第二話 朝議
波の音だ。
目を開いた時、少女は、浜辺に打ち上げられていた。
自分が生きているのか、死んでいるのかも分からず、眩い夜明けの空を見上げていた。
指先一つ動かす事もままならず、自分が何者なのかも思い出せない。
ただ一つ、目覚める前に何かを深く希っていたことは漠然と覚えている。
強くなりたい。
この世の何より強く。
一人で生きていけるくらいに。
きっと願いは聞き届けられなかったのだろう。この体たらくだ。強さどころか、体を起こす事さえできやしない。下半身に上手く力が入らないのだ。視界が潮風に滲んで、頭がくらくらする。どれだけの海水を飲んだのだろう、喉の奥がひりついて痛い。
登り始める太陽の光に照らされて、砂浜が白く輝き出す。このまま干涸びて死ぬのだろうか、とぼんやり意識が霧散しかけた所で、上から声が降ってきた。
「ほぉん。こんな所に人魚とは珍しいな」
低く、海風と酒に焼けたような掠れた声音だ。
視線だけなんとか持ち上げると、体格の良い長躯の男が覗き込むように見下ろしていた。
日焼けした肌に藍染めされた上等の長衣。塩水に晒され慣れた髪は背中まで伸ばされ、薄褐色に色素が抜けている。海に良く似た紺碧の眼差しは鋭く、しかしこちらへと投げ掛けられる表情は優しい。
青年と呼ぶには威厳と風格が備わり過ぎているが、初老と呼ぶにはその男は随分な美丈夫であった。
「……あなたは人魚ではないの」
「はは、面白い事を言う。私は精々、鯱といったところかな」
ぽつりと呟いた言葉を笑い飛ばし、男は白い犬歯を覗かせた。荒々しさと、理知的な雰囲気の両方を感じさせる男は、確かにそう表すに相応しい様子だった。
鯱を自称した男は身を屈めて少女の痩せた肢体を両腕に抱き上げた。
少女のかさかさに乾いた唇がゆるりと動く。
「要らない……」
「何がだ?」
「一人で……生きる」
「そりゃ結構な心掛けだ」
言葉とは裏腹に抵抗する力もなく、だらりと身を預ける姿を労るように抱えて、男はくるりと踵を返す。さくさくと砂浜を踏む音が響いて、次第に海から遠ざかる。
「じゃ、一人で生きるための力の付け方を、私が教えてやろう」
その答えに少し考えてから、少女は小さく頷いた。
海守公が、その少女にセリンという名を与えたのは、それから暫くしてからのことだ。
***
「説明せよ。近衛長官! 陛下の御身に大事があれば如何に責を負うつもりであった!」
士官の儀の翌日。朝議の間に、感情的な叫びが反響する。
アリタヤ・ツォンはむっつりとした顰め面のままでその叱責を聞き流していた。
「そこな新兵の働きによって、間違いが起こらず済んだものを……そうでなければ取り返しのつかない事になっておったぞ。この事態、貴様の何をもってして償うと申すか!?」
「申し開きのしようもございません」
執政付きの近侍の怒声に、感情の籠らない声で応じる。何を言っても火に油を注ぐ事になるとは分かっていた。それよりもこの朝議の場に居並ぶ者たちの反応を観察する事を優先すべきだと、アリタヤは神経を尖らせて四方を盗み見る。
執政のナサク氏は、御簾の傍ら、皇王の姿が見える位置に座している。きっと奥には大人たちの罵声に不安げに瞳を潤ませる、幼い皇王が玉座に座っている事だろう。穏やかな笑みが口元に浮かんでいるが、目元は冷えて昏い光を放っていた。
外祖父であるナサクは、幼い皇王に代わって、政治の実権を握っている。
今やサイ神領国の事実上の主権者であると言っても過言ではない。皇王が弑されて困るのはナサクの一族である。であれば、兇手の出所はナサク派ではない筈だ。
では、皇叔のダリョ・グ親王派はどうだ。先王の弟であるダリョ・グ親王は近頃は殆ど政治の場に顔を出さないが、ナサク派の横暴を恨む他派の者が未だ、彼の即位を狙って暗躍しているのは火を見るよりも明らかだ。
しかしひとつだけ気がかりな事があった。あの刺客の振る舞いはもしかすると、——。
「恐れながら、申し上げたき儀がございます」
明朗で凛とした声に、ざわついていた朝議の間が水を打ったように静まる。アリタヤはぎょっとして、傍らに進み出て跪いた件の新兵——セリン・メ・ミユを振り向いた。今回の事件の立役者として、アリタヤ共々朝議への出席を求められたが、本来この場での発言権はない。まだ任官さえされていない一兵卒に過ぎないのだ。
近侍が黙れと制止の声を上げる前に、それまで微笑んで成り行きを見守っていたナサク氏が口を開く。
「許す。申してみよ」
セリンは優雅な挙措で跪拝から伏せた顔を上げると、きびきびと話し出す。項で束ねられた銀の髪がさらりと零れる姿に、場違いにも観衆から感嘆の息が上がった。
「件の矢は神皇王陛下を狙って射掛けられたものではございませぬ」
「……なんだと?」
静まり返っていた官吏達がざわつき出す。あの文武百官のみならず、後宮の官女たちの視線さえを集めていた衆目のもと差し向けられた大胆な刺客。あれが神皇王を狙ったものではないと、彼女はそう言うのだろうか?
