歩くウイルス

リューク

増えるウイルス

 私は住み込みでこのアパートの管理をしてます。


 昨日の夜に買い物から帰ると、三人の住人から一斉に声を掛けられたんです。野良犬がうるさいから何とかしろ、って。野良犬なんてこの辺りはたくさんいますから、そんなの私にどうしろっていうんだって思ったんですが。でも確かに群れで鳴いてるように聞こえたんです。どこにいるのか探すと、うちのアパートの裏でした。清掃用具とかを収納した物置小屋があるんですが、その裏で……五匹くらいだったかな? 犬が吠えてました。あんなの初めてなんで、怖かったですよ。それで小屋の裏を覗いたんです。


 そしたら……、バラバラで血だらけの死体が山積みになってました。


 ……すぐに警察に連絡しました。はい、そうですね。もうすぐにでも忘れたいです。




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「はい、遺体を発見された方へのインタビューでした。マルテ地区では最近、何者かに襲われた形跡のある遺体が相次いで発見されています。どの遺体も、まるで歯で嚙みちぎられたような痕跡があり、地元の警察は何かしらのウイルスに感染した動物の仕業ではないかと見て、捜査を進めています」


「怖いですねぇ。感染が拡大したら大変な事態になると思いますが、政府は何か対策を検討してくれているんでしょうか?」


「現在は政府からの公表などはありません。また、地元の方々へのインタビューでは、政府は何もしてくれないだろう、という声が多く上がっています」


「そうですよねぇ。このモグロボ国が世界大戦に負けてから十五年が経ちますが、未だ貧困状態から抜け出せていなぃ……」




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 ミカイルは寝ぼけ眼を擦りながら、ベッドから手を伸ばしてラジオのボリュームを下げた。昨日の夜に暇つぶしにニュースを聞いていたが、つけっぱなしのまま眠ってしまったらしい。


 部屋はぼんやりと明るく、静かだった。地上三階、地下一階の古いアパートの地下室は、初夏でも空気がひんやり冷たい。建物の周りは歩けるように地面の土砂が掘り起こされているため、地下といっても密室ではない。


 体を起こして、あくびをしながらラジオを見る。窓のカーテンの隙間から差し込む朝日が、ラジオに反射する。ミカイルは目を細めながら、大切な人からもらった宝物であるラジオを撫でた。


 戦争に負けたこの国では、人々の生活用品は不足しがちだ。マルテ地区ではラジオは高級品として扱われている。人々の情報源は主に町の掲示板か、一部の人が有料で新聞を取っているくらいだった。北隣のラギーナ地区ではテレビなども徐々に普及し始めてきたそうだが、マルテではまだラジオを見かけるのも珍しい。放送されているのはほとんどがニュースで、勉強嫌いのミカイルにとっては退屈だった。それでも学校や仕事の他には特にすることもなく、家でラジオを付けっぱなしにしてダラダラと過ごす時間が多かった。




「ウイルス? またかよ」




 ミカイルはベッドから出て、そばの洗面所でガラスコップに水を注ぎながら独り言をつぶやいた。もし感染が広まったとしても、どうせ政府は何もしてくれない。海外からの援助を求めるのに必死な政府が、この国の中でも最南端で貧しいマルテの事件なんか気にかけるわけがない。




 十五年前の世界大戦で敗戦したこのモグロボ国は、大きな大陸の中で最南端の半島に位置している。隣国は北のノストワ国のみで、ここからしか食糧や物品等の供給を受けられない。だから地理的な問題もあって復興支援がなかなか進まず、敗戦後も人々は貧しい生活から抜け出せていなかった。




 ミカイルは普段着に着替えようと寝巻を脱ぎ、鏡に映った上半身裸の自分を見つめた。鏡に映る背後の壁の小さな染みは、いつまでたっても自分の頭頂部から忌々しく顔を覗かせている。数年前からほとんど背丈が伸びていない。もう十四歳になるのに、見た目がまるで小学生の自分自身を睨みつけた。


 首元の刻印がズキンと痛んだ。胸が苦しくなり、鏡に映った刻印から目を逸らす。それは父親が戦死し、母親がウイルス感染で死亡した五歳の時に暴力団に囚われ、人身売買の商品の証として刻まれた入れ墨だった。真ん中が折れ曲がった五本の矢印が、星型を描いている。それは繰り返し売買され、永遠に人から人へ売り渡され続ける運命を揶揄したデザインだった。事実、戦後の警察は機能せず暴力団はほとんど野放し状態で、ミカイルは約二年の間、文字通り売り物だった。か細い指で、その刻印をボリボリと搔きむしる。




「政府も警察も、暴力団もクソだ」




 六時五十分になった。食糧を入れるアルミ製の容器を二つ持って、地下の部屋から階段を上がって地上の道路に出る。外では似たような容器を持つ人たちが走っている。ミカイルはその流れに合流し、大通りに向かった。


 大通りには長い列ができていた。ここでは毎朝配給が行われている。六時から受付を始め、七時以降は列に並ぶことができなくなる。ミカイルは息を弾ませながら、配給係の人に許可証を見せて最後尾についた。


 前には五十人くらいが並び、皆が両手に容器を抱えていた。ほとんが大人の女だったが、中には男や、同じ中学の同級生の姿も見えた。




「なにさ、間に合ったじゃん!」


「駄目だ。悪いがもう今日は締め切りだ」




 後ろの方から揉める声が聞こえた。振り返ると、容器を振りながら列に並ぼうとする女と、それを止めようとする配給係の姿が見えた。どうやらちょうど七時を過ぎたらしい。


 ふと激しいエンジン音を鳴らしながら、一台の黒い車が列の横を走った。皆が珍しそうに車を見つめる。ラジオさえ高級品のこのマルテでは珍しい光景だった。


 後部座席には、グレーのスーツを着た政府の役人と、迷彩柄の服の軍人が座っていた。役人は腕を組み、口をポカンと開けて空を眺めていた。軍人は通信機のようなものを口元に当てて、何かしゃべっている。配給の様子や列に並ぶ人々には興味がないらしい。ミカイルは、まるで誰もいない荒野を走る車を見ているような気がした。




「あたしも欲しいなぁ、車」


「何言ってんの。あっても運転なんてできないじゃん」




 前に並ぶ女たちが、小さくなっていく車を見ながら話している。戦後貧しいこの国では、車は非常に高価なものだった。戦前にはあったらしいバスやタクシーといった交通手段も、他の地区では徐々に復活していると聞いたことがあるが、まだマルテでは車そのものが珍しかった。持っているのは大抵お金持ちか、仕事柄どうしても必要な人くらいだ。


 列に並び始めてから二十分ほど経ち、やっと食糧が置かれた台の所まで進んだ。食糧といっても、大きな寸胴鍋にミルクや雑穀が入っているだけだった。




「おはよう、ミカイル」と配給係のおばちゃんが挨拶した。


「ん」と曖昧な返事をしながら、容器を手渡す。




 おばちゃんは平日のほぼ毎日、配給係をやっていた。一人暮らしをしているミカイルが気になるのか、よく声を掛けてくる。


 お玉にすくわれたミルクが、びちゃびちゃと音を立てながら容器に注がれる。




「あれ、背伸びた?」


「うるせぇ、変わってねぇよ。ってか毎日見てんだろ」と言うと、おばちゃんはカラカラと笑った。


「じゃあたくさん食べなきゃねぇ。はいよ、今日の分」




 ぶっきらぼうに容器を受け取り、中を覗いた。ミルクと雑穀は、それぞれお玉の二配分ずつだった。朝食で平らげてしまうくらいの量しかない。


 昼や夜の食事は、自分で働いて買う必要がある。労働には年齢制限などはなく、小さな子供でも働いている家庭は多かった。土砂の運搬や農業の手伝いなど、比較的単純な肉体労働が子供に任せられる。ミカイルも今日の夕方には仕事があった。




「こぼさないようにね」


「ガキ扱いすんな!」




 そう吐き捨てながら、容器を両脇に抱えて走って家まで運んだ。






* * * * * * * * * * * *






 家で配給の朝食を済ませた後、学校に向かった。


 この国では小学六年間と中学三年間は義務教育で、無償で授業を受けられる。高校以上は授業料を支払うか、スポーツなどの推薦を受ける必要がある。


 本当は学校なんて行きたくなかった。授業の勉強が仕事の役に立たないことなど分かりきっている。しかし授業をさぼると担任がうるさいので、仕方なしに通っていた。


 学校は家から歩いて十五分くらいの場所にあった。戦後で学校設備や教員も不足しているため、一つの学校が幅広い地域に済む生徒を迎え入れていた。登校時間の学校の周りは、大勢の生徒で埋め尽くされる。




「あ、ごめん。すみません。や! おはよう、ミカイル」




 生徒の群れをかき分けながら、後ろからオレグが声を掛けてきた。中学二年から同じクラスになり、やたらつるもうとしてくる奴だった。それまでは誰もが首の印を気味悪がり、ミカイルと仲良くしようとする生徒などいなかった。しかし刻印の意味を知らないのかと疑うほど、オレグは気にせず話しかけてきた。




「あ~、だるぃ。もう帰りてぇ」とミカイルが独り言のように呟く。


「うん、僕も。まだ学校に着いてないけど」




 オレグはミカイルの横を歩きながら、返事をした。ミカイルはちらっとオレグの顔を見上げた。今日も相変わらず、熊の耳のように大きな茶色いヘッドホンをしている。




「毎朝毎朝、うるさい通学路……」とオレグは鞄から薬を取り出して飲み、ヘッドホンを両手で抑えた。




 オレグは小さい頃から鼓膜が敏感で、人よりも物音が大きく聞こえるらしい。ヘッドホンで音を塞いでも、ヒソヒソ話さえはっきりと聞こえてくる。それが耳周りの神経を刺激し、激しい痛みを招くようだった。医者に見せても原因は分からない。だから対症療法として、痛み止めの薬をしょっちゅう飲んでいた。




「てめぇ、俺の足踏んだだろ!」




 前の方から怒鳴り声が聞こえた。どうやら足を踏まれた不良が、そばの生徒に絡んでいるらしい。その不良はミカイルと同じクラスの生徒だった。席もミカイルやオレグの後ろで、何かにつけてはちょっかいを出し、よくケンカを売ってくる。




「ねぇ、なんであんなのと同じクラスなんだろ……」とオレグが震える手でヘッドホンを抑える。


「俺に聞くんじゃねぇよ」とミカイルはあくびをしながら答えた。






* * * * * * * * * * * *






 中学校の授業は午前に四時限、午後に二時限ある。今は四時限目で、国語の時間だ。




「おいオレグ。もう少し大きな声で読めないのか?」と先生の声が教室に響く。




 立って教科書を呼んでいたオレグが、顔を少し赤くして拗ねた表情を浮かべた。周りからクスクスと笑い声が聞こえる。




「そのでかいヘッドホン、意味なくね?」




 後ろの席の不良が声を上げると、教室がドッと笑いに包まれる。オレグはさらに顔を赤くして俯いた。


 オレグは授業中もヘッドホンをしていた。周りの生徒たちの声で、耳が痛くなるからだ。大きな声を出す時も、自身の声が鼓膜に響いて神経を刺激するらしい。


 不良が足を伸ばしてオレグの鞄を蹴り上げた。すると錠剤の入った箱がポンッと飛び出し、周りの席に散乱した。




「おい! やめろ!」




 先生が怒鳴り、生徒たちも笑うのをやめた。オレグが散らばった薬を拾う。ミカイルはちょうど足元に落ちた一つを拾い、オレグに渡した。




「ごめん、ありがと」とオレグが小さく礼を言った。




 その時、ミカイルは不良と目が合った。




「なんか文句あんの?」




 不良がにやけながら言った。よくミカイルに絡んでくる奴だ。生意気だの、背が小さいだのと、ただ退屈しのぎにおちょくってくる。しかも常に仲間とつるんでいないと行動できない、心底くだらないと思える集まりだった。


 ミカイルは一瞬何か言い返そうと思ったが、またいつも通りケンカを売られると思いやめた。そして黒板の方を向いてしばらくすると、「暴力団の売りもんが、怖くて何も言えねぇのかよ」と聞こえた。


 ミカイルは先生の目を盗み、そっと後ろを振り返った。オレグが今度は顔を青くして、怯えた表情を浮かべている。ミカイルは口をもごもごさせ、不良の席にペッと唾を吐いた。周りの不良たちが、一斉にミカイルを睨みつける。




「ガキ。昼休みに校舎裏な」




 そう言われると、ミカイルは再び前の方を見た。後ろからオレグが「ごめんね」とか細く囁いた。いちいち返事をするのも面倒なので、ミカイルは聞こえないふりをした。






* * * * * * * * * * * *






 午前の授業が終わり、昼休みになった。生徒たちがワイワイと学食に行ったり、仲の良い者同士で席をくっつけて弁当箱を開けたりしている。後ろの方を振り返ったが、不良たちの姿が見当たらない。もう先に校舎裏に向かったのだと思い、ミカイルは教室を出た。


 一階に降り、校舎とグラウンドの間の道を歩く。校舎の窓からは大きな学食の部屋が見え、大勢の生徒が昼ご飯を食べていた。グラウンドは野球やサッカーで賑わい、場所の取り合いをしている生徒たちもいた。


 校舎の周りを時計回りに進み、校舎裏に入る。小さな畑があり、幾つか野菜が実っている。あとは掃除用具やごみ箱しかない、殺風景な場所だった。


 不良たちはまだ現れない。ただ奥の方で、一人の女子が壁に向かってサッカーボールを蹴っている。しばらく待っている間、ボールがリズムを刻んで跳ねる音が校舎裏に響いていた。




「よお」




 やっと不良たちのお出ましだ。ニヤニヤしながら、輪になってミカイルを囲む。




「ビビッて来ないかと思った」


「後から来たくせに。束じゃないと勝てねぇから、どう集団攻撃するか話してたんだろ?」


「口が減らねぇチビが。マジで目障り」




 そう言った一人が急に近くのほうきを手に取り、ミカイルに向かって振り下ろした。素早くしゃがみながら避けると、ほうきが地面に叩きつけられパンッと乾いた音が響く。ミカイルが別の奴に向かって突進して仰向けに倒し、馬乗りになって殴りつけた。しかし背後から羽交い締めにされ、別の一人に腹を殴られる。




「ゴプゥッ」




 衝撃と痛みで口から涎が垂れる。さらに顔を殴られ、足も蹴られ続けた。


 ミカイルが片足を振り上げて、目の前の不良の顎を蹴る。そして勢いよく頭を後ろに振り、羽交い締めをしていた奴の顔面に後頭部を食らわせた。校舎の壁に背中を預けて両腕を上げて構えると、敵が弧になってミカイルを取り囲む。


