傾国に溺る遊魚

比良坂

第一話 人魚


 生まれ変わったなら、こうなりたいと思っていた姿がある。


 美しく気高い、百戦錬磨の英傑。

 心根は優しく、正義の為に刃を奮い、弱気を助けて強きを挫く。


 薄れゆく意識の中で、深く希う。

 やわらかな水に沈み込むように、ひんやりと静謐な闇だけがあった。

 眠りに落ちるような最期は、ひどく孤独だ。

 それを知覚することさえ己の弱さだ、と染み入るように感じた。


 強くなりたい。身も心も強靭で、決して負けることのない、私ではない誰かになりたい。

 こうして惨めに泣きながら終わる事のない、誰かに。

 もし、夢の世界があるのなら。

 奇跡がこの世にあるのなら。


 ――どうか、神様。

 私に、たった一人で生きていける強さをください。



 ***



 春の宮殿は、花の香りとさんざめきに包まれていた。


 日夜、格式と伝統に則った繰り返しの日々を送る者たちにとって、無聊を慰める一大行事だ。

 毎年新たに入軍する者を迎え入れるこの日は、都に桃の花が咲き始める頃。

 朝廷の官吏にとっては、有力な武人に目をつけておき、あわよくば繋がりを持つための値踏みの時。

 宮殿に使える女官たちにとっては、将来の夫を見つけるための催事とも言える。

 だが、公的な向きを述べるのであれば、新たに士官する新米兵士たちが、皇王と国家に忠誠を誓うための宣誓の日である。


「今年の新兵には、“人魚”が混じっているそうだな」


 囁きかける同輩の声を、アリタヤ・ツォンは油断なく周囲を見渡しつつ、黙って聞いていた。

 宮殿の大外庭だいがいていは薄桃の花弁を称えた桃の並木が烟るように囲まれ、その花盛りに負けじと、貴人が毛氈の上に綾の衣を並べて競い咲いている。

 更に先、きざはしの上の玉座にて幼い今上皇王を抱くのは、外祖父である執政のナサク氏。

 金銀の日輪冠をいただいて、錦の衣に身を包み無邪気に蝶を視線で追いかけているのは、今この場で最も尊いお方。神皇王しんこうおう陛下その人である。


「おい、聞いてるか?」

「興味がない」


 アリタヤは注視していた。

 庭園に居並ぶ人々の一挙手一投足、目線の運び、呼吸の乱れ、木立の揺れ、儀式を行う内神官の動き、その全てを。

 この場におけるアリタヤの仕事は監視と警戒であり、無駄話ではなかったからだ。

 友——ノカロ・スサはつまらなそうに肩を竦めるも、また懲りずに続きを聞かせる。


「なんでも、東岸の砂浜に打ち上がっていたのを、海守公かいじゅこうのジョワン総督が拾われた子だとか。銀の髪に、奇妙な目の色をしていて、噂では人を

「ほう?」


 水軍の統括を代々受け持つ海守公の養い子と聞き、幾らかアリタヤの興味が向けられる。それに気を良くしてか、ノカロは声を顰めたままに些か興奮を呈した。


「兵学舎に一年だけ居たが、同期の間で揉め事の原因になったのだそうだ。本人に責は無かったものの、風紀を乱すとして仕方なく退舎させられた。暫く他所で師事をして、武挙ぶきょを受け合格したらしい」

「本人に責はない? 風紀を乱しておいてそんな事があり得るのか」

「さてね。俺も詳しい事は知らん。だが噂では、……」


 そこで不自然に言葉を切る。アリタヤは不審に思い、友が凝視する方へ視線を向けた。

 今まさに、居並ぶ新兵たちの間から進み出てきたのだろう。敷き詰められた毛氈の先、儀式を執り行うための舞台に粛々とした足取りで歩む武官の面差しに、目を奪われた。

 珍かな銀の髪は束ねられ、朝靄の波間のように白く光を反射する。すらりと細いうなじは未だその武官が年若い――ともすれば少年とも言えるような年頃だと気が付いた。


「“人魚”だ」


 ノカロはごくりと喉を鳴らした。

 凛と張った瞳は、確かに複雑で言い表し難い。遊色の滲む鉱石のような、砕いた色硝子を溶かし合わせたような、この色と一色に明言しかねる色合いをしていた。


「首席合格者? あれが?」


 アリタヤは訝しむ。代表として壇上に上がり、皇王から直接の玉音を賜るのはその年の武挙──入軍試験を首位の成績で合格した栄誉ある者だけなのだ。

 見惚れているらしいノカロは、どこか上の空で返事をする。


「十六歳だそうだ。最年少だよ」

「武挙はいつから子供の遊戯場になったんだ」


 新兵の袍と革鎧に身を包んではいるものの、ほっそりと華奢な体はとても軍人らしいとは言えない。儀礼用に佩いた太刀と長弓が、殊更に大きく見える。

 海守公が推薦したのではなく、態々武挙にて正当な手続きを経て士官するのだから、伝手に頼らずとも問題がないくらいの手練である事は想像がつく。

 しかし厳しい試験を乗り越えるだけでなく、他の屈強な成人男性たちを差し置いてなお、最も良い成績を残したものとは、到底考えられなかった。


 その時である。


 びいん、と弦弾く弓鳴りの音が聞こえた。

 一矢だけではない。続け様に二の矢、三の矢が放たれる気配。きゃああ、と官女たちの悲鳴が上がった。反射的に御前へと走り出ながらアリタヤは戦慄する。


 ――しまった!


