Lacrima EX MACHINA

プロローグ

 ――ここはいつ通っても美しい。


 等間隔に設置された、大きく透明な窓ガラスの向こう。風光明媚な景色に目を細めながらも、歩みを少しも緩めずにソレは考えた。

 窓から差し込む澄んだ陽の光が、大理石が敷き詰められた長い廊下を柔らかく照らしている。その中を、ヒールが床を叩く硬い音が、均一のリズムで響く。


 〈美しい〉で片付けてしまうには勿体無いほどの雄大な自然が、窓の外には広がっている。金色の瞳に映るここからの景色を、ソレは三百年余り眺め続けているが一向に飽きることはないし、きっとそんな瞬間は永遠に訪れることはないだろう。

 目的の部屋の前。ソレが立ち止まったことにより、辺りはシンとした静寂だけが漂っている。吸い込んだ空気がやけにひんやりとしていて、ソレは思わず身体を震わせた。震えに合わせて、黒の修道服に付けられたアクセサリーがチリチリと微かに音を立てた。

 扉をノックするも、返事はない。いつものことだ。


「失礼します」


 いつもと同じように、ソレは重い木の扉を開く。ギギッと木の軋む音が、よく冷えた、明るい室内に響いた。

 ソレが足を踏み入れた部屋はきっと、豪華絢爛と呼ぶのが相応しいのだろう。数々の歴史的価値のある各国の調度品。有名な画家に特別に描かせたという数枚の絵画。薄い紫色のベールの奥にある誰も座っていない黄金の玉座には、これでもかと宝石が散りばめられている。そして、視線を下げれば今し方命を終えたであろう人間が転がっており、それを中心にどす黒い血液が廊下と同じ大理石の床に広がっている。

 だと言うのに、相変わらず白く感じる部屋だ。表情ひとつ変えず、思う。


「――ドゥか」


 低く、荘厳ではあるけれども、春の雪解け水を思わせるような澄んだ声が、ドゥと呼ばれたソレの鼓膜を甘く揺らした。

 顔を上げるといつの間にか玉座に腰掛けている人物の影があった。ベールの奥にいるせいで表情を窺うことはできないけれど、その作り物のように整った口元には薄く笑みが浮かんでいるように見えた。


 彼女こそ、ドゥの全て。

 ただ一人の、女王陛下。


「はい」


 反射的に、けれど、一音一音確かめるようにハッキリとドゥは返事をする。聞きなれたはずの声ではあるけれども、それでもこの瞬間だけは、どうしても緊張で身体が強張ってしまう。


「構わん。楽にせよ」


 薄く笑いながら言われたその言葉に、ようやく緊張の糸を解く。どうやら今日は機嫌がいいらしい。


「遅くなりました」

「構わぬ」


 彼女はその陶器のように白い足を組み替えると、「ドゥ、近う寄れ」と退屈そうに続けた。

 足元に広がる血溜まりに、無遠慮に、踏みつけるように、足を下ろす。どろりと粘り気のある血が、ドゥの黒いヒールと黒い修道服の裾を汚した。しかし、そんなことお構いなしにドゥは歩みを進める。歩みを進める度、べちゃべちゃと耳障りな音が白い部屋に響いた。

 やがてドゥは玉座の少し前で歩みを止め、その場で膝を折る。その姿は、まるで本物の修道女が、神に祈る姿に似ていた。修道服の両膝が、得体の知れない人間の血で濡れるも、ドゥは嫌な顔ひとつしない。


「どうした。もっと妾の近くへ来い」

「いえ、これ以上は――」

「相変わらず、律儀な奴よのう」


 彼女は楽しげにククッと喉の奥で笑ったかと思うと、その細い指先を羽虫を払うようにさっと払ってみせた。

 ドゥは瞬く間に綺麗になった床を眺めながら、重いため息を吐き出す。


「陛下……私なんぞの服も綺麗にしていただいたことは感謝しております。しかしながら、もう何度も申し上げているはずです。このような瑣末事さまつごとで魔法を使うことはお控えください。陛下の魔法の、品位が下がります」

