アーバン・ベア
戸川昌
アーバン・ベア
僕は野生のクマを一度だけ見たことがある。
中学二年目の初夏のことだった。隣の席の吉川が、そういえば家の畑の罠にクマがかかったんだよね、と言い出した。
吉川とは小学校からの友人だった。特段仲が良かったわけではないが、お互いの家に何回か遊びに行ったことがあるという程度の間柄だった。吉川の家は昔ながらの農家らしい建物で、正面の庭には端正に苅られた立派な庭木と様々な花があり、裏庭にはビニールハウスと畑があった。何を育てているかは知らなかったが、何かを育てていることは確かだった。盛り上がった畝に黒いビニールが敷かれていたり、何かの蔦をからませるための支柱が等間隔に立っているのを見た憶えがあったから。
昼休みが終わりつつあった。外は曇り空で、分厚い埃のような雲が太陽の光を遮っていた。真っ昼間だというのに外はぼんやりと薄暗く、湿気をはらんだ冷たい風が時折校庭を撫でていった。教室は電気が消えていて、外の景色と同じように薄暗かった。そのうち誰かが教室の電気を点けてくれるだろうと、教室内の誰もが思っているように見えた。
まじで、ほんとにクマなの?
うん、前っからうちの畑荒らしてたやつでさ、電気柵立てたり色々してたんだけど、ようやく捕まったわ。
えーすげえ、それいくらもらえんの、報酬金とか。
知んないけど、そんな高くないらしいよ。
そばで聞いていた近くの席のクラスメイト数名も会話に加わり、報酬金のことや、おぞましい獣害事件のことや、クマと対峙したときの正しい対処法のことなどに話題は移り変わっていった。
実際どんなんだったの、野生のクマって。
誰かがそう尋ねると吉川は、俺もまだちゃんと見てないんだよね。近くで観察したかったんだけど、危ないから近づくなって、親が。
恥ずかしさと少しの誇らしさが混ざったような笑みを浮かべてそう答えた。
教師が入ってきて、何も言わずに教室の電気を点けた。天井の蛍光灯が室内を白く照らし出すと、外の景色がいっそう暗く見えた。吉川の周りで談笑してたクラスメイトはそれぞれ席につき始め、うわついた昼休みのざわめきがしぼんでいき、椅子を引く音や、ノートや筆箱を出すごちゃごちゃした音が教室中に響いた。
明日になったら役所の人が来て駆除しちゃうんだよね。
吉川は僕の方を見ずに、机の上に出した教科書に視線を落としながらつぶやいた。
もし見たいんなら今日うち来る?
彼が言ったのと同時に、週番が起立の号令をかけた。クラス中の椅子がいっせいに引かれる音が教室中に響いて皆が立ち上がった。僕は特に何も考えず吉川の方を見て、まじで、じゃあ行くわ、と答えていた。吉川は教壇の方を見ていて、返事はしなかった。
郊外の過疎化が進むにつれて、僕らの住む市街地に野生動物が現れることが多くなった。動物たちは農作物を食らい、家畜を襲い、しばしば人間にも牙を剥いた。野生動物との共存をベースに考えられていた往年の政策は転換し、捕獲と駆除を念頭に置いた対策に取って代わられた。猟銃免許や罠免許を持つ人が急激に増えたのもちょうどこの頃だ。
実際、市内でクマやイノシシが目撃されて午後の授業が休みになったり、集団下校になったりしたことは過去に度々あった。防災無線が間延びした声でクマ注意報をアナウンスすると、休校を喜ぶ児童たちの声が学校中にこだましたものだった。もちろん痛ましいニュースも珍しくなく、親戚がイノシシに指を食われただの、知り合いがクマに襲われて大怪我しただの、そういった話は割とよくあることだった。学校では野生動物に遭遇した時の対処法が教育され、児童一人ひとりに小型の唐辛子スプレーが配布された。獣害事故は火事や地震や交通事故と同じで、誰もが遭遇する可能性があり、運が悪かったら最悪死ぬかもしれないという、日々の単調な暮らしの中で稀に現れる暗い落とし穴のひとつだった。
事故現場や心霊スポットに惹かれるのと同じで、日常と地続きにある死を見たかったのかもしれない。あとは単純に、吉川の家は僕の通学路と同じ方面にあり、帰宅する道すがらに寄れる場所だったということも大きい。数人かのクラスメイトも話に乗り、放課後にクマを見に行くことになった。
午後の授業の途中で、雨が降り出した。雨脚は次第に強まり、帰る頃にはかなり大粒の雨が外の景色を水浸しにしていた。
クマどうする?
