられ、おそらく夜だろう時刻には頼りない明かりすら消されてしまう。数人の子どもが入れられているほかの檻とは違い、少年の檻には彼ひとり。真っ暗闇の中、鉄格子に身体を押しつけるようにして夜を過ごした。
少年がこの部屋に連れてこられたあとにも、数人の少年少女がやってきた。みんな不安そうな表情で、怯えている。中には絶望の表情を浮かべ泣き出してしまう子すらもいた。
部屋の入口には二人の男が並んで立っている。檻の中にいる子どもたちを監視する役目を持った彼らは、子どもが泣くたびに迷惑そうに唸り鉄格子をガンッと蹴り飛ばすため、憐れな商品たちは身を寄せ合って息をひそめるしかない。
そう、ここにいる子どもたちは少年を含めてみんな商品だった。監視が檻の前から離れたとたんに「かえりたい」「おかあさん」「こわいよ」とすすり泣く小さな声する。
少年はそんな声を聞きながら、立てた膝を抱きしめた。親を求める子どもたちから一番遠い側の鉄格子に背を押しつける。
少年には帰りたい場所も、帰るところもない。だって彼がここにいるのは両親に売られたからだ。
少年は両親にとっていらない子で、おまけに買い取った者たちにとっても落ちこぼれだった。だから商品としての価値は二束三文で、きっとこの場にいる誰よりも安い。ゴミ同然だ。
じっさい両親は引きずられていく息子だったものに対して、捨てたゴミに興味はないとばかりに視線をよこすことすらしなかった。
「かわいそうになあ。せめていい買い手がつくことを祈ってやるよ。ま、あの親のところにいるよりはずっとましだろうさ」
両親から少年を買い取った男の憐れむような声が、視線が、ひどく悲しくて惨めだった。
この部屋に押し込められた数日前のことを思い出し、きゅっと唇を噛んだときだ。
「――おら、おとなしくしてろ」
「っ、くそ」
「はは、ギフターも薬使われちゃあ形なしだな」
部屋に現れたのは少年をここに連れてきたのと同じ男だった。男は嘲笑を浮かべながら、ひとりの子どもを少年と同じ檻に放り込む。
少年よりいくらか下に見える男の子は身体に力が入らないらしく、頬を床にこすりながら芋虫のように転がっている。けれど負けん気が強いようで、そんな状態でも男を鋭く睨みつけていた。
バチバチと火花が散ったような瞳で睨めつけられた男ははっと愉快そうに鼻を鳴らす。
「威勢がいいこって。ま、その威勢がいつまで続くか見ものだなあ。せいぜいオークションまで壊れずに保ってくれよ? おまえみたいに活きがよくて力のあるギフターは高く売れるからな」
そう言って部屋をあとにした男にはわかっていたのだろう。男の子にすぐに限界がやってくることが。
放り込まれた初日はぴりついた空気を纏っていた彼は、しかし日を追うごとに憔悴していった。一睡もできていないのか目の下には濃い隈を飼い、かすかな衣擦れの音にすら過敏に反応している。日に一度の食事にも手をつけていないため、見るからにやつれ力をなくしていた。
似たような症状の子は隣の檻や向かいの檻にも見受けられるが、彼が一番ひどい状態だった。
「強いギフターってのも難儀だよなあ。つうか飯は食えよ、死んじまったら損しかねえだろうが」
「こいつオークションまで保つか? ビースト化したらどうすんだよ」
「保たせんだよ。最悪薬で眠らせちまえばいい。まああと二日だし、大丈夫だろ」
鉄格子のすぐ前でこちらを覗き込んでいた監視のひとりと目が合った。「おい」と呼ばれる。
「これ、そいつに食わせとけ」
小さなパンが鉄格子のあいだから差し込まれた。戸惑って動けずにいると苛立ったような声で急かされ、服で手のひらを軽く拭ったあと慌てて受け取った。
その様子を見ていたもうひとりの監視が不審そうに首をかしげる。
「あのガキ誰も近寄らせねえんだろ? 大丈夫かよ」
「まあな。こいつは今回唯一のアンダーだから」
「え、まじか。すげえじゃん」