「何故そう思う」
ゆったりとしたナサクの問いに、セリンは背筋を伸ばした。
「あの日、陛下のおわします玉座は、高座の階の上にございました。私のおりました舞台は、その真下。刺客が矢を放ったのは、玉座から見て右手の木立からであるのは、皆さまもご記憶の事かと存じます」
他ならぬセリンに射落とされた刺客が落下してきたのは、確かに大外庭東側の桃花の並木であった。北の宮城を背に、南を向いた大外庭の図を脳裏に描きながら、皆が息を呑んでその言葉の続きを待つ。
「桃の木の高さからして、矢を射掛けた位置は玉座とさほど変わらぬでしょう。しかし些か距離がございます。遠くに矢を放つ際、重さに従い矢の軌道が下がることを考慮して、少し上向きに、弧を描くように射らねばなりません。つまり着地点を玉座に定めた際、矢の軌道はそれより更に高く狙います」
このように、とセリンは腕を使って半円のような形を描く。彼女の言はもっともで、樹上からは飛距離を出せる長弓を扱うには不便だ。かといって吹き矢の類が届く距離でもない。短弓で、かつ距離がある的に射掛けるには、上向きの弧を描くように狙うだろう。
「しかし、であれば私の跳躍では届きませぬ」
近侍や官吏たちが一斉に息を呑む。この場にはあの日、式典にてセリンの離れ業を目にした者も多く居る事だろう。いくら彼女の脚力が人並外れていたとして、玉座より高い位置に射られた矢を、下方の舞台から掴む事が出来るとはとても思えなかった。
「あの程度ではせいぜい玉座に届く前に、階の中断に突き刺さる程度かと」
「それは……狙いを誤った、という事も考えられるであろう!」
「有り得ませぬ。偶さか一矢外れただけならまだしも、続け様に二の矢、三の矢が、殆ど同じ軌道で飛んで参りました。高座の狙いを外すならまだしも、こうも大きく矢を逸らすのであれば、刺客の背後に居る人物は、余程兇手を見る目がないと言わざるを得ません」
不敬な物言いに絶句する近侍と、それを面白そうに見やるナサク氏。その場で頭を抱えたいような気持にアリタヤはなったが、セリンは全ての反応を意に介さず話し続ける。
「それどころか——この射手は中々の巧者かと存じます。普通、あの状況で一矢放てば、間違いなく衛士が飛んで参ります。動揺せず次の矢を継げるだけの胆力と実力がなければあの射掛けは出来ませぬ。彼は恐らく指示通りに事を遂行し、成し遂げた」
セリンがちらりとナサク氏を見れば、老獪な執政は白い口髭を笑みの形に歪めながら問う。
驚嘆にざわめき狼狽する官吏たちを睥睨しながら、かの男だけは表情を変えなかった。
「陛下を弑する目的でなければ、あの刺客は何を狙ったと?」
「私の口から申し上げてもよろしいのでしょうか」
そこでセリンは、隣のアリタヤを見る。アリタヤは苦い顔をして、セリンにだけ聞こえる溜息を吐いた。彼女の代わりに言葉を継いで、ナサク氏の疑問に答える。
「今のこの状況、かと」
「……ほう?」
ナサク氏の昏い目が一層影を帯びる。アリタヤはなるべく簡潔に見解のみを述べることにした。
「陛下の御身に大事が無かったとしても、あの状況を招けば皇王陛下の御身をお守りする務めの近衛長官である私の責が問われます。場合によっては罷免、もしくはそれ以上の罰も免れますまい」
「では、そなたの失脚を狙った何者かによる蛮行である、と……?」
「陛下を害す心算がなく、かつ、殊更に大袈裟にしてみせたのは、私の手落ちを際立たせたいからでございましょう。加えて」
アリタヤは鋭く言い添える。
