羽がなくても空を飛べたら 5

 時刻は午後11時前。

 なんとかうどんを食べ終わったわたしは、すぐ隣で数字の羅列に苦戦する先輩を横から眺めていた。

 すぐ隣の横顔にももう慣れた。

 

「あっ。それ。分数の累乗はルートで表せるんですよ。」

「う……。」


「あー。それ、真数条件によりy>0なので-1は解答に含まれませんって。対数関数の時は真数条件忘れちゃダメだって言ってるじゃないですか。」

「うう……。」


「だから。空間ベクトルにおける分点の公式は2点 A(a1,a2,a3)、B(b1,b2,b3) に対して線分ABの中点は(a1+b1/2, a2+b2/2, a3+b3/2)で、

m:nに内分する点は(na1+mb1/m+n,na2+nb2/m+n,na3+nb3/m+n)で、m:nに外分する点は…」

「もうわかんない。」


 もった方だとは思うけど、先輩はついにパンクして体を後ろに倒して課題放棄した。


 日本史は覚えられるのに数学の公式が覚えられないのはどういうことなんだろう。

 数学は公式が曖昧でも発想だけでわかる人はわかるが、残念ながら先輩にはそんな発想力はないので、無理やり暗記させるしかない。


「こんな難しい公式使わないよ。」

「ただでさえケアレスミスが多い先輩なんですから、単純なパターンだけでもできるだけ多く覚えておいた方がいいです。過去問を見るに、この学校は公式さえ覚えたら解ける問題を多用してますから。」


 ぐぐぐ、と歯噛みするが、先輩は食い下がる。


「ケアレスミス気をつけるから。」

「出来るんですか?」

「…………。」


 黙りこくってしまった。たぶんいじけているだけだ。


「ほら。留年したくないんでしょ?はやく続きを。」

「そういうユキは勉強しなくていいの?」

「わたしは次のテスト、全教科0点でも赤点には遠いですからね。」

「むぅ。」


 先輩はぶつぶつ言いながらもナマケモノのようにゆっくりと体を起こして、気を振り絞ってペンを持つ。やる気はあるんだよね。

 とはいえここ数ヶ月で出来なかったことを数日でやるのはほとんど不可能。

 わたしも先輩のために尽力はしたいけど、ここまで来たら本当に当日の体調に賭けるしかないかもしれない。



 試験当日


  

「ユキ〜。今日は元気がないねぇ。」


 朝のホームルームが終わり、あと15分もすれば試験が始まるなかで、ぐったりと机に倒れ込むわたしを夏樹が上から見下ろす。


「ちょっと…緊張しちゃって。」

「んん?ユキが期末程度で緊張するなんてある?」


 わたしじゃなくて先輩のことで。

 もちろん口には出さないけど、心中は今日から始まるテストを先輩がクリアできるかどうかでいっぱいだ。


「まあ、ちょっと放っておいて。」

「ほーい。」


 特に心配する様子もなく、夏樹は素直に机の前から去っていった。こういうとき、深入りしてこないのはありがたい。


 確か先輩に教えてもらった三年生のテストの時間割では、今日は現代文と英語表現、そして数学Ⅱ。

 国語系と英語系は多分大丈夫。ああ見えても国語は上位だし、英語も悪いは悪いけどせいぜい下の上くらいには収まっている。

 やっぱり問題は数学II。指数関数、対数関数、三角関数。テスト範囲はどれも先輩が得意じゃないやつ。というか先輩に得意な数学の分野なんてない。


 うーん。今日の先輩は元気だろうか。こと先輩に関して、緊張で指が動かないなんてことはないだろうけどさ。

 じゃあここでうち塞がれているわたしはなんでこんなに緊張しているのだろう。

 所詮は他人事なのに、先輩のことになると熱心になる自分が愚かしい。でも、一応『親友』なわけだし、夢中になっても不自然というわけでもないとも思う。


 出会って初めての頃はただの嫌な知り合いだったのに、それが安心できる仲間になって、仲のいい友達になって、信頼できる親友になって。

 たったの数カ月でここまで進んでしまった。

 それが悪いことでないことは分かっている。

 でも、あまりに勢いが強すぎる。

 さっきまでわたしの前でにへらにへら笑っていた比較的話しやすい夏樹だって、去年からクラスが一緒だったらからこそここまで仲良くなれたのだ。人によっては数日で交流が限界まで深まる場合もあるだろうが、わたしが友人と特に仲良くなるときは時間の経過が大きく作用する場合が多い。なので先輩との関係がこれほどまで早く深まるのは異常事態だ。

 このまま流れでもう一歩前へ……と行きかねない。具体的に、もう一歩先に何があるかは考えないようにしているけど。


 落ち着かなくなって、顔を上げて携帯を取り出す。

 基本的にはこの高校は携帯の使用禁止の校則があるけど、バレなければ問題ないし、バレても「ほどほどにしとけよ。」と軽く注意されるだけなので結構みんな自由に使っている。


「ユキ。」

「うぎゃあ!」


 ぽちぽち携帯をタップしていたわたしに、後ろから急に強めの声が届いてびっくりして手を滑らして携帯を落としてしまった。

 見ると、不思議そうな表情でこちらを見る花愛が立っている。


「そんなにびっくりすることある?はい、スマホ。」


 怪奇でも見るように訝しみつつも、花愛は床に落とした携帯を拾う。


「あっ。ちょっ、」


 待って。という言葉が出るには少し遅かった。

 花愛はわたしの携帯に映し出された画面にすでに目を通していた。


「ん……『親友 恋人 違い』……………あー、なるほどね。」


 ニヤニヤと何かを悟ったような口調で携帯の検索ワードを読み上げられて心臓が止まりそうになる。

 やばい。

 誤解を解かないと!


『これは違くて、別に特に意味はなくてね』


 あれ?声に出てない。

 神経が動いてくれなくて、言いたい言葉が音にならずに消えていた。


 こんなことを調べていた自分の心境と、花愛にそれを見られたという事実がわたしをどんどん捻じ曲げていく。ギュルギュルと体が縛られていくように体内から水分が汗となって抜けてる。


 いや別によこしまな考えがあるわけじゃなくて。ただ、親友と恋人ってどっちも密接な関係だから、どう違うのかなって例を調べたかっただけで。

 違う違うと全てを否定したくなったわたしに、花愛はポンと肩に手を置く。


「恋人ができてよかったね。お幸せに。」


 違う!

 断じて違う!


 否定の言葉が出る前に、花愛はうんうんと頷いて去っていった。


 とんでもない誤解をされてしまった。

 誰のことか悟られなかっただけまだマシかもしれないけど、それでもまるでわたしが先輩と恋人になりたいみたいな風に思われるのは見当違いも甚だしい。


 どうしよう、と思い悩んでいると、花愛が慌ててわたしの席に戻ってきて伝えた。


「あ、そうだ。ユキ。なんか先輩が呼んでるよ。」


 『先輩』という単語が出てきて余計に動揺を加速させられる。

 もうホントにおかしくなっている。


 えっ?ていうか先輩?


「先輩って?」

「教室の外で、『ユキはいますか?』って話しかけられたの。待ってると思うよ。」


 この場面で、わたしを呼びつける先輩は永道ひなくらいしか思いつかない。

 なんで先輩がわたしの教室に?

 分からなかったけど、待っているならとりあえず向かうしかない。


 山積みの問題を全て机に押し込んだつもりで席を立って足を速めた。


 

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