 ミカイルは何かないかと、後ろの壁を手探った。すると壁の横にずっと伸びている数センチ程度の出っ張りがあった。そこに足を引っかけ、上から覆いかぶさろうと思い切りジャンプする。不良たちが驚いて上を見上げていると、標的にしていた一人の生徒が急に頭を抑えて倒れこんだ。行き先を失ったミカイルは、そのままズザァと地面に落ちる。




「あんたたち。小さい子を虐めんのはやめな!」




 奥でボールを蹴っていた女子が、いつの間にか近くに立っている。その短髪で中背の女子は、ポケットに両手を入れたまま鋭い目つきをしていた。不良の仲間かと勘違いしてしまうような雰囲気を醸し出しながら、足元に転がってきたボールを片足で止めた。




「何だてめぇっ!」




 さっき標的にしていた生徒が立ち上がって吠える。さっき急に倒れこんだのは、ボールを後頭部にぶつけられたからだったらしい。




「だから、やめなって言ってんの。それにサッカーの練習の邪魔」


「お前、誰?」


「ニーナ」


「……ミカイル。こいつお前の女?」


「はぁっ!?」




 ミカイルとニーナという女子の声が重なって響く。一人がニーナに近づいた。




「ニーナちゃん。しばかれたいの?」




 ニーナは口を真一文字にしてその不良を睨みつけた。片足がゆっくりとボールから離れ、次の一撃の準備をしている。




「おい女だぞ、やめとけよ」




 他の不良が止めようとする。ニーナが睨んでいる不良は、やがてだるそうな顔をして「……もういいわ、白けた。ミカイル、また後でな」と言った。そして不良たちは校舎裏から去ろうとする。




「おい! まだ終わってねぇぞ!」




 ミカイルが叫ぶが、不良たちは無反応のまま姿を消した。


 思い出したかのように、グラウンドから生徒たちの声が聞こえ始めた。急に風がなびいて、木から葉がハラハラと落ちる。


 取り残された二人は、ゆっくりと互いの顔を見合った。




「お前のせいで変な勘違いされたじゃねぇかよ!」とミカイルが声を荒げる。


「ちょっ……、それが助けてもらった人への態度!?」


「お前が邪魔しなけりゃ、俺があいつに飛び蹴りを食らわせてやったんだ!」


「強がんないでよ。ボロボロにやられてたくせに」


「やられてねぇ! しかもさっき『小さい子』って言ったのよな!?」


「あたしより小さいじゃん」


「あぁっん!?」




 ふとミカイルの目にニーナの両手が留まった。なにか違和感がある。よく見ると、右手は親指と中指と小指、左手は人差し指と中指が少し短くなっているようだった。先っぽの爪が無く、まるで切断されたのを手術した痕みたいになっている。




「見るなぁ!!」




 急にニーナが大声を上げた。ミカイルは思わず体をビクつかせる。


 ニーナは震えながら両手を急いでポケットにしまった。そして「助けるんじゃなかった」と言いながら、奥の方へ戻ってサッカーの練習を再開した。ボールが壁にぶつかる音が、再び校舎裏に響き始める。その間、指先の短い手はポケットに隠れ、ずっと姿を見せなかった。


 ミカイルは『事故か何かで指が切れたのか?』と思いながら体についた土埃を払い、さっさと教室に戻った。






* * * * * * * * * * * *






 今日の授業が終わり帰り道を歩いていると、後ろからオレグが追いかけてきた。




「ミカイル、先に行かないでよ」


「いつどこに行こうと俺の勝手。帰りのホームルームすっぽかして、いなかったのはオレグだろ」


「水飲み場で薬飲んでた。ねぇ、ケンカ大丈夫だった?」


「あぁ? 大丈夫に決まってんだろ」


「じゃあ勝ったんだ! すごいね」


「まぁ……そんなとこだ」とミカイルはニーナのことには触れずに答えた。


「この後は仕事?」


「まぁな」


「ねぇ、どこで働いてるか教えてくれたっていいだろ?」


「うるせぇなぁ。どこでもいいだろ」




 やがて帰り道が分かれ、一人で家に向かった。今日は夕方から働く予定だった。それまでの間どう時間を潰そうかと考えながら歩いていると、少し先の路地に昼間の不良グループが現れた。ミカイルを見てニヤニヤと不敵な笑みを浮かべている。どうやらニーナに邪魔されたのが気に入らないらしく、またケンカを売りに来たようだった。


 ミカイルは頭に血が上った。いちいち絡まれることもそうだが、ニーナがいなければ勝てたと思われているらしいのが癪に障った。


 一気に片を付けてしまおうと思い、不良たちの方へ走り出す。しかし急に背中を激痛が襲い、足を躓かせて倒れた。遠くから通りすがりの老人の悲鳴が聞こえる気がした。手足を掴まれてズリズリと引きずられる。抵抗しようすると、腹に蹴りを入れられた。全身から汗が吹き出し、やがて目の前が真っ暗になった。




「おらぁっ! さっさと起きろや!」




 全身が急にヒヤッと冷たくなり、ミカイルはハッと目覚めた。水を掛けられたのだと思ったが、体に付着した液体からは、鼻を突く変な臭いがする。起き上がろうとすると、背中に激痛が走った。首だけを起こして辺りを見回す。初め視界がぼやけていたが、だんだんはっきりと見えてきた。二十人くらいの知らない中学生が、輪になってミカイルを囲んでいる。


 奥には、地べたや椅子に座って、ガラス瓶をラッパ飲みしている学生たちもいた。その後ろには木の棚が並び、中にはこげ茶色や緑色をした瓶が入っている。ミカイルは何度か職場の飲食店の厨房に入ったことがあり、その正体を教えてもらったことがある。それは酒という飲み物で、戦前はよく飲まれていたが、戦後は高価でなかなか手に入らない代物になったらしい。先ほど全身に浴びせられたのも、水ではなく酒のようだ。ここは廃業した酒屋なのかもしれない。周囲はボロボロで錆びだらけのトタンに囲まれ、中は薄暗く不気味な空間になっている。




「小せぇなこいつ。ほんとに中学生かよ」


「でも度胸は人一倍あるらしいぜ。なぁ?」




 一人の学生が昼間の奴らに目をやった。すると媚びるようにペコペコとお辞儀をし始めた。不良の中でも上下関係があるらしい。




「度胸なんて関係ねぇよ」




 後ろからどすの利いた声がした。辺りが水を打ったように静まった。振り返ると、酒瓶を入れるケースが山積みになり、そのてっぺんに背が高く太った大柄な学生が座っていた。片手には古そうな空き瓶を持っている。




「結局は、奴隷だろ?」




 大柄な学生はそう言いながら、パチンと自分の首元を叩いた。周囲から獣じみた歓声が上がる。学生がゆっくりと手を離すと、首元の印のようなものが見えた。


 それは暴力団員の刻印だった。ミカイルのように奴隷や商品であることを示す矢印の星型ではない。蛇が丸を描き、その中を剣が貫いている。紛れもない暴力団員の証だった。


 ミカイルは心臓が握りつぶされるような感じがした。鼓動が早くなり、胸が苦しくなる。辺りに立ち込める酒の臭いのせいか、吐き気もしてきた。




「親父が言ってたぜ。奴隷はこき使われる上に高値で取引されるって。それから、たまに掘られるらしいじゃん。気持ち良かった?」




 辺りが笑い声に包まれる。中にはふざけて喘ぎ声を出す者もいた。まるで自分と同じ中学生ではなく、得体の知れない野獣に囲まれているような感じがした。




「お前の親父……、暴力団なのか?」


「だったら何だよ?」




 震える額から、汗が酒と混じってポタポタと垂れ落ちる。熱いのか冷たいのか分からない。




「暴力団は……本当にクソだ。気分や欲に任せて、集団で弱い奴らを遊び道具にしてやがる。その暴力団のガキのお前も、クソなんだよ。デカい図体して手下連れて、偉そうに」




 再び周りが静かになった。そして暴力団の息子が瓶をミカイルに向けると、学生たちが一斉に襲ってきた。ミカイルは立ち上がり、必死に抵抗した。しかし敵が多すぎて、一人を攻撃している間に大勢から打ちのめされる。やがて意識が朦朧としてきて、うつ伏せで倒れこんだ。それでもなお、学生たちは蹴り続けて攻撃をやめない。


 息ができなくなるような重みを首元に感じた。見上げると、いつの間にか暴力団の息子が降りてきて、刻印を踵で踏みつけている。




「そのクソに踏まれてる気分は? 掘られた時みたいに良い感じか?」




 暴力団に囚われていた頃、アジトの清掃の出来が悪いと叱られ、刻印を踏みにじられたことを思い出した。


 ミカイルは息子のズボンの裾を掴み、刻印の上から足を引きずり降ろそうとした。しかし重すぎて、全く動かない。やがて振り下ろされた瓶で頭を殴られ、意識が暗闇の中へ溶けていった。






* * * * * * * * * * * *






 ふと目覚めると、周りには誰もいなかった。暴力団の息子や他の学生たちはどこかに行ってしまったらしい。どれくらい寝ていたのか分からない。ただあちこちに瓶のケースが散乱し、辺りを囲うトタンの隙間から外の光が弱々しく差し込んでいた。


 ミカイルは辺りに警戒しながら、ゆっくりと起き上がった。人の気配はなく、かすかに外から風のなびく音が聞こえる。体中が痛い。顔や腕、あちこちから血が出ている。


 ミカイルは病院に向かうことにした。今いる場所がどこなのか見当もつかなかったが、外に出てしばらく歩いていると、やがて見慣れた大通りが見えてきた。 


 足をふらつかせながら、やっと行きつけの病院に辿り着いた。白く大きな建物が日の光を照らして眩しい。建物の前の広場に、車いすで散歩している患者や付き添いの看護師の姿が見えた。手前の出入り口では、多くの人が行き交っている。


 ここはマルテで一番大きな病院で、内科や外科など様々な診療科があり、緊急搬送や手術にも対応している。建物も敷地も学校の二、三倍はある。ケンカで怪我をした時は、いつもここで診察を受けていた。


 建物に入ってすぐの所に受付がある。木製の椅子が並び、たくさんの患者が座りながら自分の番を待っていた。


 受付用紙に名前を書いていると、よく会う顔見知りの看護師に心配された。




「ちょっと、ミカイル! 大丈夫?」


「あぁ、どうってことねぇよ」とミカイルは痣のついた頬をさすりながら言った。




 看護師はあきれ顔を浮かべて何か言おうとしたが、そばの患者に話しかけられどこかに行ってしまった。


 椅子に座って順番を待つ。疲れでウトウトとしかけていたが、一時間程経ってようやく名前が呼ばれ目を開いた。時間が経過しても体の痛みは取れない。重い足取りで、最上階の四階まで階段を登る。


 長い廊下を進み、一番奥の部屋に着いた。他の部屋と外観は変わらない。ただ、曇りガラスの埋め込まれた白いドアの横の表札には「病院長 室」と書いてある。ノックをすると「はい」と明るい声が返ってきた。




「や、サンドラ先生」とドアを開けながら苦笑いで挨拶する。


「な! ったく……。今日はだいぶ派手にやられたのね」




 奥のデスクに座っているサンドラ先生は、腫れた顔や痣だらけの腕を見て驚いた。そしてすぐにあきれ顔に変わると、患者用の椅子に座るよう促した。




「やられたんじゃねぇよ。やり返そうとしたら、違うグループの奴らが邪魔してきたんだ。ったくあいつら、いつも大人数でつるみやがって」とミカイルは座りながら言った。


「どっちにしても危ないでしょ、そんなに怪我して。せっかくの命を落としたらどうするの」




 サンドラが奥からアイスパックを持ってきた。それをタオルで包み、青い痣ができている頬に当てる。そしてミカイルの手を取って患部に持っていき「しばらく自分でおさえてね。よく冷やさないとだめよ」と言った。




「いってぇ……。サンキュー、先生」


「お礼はいいけど、もうケンカはやめなさいね。診察費だってもったいないじゃない。せっかく自分で働いて稼いだお金なのよ?」


「やべ、覚えてた?」とミカイルはばつが悪そうに上目遣いになった。


「当たり前でしょ。いくらツケが溜まってるか、ちゃんと把握してますからね」




 ため息をつきながらうなだれると、サンドラは微かに笑った。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルが暴力団に捉われたのは五歳の時。父親と母親を亡くして露頭をさまよっていると、急に背後から襲ってきた男の手で口を塞がれ、近くの車に押し込まれ連れ去られていった。それから一年間、アジトの清掃や料理を作る係として小間使いにされた。そして六歳の時、今度は人身売買の対象として、首に刻印が彫られた。


 ミカイルとサンドラの出会いは七年前。ミカイルが七歳の頃だった。当時から暴力団の間で人身売買が盛んに行われ始めた。そこでこき使われ、少し成長して高値がついたらまた売られる。そんな日々の繰り返しだった。


 ある日、暴力団の幹部の一人が難病にかかった。ミカイルは指示されたとおりに幹部の看病をした。汗を拭き、氷水を用意して体を冷やした。おかゆのような消化の良いご飯も用意したが、症状は悪くなる一方だった。ある男は看病のやり方が悪いとミカイルを殴り、医者に診させるよう部下に指示した。


 そして連れてこられたのがサンドラだった。病院からの帰り道を襲われたらしい。サンドラは幹部が寝ている部屋に通された。タオルやお湯を取り変えていたミカイルも、ちょうどその場に居合わせた。


 暴力団以外の人がアジトに案内されるのは珍しい。ミカイルは手を止めてサンドラを見た。恐ろしい状況のはずなのに、サンドラは怯える様子もなく堂々としていた。視線に気がついたのか、サンドラはミカイルをチラッと見た。一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに目線を逸らした。




「連れてきました。こいつがこの辺りで一番の名医です。病院に一度戻って、できるだけ薬や医療器具を用意させました」




 サンドラを連れてきた男たちが、大きな鞄をドサッと床に置いた。




「おう。なぁ、先生。名前を教えてくれるか?」と別の幹部が、鋭い目つきをしながら問いかける。


「……サンドラよ」


「よし、サンドラ先生。俺たちの大切な仲間が病気みたいで苦しんでるんだ。何をやっても熱が下がらねぇ。必死に看病しても苦しんでて可愛そうなんだ。なぁ、助けてやってくれねぇか?」と幹部が指先でベッドを撫でた。


