第6話 出会いたい


「ただいま~」

 小学4年生の琉生が学校から帰ると、母のさつきがリビングでテレビを観ていた。

「あら。お帰り。……ねえ、琉生も一緒に観ない?」

「え、また、いつものやつ?」

「そう、いつものやつ」

 母はゆるく笑いながら言った。

「美味しいクッキーも紅茶もあるわよ~。琉生の好きなハチミツ紅茶」


 確かに、琉生の好きなハチミツ紅茶の甘い香りがしている。クッキーもバラの花のような形の可愛らしいものだ。心が揺れる。

 今日は、宿題もないし。ちょうど、お腹も減っているし。たまには、お母さんに付き合ってやろうか。


「ね。観よう観よう。はい、座って」

 母が、いそいそと琉生をソファに座らせ、すぐに、琉生の分のカップを用意してくれる。

 しょうがないなぁといった顔をしてみせて、琉生は画面に目をやった。



――――時は少しだけ遡る……


 藤澤琉生。

 彼の父親は俳優の藤澤貴行、母親さつきも、今は引退しているが同じく俳優として青春ドラマや映画で活躍していた。7歳上の姉のレイは、ピアノが上手で、幼い頃から曲作りを始め、高校に入学した頃からピアノの弾き語りで、自作の歌を演奏する歌手として活動を始めている。


 そんな環境のせいで、周囲の人たちは、彼もいつかは両親や姉たちと同じ道に進むのだろうと思っているみたいだが、両親は、琉生に何かを特に勧めることはなかった。

「琉生のやりたいことをやったらいいよ」

 いつもそう言う。

 でも、琉生は、「やりたいことをやったらいい」という言葉の向こうに見え隠れする親の期待を、なんだかうっすら感じてしまうのだ。

 彼らが、自分に何を望んでいるのか。琉生にはよくわからない。

 それでも、思わずにいられないのだ。

 僕は、きっと、その期待に応えられるような『何か』にならなくちゃいけない。



 やりたいことがないわけじゃない。

 ピアノは好きだし、歌うことも好きだし、むしろやりたいことは山ほどある。

 ありがたいことに、やってみたいことは何でも習わせてもらえる。その上、幸せなことに、琉生は何をやっても飲み込みが早く、器用にこなせてしまうので、先生たちからは、『才能がある。ぜひもっと本格的にやったらどうか』と勧められてしまったりすることも多い。

 もちろん、そう言われると嬉しくなって、琉生としても心が動く。

 でも、しばらくすると、なんだか違う、という気持ちが湧いてきて、今ひとつやる気が出なくなってしまう。

 そんな自分がもどかしい。

 琉生は、ずっと思っている。いや、強く願っているのだ。

(これをやるために、自分はここにいる! そんな何かに出会いたい)

 


 姉のレイにそう言うと、

「焦らなくていいんじゃない? まだ早いと思うよ。 打ち込むものをどれか一つに絞る必要なんてないし。好きなものがたくさんあるって、それだけでも素敵じゃない」

「でも、お姉ちゃんには、ピアノがある」

 琉生には、小さな頃からずっと、まっしぐらにピアノを好きで、それに打ち込んでいるレイが、眩しい。彼女は、迷うことなく、自分にはこれ! と言えるものを持っているじゃないか。

 自分には、それが、ない。

 だから、焦るなと言われても、焦ってしまう。どうしたって。


「そうね……私は、とにかく音楽をやりたい、ピアノを弾きたい、そればっかり思ってきたから、今こうしているけど。……琉生は琉生のペースで、いちばんやりたいって思うことが、そのうち見つかるよ、きっと」

 レイはそう言った。

「そうかなあ……。なんか、このまま、ぼや~っといろんなこと、ただやるだけになっちゃいそう……」

「う~ん……でもさ、ある日突然、これだ! って思うものが、空から降ってくるかもしれないよ~」

 レイが笑いながら、頭の上から、手をひらひらさせて、何かが降ってくるような仕草をするのを見て、

「お姉ちゃん。なんかテキトーだな。僕、けっこう本気で言ってるのに……」


 琉生が文句を言うと、レイは笑いを引っ込めて、

「ごめんごめん。でもね、今は、自分が本気でやりたいことと出会うまでの準備期間なんだよ。その期間は、しっかりアンテナを立てておくの。でも、琉生の場合、いろいろチャレンジして、すでにアンテナは立ってると言えるのかもしれないね。 だから、まずはそのアンテナでキャッチした何かを、しっかり観察してみて」

「観察?」

「うん。観察するの。ぼや~っと見てたら、ほんとにいいものと出会っていても見逃しちゃうから」

(観察 観察……)

 レイの言葉は、なんだかわかるようでわからないような感じで。

 でも、琉生の頭に、『観察』という言葉が、じわっと残った。

(とにかく、しっかり観ろ、ってこと?)


 そんなとき、琉生は、シュリーマンの自伝『古代への情熱』(新潮文庫)という本を読んだ。学校の図書館から借りてきた。タイトルの、情熱、という言葉に、引き寄せられたのだ。


 誰もがただの伝説だと思っていたトロイアの都が実在していたと、子どもの頃からずっと、かたく信じていたシュリーマン。彼は、その在処を発見するため、必死で働いて発掘費用を貯める。と同時に、さまざまな歴史資料を解読するため、彼は十数カ国語を学んで身につける。そして生涯かけて、ついに、トロイアが実在したことをみごと証明してみせるのだ。


 琉生は、めちゃくちゃ感動した。

 こんな風に一生かけて、自分の夢見たもの、信じたものを実現するって、めちゃくちゃカッコいい。

 シュリーマン、すごすぎる!

 しかも、今と違って、便利な語学教材もないのに、外国語を何カ国語も身につけるなんて。

 その学習方法も、その本には書かれていた。

 すさまじいほどの努力と熱意と工夫。

 語学学習に、楽な道はない。あるのは、地道な、ひたすらひたすら地道な努力と熱意だ。

 情熱だ。


 琉生は、深く感動して、思った。

 たぶん、僕に足りないのは、情熱なんだ。

 あれこれやっても、そこまで必死になってやったことなどないような気がする。

 そうか。

 情熱か。情熱。

 ならば、情熱を注げるものは、何か?

 

 となると、そこで、また考え込んでしまう。

 それが見つからないのだ。見つからないから、悩んでいるのだ。



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