千佳の雛祭り

小鷹竹叢

千佳の雛祭り

 千佳は血の塊を吐くようになった。


 物心が付く前から毎年見ているというのに、雛人形がお内裏様とお雛様の男女のつがいだと気が付いたのは今年になってからだった。


 三人官女や五人囃子は彼ら二人を称えるための群衆に過ぎない。あくまでもこの人形群は主役どころの男女のものだ。


 それに気付いてからというもの彼女は雛人形を避けるようになった。飾られている居間にも出来るだけ近付かなくなった。


 なぜ自分がそうしているのか、はっきりとはしない嫌悪感を抱くようになったのかは、分からない。それでも彼女は何となく嫌だった。


 雛祭りに嫌な思い出があるのではない。それはない。幼い頃には両親や弟と一緒にお菓子を食べた。去年には学校の女友達と一緒に小さなパーティのようなものもした。楽しかった。


 しかし今年は憂鬱だった。そんなものはしたくなかった。


 何故ならば自分は、自分は、何だというのだろう。分からなかった。


 一年位前から身長がよく伸びるようになった。同級生の男子の殆どよりも大きくなった。恥ずかしかった。家族は喜んでいるが、当人としては困惑していた。単純に喜べるほど純粋ではなくなっていた。そうして心が素直でなくなっていることに、本人は当惑した。


 だが体が成長しているだけならまだ良かった。彼女はクラスの男子と接して、何となく心がざわつくようにもなっていた。


 去年までならば何も思わず楽しく遊んでいた幼馴染にも、その彼の腕を見て、脚を見て、肉体といううものに気色の悪さを感じるようになっていた。生々しく存在する指の、その爪が汚れている時などには、もう、耐えられそうもなかった。


 男子というものに、いや男性というものに嫌悪感を覚えるようになっていた。あれらは、あまりにも肉体的すぎる。穢かった。


 何となく一緒に遊ばなくなり、女友達だけと話すようになって行った。彼女らであればまだマシだ。それでも彼女らにも肉体の気持悪さを感じることも多々あった。女子であっても肉体は持っている。あくまでも男子よりはマシというだけだ。


 そして彼女は自分自身にも嫌悪感を抱いていた。自分が肉体を持っていることが気色悪かった。身体は肉で出来ており、血が流れている。肉感的な自分の体が気持が悪かった。


 日を経るごとに自分の身体がふくよかになっていくのが感じられた。鏡を見て、肉付きがよくなっているのが分かるたびに吐きそうになった。小枝のように、細い骨に皮を纏っていただけだった腕や脚に、筋肉が盛り上がって行くのが堪らなく嫌だった。ぶよぶよとした脂肪までもが膨らんで行った。


 これは私の身体ではない。


 同級生の身体も、よくよく注意して見れば、数ヶ月前と比べて変わっていた。身長も、肉付きも。どうして皆は平気なのだろう。それとも黙っているだけで私と同じように嫌悪感を覚えているのだろうか。


 クラスで一番成長のいちじるしい子などは既に中学生のようだった。顔付きは私達と同じなのに身体だけはそんな風で、不釣り合いで醜悪だった。


 私もあのようになってしまうのだろうか。育ちたくなどなかった。


 嫌で嫌で堪らない雛人形だが、その点に関してだけは羨ましかった。人形は変わらない。何年経とうと大きさも重さも変わらずに、同じ姿のままだった。彼女も変わりたくはなかった。いっそ人形になりたかった。しかし雛人形ではなく一体で完結しているものが良かった。


 雛人形は人形ではない。他者との関係性があるからだ。一つで完結していない。


 雛祭りの前日、千佳が友達と遊んでから帰って来ると、年の離れた従姉が家族と一緒に家に来ていた。両親との話が一段落付いてくつろいでいるところだった。


 従姉は千佳を見ると親し気に手を振った。千佳は彼女のことが好きだった。両親達のような大人の世界の住人ではなく、自分達の側にいた。それでも彼女は大人だった。お姉さん、というのか。


 夕食までの少しの間にトランプをして遊んでもらい、食事をし、別々に風呂にも入った。今夜は家に泊まることになっていた。彼女らは遠方に住んでいた。


 ついでだから明日は一緒に雛祭りをお祝いしようと従姉は言った。慕っている彼女の言葉であっても千佳は少し嫌な気分になった。それでも、彼女と一緒にいられるならば、と我慢をした。


 就寝時。千佳がベッドで横になっていると従姉が部屋に来、一緒に寝ようか、と布団に入って来た。布団の中は二人の体温で満たされた。心地良い暖かさに浸りつつ、千佳は従姉のいい匂いを嗅いでいた。ふいに彼女が口を開いた。


「千佳はクラスとかに好きな男子はいるの?」


 寝入ろうとしていた所を呼び戻されて、反射的に、吐き捨てるように答えた。


「いない。気持悪い」


 従姉は吹き出した。


「気持悪い、かあ」


「だって、気持悪いし、なんか汚い」


「そっか、そっか」


 一頻ひとしきり笑った後、彼女は静かに言った。


「私ね、結婚するんだ。相手は気持悪くない人だよ。いい人」


 それを聞いて千佳は自分の体温が下がっていくような気がした。自分達の側にいると思っていた彼女が向こうの世界へ行ってしまう。従姉が雛壇に祭られてしまう。知らない男とつがいになって、当の本人は幸せそうに笑っている。


「千佳もそういう人が見付かるといいね」


 頭を撫でて、暫くすると寝息を立て始めた。


 千佳は従姉の口臭が気になり始めた。布団の中に満ちている自分のものではない体温が、不快なものに感じられた。触れるともなく触れている従姉の身体が、柔らかく弾力のあるそれが触りたくないものに思えて来た。


 その日も友達と遊ぶ予定があったので、朝食の時間が従姉との雛祭りのお祝いに当てられた。朝ご飯だというのに凝ったものが出された。母と従姉が早起きして作ったらしい。


 従姉の作った料理は気持が悪かった。色合は鮮やかだというのにどこか落ち着いていた。こんな味の染みていそうなものなど作るべき人ではなかった。過去では。しかし今では。


 手早く済ませて、遊びに行くから、と逃げるようにして出て行った。


 友達の家まで行く途中、千佳は雑木林に入った。ここを通れば近道になるからだ。


 真ん中辺りまで進み、どこの通りからも見えにくくなる場所まで来ると、千佳はしゃがみ込んだ。


 昨夜連想した、雛壇に祭られた従姉の姿が再び脳裏に浮かび上がって来た。彼女は幸せそうに微笑んでいた。気色が悪かった。共にいる男は肉体を持っているというのに、従姉は分かっていないのだろうか。しかし従姉も肉体を持っていた。


 そして朝食を取った後の、内臓の動きを感じている千佳もまた肉体を持っていた。自分が肉体を持っているということが堪らなく気持悪かった。


 そしてあろうことか昨晩従姉は私にも男が出来るといいねなどと言い放った。


 堪らなく気持が悪かった。


 あんな風にはなりたくない。


 千佳は喉に指を突っ込んだ。腹の中にあるものを全て吐き出したかった。喉から、口から、肉体そのものを吐き捨てたかった。


 えずけども、えずけども、胃の中のものは吐き出せなかった。もしや、もう身体に吸収されてしまったのだろうか。苦しさに涙も滲んで来た。そんなことはあって欲しくなかった。


 爪で口腔を引っ掻いてしまっていたのか、千佳は血を吐いた。

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