「必死に看病してたのは、そこの子供でしょう?」とサンドラが皮肉を言った。




 男たちがサンドラに詰め寄ろうとするのを、幹部が手を挙げて制する。




「もう一度だけ言うぜ、先生。こいつを助けてやってくれねぇか?」




 幹部は近寄ると、サンドラの顎に手を当てて少し上げた。サンドラは表情を変えずに幹部を見つめている。




「自分で言うのもなんだけど、私はそこそこの医者で政府とも繋がりがあるの。私が消えたらさすがに警察も動くわよ」


「知ってるさ、凄腕の医者なんだろ? だからこいつの治療さえしてくれたら、何もせず帰してやるさ」


「もう一つ、条件がある」




 すると部下の一人が「このアマ……図に乗んなよ、こらぁ!」と凄んだが、幹部が再び制した。




「……聞こうじゃねぇか」


「あの子は人身売買で手に入れた子よね?」とサンドラは横目でミカイルを見た。ミカイルはビクッと体を縮ませる。アジトで過ごすうち、体と心に蓄積された暴力と恐怖で、大人に目を向けられただけで震えてしまうようになっていた。か細い手で、首元の星型の刻印を隠す。




「だから何だよ」


「私にあの子を買わせて」




 幹部は目を丸くした。部下たちも動揺している。




「サンドラ先生。あんた、どんだけの金で子供が売り買いされてるか知ってんのか?」


「だいたいの相場なら耳にしてるわ」


「……払えんだろうな?」


「一人くらいならね」


「さすが、お医者様」


「とにかく、この男は治療してあげる。だけど代わりにあの子を買わせなさい。そっちに不利じゃない、むしろお金になる話でしょう? 約束は守るわ」




 幹部はしばらくサンドラを見つめた後、顎から手を離して部屋を出て行った。部下たちはひそひそ話をしている。待っている間、サンドラはずっとミカイルを横目で見つめていた。


 十分ほど経って、幹部が戻ってきた。




「交渉成立だ。まずこいつを診てもらう。後日、金とガキを同時交換だ。いいな?」


「それでいいわ」




 サンドラはそう言うと、鞄の中から聴診器等の医療器具を取り出し、診察を始めた。結果的には重度の感染症らしく、対症療法として数日分の薬を渡すことになった。診察が終わり、サンドラが患者の汗を拭くためにミカイルからタオルを受け取る時、小さくウインクをした。


 二日後の真夜中、ミカイルは人が寄りつかなそうな瓦礫ばかりの場所に連れ出された。百メートルほど先には、サンドラが鞄を持って立っている。団員の合図で、サンドラがこちらに近づいてきた。ミカイルも一人の男に促されて進む。そして鞄と交換されたミカイルは、サンドラに連れられて無事に暴力団から解放された。




 それからミカイルはサンドラの家で暮らし始めた。細かいところまで整理整頓され、日の光が温かく室内に差し込む木造二階建ての一軒家だった。


 そして普通の子供と同じような日常生活が送れるように、一般常識や普段の暮らし方を教わった。七歳になる頃には学校にも通い始めた。始めは授業についていくことも難しく、机に突っ伏したり勝手に教室から出ていき、先生に怒られてばかりだった。しかしサンドラの躾と猛特訓のおかげで、やがて落ち着いて席に座り、授業の内容も頭に入ってくるようになった。


 サンドラは病院でミカイルの刻印を手術して消そうとした。しかし星型の矢印は少し薄くなった程度で、完全に消すことはできなかった。




 五年経って中学生になった頃、ミカイルは家を借りてサンドラの元を離れた。一人で暮らす孤児には、政府から毎月一定の給付金が出る。朝には配給も出るし、働き口を探せばなんとか生計も立てられる。サンドラは無理はしなくていいと反対した。しかし学校で首の刻印や背丈の小ささを馬鹿にされるようになったミカイルは、できるだけ早く自立したかった。サンドラはミカイルの意志を尊重して、門出の祝いとしてラジオをプレゼントした。






* * * * * * * * * * * *






「ちゃんと自立するんでしょ? 借金があったら生計も何もないじゃない」


「分かってるって。たくさん稼いで飯いっぱい食うんだ。そしたら体も大きくなって、あいつらを負かせて治療もしなくて済むぜ」


「じゃなくて、そもそもケンカしないでって言ってんの」




 そう言いながらサンドラは椅子に座ったまま近づき、ミカイルをぎゅっと抱き寄せた。




「おい! なんだよ急に!」とミカイルが顔を赤らめる。


「あなたが心配なの! ……お願いだから、無茶だけはしないで」




 初め抵抗しようとしたが、懐かしい温もりと香りに包まれると、不思議と力が抜けていった。目の前には、サンドラが首に下げた写真入りのペンダントが光っている。ミカイルは、数年前にサンドラがペンダントにまつわる話をしてくれた時のことを思い出した。






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 戦争が始まる前、サンドラは病原微生物学の第一人者として、細菌やウイルスの研究を行う医師であった。しかし戦後の医師不足により、政府からの要請、というよりは半ば強制的に民間人の診察をする内科医として働くようになった。


 サンドラには夫と、ミカイルと同い年の一人息子がいた。ある日突然、二人はウイルスに感染した。高熱や吐き気を訴え、サンドラの勤める病院に搬送された。延命治療で命を繋ぎとめている間、サンドラは寝る間も惜しんで治療薬の研究に明け暮れた。しかし薬が開発できないまま一ヵ月が経ち、二人は亡くなった。


 サンドラは絶望した。内科医として働かずウイルス研究をもっと進めていれば、二人を救うことができたかもしれない。強制的に内科医として働かせた政府を恨み、『仕方がない』と屈してしまった自分を許せなかった。


 そして、ウイルスの治療薬の開発を胸に誓った。内科医として働きつつ、個人でウイルスの研究をするようになった。ミカイルに出会ったのは、その半年後のことだった。


 ペンダントにはその二人の写真が埋め込まれている。ミカイルは一度だけ、その中を見せてもらったことがあった。生前の息子の顔を見て、思わず息をのんだ。それは偶然にも、昔の自分にとてもよく似た男の子だった。






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 ミカイルをしばらく抱きしめた後、サンドラはデスクに戻り無言で書類に何かを記入し始めた。その間もペンダントが揺れている。ミカイルも黙ってその様子を見ていた。外からは看護師の話し声が聞こえてくる。




「これを薬局に出して薬をもらいなさい。痛み止めの内服薬と、傷の塗り薬」と処方箋を手渡した。


「サンキュー」


「あと、溜まってる診療代と治療費なんだけど……」




 ミカイルが肩をびくつかせる。ここ最近はしょっちゅうケンカをしていて、サンドラがたくさん肩代わりしていた。




「お使いに行ってくれたらツケを少し減らしてあげる」


「お使い!?」




 サンドラは悪戯そうに笑って頷いた。




「そう、薬を家や施設に届ける仕事よ。うちの病院が提携している隣の小さな薬局なんだけど、配達してる人が急病で休んだらしくて。それで人手を貸してくれないかって相談があったんだけど、こっちも誰も空いていなくて。だからミカイルにお願いしたいの」


「あぁ~、しょうがねぇな……。分かったよ」と渋々受け入れる素振りを見せたが、内心ホッとしていた。最近の仕事の稼ぎでは、ツケを返せないと思っていたからだ。そしてサンドラもそのことは察していた。


「ありがとう、じゃあ頼むわ。私から薬局に電話しておくからね」




 診療室を出て、隣の薬局に向かい仕事の説明を受けた。そして様々な形や色をした薬が入った鞄を背負い、メモ書きされた住所に向かった。


 仕事は難しいものではなかった。学校や会社などを訪ね、錠剤やカプセル、粉薬などを手渡していくだけで良かった。


 二時間ほどかけて十数件を回り、残すは一つの施設のみとなった。そこは孤児院で、ミカイルの家に比較的近い場所だった。


 孤児院に近づくと、まず黒い鉄格子の裏門と両側から建物を囲うように伸びる茶色いレンガの塀が目に入った。裏門の向こうには古びた車が一台駐車してある。十か二十ほど座席のある四角い箱型の大きな車で、この辺りで見るのは珍しい。


 塀に沿ってぐるりと回り歩き、施設の正面に着いた。正門は裏門と似たような作りの鉄格子だったが、より大きく頑丈そうに見えた。二階建ての建物は外壁がベージュ色で、屋根は赤茶色だった。だいぶ昔からある施設なのか、所々屋根はレンガが抜け、外壁のペンキも剝がれている。庭には小学生くらいの子供たちが、駆けまわって遊んでいる。


 ミカイルは塀に取り付けられたベルを鳴らした。すると「はーい」という女の子の声が聞こえた。孤児院の子供らしい。今までずっと大人に薬を渡していたせいか、どこか違和感がある。




「あ、えーと。薬を届けに来たんだけど。分かる人いる?」




 元気な「うん!」という返事と同時に、ガチャンと音がして通信が切れた。しばらくすると、建物から自分と同じ歳くらいの女子がこちらに向かってきた。顔がはっきりと分かるにつれ、ミカイルは目を丸くした。




「うっ」




 女子の口から驚きと気まずさの混じった声が漏れる。目の前に現れたのは、昼休みのケンカ中に不良を追っ払ったニーナだった。




「え……、お前……」と言いながら、ミカイルの肩から薬箱がずり落ちる。




 ここにいるということは、孤児院の子供ということか。自分も両親がいないため不思議ではないが、同じ境遇の同級生がいるとは知らなかった。




「……なに? 文句ある?」とニーナが睨みつける。


「別に。使いで薬届けに来た。ほら」とミカイルはムッとしながら、薬箱から袋詰めの薬を取り出してポイっとニーナに投げた。


「ちょっと、みんなが使う薬なんだから投げないで!」


「うるせぇな。飲んじまえば同じだろ!」


「最悪。だから不良たちにイジメられるんだ。ボコボコにされてたくせに」


「はぁ!? あれは俺が反撃するのをお前が邪魔したんだろ!」




 二人が言い合いを始めると、一人のおばあさんが奥の方から近寄ってきた。手にほうきと塵取りを持っている。




「どうしたの? 何かあったの?」


「あ、先生。ううんっ、別に大丈夫だよ!」とニーナの口調が柔らかくなった。


「あら、いつもの配達の方と違うわねぇ。あなたは、新人さん? うふふ、ずいぶん可愛い配達員さんね」とおばあさんが興味深そうに顔を覗き込んできた。


「可愛いってなんだ! 俺が小さいってバカにしてんのか?」


「ソーニャ先生にそんな口きかないで!」




 ニーナがミカイルの胸ぐらを掴んだ。ミカイルは苦しくて手を剝がそうとするが、力が足りずもがき続ける。




「こらニーナ! 配達員さんに何してるの、やめなさい!」


「違うよ先生。今日だけ代理で配達に来た同級生だよ。名前はバカイル」とニーナが手を離しながら、そっけなく紹介した。


「ミカイルだ!」


「あら、そうなの~。ミカイル、初めまして。ソーニャです。ここの院長よ。薬を届けてくれてありがとう」


「いや……別に」


「ちょっと、先生がお礼を言ってるでしょ! ちゃんと返事しなさい!」とニーナが母親じみた説教を始めた。庭で遊んでいた子供たちは自分が怒られたと思ったのか、一斉にこちらを向いた。


「さっきからうるせぇな! なんで、んなこと言われなきゃいけねんだよ!」


「まぁまぁ二人とも。そうだ! 良かったらうちに寄って行かない?」




 ソーニャが門を開けようとした。ニーナが「なんでそんなこと!」と止めようとするが、ソーニャは「どうして? いいじゃない」と楽しそうだった。




「いや俺、これから仕事行くから!」




 ミカイルはそう言いながら、ダッシュでその場を去った。実際、これから別の仕事の始まる時間だったが、ニーナのいる孤児院に寄るのが何より嫌だった。


 角を曲がる時、ちらっと孤児院の方を見る。ソーニャは残念そうな表情を浮かべ、ニーナはもう施設の中に戻ったようで姿は見えなかった。ミカイルは空になった配達用の箱を薬局に返し、いつもの職場に向かった。




 ミカイルはオレグの父親のゴランが営む弁当屋で働いていた。仕事内容は弁当の配達や定期購入の営業で、今日はひたすら後者をやる予定だ。


 弁当はこの国では贅沢なものとされていた。お金がない人は配給、少しお金がある人は食材を購入して自炊、お財布に余裕がある人は外食や弁当といった具合だ。だから営業先は大きな家を持つ家庭や、勤める人が多そうな会社に限られる。


 ミカイルは大きく立派な庭を持つ家を見つけ、ドアを叩いた。




「あのぉ。弁当の定期宅配、どうすか?」


「お弁当? うちは大丈夫!」とドアの向こうからおばさんの甲高い声が聞こえた。




 あっさり断られると、ビラをドアの前にぱらりと落として、次の営業先を探した。


 残念ながら、契約が取れることは滅多にない。そもそも戦後でお金に余裕がある世帯は数知れず、会社も小規模で不景気なところばかりだった。




「はいはい、今日も契約なしですか……」と呟きながら店に戻ろうとした時、後方のトラックがクラクションを鳴らした。


「よう、ミカイル。お疲れさん!」




 振り向くと、ゴランが運転席の窓から顔を覗かせていた。営業や仕入れで使うトラックはとても大きく、近くで見上げると威圧感がある。助手席のドアを開けてもらい、勢いをつけて「よっ」っと飛び乗る。




「今日はもう終わりにしよう。どうだった?」とゴランはアクセルを踏んで発車した。


「さっぱり。二十件くらい回ったけど、話も聞いてくんねぇ」


「俺もだ。マルテの西の端まで行ったんだがなぁ。……そこにも、うちの噂を知ってる奴がいた」




 ゴランは元々弁当屋ではなく、料理店を創業して料理長をやっていた。だが三年前に奥さん、つまりオレグの母親がウイルスに感染して高熱で急死した。その噂が広まり、客足がみるみる減っていった。店内を隅々まで消毒したり、衛生管理の徹底をアピールしたが、それでも得体の知れないウイルスの感染を恐れた客は、店に行こうとしなかった。間もなくして、お店は閉業に追い込まれた。


 そしてゴランは弁当屋を始めた。どこかの会社に勤める選択肢もあったが、料理の世界から離れる気はなかった。それは今も変わらないらしい。だがウイルスの噂は今でも絶えず、契約数や売上は伸び悩んでいるようだった。




「……まったく、詳しい事情も知らねぇで『感染が怖いから』とぬかしやがる。そんなの三年前の話だってんだ。それに俺が感染してるわけじゃねぇっつうの」




 ゴランは毛の生えた太い中指でハンドルをバチンとはじいた。ミカイルは運転席の方を見上げた。自分より七十センチ以上も背の高い巨漢の体は、天井に頭をぶつけないよう猫背になって運転席にギリギリ収まっている。ミカイルは『もしこれくらい大きかったら、不良を倒すのも余裕だな』と思った。