この雨じゃあね、やっぱ俺パス、吉川んち遠いし。写真だけ送ってよ。
見に行く予定だったクラスメイトは各々そんなことを言いつつ帰ってしまい、見に行くのは結局僕だけになってしまった。わざわざ誘ってくれた吉川にも悪いし、野生動物を間近で見れるという珍しい機会を失うのは、変な言い方だが、どこかもったいないことのように思えたから。
散弾のような雨粒がコンクリートに降り注ぎ、僕たちの足元を冷たく濡らしていった。折りたたみ傘しか持っていなかったので、少し歩いただけで靴とズボンの裾がぐっしょりと濡れた。道路脇の側溝では濁った急流が荒れ狂い、滝となって暗渠へ流れ込んでいた。雨と水の音がひどく、僕らは会話するにも大声を出さなければならなかった。
そうしているうちに吉川の家に着いた。久しぶりに見た吉川の家は、激しい風雨のせいで前とずいぶん印象が違って見えた。家の窓は明かりが消えているようだった。屋根下の雨樋は溢れかえり、錆びついたパイプがゴボゴボと音を立てて水を吐き出していた。こっちこっち、と吉川が先導して裏庭へ入っていった。
裏の畑は雨を吸って黒く水没し、等間隔の畝の列が巨大な池に浮かぶ細長い島々のように見えた。時々靴が土にはまりこみ、靴の足の甲まで泥に埋まった。転ばないよう足元を気にしつつ進んでいくと、やがて吉川が雨の音に負けない声で、ほら、あれだよ、と知らせてくれた。僕は折りたたみ傘の端を指で持ち上げて前を見た。
金網を直方体の形に組み合わせた構造物が、畝の末端から五メートルほど離れたところに位置していた。僕らは何も言わずその前まで歩を進めた。直方体の高さは大人の背丈くらいで、幅は高さの二倍ほどだった。闇に目を凝らすと、箱の中に黒い何かがいることがわかった。
黒い何かはぴくりとも動かず、立っているのか座っているのか、丸まっているのか、横たわっているのか、痩せているのか太っているのか、こちら側からは全くわからない。雨と暗さのせいで、それが毛皮で覆われているものなのかすらも判然と見分けがつかないありさまだ。光る目であったり、耳や四肢などのシルエットが認められれば納得するだろう。だが、そこにあるのは黒い何かとしか言いようのないもので、いきなりこれを見てクマだと判別できる人はそうはいないんじゃないかと僕は思う。
吉川はスマホのライトを向けて何回か写真を撮り、よくわかんねえな、これじゃ、とつぶやいた。檻を蹴ってみようかと一瞬思ったが、ぐしょぐしょに濡れて重くなった運動靴のことを考えてやめた。雨はすでに豪雨と呼べる強さになっていた。いったん家に入ろう、もう無理だ、と吉川が叫んで、大股に歩きながら家の方へ引き返した。僕は一度振り返ってみたが、暗い畑の向こう側は雨に閉ざされてもう何も見えない。
吉川の母親がバスタオルを用意してくれて、今度返してくれればいいからと言って吉川のTシャツと半ズボンを一着ずつ貸してくれた。僕と吉川は濡れた制服を玄関で脱いで、楽な格好に着替えた。少し温かいものでも飲んでいったら、と吉川の母親が言った。
僕は和室の座布団に座って足を伸ばした。部屋の中は雨の音も遠くに聞こえて、散弾のような雨粒に打たれる外の景色が別世界のように思えた。テレビが夕方のニュースを映していた。
なんかパッとしなかったな、わざわざ来てくれたのになんか悪いね、と吉川が言う。
もっと動いてくれればよかったんだけどな。あれじゃ何が何だかわかんねえよ。
ほんとにあれクマだったの? 僕は一応聞いてみた。
そりゃそうだろ、あんなのクマ以外にあり得ないって。それに今まで何回も畑荒らされてたしな。あいつの仕業でしょ。
それから吉川は、破られてねじ曲がった柵だったり、木に刻まれた爪痕だったり、畑に残された大きな足跡の画像を見せてくれた。これらのことから考えると、確かに捕まったのはクマらしかった。
この前もクマ事故あったじゃん、ニュースにもなったやつ。最近ほんと多いよな。だいたい人間が住んでるとこにわざわざ来んのが意味不明だよね。駆除されるに決まってんのに。生き物ってのはそれぞれの領分を守って、お互いテリトリーを尊重しなきゃダメだよね。テリトリー破ってやりたい放題やってんのがそもそもの話おかしいんだよな。まじで。
ふすまが開いて、小学校高学年くらいの女の子が御盆に湯呑みをふたつ乗せて和室に入ってきた。吉川の妹らしかった。
俺も早く猟銃免許取りてえな。規制緩和で年齢制限下がったらしいし。街の安全守りながらハンター業で稼げるし、楽しそうじゃん。罠猟免許なんかすぐ取れるぜ。
僕らの談笑をよそに吉川の妹が、机の上に湯呑みを置きながら言った。
「やっぱりかわいそうだよ」
僕らは彼女の方を見た。吉川は呆れた声で、まーた始まったよ、こいつ最近動物愛護に凝ってんだよね、とせせら笑った。
あのな、クマは凶暴な害獣で、殺さなきゃ殺されんの。クマに内臓喰われて死にたいんか? 家族や友達が喰い殺されてもいいんか? 冷静になってよく考えてみろよ。
「そういうこと言いたいんじゃなくて」
妹はうつむきながら答える。
「あれクマじゃないよ」
しぼるように出た声がそう聞こえると、妹は部屋から出ていき、ふすまが閉じられる。あっけにとられた僕らは、変な感じになった空気を散らすように笑い合う。
何言ってんだか。タヌキか何かと勘違いしたのかな? ないっしょ。ないない。ははは。
僕らの笑い声が雨の音に混ざる。凶暴な姿を心のどこかで期待していたのに、想像以上に拍子抜けだったクマのことが今更ながら可笑しくなり、腹筋が痛くなるまで僕らは笑う。
僕は借りたTシャツと半ズボン姿で帰路についた。雨脚は弱くなっていた。住宅地は夜の闇に包まれ、やわらかな雨の音以外に聞こえるものは何もない。街頭の白い光が等間隔に浮かんで夜道を照らしている。
帰る前にもう一度クマを見ようかと少し思ったが、泥まみれの畑にまた足を踏み入れる気にはなれなかった。
次の日に、クマは予定通り駆除されたと聞いた。
〈了〉
アーバン・ベア 戸川昌 @TogawaAkira
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