「そうでもねえよ。たいした能力はねえらしいし、いわゆる落ちこぼれだってよ」
二人の監視の視線が少年の上から下へと値踏みする。居たたまれなくなって、少年はうつむいた。「そんなやつに任せてほんとに大丈夫なのかよ」と疑惑の声があがったが、「だめならそんときゃそんときだ」とひとりが檻の前から離れていくと、もうひとりもあとに続いた。ふたたび部屋の扉の前に陣取る。そしてポケットから取り出したタバコを二人して吸い出した。
その様子をぼんやりと眺めていた少年ははっとして、檻の奥で力なく鉄格子に身を預ける子どもを振り返った。彼の様子と自身が手に持つパンを見比べ、やがてすり寄るようにしてその小さな身体の横に膝をつく。
「!」
かすかな音に反応した子どもは、反射的に避けようとしたのだろう。しかし弱った身体が言うことを聞かず、その場に倒れ込んでしまった。
「だ、大丈夫?」
恐る恐る子どもにふれる。ゆっくりと上半身を起こし、ふたたび倒れてしまわないよう自身に寄りかからせた。ぐんにゃりと力の入っていない頭部が少年の細い肩口に乗せられる。小さくか細い息が頼りなく首筋に当たった。
「食べれる? 無理、かな」
「……」
子どもはなにも言わなかった。こちらを見てゆっくりと瞬きをすると、無言のまま目を閉じ、そのまま眠ってしまった。そんな子どもに少年は戸惑ったが、彼が目を覚ますまではそのままの体勢を貫き、静かな呼吸を心がけた。
それからどれほど経ったころだろうか。目を覚ました子どもの顔色は劇的によくなり、持ち前の負けん気が戻ってきたようだった。少年が渡したパンをはじめはいやそうにしていたが、よほど腹が減っていたのだろう、口いっぱいに詰め込みながら彼は興奮気味に言った。
「あんたといるとさ、すげえ調子がいい気がする。あんたがアンダーだからかな、やっぱ。俺アンダーってはじめて会ったんだけど、すげえんだな」
仄かな憧憬をにじませる彼は監視たちの会話を聞いていなかったらしい。それもそうか、あれだけ弱っていたのだし。
(きみの眼の前にいるのは、ただの落ちこぼれだよ)
温かくてどこかくすぐったいその視線が冷たく変わるさまを見たくない少年は口を閉ざし、ただ曖昧に微笑むしかできなかった。
それから二度の食事を経てしばらくしたころだ。オークションは予定通り開催され――なかった。
攫われた子どもたちを取り戻すための救出部隊が乗り込んできたのだ。
薄暗い部屋の外から響く怒号。なにかが破壊されるような音。二人の監視たちは慌てたように部屋を出ていった。耳のいいギフターたちはみんな耳を塞ぎ震えている。
同じ檻の子どもは部屋の入口をただじっと睨みつけていた。
やがてなんの物音もしなくなり、しばらくしてすぐそばから「誰か来る」と聞こえた。
監視が戻ってきたのだろうか。「時間だ」なんて言いながら、檻の中から引っ張り出されるのだろうか。ついに自分たちは売り払われるのだろうか。
怖くて、不安で、息が上がった。
そしてガチャッと激しくドアが開けられた。
「! いました! 子どもたち発見。奥の部屋ですっ」
「至急担架持ってきて! 動けない子いる!」
「みんなもう大丈夫だからな。助けに来たから一緒に帰ろう」
どこかほっとしたような、春の陽がさしたような暖かな空気を纏った数人の男女が雪崩込んできた。状況が理解できずぽかんとしてしまう。少年は思わず隣りにいる男の子と目を合わせた。彼も目を白黒させている。
入口に一番近かったからだろう、少年がいる檻が真っ先に開けられた。
「おいで、怖かったね」
「大丈夫。親御さんも待ってるよ」
檻の外に出た少年は、言葉をかけられたとたん顔を上げていられなくなった。自分のことを待っている人なんて誰もいないことに気がついたからだ。