「デカい体でも、小さいこと気にすんだな」


「バカ、気にしてねぇよ。嫁はウイルスで死んだが、それは店とは関係ねぇ。あいつは料理を必死に手伝ってくれた。俺が教えたレシピも頭に叩きこんで、赤ん坊のオレグを世話しながら一緒に店を大きくしたんだ。俺が料理の仕事を辞めたら、嫁に申し訳が立たねぇ。だから周りに何と言われようと、弁当屋を続けるんだ。オレグにもそう言ってるんだがな……」




 オレグは学校でしょっちゅう『父さんに仕事を変えてほしい』と言っている。家でもきっと揉めているのだろう。




「オレグはまだ気がついてないんだよな?」とゴランが確認する。


「あぁ。もし気づいたら何か言ってくるだろ」




 ミカイルがゴランの店で働くようになったのは、およそ一年前だった。やたら話しかけてくるオレグの家が弁当屋だとどこかで耳にし、試しに働けないかとゴランに声を掛けた。ゴランはウイルスの件でなかなか働き手が見つからなかった。ミカイルは体の小ささや首の刻印を理由に、どこにも雇ってもらえず困っていた。条件が合った二人は、すぐに仕事仲間となった。


 だが、その関係はオレグには内緒だった。ミカイルはあまり気にしていないが、オレグにとっては唯一の話し相手らしい。もし仕事を手伝っているとばれたら、ミカイルとの仲が悪くなってしまうのではないか、とゴランは心配している。




「別に話しても大丈夫なんじゃね?」


「いやダメだ。ミカイルにはオレグの良い友達でいてほしいんだ。母ちゃんを失くしたあいつにとってお前は……。あ、そうか……。すまねぇ」とゴランはミカイルが物心着いた時から両親がいないことを思い出した。


「ん? なにが?」




 元々気にしていないミカイルは、謝られた理由が分からなかった。




「……まぁ、とにかくだ。やりづらいかもしれねぇけど、これからも内緒で頼むよ」




 ゴランはゆっくりと車を停めた。足取りのゆっくりとした野良犬が、トラックの前を横切っている。ミカイルは窓の外を見て、ニーナのいる孤児院の前に偶然停車していることに気がついた。




「そこの大きな孤児院にも前に営業したけどダメだった。人柄の良さそうな院長さんだったから、いけると思ったんだけどな。ウイルスに関する噂のある所とはどうしても契約できないんだと」とゴランが深いため息をつきながら、車を再び走らせた。




 ライトが暗い夜道の前方を照らしている。昼間の通りとは違い、ほとんど人は歩いていない。まるでどこか知らない森の中を彷徨っているような感じがした。




「もうマルテは終わりだ」とゴランが呟いた。


「ん? どういうこと?」


「マルテのほとんどの地域に営業をかけた。いま十数件の契約があるが、これ以上はもう増やせそうにない。北のラギーナで買い手を探す必要がある。それに今の食材の仕入れ先は高いんだ。もしラギーナで安い卸があれば、そこに切り替える」




 ミカイルは後半の内容が良く分からなかったが、とにかく色々と新しい取引先を見つける必要があることは何となく理解できた。




「ラギーナまで行くのか? 遠いって聞いたことあるぞ」


「行けない距離じゃねぇよ。だが車でも数日掛かる。悪いが留守にするから、しばらく仕事はなしだ。今のお客さんにも一時休業の連絡はしてある」


「あぁ、了解」




 ミカイルは何となしに答えたが、その間どうやって稼ごうかと内心困っていた。






* * * * * * * * * * * *






「この辺でいいのか?」




 ゴランはトラックを家の近くの大通りに停めてくれた。フロントライトが通りの奥を不気味に照らしている。




「サンキュー。また来週な」




 ミカイルはドアを開け、ぴょんと飛び降りた。そしてドアを閉めて手を振ると、ゴランはトラックを走らせて暗闇の中に消えていった。




 ミカイルは近くの商業ビルの裏路地を進んだ。とても細い道で普通は誰も通らず、野良猫やネズミたちのたまり場だった。しかし家と大通りを結ぶ便利な近道だったため、しょちゅう使っていた。


 肩を擦らないように、蟹歩きで進み始める。月明りが僅かに差し込むくらいで、裏路地はとても暗かった。目を凝らさないと、何があるかよく見えない。途中で顔にザワッと触るものを感じた。蜘蛛の巣に顔から突っ込んでしまったらしい。首を振りながら、唾を吐いた。




 すると突然、目の前に黒い何かがドスンッと落ちてきた。驚いてビクッと体を震わせ、足を止めた。暗がりで良く見えない。ミカイルは目を細め、地面に落ちたそれをじっと見た。動物……? 猫や犬にしては大きすぎる。それに赤黒く光っており、なんか生臭い。


 やがてその正体に気がつくと、ミカイルの全身から汗が噴き出した。しかし声が出ない。蟹歩きのまま、ゆっくりと後ろへ下がる。心臓の音が脳内に響く。激しく呼吸をしているはずなのに、まるで首を絞められているかのように息苦しい。


 落ちてきたのは、人の脚だった。もも、すね、ふくらはぎ。あちこちの皮が破れ、中の肉がぐじゃぐじゃになっている。所々、白い骨が肉の壁から顔を覗かせている。


 ゆっくりと上を見上げた。建物の壁が空を切り取り、星空が縦に細長く伸びている。だが一ヶ所だけ、微かに動く影があった。それは人の形をしており、何か丸いものにしゃぶりついているように見えた。


 そして間もなく、その丸いものが大きくなったかと思うと、ドスンッと目の前に落ちてきた。また赤黒くて生臭い物体だ。恐る恐る目を凝らすと、それは人の頭だった。頭部全体と眼や鼻の辺りは血まみれながら原形を留めている。しかし頬の肉や唇はなくなっており、骨や歯が剝き出しになっていた。ポタポタと垂れ落ちる血が夜空の明りを反射しながら、地面を這って足元まで伸びてくる。まるで血液が意志を持って、ミカイルを捕まえようとしているようだ。


 再び空に目をやった。先ほどの影が消えている。




 気づかれた?




 ミカイルは急いでその場を離れようとした。肩や肘を壁で擦りむきながら、大通りから差し込む微かな光を求めて必死に足を伸ばす。


 やっと裏路地から飛び出て、大通りを駆けて家の方に向かった。途中で振り返っても、人の影らしいものはなかった。気づかれたのは勘違いかもしれない。


 それでも全速力で走り続けた。目の前には電柱や地面の石ころが見えるだけのはずなのに、先ほどのおぞましい顔が増殖して暗闇の中であちこちに浮かんでいる。さっきクモの巣が絡み付いた時よりも、激しく首を振った。


 夢なのか? いや違う。落ちてきた脚や顔、鼻を衝く血の匂い、全て本物だ。それに死体が誰なのか知っていたことが、悪夢のような出来事をより生々しく感じさせた。


 嫌でも忘れられない。あれは放課後に自分を袋叩きにした、暴力団の息子の顔だった。






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 翌朝、ミカイルはベッドの上でガバッと飛び起きた。すぐに全身をまさぐるように触り、自分の体が無事か確認する。いつもと変わらない短い脚。両手に収まる小さな顔。特に違和感はなく、普段通りだった。


 深呼吸をしながら、昨夜のことを思い出す。あれから影の姿は見えず、走ってそのまま家まで辿り着いた。しばらくベッドの上で鉄のフライパンを握りしめながら辺りを警戒していたが、いつの間にか眠ってしまったらしい。


 ミカイルはベッドから降り、洗面所に行ってコップ一杯の水を飲んだ。そして鏡に映る自分を見ながら、昨日の件をどうしたら良いか考えた。


 警察に届けるか。いや、それはしない。もしかしたら自分がやったと疑われるかもしれない。それに、警察も不良も大嫌いだ。暴力団に囚われていた時、警察は何もしてくれなかった。不良は体の小ささや首の印をからかい、いつも難癖を付けて暴力を振るってきた。警察や不良のために、何かしてやろうとは思わない。


 それにしても、あの影は何だったのだろうか。遠くからでも、それは何となく人に見えた。しかし頭にかぶりつく様子は、人ではなくむしろ獣だった。熊? いや、ここはたくさんの人が暮らす場所だ。熊が出るなんて聞いたこともないし、夜中の建物の屋上にいるわけがない。


 居間に戻ってラジオをつける。朝のニュースの時間だが、特に昨日の夜に関係していそうな事件は流れなかった。しかし、ウイルス感染者の増加のニュースを聞いてハッとした。




 もしかしたら、影の正体は感染者かもしれない。




 人によっては変な症状が出るらしい。『嗅覚が犬並みに発達する』『髪の毛がごっそり抜け落ちる』『睡眠欲がなくなり、ずっと起きていられる』というように、特殊な能力が身についたり、病的な症状を発症する場合もあるという。それなら、人を食べるような習性が身についた感染者の可能性もある。


 いずれにせよ、自分にはどうすることもできない。警察には届けないし、感染者だとしても治してやることなんてできない。第一、危険すぎて近づけない。できるのは、せいぜい自分の身を守ることくらいだ。


 ミカイルは感染者について気を付けながらも、特段何もせず普段通りにすることに決めた。




 いつもの様に決まった時間に家を出て、大通りの配給の列に並んだ。家からここに来るまで、辺りを警戒しながら歩いてきた。もしかしたら昨日の影が、ミカイルに気がついて襲ってくるかもしれない。しかし結局何事もなく、行きかう人も町の様子も普段と変わらなかった。


 最後尾に並んで間もなく、後ろから「おはよう」と声を掛けられた。振り返ると、右の目元を腫らしたオレグが無表情で立っている。昨夜の出来事のせいで、ミカイルはいつになく驚いた。




「顔、どうしたんだ!?」


「昨日の夜、父さんに殴られた」




 昨日聞いたとおり、ゴランは数日留守にすることをオレグに話したらしい。それがきっかけで再び仕事のことでケンカになり、殴られたそうだ。




「僕は何度も『もう料理の仕事はやめて』って頼んでるのに、父さんは意地になって聞かないんだ。いつまでも母さんのことを引きづってさ。そう言ったら『それで母さんが喜ぶのか』だって。父さんは馬鹿だよ。もう評判を取り戻すのは無理なんだから、さっさと別の仕事に就けばいいのに。それに、僕が殴られて母さんは嬉しいのかって話だよ。この前だって……」




 オレグは配給を受け取る場所に着くまで、ずっとゴランの愚痴を話していた。ミカイルは感染者の事件について何か知っているか聞きたかったが、珍しく感情的になっているオレグに対して口を挟めなかった。


 やっと寸胴鍋が並ぶテーブルまで辿り着いた時、見慣れないおじさんが立っていることに気がついた。




「いつものおばちゃんは?」とミカイルがそのおじさんに聞く。


「昨夜連絡があって、風邪をこじらせたんだと。今まで休んだことないから、珍しいなぁ」とおじさんは慣れていないせいか、不器用にスープを容器に注いだ。


「お前たちも気をつけろよ。あと、ウイルスもなんか流行ってるらしいからな」




 他の食糧も受け取り、ミカイルとオレグは配給所を離れた。




「何がウイルスだよ。よく知りもしないで」とオレグはおじさんに八つ当たりをした。


「なぁ、オレグはウイルスの事件ってどれくらい知ってる?」


「ミカイルまで、なに? ニュースのこと? うちの事件のこと?」


「なんだよ。いちいち絡むなよ」


「……ごめん」




 間もなく分かれ道に着いた。オレグは気まずそうに「今日は学校休むよ。こんな顔じゃ、またあいつらにちょっかい出されそうだから」と言い、重たそうに配給の容器を持って家の方へ帰っていった。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルは家に戻って朝食を済ませ、学校に登校した。いつもと変わらない賑やかな教室だったが、不良グループは一人の机を囲んでひそひそ話をしている。暴力団の息子と連絡が取れなくなって動揺しているのか、もしくは死んでいることを既に知っているのかもしれない。


 担任が教室に入り、立っている生徒たちが一斉に席に着いた。教壇に立ったまま黙っている。いつもと違う雰囲気を感じ取った生徒たちが、じっと担任を見つめる。担任は生徒たちを見回して、ゆっくりと口を開いた。




「みんな。今日は、とても悲しい残念なお知らせがある」




 担任は別クラスの一人の生徒が死んだことを告げた。生徒たちが一斉にどよめく。




「静かに。みんな、静かに聞いてくれ。動揺するのも当然だ。私も驚いて、正直混乱している。まだ詳しいことは分かっていないが、今朝見回りをしていた警察官が、道で遺体を発見したらしい」


「『道で』ってどういうことだよ!? 一人で倒れてたのか!?」と不良グループの一人が顔を真っ赤にして声をあげた。


「一人で倒れてた……。あぁ、そうだな。倒れていたらしい。まだ死因は分かっていないそうだ」




 担任の目が泳いでいる。ミカイルは担任が事実を知りながら、それを隠して言葉を選んでいるのだと分かった。生徒の恐怖や不安を煽らないように注意しているらしい。




「なんで分からないんだよ! 殺されたのか!?」と別の不良が立ち上がった。


「だから……。その可能性もある」




 担任は汗を額から垂らしながら呟いた。生徒たちは再びどよめく。


 担任や生徒は普段から不良の素行に迷惑していた。それなのに動揺して悲しい顔をしている。そして自分たちが最強と勘違いしている不良が、仲間が死んでうろたえている。ミカイルには彼らの言動が滑稽な演技の様に感じられ、早く卒業しておさらばしたいと思った。




「また詳しいことが分かり次第、私やみんなにも知らせが来ると思う。とにかくみんなの安全を第一に考えて、今日から当分は全クラス休校になった。授業の再開の目途が立ったら連絡する。この朝のホームルームが終わったら、真っ直ぐ下校するように。どこにも寄り道するなよ。……本当につらくて悲しいことだが、みんなで苦しみを乗り越えていこう」




 誰からも煙たがられていた問題児が死んだのだ。ミカイルは、奴の両親や不良グループを除いて、誰も悲しんでいないと思った。


 それでも『何者かに殺された』という可能性が、生徒たちを不安で包み込んだ。無差別に子供を狙う犯人であれば、次に自分が狙われることだってあり得る。




「それから、もし何か知っている人がいたら、先生に教えてくれ。言いづらいと思うから、こっそり職員室に来てもらっても大丈夫だ」




 ミカイルは担任や不良たちと目を合わせないように注意した。そして重く息苦しい空気が張り詰める中、ホームルームは静かに終わった。やがて全校放送で帰宅の指示が流れると、生徒たちはぞろぞろと教室を出て行く。すぐに校門は生徒で溢れた。出入り口の幅が狭いようで、なかなか前に進まない。