「言われんでも分かっておるわ。それに、ここには妾とドゥしかおらん。仮におったとしても先程のヤツ同様、命はないよ」

「だとしても、です」


 やれやれと呆れるドゥとは対照的に、彼女はどこか楽しげだ。


「で、今日は何かよい報告があるのであろう?」


 待ちきれないとでも言うように、彼女が訊ねる。既に知っているはずのことをこうして伝えるのは些か間抜けではないかとも思うけれど、それでも陛下が望むのであれば、望みを叶えるのが家臣というものであろう。

 見上げた顔には、薄らと笑みが浮かんでいる。その顔が堪らなく美しくて、そしてあどけなかったから、ドゥは堪らず見惚れてしまいそうであった。しかし、彼女はそんなことを望んでいないことは百も承知であったから、固い唾を飲み込んで、今し方聞き入れたばかりの報告を口にする。


「あの方が、見つかりました」

「誠か? 今回は虚偽の報告ではあるまいな?」


 身を乗り出しながら、そう問う姿に、先程までの威厳はない。その様子から、この情報をどれだけ彼女が待ち望んでいたのかが分かるようだ。


「もちろんでございます陛下。報告書を提出してきたのは役にも立たない信者共ではなく、陛下の側近の一人であるベルフェゴールからのものです。それに、私も報告書に目を通しましたが、陛下がおっしゃっていた特徴とも一致しておりました。それから、陛下の予想通り、例の魔女の残滓も確認できた、とのことです」

「やはり、あの半端者が関わっておったか……まあ、見つかったのだからよいわ。で、あの子は今どこにおる?」

「モルガナ国西部にあるエリックという田舎町に」

「エリック……また面白味もない町にいたものだ」

「えぇ。全くです」


 ドゥは肩をすくめると、流れるように自らの腰に手を伸ばす。しかし、それよりも早く彼女の指先が動いた。


「――あ、ぐっ」


 宙に浮いた一人の男が、溺れているように喘ぎながら部屋の中央にやってくる。いや、正確には連れて来られたと言った方が正しいか。男の手に持ったナイフが、カランと音を立てて床に落ちた。


「警備兵はどうしておる? 今日だけで二人目だぞ?」


 先程までの柔らかな雰囲気と一変した冷たい瞳が、ベール越しにドゥの体を撃ち抜く。上手く、息を吸うことができない。


「ただいま確認を――」

「よい。ドゥの手を煩わせる程のことでもあるまい」

「ですが……」

「ドゥ。妾がよいと、言うておる」


 有無を言わせぬ圧。ドゥはそれ以上何も返すことはなく、宙に浮かび先程から声にもならない何かで訴えている一人の男を見遣る。

 このまま何もせずとも、この男の命はやがて窒息といった結果をもって尽きるであろう。でも、きっと陛下はそのようなことをお許しにはならないはずだ。


「警備兵は全員始末しておけ。近しい人間も一人残らずな」


 こちらを見た男の目は助けを求める哀れな光を放っていた。しかし、そう感じたのは一瞬で、男は次の瞬間にはぐちゃりと粘り気のある音を立てたかと思うと、潰れたトマトのような有様に変わり果てていた。


「先程綺麗にしたばっかりだったのだがなぁ」


 ため息混じりに笑う彼女に、ドゥは冷めた目で「全くです」と答えた。


「ただ、今日の妾はすこぶる気分がよい。……すぐには会えなくとも、必ずあの子はここにやって来る。そういう運命なのだ。あぁ、愛しの我が子。あの子が来たら、どうやって持て成そうか。もう今からその日が楽しみで楽しみで……ふふふ、あはははははははははは!!」


 嬉しそうに笑う彼女の声は、どこか艶を帯びていながらも、まるで純真無垢な少女のようだと、ドゥは部屋を後にしながら考える。


 あぁ、これからきっと忙しくなる。

 窓の外には相変わらずの美しい自然が、陽の光を浴びて燦然さんぜんと輝いている。ドゥは確かめるように腰に備えていた拳銃のグリップを軽く握り、意味もなく、ため息なんぞを吐き出してみたりするのだった。

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