 この場の衛士に、件の"人魚"に気を取られた者がどれだけあっただろう。

 咲き乱れる桃の花木の茂みに兇手がいるのではと、つい先程まであれだけ気を回していたというのに!

 駆け付けるアリタヤの目の前に、何かが落ちてきた。

 ああ、間に合わなかった。

 落ちてきたのは皇王の亡骸か、それとも執政や側近が身代わりになったのだろうか。

 絶望の心持ちで玉座を見やる。ナサク氏に抱き止められ、皇王は火が付いたように泣いていた。

 そう、泣いている――皇王は生きていた。

 目を瞠るアリタヤの前で、芝生を踏む軽い音を立て、落下してきた何かが身を起こす。

 天から降るように着地した“人魚”が、その手に掴んでいるものを見て、アリタヤは目を疑った。

 鳶の矢羽根がついた、三本の、あり触れた形の矢だった。


 ――お前が手にしている、その矢はなんだ。


 新兵は式典用に長弓を背負うだけで、矢筒に入っているのは矢尻のつけられていない飾り矢でしかない。

 なら、目の前の若者が握り締めた三本の矢は。明らかに実践用の金属製の矢尻が備えられた、その矢は一体、どこから来たものだというのか。

 まさか。空を切る矢が、玉座へと届く前に。跳び上がり、その手に掴み取ったとでもいうのか。

 アリタヤの視線も気に留めず、“人魚”は儀礼用の長弓につがえ、ぎりぎりと弦を引き絞り、桃の花木を狙っていた。


「何を……」


 している、とアリタヤが言い切る前に。

 びぃん、と力強い高音が響いて、空気が振動する。


 “人魚”が放った矢は桃の木立を抜けて、そこに潜んでいた何者かを貫いた。一拍置いて、縺れるように樹上から落ちてくる刺客の胸には、射返された矢が深々と突き立っていたのだった。

 皆、息をするのも忘れたように絶句して、場がしんと静まり返る。

 一番先に我に返ったのはアリタヤで、木偶の坊よろしく突っ立っている周囲の衛士を大喝した。


「その刺客を捕らえろ! 仲間や、手引きをした者が居るやもしれん。外庭の隅々まで改めよ。詮議が済むまでは誰もこの場を動くことはならぬ!」


 鼓膜を破らんばかりの号令に、場の気配が引き締まる。慌てたように衛士達は殆ど瀕死の兇手を捕らえ、引っ立てていた。ざわつく新兵達の隊列と、怯えた声で囁き交わす官女や役人たち。

 幼い皇王が執政と側近たちにに連れられて退出したのを確かめてから、アリタヤが眉間に皺を刻んだ瞬間。


「やってしまった……」


 ふと耳に届いた呟き声に振り向けば、件の“人魚”が溜息を吐くのと目が合った。

 この場においてまるで緊張感のない振る舞いに、アリタヤの警戒心が募る。


「……貴様」

「はい」


 アリタヤが口を開くと、“人魚”は一瞬だけ面倒臭そうな顔をしてから、背筋を正して向き直る。

 背丈は長身のアリタヤと比べても頭一つ分小さく、武人らしく均整の取れた体格をしているものの、軍で筋骨隆々な兵士たちを見慣れている身からすればいかにも頼りなげでなよなよとして見える。

 しかし、決して軽くはない革鎧と儀礼用の装束を身に着けて、この“人魚”は空中を泳ぐように飛び上がり、目にも止まらぬ速さの矢を掴み取った。それも、三本。まぐれや運の類ではない。


「名を名乗れ」

「任官前ですので、まだ官号がございません」

「許す。真名を申せ」


 “人魚”は一度、形のよい唇を噤んでから、その問いに答える。


「セリン・メ・ミユ」

「……女だと?」


 名と姓の間に、女性名であることを表す一音が入っている事に、アリタヤは少なからず動揺した。

 であれば、この武人にしてはやけに細やかな体つきも納得がいく。納得はいくが理解が出来ない。

 あの離れ業を披露したのはたった十六歳の少女。その上彼女が今年の武挙にて首席合格を果たし、この場の新兵の中で最も優秀な――つまりは、最強の武人であるという。

 “人魚”——セリン・メ・ミユと名乗った少女は、絶句するアリタヤの顔を物怖じせずに真っ直ぐ見上げる。


「近衛長官のツォン将軍ですね。最年少の武挙合格をなされたと伺っております」


 そして、退屈そうだった表情にほんの少しだけ興味を射して、不敵に口の端を歪めた。

 人を“魅入らせる”と噂の彼女は、真珠のような虹色の浮かんだ瞳を細めて笑う。


「いずれ是非、お手合わせ願いたく」



 ***



 大陸の東端、外洋を望む国、サイ神領国しんりょうこく

 神皇王イリ・グの代において、武挙を最年少にて合格した一人の少女があった。

 士官の儀において、刺客から皇王を救ったことに端を発し、以降の史書には頻繁にその名が挙がることとなる。生まれ持った名と私心を捨て、神皇王と国家に仕える文武官としての慣例に従い、後に官号を「遊魚ゆうぎょ」と拝した。


 これは“遊魚”セリン・メ・ミユが、サイ神領国の歴史に名を残し、そして――国を滅ぼすまでの物語である。

 

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