 ミカイルがさっさと学校を出たいと思い、別の出口がないかと辺りを見回していると、向こうの校長室に不良たちの姿が見えた。校長や教頭、担任の他に警察官もいる。不良たちは青ざめた顔でソファーに座り、警察官から質問されているようだった。もしかしたら何か知っているのではないかと、事情聴取を受けているのかもしれない。ミカイルは不良と警察があのまま校長室に閉じ込められたらいいのにと思った。


 やっと校門を抜けた。周りの生徒たちは事件の噂話をしている。不安の声で溢れる中、「犯人は今までイジメに遭った元生徒」だとか「不良の扱いに困っていた先生が暗殺した」と安直な推理や憶測を楽しむ生徒もいた。ただ、昨夜見た影に関する話は聞こえてこなかった。






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 ミカイルはサンドラの病院へ寄ることにした。もしかしたら影のことや感染者について知っているかもしれない。


 病院に着いてサンドラの診察室に入ると、ニーナが患者用の椅子に座っていた。振り返ってミカイルを見るや否や、顔を引きつらせる。




「こら! ノックをしなさいっていつも言ってるでしょ!」




 サンドラがニーナ越しに顔を覗かせた。




「今この子の診察中なんだから、ちょっと外で待ってなさい」


「いえ、もう大丈夫です。ありがとうございました」




 ニーナは荷物篭からバッグとボールを取り出し、ミカイルと目を合わせずそそくさと診察室を出て行った。まさかここでニーナに出くわすとは思わず、ミカイルはしばらく診察室の前で突っ立っていた。




「それで、今日はどうしたの? またケンカしたんじゃないでしょうね?」


「違うよ。ウイルスのことが聞きたいんだ」




 ミカイルは診察室に入り、患者用の椅子に座った。そして昨夜の出来事を話し始める。サンドラは始め軽い世間話かと思っていたが、次第に食い入るような表情で頷き始めた。




「……それで、今日は休校になった。先生は詳しいことは分からないって言ってる。でも俺が見たのは、もしかして感染者なのかもって」


「うーん」




 サンドラは何かを物色するように、天井を仰いだ。ミカイルも同じようにしてみたが、眩しい蛍光灯しか見えなかった。




「確信は持てないけど、その可能性はあるわね」


「ウイルスって、戦争の時にできたものなんだろ?」


「そう。戦争の終盤に、ノストワが劣勢のモグロボにとどめを刺すために開発した兵器よ。空襲の爆弾と同じように、空からばらまかれたんだって。すぐ終戦になってウイルスの開発や攻撃は終わったけど、数十人の人が被害に遭ったみたい。でも当時は戦後で政府も機能してなかったから、感染者に対して何もしてあげられなかったの。そのせいで、今でも感染で苦しんでいる人はいるわ。少数だから、最近まではあまり問題視されてなかったけどね」


「治す方法とかないのか?」




 サンドラは首を横に振った。




「毒物を開発する時はワクチンとか抗ウイルス薬も一緒に作ると思うんだけど、当時はノストワも手一杯で、できなかったみたい。本当はモグロボの政府が積極的に取り組むべきだけど、前の国王が戦犯として処刑されたから、新しい国王が就いてバタバタしてたんだって。しかも限られた予算で早く国を復興させないといけないから、少ない感染者の対策は完全に後回しになってるのよ」


「じゃあ、ウイルスって放置状態じゃん」


「しかも最近になって感染者の目撃情報とか、『ウイルスの症状かもしれない』って相談が増えてるの。風邪みたいな高熱や咳の症状が多いんだけど、稀に体の変化……、あとは妙な能力のようなものが現れることもあるみたい。私も視力が異常に発達した患者さんを診たことがあるわ。ここからミカイルの学校くらいまでの距離に立っている人の顔とかも分かるんだって」




 学校から病院まで歩いて二十分ほどかかる。そんな距離間では、普通なら人の表情どころか、何があるのかすら分からない。




「だから『ちゃんと調べて対処しないと大変だ』って散々政府に訴えてるんだけど、なかなか研究開発費を出さないの。国の復興とか言いつつ、まず自分たちの面子を保ちたいのよ。復興が遅れるだけ、外国からの目も厳しくなるからね。ほんと、民間人のことを考えて動かない役人にはもううんざり」




 サンドラはため息をつきながら、コンピューターを操作した。すると右肩上がりの折れ線グラフがモニターに映し出された。




「これはウイルスに関する診察や相談の件数。すごい増えてるでしょ?」


「なぁ、これって感染者の症状とかも見れんのか?」


「そうよ。ミカイルが見た影のデータがあるかもね」




 サンドラは操作をしながらモニターの向きを変え、ミカイルが見られないようにした。




「なんだよ、いいじゃん」


「だーめ。個人情報とかもあるんだから」




 しばらくして、サンドラは操作をやめて腕を組んだ。




「病院のネットワークから情報が見つからない。少なくとも、本人からの相談とか、被害者からの届出はないみたいね。まさか、誰かが意図的にデータを消すとは思えないけど……」




 ミカイルは不思議に思った。本当に人を食べる感染者がいるなら、何かしら大きな事件になるはずだ。記録は残り、噂になったりラジオでニュースになる。昨夜は人が食べているように見えたが、あれは見間違いだったのだろうか。




「そういえば、さっきの子も感染者について聞いてきたわね」


「ニーナが!?」


「え。知ってるの?」


「一応、同じ学校。いけすかねえ奴」


「あら、可愛い子じゃない? 実は好きだったりして」


「あ・り・え・ね・え!」




 サンドラは「はいはい」とおどけながら、どこかホッとしているようだった。




「で、なんでニーナが感染者のことを聞いてきたんだ?」


「理由は知らない。ただ今日は足の怪我で診察していたんだけど、急に『感染者の犯罪のことを教えてください』って頼まれたのよ。だいぶ昔に、この辺りの家族が感染者に殺された事件みたい。今みたいに調べたけど、医療関連のデータには記録がなかったの。その子だいぶガッカリしてた。ちょうどその時にあなたが入ってきたのよ」




 ミカイルは先ほどのニーナの表情を思い浮かべた。昨日会った時と同じようにつんけんしていたが、今日はどこか思い詰めている感じがした。




「ちなみにミカイル。昨夜のことはちゃんと先生か警察に話したんでしょうね?」


「……いんや」とミカイルは壁の方を向きながら、首を横に振る。


「えぇっ! 事件なのよ? ちゃんと届けなきゃダメじゃない! 今からでも……」


「ぜってーしねぇ! あの不良は俺をボコボコにしたんだぜ? それに……」


「……警察なんかに協力したくない?」




 ミカイルにはサンドラが自分の眼に問いかけるのではなく、首の印に聞いているように見えた。しばらくの間、カチコチと時計の音が室内に響く。ミカイルは、昔閉じ込められていた部屋の時計を思い出した。あの頃は、静かな密室で聞こえる秒針の音だけが、かろうじて生きていることと時間の流れを実感させた。




「先生、次の患者さんがお待ちです」




 部屋の外から聞こえた看護師の声が、ミカイルの意識を過去から現在へ引き戻した。




「……もう仕事に戻らないと。あなたも感染に気を付けて。あと、ちゃんと手洗いうがいをするのよ」とサンドラは首に飾ったペンダントを触りながら注意した。


「あぁ、分かってる」




 ミカイルは診察室を出た。すると入れ違いに、今朝休んでいた配給係のおばちゃんが入ってきた。風邪の具合が悪いようで、おでこに大量の汗が光っている。猫背で歩いており、ミカイルには気がついていない。声を掛けようとしたが、その時にはもう診察室のドアが閉められていた。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルは病院を後にして、これからどうしようかと考えながら道を歩いていた。今日は授業も仕事もない。サンドラは夜までずっと忙しい。


 思いつきで、仕事を紹介してくれる施設に行くことにした。もう来年には学校を卒業する。その後の勤め先を決めておかないと、生活に必要なお金が手に入らない。ゴランの弁当屋の景気が良ければそのままお手伝いを続ける選択肢もあるが、昨夜の話の様子だとそれは難しそうだった。


 施設は歩いている方向とは逆だった。行き先を変えようと振り返った瞬間、ミカイルの腹部にドスンと何かがぶつかった。驚いて見ると、小さな子供が慌てふためいて顔を上げ、「助けてぇ! こわいよ、助けてぇ!」と叫んでいる。




「な、なんだお前!?」




 すると前方から、腰を九十度に曲げた男の老人が走ってきた。頭は前の方が禿げ上がり、長く伸びたもみあげや襟足が風になびいている。千鳥足でも眼はギロッとこちらを捉え、口が不気味にアグアグと動いている。洋服はボロボロで、あちこちシミで汚れているようだった。だいぶ年寄りなはずなのに、異様に足が速い。




「早く逃げなきゃ! 追いかけてくるよぉ!」




 ミカイルは状況を飲み込めないまま、とにかく子供の手を引いて逃げることにした。元々人通りが少ない道だったせいか、周りには誰もいない。助けを求めることはできなそうだった。




「……はぁ、はぁ……。その子の……、欲しい。舐めさせてぇ……」




 後ろから一瞬だけはっきりと声が聞こえ、反射的に戦慄が走った。




 あのジジイ……この子の体を欲している?




 ミカイルは暴力団に囚われていた時のことを思い出した。普段は暴力団員の食事の準備やアジト内の掃除をやらされていたが、たまに体を弄ばれた。特殊な癖を持った男たちの悪戯のために、ミカイルはただ痛みと恐怖に耐えるしかなかった。




「おい! あのジジイ、急にお前を捕まえようとしたのか!?」


「うん、そうだよ!」




 ミカイルは子供の手をさらに強く握りしめた。そしてどこかに隠れる場所はないかとあちこちを見回した。


 そしていつの間にか、空き家や瓦礫ばかりの場所まで来てしまっていた。この辺りは元々民家の集まる地域だったが、戦後は人がいなくなりガラクタが廃棄された場所だった。そこらじゅうに解体された家の残骸や、誰かが不法投棄したようなゴミが散乱している。迷路のように道が入り組み、普段は警官や民間人も足を運ばない。いるとすれば、身寄りのないホームレスくらいだ。助けは期待せず、自力で老人をまくしかない。


 ミカイルたちはジグザグと道の角を曲がった。そして老人が見えなくなりかけた所で、「よし、こっちだ!」と細い路地に入った。道の両側はミカイルよりも背の高いレンガに囲まれ、隠れるにはもってこいの場所だった。




「ねぇ、こっちでいいの?」と子供が不安そうに聞いた。


「大丈夫だ! このままあちこち曲がれば……」




 ミカイルは言葉を詰まらせ足を止めた。子供が勢いのまま顔をミカイルのお尻にぶつける。




「いたっ……。どしたの? 走ろうよ!」


「やべぇ……行き止まりだ」




 二人の前にはレンガの壁が立ちはだかっていた。高さは三メートル程あり、その向こうにはツタが蔓延り廃墟と化した大きな集合住宅の建物が見えた。ミカイルは飛び上がって手を伸ばしたが、とても壁のてっぺんには届かない。




「うわああああ。お兄ちゃあぁぁん!」 




 子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。振り返ると、老人が「欲しい……、早くぅ」と呻きながらこちらに近づいてくる。


 ミカイルは子供の前に出て庇おうとした。老人は腰を折り曲げているせいか、遠目では小さく見えたが、実際にはミカイルよりも背が高く大柄だった。




「なぁ、お前何か武器になりそうなもの持ってねぇか?」


「ブキって何? アメしか持ってない」




 ミカイルは震える両手を膝に叩きつけた。首の刻印が気のせいか熱くなる。走っている時よりも、息が荒くなってきた。地域一帯に立ちこめる異臭が、なおさら呼吸を苦しくさせる。




「お兄ちゃん……、大丈夫?」


「あぁ。たぶんな」




 もう素手で何とかするしかない。大丈夫、でかくても相手は年寄りだ。大勢の同級生に囲まれるいつものケンカより勝機はある。ミカイルは意を決して殴りかかろうと足を踏み出した。


 すると老人が突然「ぐふぅっ!」と声を上げ、膝から崩れ落ちた。顔を地面に突っ伏したまま、手足を大の字に広げている。そのそばには、ポンッポンッと転がるサッカーボールが見えた。




「大丈夫!?」と聞いたことのある女子の声が通りに響いた。


「お姉ちゃん! ニーナお姉ちゃぁぁぁぁん!」




 老人の後ろには、ニーナが肩で息をしながら立っていた。子供が泣きながらニーナのもとへ駆け寄る。




「お前……、なんでここに? ってか、そいつ知ってんのか?」


「孤児院の子。庭で遊んでたのに、急にいなくなっちゃったの。それで探し回ってて、この空き家だらけの路地に入っていくのを見かけた」




 すると老人が「ううぅ、あああ」と低い声を漏らしながら、ゆっくりと膝を立てた。




「ミカイル、ボールお願い!」




 ニーナが叫んで子供の手を引き、来た道を戻り始めた。ミカイルは「指図すんな!」と言いながら転がっているボールを拾い、後に続く。しばらくして振り返ると、再び老人が走って追いかけてきていた。


 ミカイルはニーナに追いついてボールを渡す。その瞬間、子供が瓦礫に足を引っかけて転んだ。




「あっ!」




 ニーナが気がついて声を上げた時には、すぐそこに老人が迫っていた。もう数メートルで子供に手が届く。ニーナはボールを足元に落とし、老人の顔面に目掛けてシュートを放った。しかし当たる寸前で、老人は急に方向転換してボールをかわした。




「え!?」とニーナが老人とは思えない機敏な動きに驚いた。


「やべえ!」とミカイルがすぐ子供の方へ走り出す。




 しかしその時、老人は奇妙な行動に出た。急に方向転換をして、近くの空き家の塀に手を掛けよじ登り、庭から道路側に伸びている木の幹を舐め始めた。子供には眼もくれず、木の皮を削り取るような勢いで舌を上下に動かしている。よく見ると、舐めている箇所はテカテカと光っており、その周りには無数の虫が集まっている。どうやら木の蜜らしかった。瓦礫を処分するブルドーザーのように、舌が木の蜜を虫ごと老人の口へ運んでいる。おぞましい光景を目の前にして、三人はしばらく動けなかった。