「衛士の報告にも、不審な者の存在はございませんでした。儀式の前には全ての樹木を改めております。また、外庭東側付近に待機していた衛士からも、式典の直前まで人の気はなかったと各々に確認が取れました。皆が注意を逸らしたのは、壇上にこの者が進み出た時——……」
セリンはやや不服そうに眉を顰めたが、確かにあの瞬間、"人魚"は全ての人間の注目の的だった。ノカロがアリタヤに"人魚"の話をしてくれた事からも、異例の新人であるセリンの噂が、式典前から予め宮中に出回っていた事は想像に固くない。
「あの僅かな間に誰にもばれず木に登るのは容易ではない。そもそも大外庭に近付く事さえ難しかった筈ですから、間違いなく宮中の誰かが手引きをしております」
「宮中にそなたの失脚を望む者が居ると? 近衛長官の?」
ナサクの言葉に僅かにせせら笑うような気配が滲む。しかしアリタヤは誤魔化されなかった。
「……その理由については、執政殿もよくお分かりの事かと」
ひり、と空気が強張るような一瞬の間が落ちた。
場の気配を拭い去るように、御簾の奥からあどけない声が聞こえる。
「"
幼い皇王の尋ねかけにナサクは作り笑いを浮かべて、脇から御簾の奥を覗き込んだ。
優し気な猫撫で声で、言い聞かせるように応える。
「陛下、ツォン将軍は陛下の守りを疎かにし、昨日のような事態を引き起こしたのですよ」
「でも、"鶚"はかならず余を守ってくれる。"鶚"はわざとじゃない、ね?」
縋るような声はまだ高く、いとけない。己の官号を懸命に呼ばわる主君に、アリタヤは一瞬言葉を詰まらせてから、その場に深く頭を下げた。
「無論にございます、陛下。この"鶚"の忠義は陛下に捧げたもの。わざと陛下を危険な目に合わせるなど、有り得ざることでございます。リョ・サイの神々に誓って、お約束申し上げます」
「うん。お祖父さま、鶚をゆるしてあげて」
ナサクは困ったような微笑を浮かべてから、ゆるやかに顔をこちらに向けた。御簾の奥から背けた瞳は笑みの欠片もなく、冷え冷えとした酷薄な色だけが残っている。
「……陛下のお言葉だ。そなたへの詮議は一旦留め置きとする。しかし、内通者の存在を疑うのであれば、必ず探し出せ。それまで近衛長官の任は一次停職とし、次官に預けるものとする」
「必ずや」
腹の上に拳を置いて一礼をすると、下がれ、と短い言葉で退出を促される。
セリンもそれに続こうと踵を返した時に、ナサクに呼び止められる。
「その方は待つがよい。そなた、任官がまだであったな」
「……は。左様にございます」
問われるままに頷くと、彼は近侍に一枚の書状を持たせてセリンの元へと運ばせる。
漆塗りの盆の上に置かれた封書には、皇王の玉印で結ばれた封が施されていた。
「昨日目を瞠る活躍をしたそなたに、神皇王陛下が官号を直々に下賜されたいとの仰せだ」
「身に、余るお言葉でございます」
セリンは思わずこうべを垂れる。
「本日からそなたは真名を廃し、私を捨て、一心に陛下にお仕え申し上げよ。水面を跳ねる魚のように跳び、泳ぐように舞う姿を以て、陛下はこのように名付けられた——」
押し戴くように封書を手に取ると、近侍に促され、セリンは恐る恐る封を解く。
幼いながらに皇族らしく、流麗な筆運びで綴られた二文字が、そこにはあった。
「官号を"
今まさに朝議の間を辞するばかりであったアリタヤが、おそろしく苦い面持ちになったのは、言うまでもない事である。
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