一気にいっそうの不安が押し寄せてきて、少年の足元に重くのしかかり、足場を崩していく。世界でたったひとり取り残されたような気がして、自分が存在していないような心地で、少年はぼんやりと突っ立っていた。
その間にも状況は目まぐるしく変化していく。家に帰れることに喜ぶ子どもたちと、それを嬉しそうに眺める大人。少年だけがどこにも行けず、ここにも居場所はなくて、置き去りにされていた。
「どうかしたのか?」
ふと声をかけてくる者がいた。声のほうに虚ろな顔を向けるとまだ若そうな青年が、心配そうにこちらを見下ろしている。自分に心配してもらう価値なんてない。それがわかっている少年は「いえ、なんでもない、です」とよそよそしく微笑んだ。
そんな少年に「そうか」と納得しながらも、青年はその場から離れようとしない。
不思議に思って首をかしげたところで、青年がおもむろに手を伸ばしてきた。思わずびくっと肩を跳ねさせ目を閉じてしまう。殴られる、そう思ったのだ。けれどいつまで経っても衝撃はこなくて、少年は薄く目を空けて様子をうかがった。こちらに手を伸ばした状態で固まっていた青年は、目が合うなり一瞬だけ躊躇する様子を見せるも、おずおずとその節ぐれだった大きな手のひらをそうっと少年の頭に乗せた。ぽんぽんと優しく撫でられる。
「……、っ!」
なにをされているのか、はじめは理解できなかった。殴られるでもなく、髪を引っ張られるでもない優しい触れ合い。理解が及んだとたんの衝撃は凄まじかった。
え、なに、なんで。言葉にならずぽかんとして青年を見つめてしまう。だって、こんなにも優しく触れられたことなんて、記憶にある限りない。誰にも、親にも、それこそ兄にだってされたことなんてない。
それをまさか見知らぬ青年にされるなんて、思いもしなかった。
「よく頑張ったな。……無事でよかった」
「――っ!」
噛みしめるような声だった。少年の存在を彼は心底から喜んでくれているのだ。ここにいてよかったとそう伝えてくれている。家族にすら疎まれた、自分のことを。
「っ、ぅ……っ」
じわじわと温かな、けれどどこか切ない衝動が湧き上がってくる。心が震えて自然と涙が滲む。小さく嗚咽を上げはじめた少年に青年はひどく狼狽したようだった。
「ど、どうしたんだ!? どっか怪我でもしたのかっ?」
「なに泣かせてんだよ。いじめんなって」
救出部隊の男が青年をからかう。青年はぶんぶんと首を横に振って否定した。
「いじめてないですよ!」
「顔が怖かったんじゃね。おまえヤンキーみたいだし。大丈夫だからなー。このお兄さん大きいけど怖くないからなー」
慰められながらえぐえぐと泣き続けていると、その様子に気づいた同じ檻にいたあの子どもが駆け寄ってくる。
「大丈夫か!? こいつらにいやなことでもされたのか!」
子どもが困りきった表情の青年をきっと睨みつけた。「してないって……!」と青年は両手を顔の横に上げ降参する。
それでも少年を背にかばい睨みつける子どもと、たじたじの青年。その様子を笑いながら眺める男。硬直状態が続く中、少年は片手で涙を拭いながらもう片方の手で青年の服の裾を引っ張った。
「ぁ……」
「ん? なんだ?」
いまだ泣き続ける少年に青年はことさら優しく声をかけてくる。少年は鼻をすすりながら、彼の顔をしっかりと見上げた。
涙でぼやけた先にあったのは、まるで夜空に星がまたたいているかのような美しい瞳。
「っ、ぅ、ぁ」
「うん」
「ぁり、ありがとう、ござい、ます……っ」
きっと彼にそのつもりはないのだろうけれど、たったひとことで心が救われたのだ。ここにいていいんだよと言ってもらえた気がした。自身の存在を許された気がした。
きょとんとした青年が、やがて嬉しそうに破顔する。きらりとまたたく星の光。きっとその色を、この瞬間を、一生忘れることはない。
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