「……お、おねえちゃ」


「しっ! 静かに」




 ニーナが人差し指を口元に立てながら、声を上げようとした子供を制した。さらにミカイルに合図をして、ボールを指差す。ミカイルは頷き、足音を立てないようにボールに近づいて拾った。ニーナも同じように、子供のそばに駆け寄って立ち上がらせた。そして三人は慎重な足取りで道の突き当りまで歩いた。振り返ると、まだ老人は夢中で木にしゃぶり付いている。




「もう、いいよね」とニーナが確認する。


「おう」




 ミカイルはボールを持ち、ニーナは子供を抱えたまま、猛スピードで走り始めた。十分ほどで人通りのある住宅街の道に出て、二人はヘタヘタと膝から崩れ落ちた。


 ミカイルが息を切らせながらボールをニーナに渡す。




「何やってんの!?」とニーナが叫んだ。




 ミカイルは自分が怒鳴られているのかと一瞬思ったが、子供を叱ったのだとすぐに分かった。子供は目に涙を浮かべながら、事情を話し始めた。




「あのね、孤児院の外で遊びたいと思ったの。それで外に出て歩いてたら、さっきのおじいちゃんに会ったの。道に座って苦しそうだった。それでね……」




 その子はポケットからアメを取り出した。白く半透明で、短い円柱の形をしている。最近目にするようになった砂糖菓子だが、戦争直後はなかなか手に入らない貴重品だった。




「これあげたの。そしたら急に元気になって、バリバリ噛んで食べちゃったの。『舐めるんだよ』って教えたらね、『もっと欲しい』って言われた。それで『残りは僕の』って言ったんだけど、『もっと欲しい』ってずっと言って、追いかけてきたの」


「そうなんだ……。でも、孤児院を勝手に出ちゃダメだっていつも言ってるよね? 先生に叱ってもらうよ」


「いやだぁ! 先生に言わないでぇ」


「……まぁ、いっか。苦しんでる人にアメをあげたのも偉かったしね」




 ニーナは子供の頭を撫でた。そしてポケットから花柄のハンカチを取り出し、転んだ時に擦りむいた傷に巻き付けた。子供は照れくさそうに苦笑いをしている。


 ミカイルは自分の勘違いに気がついた。あの老人から聞こえた『その子の……、欲しい』とは、アメのことだったらしい。




「はぁ~? 何だよそれ。俺てっきり……」


「てっきり、何?」とニーナが聞いた。


「……いや、別に。それより、あのジジイ頭おかしくなかったか?」




 貧しくてアメを欲しがるのは分かる。しかしあれだけ執拗に子供を追いかけるほどの、アメに対する執着心は度が過ぎている。しかも木の蜜を虫ごと舐めるなんて異常だ。


 ニーナは考えた後、ゆっくりと口を開いた。




「もしかしてさ。感染者かな」


「最近広がってるウイルスか?」


「うん。変な症状が出るって聞いてるし。人によっても違うらしいよ」




 砂糖を欲しがる症状なんてあるのだろうか。でも昨夜見た影は、明らかに人を食べていた。それも症状の一種だとしたら、甘いものを異常に好きになる感染者がいてもおかしくはない。




「よし。とりあえず孤児院に帰ろう。……ミカイル、ありがとう」


「な……、急に変なこと言うんじゃねぇ!」とミカイルが目線を逸らして立ち去ろうとした。


「やだ! お兄ちゃんも行くの!」と子供が叫ぶ。


「え? ミカイルは孤児院の子じゃないでしょ? 見た目はそうだけど」


「あぁっ!? ケンカ売ってんのかこらぁっ!」


「でも、一緒に行きたい! お兄ちゃんと行きたい!」




 子供はぐずりながら駄々をこね続けた。周りを歩いている人たちが、チラチラとこちらの様子を気にしている。




「帰る。孤児院行って何すんだよ」とミカイルが帰ろうとする。




 すると子供が「わあぁぁぁぁん」と泣き出した。ニーナが言うことを聞かせようとしても収まらない。近くを歩いていたおばさんたちが「どうしたの?」「大丈夫?」と集まってきた。




「しょうがない。ミカイル、ちょっと寄ってくれる?」


「なんでだよ!? もう帰らせ……」




 子供の泣き声がさらに大きくなる。まるでミカイルが泣かせているみたいだった。




「あぁー、もう決定! 一緒に来て!」




 ニーナはボールを宙に浮かせたかと思うと、急にリフティングをし始めた。そして右腕で子供を抱え、左腕をミカイルの首に回した。




「おい、やめろ! 俺は行かねぇって!」


「はいはい、どいてくださーい」




 ニーナは抵抗するミカイルの首をがっちりと固めたまま、野次馬を押しのけるようにリフティングを続けて歩き始めた。






* * * * * * * * * * * *






 子供はニーナが迎えに来てくれて安心したのか、ウトウトしながら唇から涎を垂らしていた。膝に巻かれたハンカチは、うっすらと血が滲んでいる。ニーナは子供を抱きかかえ、自分の赤ちゃんをあやすように、体を揺らしたり声を掛けていた。




「怖かったねぇ。でも、もう大丈夫だよ」




 ミカイルは今まで知らなかったニーナの一面に驚いた。愛想がなく、ぶっきらぼうで暴力的。そんな印象とは別人だった。


 十五分ほど歩いて孤児院に着いた。庭では子供たちが遊んでいる。




「あ、ニーナ姉ちゃんだ!」


「おかえりー」


「なんで抱っこしてるの?」




 皆がこちらに気がついて駆け寄ってきた。抱きかかえられていた子供は急に恥ずかしくなったのか、何事もなかったかのようにニーナの腕からヒョイと降りた。


 いつの間にか子供たちの輪に囲まれている。ミカイルがもう帰っても良さそうかと思った時、「あらあら、どこに行ってたの!?」と聞き覚えのある声がした。




「先生、ただいま」とニーナが言った。


「心配していたのよ、探しに行ったきりなかなか戻って来なかったから」


「感染者っぽいおじいさんに襲われてたの。危なかった。でもミカイルが匿ってくれたんだ」




 するとソーニャは顔を伸ばしてこちらを覗いてきた。




「あら、昨日の可愛い配達員さんじゃない!」とソーニャはやたら嬉しそうに甲高い声を上げた。


「お、俺もう帰らないと」




 ミカイルが立ち去ろうとすると、子供が「やだ! お兄ちゃんも一緒がいい!」と止めようとした。ソーニャがミカイルに近寄り、お辞儀をしながら手を握る。




「本当にありがとうございました。この子を助けてくれたのね? お礼をさせてほしいわ。ぜひうちに寄ってらっしゃいな」


「いや、別に大したことはしてな……」




 ミカイルが返事に困っていると、子供たちが周りにワイワイ集まってきた。




「お兄ちゃん、だれー?」


「お砂場で一緒に遊ぼうよ!」


「ニーナ姉ちゃんのお友達?」




 背丈の大きい不良に四方八方塞がれることは日常茶飯事だったが、自分より小さい子供に取り囲まれるのは初めてだった。




「ミカイル。子供たちが言うから、うちに寄ってって」とニーナが引導を渡してきた。




 皆が「やったー」とはしゃぐ輪の中で、ミカイルは「あ、あぁ」と苦笑いをした。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルは職員室らしき部屋に案内された。仕事用の机と椅子、そして客人用のソファーとローテーブルが置いてある。周りは棚に囲まれていた。 


 ニーナはその部屋で、子供の傷の手当てを始めた。巻いていたハンカチをほどくと、既に血は止まっているようだった。水道で汚れを洗い落とすと、棚から消毒液を取り出して、ガーゼに染み込ませて患部に当てた。薬が染みて痛いのを、子供は涙目で堪えている。




「よく我慢したね、偉いよ」




 ニーナは子供の頭を撫でる。ミカイルはその様子を見ながら、ふとサンドラのことを思い出した。




「慣れているでしょう。誰か怪我をした時は、ああやって全部面倒を見てくれるのよ」




 傷の手当てが終わると、ニーナたちは他の子供と庭で遊び始めた。庭は公園のような造りで、鉄棒や砂場、そして簡素なブランコが設置されている。




「お茶でいいかしら? あ、ちゃんと手洗いやうがいもしてね」




 ミカイルは『こっちもサンドラ先生みたいだな』と思いながら、言われるとおりにしてソファーに座った。綿製の硬いソファーには、あちこちに何かのシミが付いていた。


 ソーニャがお茶を淹れている間、ミカイルは窓ガラスから庭を眺めた。施設の大きさからは想像できないほど、多くの子供が遊んでいる。二十人、いや三十人くらいはいるみたいだ。これで全員ではないかもしれないが、少なくともこの中ではニーナが最年長のようだった。


 ニーナは慣れた感じでリフティングを始めた。他の子が隙をついてボールを奪おうとする遊びらしい。しかしニーナにとっては朝飯前のようで、子供たちの伸ばす手足を軽々とかわしてボールを蹴り続けている。




「よくやってる遊びなのよ。私には外で長い時間遊ぶ体力がないから、あの子がみんなと遊んでくれるのは本当にありがたいことだわ」




 ミカイルはソーニャが淹れてくれた薄い緑色のお茶を飲んだ。お茶なんて普段は飲まず、専ら水道水や井戸水ばかり口にしていた。小さい頃に、サンドラのお茶碗を横取りして飲んだ時は苦くて美味しくなかったが、今は不思議と美味しく感じる。




「これ、ホントにお茶か?」


「ふふふ、そうよ。あまり手に入らないから、私も普段は飲まないけど。大切な子供を守ってくれたお礼よ」とソーニャは水の入ったコップを口につけた。




 ミカイルはふぅふぅと息で冷まして飲みながら、「じゃあ、あいつらは飲まないのか?」と聞いた。




「そうねぇ、飲ませてあげたいけど……。普段はお水やお湯で我慢してもらってるわね。あまり贅沢はできないから。一応毎月、政府から助成金が出るの。でも、ほんのちょっとよ。役人なんて自分たちのことしか考えてないから、当てにならないわ。だから、ちょっとでも節約していかないと。いざとなったら車、裏庭にある送迎用のバスなんだけどね、それを売ろうかと思ってるの。唯一の親の形見だから、できればそうしたくないんだけど」




 ミカイルは外で遊ぶ子供たちを見た。暴力団に囚われていた自分の様に、みんな痩せこけている。ソーニャの言うとおり孤児院は貧しく、ご飯の量もきっと少ないのだと思った。


 ソーニャは孤児院について話し始めた。ソーニャは戦争の前から今まで、ずっとこの孤児院を運営している。養育費が賄えず育てられない家族の子供、徴兵制度により家を手放さざるを得なくなった家族の子供、さらにどこの誰が親か分からず露頭を彷徨っていた子供も引き取り、今は五十人くらいの孤児を預かっている。




「ここで育った子供は、大人になる前にここを出ないといけないのよ。基本的には十五歳まで。その歳なら、働いてお金を稼ぐ力もつくからね。まぁ正確には、助成金が少ないから預かるのは十四歳まで、って政府に釘を刺されてるだけなんだけど。お役人さんには、助成金を引き上げないと孤児を救いきれないと散々言ってるのに、全然聞く耳持たずなの」


「ニーナも来年孤児院を出るのか?」


「その予定よ。でもその話をすると『ずっと孤児院にいる!』って聞かないの。まぁ、物心つく前からここにいるから、出たくない気持ちは当然よね。私自身、ニーナがいてくれて本当に助かってるし。でも、あたしが色々と仕事をお願いしてしまってるせいで、あの子を孤児院に縛り付けてるような気がするの。この狭い場所に引き留めてしまっては、将来の可能性を縮めてしまう。だからせめて、来年になったら何かしら他の仕事に就いてもらいたいわね」




 無料で学校に通えるのは中学までだ。それ以上の進学は、何かしらの特待生や一部のお金持ちしか許されず、他の生徒のほとんどは卒業して仕事に就く。


 ミカイルは卒業後に仕事が見つかるか心配だった。今まで色々と応募したことがあったが、首の刻印や体が小さいことを理由に、ことごとく断られた。特に刻印は『暴力団に目を付けられるかもしれない』と、どの会社でも煙たがれられた。


 ゴランは自分が息子の同級生ということもあって仕事を与えてくれるが、ウイルスの噂のせいでこれ以上仕事をもらうことは望めなそうだった。サンドラの病院は働き手が足りているらしい。児童手当がもらえなくなる十五歳になるまでには、何とかして新しい仕事を探さなければならない。


 ソーニャは窓の向こうのニーナを見つめた。ミカイルは、時々サンドラが自分に向ける眼差しに似ていると思った。




「ニーナはなんでこの孤児院に来たんだ?」




 ソーニャはすぐに答えなかった。まるで一人で部屋にいるかのように、表情や姿勢を変えずにニーナを見つめていた。ミカイルは質問しておきながら大きなあくびをして、お茶碗を口に当てた。


 やがてソーニャが水を飲み干すと、おもむろに口を開いた。




「……ニーナがここに来たのは、ご家族がウイルス感染者に殺されたからよ」




 ミカイルは一瞬体を膠着させた後、ゆっくりとお茶碗をテーブルに置いた。




「ご両親とお兄さん。自宅で襲われたって警察から聞いたわ。それで役所と相談して、孤児になったニーナを私が引き取ったのよ」




 ミカイルは何も言葉に出さず、外のニーナに目をやった。そんな残酷な過去があるなんて想像もしなかった。人を馬鹿にしたような態度や、男っぽい言葉遣い。悩みや苦労とは縁がない奴だと勝手に思っていた。しかし家族を失った理由が戦争やウイルスであることは、自分と同じだと気がついた。




「かわいそうよね……。本当に、かわいそう。政府がウイルス感染の対策をちゃんとしてこなかったのが悪いのよ」


「さっき病院に行った時、ニーナが先生に感染者のことを聞いてたらしいぜ」




 ソーニャはピクッと体を震わせた。




「……そうなの? やっぱり家族を殺した感染者のことを調べてるのね」とソーニャは立ち上がり、空いたお茶碗とコップを部屋の隅のシンクへ運んだ。


「たまに私にも聞いてくるわ。『家族を殺した感染者のことを教えて』って。でも私が知っているのは、さっきあなたに話したことくらい。他には何も警察からは聞かなかった。だけどあの子は何度も聞いてくるの。ずっと何か引っかかっているみたいで……」




 ソーニャはミカイルの方を見ずに、話しながら食器を洗い始めた。ミカイルはその姿を見ながら、だいぶ猫背で小さく丸っこい背中だと思った。昨日出会った、凛とした孤児院長のそれではない。孫娘のことで悩んでいる、一人のおばあさんの背中に見えた。


 ふと、ゴランが弁当の宅配をソーニャに断られたことを思い出した。その理由もさっきの話で納得がいく。未だにゴランの店の噂は消えていない。もし弁当を注文すれば、ウイルスの話がニーナの耳に入るかもしれない。




「……ウイルスのことを忘れるために、サッカーやってんのかな」とミカイルがつぶやいた。


「それもあるかもしれないわね。でもあの子は『サッカーの世界大会で優勝して大金を稼いで、それで孤児院を立派にするんだ』って言ってるわ」


「世界大会!?」


「そうよ。敗戦国のモグロボの代表チームはしばらく参加できないらしいけど。でも数年後には出場権が復活するみたい。ニーナは将来そのチームに入って、活躍するんですって」




 ミカイルはラジオで聞いたスポーツ大会のことを思い出した。サッカーの他にも多くの種目があり、戦前から数年に一度開催されている大きな催し物だ。隣国のノストワをはじめ、その向こうに広がるたくさんの国が参加するらしい。




「そんなに金がもらえんのかぁ。たくさん飯食えそうだ」とミカイルはソファーにごろんと寝転んだ。


「ふふふ、そうね。食べきれないくらいのご飯や、美味しいお茶もいっぱい飲めるわね」とソーニャは嬉しそうに答えた。




 再び外に目をやると、さっきまでリフティングだったのが、壁に向かってロングシュートを打つ遊びに変わっていた。普通なら腕でバランスを取るはずだが、ニーナはポケットに手を入れたままボールを蹴っている。その向こうで、三人の男の子が固唾を飲んでゴールを守っていた。




「いつかひっくり返りそうだな」


「日常茶飯事よ。でも、腕をポケットから全然出そうとしないの。『脚が使えればボールは蹴れる』って強情張って」


「……指のこと、気にしてんのか?」


「知ってるのね? えぇ……そうなの。マルテの色んな病院を訪ねたんだけど、どのお医者さんも原因が分からないって。恐らく先天的な遺伝か、突然変異か何かだって言うのよ。本当に可愛そう。あの指のせいで、サッカー部の先輩と仲が悪くなったみたい。それで部活もやめちゃって、ずっと孤児院にいるもんだから、同じ年頃の友達もいなくて……」




 ミカイルはニーナが校舎裏で一人で練習をしていたのを思い出した。


 ニーナの放ったボールが男の子の間をすり抜け、鋭く壁にぶつかった。男の子は悔しがり、ニーナは無邪気に喜んでいる。




「そうだ!」とソーニャは何かを思いついたように言った。




 ミカイルは気にせず、「俺もう帰るわ」と言いながら帰り支度を始めた。日も落ちかけてきて、孤児院の中も徐々に暗くなってきた。子供たちがあちこちのスイッチを入れ、室内の明かりを灯し始める。


 外に出ると、ニーナがソーニャに文句を言っていた。




「なんであたしが送って行かなきゃいけないの!?」




 ミカイルもどうしてそんな話になっているのかと驚いた。どうやらソーニャの提案らしい。




「先生が車で送って行けばいいじゃん」


「私はこれから夕食の支度よ。小さな子供たちだけには任せられないわ」


「いらねぇよ、見送りなんて!」とミカイルが口を挟む。


「そうそう。見た目は幼くてもミカイルは中学生だよ」


「余計なこと言うんじゃねぇっ! そっちこそ見た目は女でも中身はおと……」




 ニーナがミカイルの顔面に目がけてシュートを放った。それが見事に命中し、ミカイルは大の字になって倒れた。




「こら! ミカイルは子供を感染者から守ってくれたのよ。ちゃんとお礼に、見送ってあげなさい。そうじゃなきゃ、今日の夕飯は抜きにしますよ」




 ニーナは渋々と門まで歩き、振り向いてミカイルに無言で合図した。




「まったく、素直じゃないんだから。まだまだ子供だけど、ミカイル、あの子と仲良くしてね」とソーニャはニーナの母親のように言った。


「できる気しねぇけど」とミカイルは小さく返事をして、門に向かって歩いた。






* * * * * * * * * * * *






 孤児院を出てからしばらくの間、ミカイルとニーナは他人であるかのような距離を取りながら、横並びで歩いていた。ソーニャが送るようニーナに伝えた場所までは、あと十分ほど掛かりそうだ。




「なぁ。ウイルスの感染者って知ってるか?」




 ニーナは聞こえているはずだったが、前を向いて黙ったままだった。




「おい、聞いてんのか?」


「……なんでそんなこと聞くの?」とニーナは目線だけミカイルの方に向けた。


「俺さ、昨日もウイルス感染者っぽい奴を見たんだ。さっきのジジイみたいなんじゃない。もっと……危険な感じだった」


「危険? さっきの人だって十分危険だよ。あの子のトラウマになるくらい」




 ニーナは興奮気味に言った。孤児院の子供が襲われたことを怒っているようだ。




「いや、誰かを追いかけるとかじゃない。人を殺して食っちまうような奴だ」


「ちょっと、それどういうこと!?」




 急にニーナがミカイルと距離を詰め、顔を近づけてきた。突然のことにミカイルも声が出なかった。すると道路を挟んで向こう側を歩くおじさんが、「ヒューイ」とからかうように口笛を鳴らした。ニーナはハッとして、再び距離を取って歩き始める。ミカイルも斜め後ろからついていく。




「なんだよ急に」


「……別に」とニーナが振り向かずにそっけなく返事をした。


「そういや、さっきサンドラ先生の所に行ってただろ? ニーナが感染者について調べてるみたいだったって聞いたぜ」


「ちょっ……。あの先生そんなこと言ったの? 案外、口軽いんだね」


「おい、先生を悪く言うな」


「だって事実じゃん」


「あの先生からも聞いたぞ。お前の昔のこと」


「やだ、もう! ソーニャ先生まで! なんで皆そんなにペラペラしゃべるの……」とニーナが肩を落とした。


「昔のことがあったから、感染……」


「やめて! ほんとにデリカシーないね! なんでそんな詮索すんの?」


「……洗濯?」


「バカ! せ・ん・さ・く! 探るように聞くこと!」


「あ、いや、知っるし。馬鹿にすんな! ただ、ウイルスについて知りたいだけだ」


「なんでミカイルも知りたいの?」




 『ミカイルも』と言ってしまったことにニーナはハッしたが、ミカイルは違和感に気づかなかった。




「俺が小さい時、母親がウイルス感染で死んだらしい。サンドラ先生が政府の記録を調べてくれて分かったんだ。母親の記憶がないから今まで気にもしなかった。でも、昨日も今日も感染者を見たから、何となくな」


「……そっか」




 ニーナは立ち止まり、そばの電柱に寄りかかった。




「先生から聞いただろうけど。あたしの両親とお兄ちゃん、感染者に殺されたんだ」




 ミカイルも立ち止まり、黙ったままポケットに手を入れた。




「あたしが物心つく前だったから、覚えてはないんだけどね。でも、悔しい。許せない。いくら感染してるからって、あたしの家族を殺すなんて。それで犯人のこと知りたくてソーニャ先生に聞くんだけど、あまり教えてくれないんだ。『警察から聞いただけだから、詳しいことは分からない』って。その事件について聞こうとすると、なんでか急に他人行儀になるんだよね」




 ニーナはサッカーボールを何となしに撫でた。ボールは夕焼けを反射し、鈍く橙色に染まっている。




「だから、お医者さんならウイルス感染のこと詳しいと思って、病院に行ったんだ。サッカーで怪我した足の診察のついでだけどね。でも、記録がないって言われた。『政府もいい加減だから、もしかしたら記録が間違って消されたのかも』だって。でもおかしいよ絶対。ソーニャ先生は『警察から聞いた』って言ってるんだよ。警察って、要は政府の人じゃん。それなのに政府の記録がないって変だよ」




 ミカイルはサンドラが『ウイルス感染者が絡んでいる事件は、重要情報として記録が残るはず』と言っていたのを思い出した。確かに事件、まして殺人ともなれば尚更だ。政府の記録はもちろん、当時の周囲の人々の記憶にも残るような大事件だったに違いない。




「もしかしたら、政府が勝手に記録を消したのかもしれないな。理由は分かんねぇけど」


「どうなんだろうね……。犯人を見つけられなかったから、警察の恥になるって理由で記録しないとか? でも、そんなの勝手すぎる」


「政府なんてどうせ勝手な奴らばっかだ。俺たちの生活なんて全然楽にならねぇし。『病院も国の援助が少ないから、患者を全員ちゃんと診られない』ってサンドラ先生がよく怒ってるな」


「それ、ソーニャ先生も言ってる。『助成金が増えれば、もっと多くの子供を引き取って、美味しいご飯も食べさせてあげられるのに』って。ふぅ……、もっとサッカー頑張らなきゃ」




 ニーナはそう言いながら、ボールに目を落とした。




「そういやさ、世界の大会で優勝したいんだろ? なんで一人で練習してんだ?」


「……別に、練習くらい一人でできるし」


「でもチームでやるスポーツだろ。パスとかやるじゃん」


「……先輩や顧問が大っ嫌い」


「ん?」


「だ、か、ら! サッカー部の奴らが嫌いだっての!」




 ニーナがボールを手でバチンと叩いた。ボールの中心を貫くような目力で睨みつけている。




「入部した時から、あたし結構上手くて注目されててさ。一年でスタメンだったんだよ。でもそれが気に入らなかったみたいで、三年のエースが指のことで突っかかってきたんだ。フリースローがなってないとか、なんで指がないのとか、他の先輩まで何やかんや言ってきた。しかも孤児院にいることも馬鹿にしてきた。あたしに他の居場所がないから、先生が都合よく私を手伝わせてるんだって。それであたしキレちゃって……、先輩を殴ったんだ。そしたら、他の先輩や顧問から寄ってたかって詰められた。手を出したのはあたしだけど、そもそもあっちが悪いのに。だから部活を辞めた。あんな奴らと練習なんて絶対無理! それに世界大会のメンバーになるには高校卒業してないといけないけど、どうせ高校のスポーツ推薦を受けるのに部活の在籍は条件じゃないし。以上! 文句ある?」




 ニーナは話している間、ボールから目線を離さなかった。まるでボールに向かって話しかけているように見えた。




「……いいんじゃね? 俺も群がってないと何もできない奴らは嫌いだ」とミカイルは空を仰いだ。




 ニーナはハッとした表情でミカイルを見た。共感されるのは意外だったらしい。




「……とにかく、あたしには大会で優勝してお金を稼いで、孤児院を助ける使命がある。家族を殺されて一人になったあたしを助けくれたソーニャ先生を、今度はあたしが助ける。それに血は繋がってないけど、大切な弟や妹もいる。あの子たちにも、いっぱいご飯を食べさせたい。だから、その辺のスポーツの試合じゃない、本気で勝たなきゃいけない戦いなの。遊び半分でやってるあいつらとは違う。だから一人でもやってやる」




 ミカイルはニーナの言葉の力強さに少し驚いた。そして、将来何がしたいかあまり考えてなかった自分に気がついた。


 すると急に、「おい! 道端でガヤガヤうるせぇぞ!」と遠くから怒鳴り声が聞こえた。


 二人は、向かいの通りの脇道に座っている、ホームレスらしき老人に気がついた。足元には空っぽの瓶や缶詰が置いてある。服があちこち破けていて、靴を履いていない。よく見ると、片足がなかった。


 老人はこちらを睨みつけ、「あんだぁ? 文句あんのかぁ!?」と叫んだ。近くを歩いていた人たちが、視線を合わせず憐れむような表情を浮かべる。




「もう、行くわ」とミカイルが言った。


「……うん」




 ニーナは両手をポケットに突っ込み、リフティングをしながら来た道を戻っていった。すれ違う人が物珍しそうな表情でニーナを見ていた。


 老人はまだ大声を上げている。




「おい、無視してんじゃねぇよ。ガキなんかに大人の、俺の苦労が分かるってのかぁ? あぁっ!? 俺は軍神と称えられた男なんだ。それを戦争が終わった途端に、政府の奴らは……」




 戦争でモグロボの軍人のほとんどは死んだが、一部の人は現在も生存しているらしい。また、ウイルスは戦争時に生み出されたものとサンドラ先生が言っていた。もし戦争がなければ、あの老人も怪我をせずに済んだし、感染者も生まれなかったはずだ。


 ふとミカイルの頭の中で、片足のない老人の体と、昨日目の前に落ちてきた片足が浮かんだ。その片足が老人にくっつき、アンバランスな五体満足になった。


 おぞましい想像をした自分が、急に気持ち悪くなる。早く家に帰ろうと、夕暮れに染まる道を駆けて行った。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルは翌朝、外から聞こえる騒がしい音で目が覚めた。いつも聞こえるようなおばちゃんたちのおしゃべりや、学生の笑い声とは違う。何か慌ただしく、殺気めいたものを感じた。


 ふと、目の前に落ちてきたあの不良の顔が目に浮かび、汗を噴き出しながらベッドからガバッと起き上がった。




 もしや、ビルの上に見えたあの影?




 ゆっくりと窓に目をやった。薄手のカーテンは日の光を通して、部屋をうっすら明るくしている。足音を立てないようにベッドから降りて、忍び足で窓に近づく。カーテンの端を少し除けて、ちらっと地上の方を覗いた。


 あの時の怪しい影は見当たらない。だが、大勢の人が四方八方に向かって走っているのが見えた。まるでノストワ国が攻めてきたか、隕石が落ちてきたかのような騒ぎだった。


 只事じゃない。急いで部屋を出て、階段で地上に上がった。普段の静かな通りとは一変して、町内の人たちが慌ててあちこち駆けまわっている。いや、四方八方ではなく、多くの人が大通りに向かって走っているみたいだ。




「なぁ、どうしたんだ!?」と大人の女性に声を掛ける。




 しかし雑踏のせいか女性は聞こえなかったようで、そのまま走り去ってしまった。今度は、少し年上らしい学生の腕を無理やり掴んだ。




「なぁ、なんでみんな走ってんだ?」


「離せ! 急いでんだ!」


「だから、なんでだよ!?」


「ったく、朝の政府の放送聞かなかったのか? 早くお前も身支度して、国境に向かえ!」




 学生はそういうと、ミカイルに掴まれていた腕を乱暴に引きはがし、大通りに向かって走っていった。




「……身支度して国境?」




 どうやら早朝に放送があったらしいが、熟睡していたせいで聞き逃したようだ。たまに政府の通達や町内の連絡が電柱の上のスピーカーから鳴り響くことがあるが、そういうのはたいてい昼頃だ。朝っぱらからうるさい放送をするなんて、普通なら考えにくい。


 部屋に戻ってラジオを付けた。電波が届きにくいのか、ガーガーと音がする。




「おい、頼むぜ!」




 アンテナをクルクル回すと、徐々に聞こえるようになってきた。




************************************************************




 ……ユレイラ地区の政府要塞門で、ウイルス感染の検査を受けられます。陰性なら国境を渡りノストワへ入国することができますが、陽性の場合は政府要塞門を通れません。なお、ウイルスがモグロボ国内に蔓延して、ノストワ国が危険と判断した場合、四十日後に爆弾を投下する可能性があります。モグロボ国全土を焼失させる大型の爆弾です。これは国王様、および政府の判断による決定事項です。国民の皆様は、急いで国境に向かってください。




************************************************************




 ウイルス? 爆弾?




 わけがわからない。ウイルスの検査って何のことだ。それに爆弾が落ちるって……。戦争はとっくの昔に終わっているはずだ。でも、本当にナントカ門という場所に向かわないといけないなら、さっきの学生の話も嘘ではなさそうだった。


 ラジオのツマミを回して音量を上げる。




************************************************************




 ……繰り返します。本日の朝六時に国王様から発表がありましたとおり、モグロボ国内においてウイルス感染の拡大が加速化しており、極めて危険な状態であることをお知らせいたします。ウイルスは過去の戦争時に開発されたもので、症状は多岐にわたります。ワクチンや治療薬はありません。感染リスクがありますので、感染者および原因不明の症状が見られる人には絶対に近づかないでください。また、政府は北の隣国であるノストワ国に要請し、ウイルスに感染していない国民の受け入れを求め、ノストワ国が応じることとなりました。国民の皆様は、早急にユレイラ地区の政府要塞門にお越しください。ユレイラ地区の政府要塞門でウイルス感染の検査を受けられ……。 




************************************************************




 ラジオを付けた時の文言に戻ったようだ。この後はずっと同じ内容の繰り返しだった。ユレイラ地区はたしか一番北にある地域で、ほぼ全域が政府の基地になっている。最南端のマルテからは、最も遠い場所だ。しかも、そのユレイラに辿り着けないと、四十日後にノストワの爆弾を落とされるかもしれない……。




 ミカイルは出かける身支度をして外に飛び出したが、通りを走る人を見てハッとした。たいていの人が大きなリュックやカバンを持っている。


 マルテからユレイラまで歩くとなると、ほとんどの人が今まで経験したことのないような長旅になる。食糧や着替えなど、必要なものを詰め込んでいるのだろう。


 すぐに部屋へ戻り、冷蔵庫に入っているありったけの食材をリュックに詰め込んだ。他に必要なものもありそうだったが、ラジオ以外に思い浮かばなかった。着替えも用意しようかと思ったが、自分はそんなに綺麗好きじゃない。別にずっと同じ服装でも大丈夫だ。でも、空腹には耐えられない。リュックはラジオの他、パンやソーセージ、非常用の缶詰などでいっぱいになり、いびつな形に膨らんだ。


 準備をし直して地上に出る。さっきと変わらず、みんな大通りに向かっているようだ。詳しい道順は知らなかったが、他の人についていけばユレイラに何とか辿り着ける気がした。




 人の流れに溶け込むように、ミカイルも駆けだした。誰もが重たそうな荷物を激しく揺らし、必死に走っている。一方で、年寄りや子供連れは道の端を歩いていた。そして多くの人が誰かと一緒に行動している。独り者もいるはずだったが、偶然なのか、ミカイルの周りにはいなかった。


 もうすぐ大通りに入るという所で、いつもの病院が見えた。そういえば、サンドラ先生はどうしただろうか。もう国境に向かっているかもしれないが、まだ病院にいたら一緒に行けるかもしれない。少し寄るだけなら、そんなに時間のロスにもならないはずだ。




 ミカイルは病院に入った。やはり、大騒ぎになっている。医者や看護師たちが走り回り、患者は松葉杖や車いすで必死に出口へ向かっていた。


 すると、近くのおじいさんがつまづいて倒れてしまった。




「おい、じいさん。大丈夫か?」とミカイルが駆け寄る。


「あぁ……すまんね、坊主。大丈夫じゃ、これしきでへこたれるわけにゃぁいかん。政府の要塞門とやらに、早う行かにゃぁならねぇ」




 おじいさんは手足をプルプル震わせながら立ち上がった。




「あのさ、サンドラ先生見なかった?」


「んあ? あぁ、あの美人院長か。そういや今日は見てねぇな」




 ミカイルは礼を言うと、サンドラの診察室に向かった。階段を登る途中、向かいから駆け足で降りてくる看護師に「こら、院内は走らないで!」と注意された。




「先生!」




 ミカイルはノックをせず、ドアをバンッと開けた。しかし誰もいない。サンドラの荷物や、所持品らしきものも見当たらなかった。デスクには書類が散乱しており、床にはペンやメモ書きが落ちていた。メモ書きを拾ったが、部屋番号と患者の名前らしいものが書かれているだけだった。




「ちょっとあなた、何してるの?」




 振り返ると、怪訝な表情を浮かべている看護師が廊下に立っていた。息を切らせながら、おでこから首筋まで汗を垂れ流している。




「サンドラ先生は!? どこにいるんだ?」


「院長先生なら……。昨日、確か国境の方へ向かったはずよ」


「なんで昨日なんだ? 放送があったのは今日だろ!」


「昨日の午後、急に政府の人が病院に来たのよ。それで院長室でずっと話してて……、しばらくしたら先生は無言で病院を出て行ったの。後で看護師長に聞いたら、ウイルス対策のために、政府の特別な機関に呼ばれたんだって」


「特別な機関? なんだそれ?」




 その看護師は廊下の向こうから呼ばれたようだった。




「もう行かなきゃ。あたしも知ってるのはそれくらいよ。あなたも早く逃げなさぃ……」と看護師は言い終わりかけで走り去っていった。




 サンドラはウイルスに関することで政府から呼ばれたようだ。きっと慌てて準備したから、こんなに部屋が散らかっているのだろう。


 ミカイルは誰にも見られていないことを確認しながら、ドアを閉めて鍵を掛けた。そしてサンドラの行き先の手掛かりになるものはないかと、室内を隅から隅まで探り始めた。しかし患者のカルテや医学の書籍ばかりで、政府に関係しそうなものは何も見つからなかった。


 諦めながらデスクの一番下の引き戸を開けた時、小さい頃に描いたサンドラの似顔絵を見つけた。鉛筆で描かれた顔は完全に別人で、誰が見ても噴き出してしまうような表情だった。ミカイルは唇を噛んだ。似顔絵を持っていこうかと一瞬悩んだが、そのまま置いておくことにした。


 部屋を出て階段を降り、出口に向かう。




「ちょっと君! どいたどいた!」




 中年男性の医師が慌てながら出入り口の扉を開ける。そして看護師たちが走ってきたかと思うと、寝たきりらしい患者がキャスター付きの担架で運ばれていった。




「ミカイル! 良かった、やっぱりここにいたんだね」




 出入り口の外から声がした。見ると、肩で息をしながら両手を膝に乗せたオレグの姿があった。背中には大きなリュックが揺れている。




「オレグ! なんでここにいるんだ?」


「はぁ、はぁ……。放送を聞いてさ、初めミカイルの家に行ったんだよ。でもさぁ、もぬけの殻。それでこの病院かもしれないって、ピンと来たんだ」




 ミカイルは自分がいつも病院にいると思われていることが、なぜか少し恥ずかしくなった。




「……でも、なんで俺を追ってきたんだ? ゴランのおっちゃんと国境に行かねぇのか?」




 オレグは下を向いた。荒い呼吸は徐々に収まってきたようだ。やがてゆっくりと顔を上げた。




「昨日言ったでしょ? ちょうど父さんは車で遠出してるんだ。たぶん、そのまま国境に向かったんじゃないかな」


「はぁ? さすがにオレグを残して行かねぇだろ。そうだ、オレグの家に戻ろうぜ! 親父さんの車に乗せてもらうんだ」


「いや、父さんはラギーナの奥の方に向かったはずなんだ。大勢の人がマルテからラギーナに向かってる。それに沿って走る車でも大渋滞だ。逆走して家まで戻るなんて無理だよ」


「つべこべ言わず……」


「とにかく、無理なんだ!」




 オレグが珍しく声を荒げた。しかしすぐに「いたたたたた……」と耳を抑えながらしゃがみ、背中のリュックから薬を取り出して飲んだ。自分が大声を出すと耳が痛くなるのも忘れるくらい、興奮していたようだ。先日ゴランに殴られたことを根に持って、頼るのを頑なに拒んでいるらしい。オレグは右手で耳の上のヘッドホンを抑えながら、左手は頬の痣を痛々しくなぞっていた。


 ミカイルは辺りを見回した。病院の出入り口からは、医師や看護師が患者を連れて出てきている。松葉杖で歩ける人もいるが、車いすや担架で運ばれている人も多い。足が不自由な患者は、優先的に車に乗せられているようだった。


 その様子を見てハッとする。




「おい、早く立て! 国境まで車で行けるかもしれない」




 ミカイルはオレグの腕を掴み、無理やり立たせて手を引いた。「どうしたの? まだ痛いんだ!」というオレグの悲鳴を無視して、すれ違う人の肩や腕がぶつかるのも気にせず走った。


 やがて、二人はニーナの孤児院に着いた。門は開きっぱなしで、人の気配がしない。小さな子供で騒がしい普段の孤児院とは違い、空気が冷たく寂しげな雰囲気がした。




「ニーナ! ソーニャ先生! いないのか!?」




 不安を振り払うかのように、ミカイルは大声を上げた。すると奥の建物のドアから人の姿が見えた。それはニーナだった。大きなリュックを重たそうに背負ったニーナは、こちらに気がつくと目を丸くした。そして重い足取りでミカイルたちのところに来た。相変わらず、ポケットに手を突っ込んでいる。




「放送聞いただろ? 早く国境に行かなきゃなんねぇ。だから、裏にある車に乗せてもらおうと思ったんだ」


「車、ないよ」とニーナは言いづらそうに呟いた。


「はぁ!? なんでだよ?」とミカイルが声を荒げる。


「ソーニャ先生と子供たちが車で向かったの。三十分くらい前に」


「ちょっと待ってくれたっていいじゃねぇかよ……。ニーナもなんで引き留めてくれないんだよ!? ってか、なんでお前だけ残ってんだ?」


「仕方ないじゃん!」




 ニーナが押し殺していた感情を爆発させた。目が少し赤くなっている。




「な、なんだよ……」とミカイルはたじろいだ。


「車が……、もうパンパンだったの。みんなをぎゅうぎゅうに押しこんで、子供の上に子供を無理やり乗せないと全員入らなかった。みんな『苦しい』『痛い』って泣いてた。それでもう、空いているのは運転席だけだった。運転できるのはソーニャ先生だけ。あたしは運転できないし、車にも乗れない。だから先生と相談して、あたしだけ歩いて行くことになったの」


「マジ……、かよ……」




 ミカイルは呆然としながら、振り返って来た道を眺めた。辺り一帯は空襲警報が鳴っているかのような混乱に陥っている。大人はあちこちでぶつかり合い、子供は訳も分からず親に手を引かれたり、親を探して泣きながら歩いている。


 ミカイルは不思議な感覚に包まれた。今まで体感したことのない騒ぎにも関わらず、聞こえる音がやけに小さく感じた。そこで初めて、頭が真っ白になりかけていることに気がついた。




「あぁ! クソッ!」




 自分に喝を入れるように叫ぶ。オレグは驚きながらも「……ちょっと、状況を整理しようよ」と言った。


 まず分かっているのは、モグロボの国民は北のノストワ国へ急いで避難しないといけないということ。その理由は、戦争時に開発されたウイルスにモグロボが侵され始めたからである。今のところ、感染者の数はそこまで多くはない。しかし、現在は薬が開発されておらず、感染がモグロボ全域に、ひいてはノストワまで広がる危険性がある。もし感染した場合、モグロボからノストワへの入国は一切認められなくなる。たとえ感染しなくても、被害の拡大を抑えるため、モグロボは取り残された人々と共に爆弾で跡形もなく消される。爆弾投下まで残された時間は、およそ四十日間。




「爆弾でみんなを消すって……。信じられない……」とオレグは半笑いで地面に尻もちをついた。


「ちょっと、座ってる場合じゃないでしょ! 早く国境に行かないと!」とニーナが急かす。


「もちろんそうだけどさ、現実的に四十日でユレイラなんて無理じゃないかな……。授業で聞いた時はここから二千キロ……」とオレグが呟いた。


「なにグダグタ言ってんだ! 行くしかねぇだろ、ここの車も行っちまったんだから!」とミカイルが叫ぶ。


「はあ!? あたしたちが悪いみたいに言わないで!」




 ミカイルとニーナは不安と恐怖を体内から絞り出さんばかりに、感情を露わに言い争い始めた。その罵りあう大声も、雑踏に呑み込まれてかき消される。




「後ろ!」とニーナが急に叫んだ。




 ミカイルが振り向くと、いつの間にか一人の中年の女が立っていた。それは風邪を引いて休んでいた、配給所のおばちゃんだった。鉄格子の門にかけていた手を離し、病弱な老人のような足取りで歩いてくる。どこかで足をくじいたのか、びっこを引いていた。




「助けて……。助けて……」




 誰に言うでもなく、呪文のように呟き続けている。




「うわあっ!」とオレグが唐突に叫んだ。




 ミカイルが注視すると、おばちゃんの目が無いように見えた。しかしそれは間違いで、眼球の白目の部分が濃い紫色に変わってそう見えるだけだった。そして暑い天気にも関わらず、雪山を彷徨っているかのように歯をガチガチと鳴らしている。


 三人は一斉に走って逃げだした。




「こっち!」




 ニーナが先導して、孤児院の裏門まで避難する。おばちゃんは動きが遅いらしく、追いついてくる気配はなかった。




「ねぇ、もしかしてあの人……」とオレグが震えながら言った。


「あぁ……。多分、感染してる」とミカイルが答える。サンドラ先生の言ったとおり、一部の感染者の体には異常な変化が発生するらしい。




 もうこの辺りも危ない。すぐに国境へ向かう必要がある。三人は忍び足で裏門から細い通りに出て、おばちゃんに会わないよう回り道をして大通りに向かった。


 異常な光景に、三人は立ちすくんだ。一刻も早くノストワへ逃れようとする人々が、道を隙間なく埋め尽くしている。少しでも止まろうものなら、すぐさま踏みつぶされる。




「……行くぜ!」




 ミカイルが合図をすると、三人は大きく息を吸って、荒れ狂う雑踏の波へ飛び出した。

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